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肥満の女性がバリアトリック減量手術を受けると、がん予防効果がある。男性には効果なし。……だからって、奨励するんすか、手術? 
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8113148.stm

義肢(腕)だから商品イメージに合わないと倉庫勤務にまわされた、と女性が勤務先のアパレル会社を提訴。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/8116231.stm

障害のある子どもを私学に行かせた親は、その私学のspecial educationにかかったお金の払い戻しを受ける権利がある、と最高裁が結論。前にIDEAのことをちょっと読みかじった時に、これは当たり前のことと理解してしまっていたのだけど、裁判になってたんだ……。ちゃんと読みたい記事なのだけど、お疲れモードなのでパス。
htttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/22/AR2009062200817.html

ワシントンDCのホロコーストミュージアムで警備員を射殺した犯人、88歳。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/22/AR2009062202283.html
2009.06.24 / Top↑
前のエントリーをアップした直後に見つけた記事が
同じくDignitasでの幇助自殺者の病気リストの記事に関して、
「自殺幇助」が「死の幇助」に言い換えられていることに注意、と指摘していたので。

Daily Telegraph紙の宗教欄の編集長 George Pitcherという人が書いたものですが、
Pitcher氏によると、

assisted dying とは長くホスピス運動の中で
医療的介入と安楽な死とのデリケートなバランスを模索しつつ
使われてきた言葉だとのこと。

Pitcherは、今回の英国議会での議論においても
Dignitasで自殺した人の21,2%は死病でなかったとの情報を吟味し、
賢明な判断をするよう、議員に呼びかけています。

Exposed: The Death Loards with a taste for killing
The Daily Telegraph, June 22, 2009


ホスピス関係者が長い時間と努力の末に
緩和ケアの理念と実践を根付かせてきた中で使われてきた言葉が

緩和ケアを尽くすことなく
さっさと見切りをつけて医療によって患者を殺す行為の推進に利用されるとしたら、

それは、いくらなんでも許しがたい……というほどの憤りを感じる。


            ―――――


もう1つ、ついでに、
Dignity in Dying というアドボケイト団体の名称から感じたことを。

例のAshley事件のDiekema医師が最近書いた成長抑制論文
「尊厳は定義なしに使われても無益な概念」だとして
成長抑制は重症児の尊厳を侵すものだとの批判を一蹴しているので、

生命倫理で「尊厳」という概念がどのように議論されてきたのか、
ちょっと知りたいと思い、教えてもらった文献を
とりあえず読み始めたところなのですが、

そこで感じている、そこはかとない予感が
堂々と「尊厳」を名前に含めた、この「死の自己決定権」アドボケイトのDignity in Dyingと重なった。

生命倫理の「尊厳」の議論は、もしかしたら、
こんなに進んだ科学とテクノの可能性を人間に応用する文脈でのみ議論され、
たぶん、どちらかというと否定する声が優勢なのだとしても、

尊厳のある死に方をする自己決定権があるのだから自由に死なせろという文脈での「尊厳」を
議論に持ち込み、定義をあげつらった挙句に、どちらかというと否定するという話は
実はあまりないのではないか……と。

ここでも、また、ある議論しか見えない、
ない議論は、ないことそのものが見えない、という話──?

スミマセン。ろくに読んでもないのに。
予感が当たるかどうかは、もうちょっと読み進んでから、また。
2009.06.24 / Top↑
月曜日にこれまでにDignitasで自殺した英国人114人の病名リストで紹介した
Guardianの記事を読んだ時に、

英国の尊厳死アドボケイト Dignity in DyingのSarah Wootton氏からの
「自殺幇助」は認められないが「死の幇助(assisted dying)」は規制して認めるべきとの見解を読んで、
assisted dying という表現がとても引っかかって、もやもやしていたら、

英国で American Studies を教えるKevin Yuillという人から
その点についての批判が出てきた。


Yuill氏がこの記事に引用しているWootton氏のそれぞれの定義は

「自殺」は「治療や解決が可能な絶望感、無力感、精神障害が動機になっているもの」で、
「幇助死」は「自分がターミナルだと知っている人の合理的な決断であって、
本人にとっては解決が存在しない」。

Yuill氏はこれを、以下の理由で単なる言葉の言い換えだと批判し、

・ Oregon州での調査で自殺幇助希望者の動機は苦痛とは無関係だとのデータが出ている。
・「余命6ヶ月」というのは曖昧な規定であるだけでなく、
ターミナルな人には「あなたの余命は無意味です」とのメッセージになるし、
余命6ヶ月に当たらない人にとっては「あなたの苦悩はほんものではない」というメッセージになる。

その上で、次のように主張。

1961年の英国の自殺法は、
自殺未遂にも自殺者の家族にも寛大である一方、
自殺そのものを容認してはいない。

幇助死と言葉を言い換えたところで、自殺幇助の合法化は結局、
この自殺法の基本姿勢を変えて、英国社会が
自殺という行為そのものの容認に転換することを意味する。

しかし、結論部分はともかくとして、私には
Wootton氏の「幇助自殺」と「幇助死」の定義に対するYuill氏の批判は、
いまいちバシッと成立していないような気がする。

Yuill氏の批判は定義の批判というより「幇助死」を認めろという主張への反論でしかなく、
その反論も、あまりにも、いろんなものが未整理のまま論じられているのだけど、

実はWootton氏の定義は、彼が言うような単なる言葉の言い換えどころか、
それよりもはるかに重大なマヤカシなのでは?

私なりにその辺を整理してみると、問題点は大体以下のあたりかな、と。

①1つは、これまで「自殺幇助」という言葉で
対象の違う様々な行為が議論されていることの危うさ

これは、やはり、きちんと分ける必要があると思うので
Wootton氏がターミナルで耐えがたい苦痛がある人に対する医師による積極的安楽死と、
その他を分けていることそのものは間違っていないと思う。


②ただ、確かにWootton氏の定義には巧妙な摩り替えがあって、
自殺幇助合法化の議論で本来「自殺幇助」と呼ばれてきたものが実は
彼女の言う「幇助死」の方だったのだという点。

つまり、こういうことです。

ターミナルな人への自殺幇助(assisted suicide) → 死の幇助 (assisted dying)
なんでもありの自殺支援             → 自殺幇助 (assisted suicide)


「自殺幇助」の内容の混乱に乗じて、

本来の「自殺幇助」議論の対象であったものを「自殺幇助」ならぬ「死の幇助 / 幇助死」に、
「自殺幇助」議論に不当に紛れ込まされていた「なんでもありの自殺支援」を「自殺幇助」にと
Wootton氏は摩り替えてしまっているのだから、

Yuill氏がいうような単なる「言葉の言い換え」どころではなく
むしろ、とんでもないマジック、だまし絵そのものの離れ業。


③assisted dying という表現は assisted-suicide という本来の表現よりも、
dying が含まれているだけ「死の自己決定権」とか「死ぬ権利」との距離が近い感じがする。

しかし現在の議論で「死の自己決定権」を主張する人たちが認めろと要求しているのは
彼女の再定義の「死の幇助」(本来の議論では「自殺幇助」)ではなく、むしろ
彼女の再定義の「自殺幇助」(本来の議論では「なんでもありの“すべり坂”自殺支援」)の方なので、

両者の定義がWootton氏のものに替われば、
2者の距離がおのずと近くなる点でも、これは詐欺的操作だよね、とも思う。

私個人的には、
「積極的安楽死」と「死の自己決定権」とは実は逆方向のものなんじゃないかという気がしているので
この2者の距離がこんなに言葉の操作一つで縮まってしまうというのには、ものすごく抵抗を感じる。


④「自殺幇助」議論の中にごちゃごちゃ紛れ込んでいるものを、きっちり分けた上で、
 じゃぁ、本来の「自殺幇助」を合法化するかどうかを議論しましょう……というのが
今の欧米の議論の主流なのだろう(であってほしい)と思うのですが、

私はそこのところに、実はもう1つ、問題のすり替え、というか
“議論の段階のすっとばし“が起こっているような気がして、

本来は「ターミナルで耐えがたい苦痛のある人に
過剰な医療で無意味な延命をすることは控えましょう」という議論だったはずのものが、
その段階の議論を尽くすことなしに、どうして
積極的に手を貸して死なせるところに一足飛びに飛躍するかなぁ……と。

まず、この消極的安楽死の段階でしっかり議論すべきことが
まだまだいっぱい残っているのだとしたら、

ターミナルで耐えがたい痛みがある人を対象として
医師による毒物投与を議論すること自体が

合法化の前に既にして起こっている“すべり坂”以外のなんでもないじゃないか──。


          ――――――

もう1つ、Yuill氏の記事について気になることとして、

Yuill氏は最後のところで、ひょっこり死刑廃止論を持ち出してきて、
「生きるに値しない命があるとしたら、それはまず凶悪な犯罪を犯した者だろう」と。

これ、こういう形で繋げていいのかなぁ……。

死刑廃止議論については何も知らないから私は何もいえないのだけど、
この人が本当に言いたいのが、もしかして、文末のこの数行なのだとしたら、
それに自殺幇助合法化反対議論を援用して、こういう文章を書くというのは、
遠慮すべき行為なんじゃないのかなぁ。

これを読んで、ふと重なったのは

もともと動物愛護論をぶっていたPeter Singerが
自説をぶっているうちに自分の主張を強固にするために知的障害者を持ち出して
「人間だというだけで動物よりも知能が低い知的障害者が大事にされているんだから
せめて知能の高い動物には権利を尊重しろ」と主張し、

その前半部分に批判が集中したことで
この論理の前半と後半が切り離されて独り歩きを始めたために、
Singer自身は知的障害児・者については何も知らないくせに、
いつのまにか知的障害児・者安楽死論者として名をはせてしまった……

……と、(Singerの著作は恥ずかしながら2冊しか読んでないのだけど、
勝手な独断と偏見で私には)思えること。
2009.06.24 / Top↑