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英国の名門公立学校で高1に週一回40分のメディテーションを導入。ストレス軽減のすべを学ばせる英国の学校で初の試み。
http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/education/article6984113.ece?&EMC-Bltn=9ALF52F

前立腺がんの検査で8人に1人は誤って陽性と出る。そのために無用な生検を受けることになっている人が多い。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8448147.stm

アンネ・フランク一家をかくまった人たちの最後の生き残りで、アンネの日記を保管していた人、ミープさんがオランダで死去。100歳。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8453331.stm

先週、the Journal of the American Medical Associationに、抗うつ剤は重症でなければ偽薬とほとんど変わらないとする研究結果が報告されて、関係筋に衝撃を与えたが、この研究はこれまでの研究データを見直すというもので、必ずしも、その結果だけで抗うつ剤の効果が否定されるものではない、との反論。:なんとなく、ですが、このところ抗精神病薬に対する疑念の声がちらほらと上がり始めているような、なんとなく、流れが変わろうとしているのかしら……という気配が漂い始めているような……。
http://www.nytimes.com/2010/01/12/health/12mind.html?th&emc=th
2010.01.12 / Top↑
「ケアの絆 - 自立神話を超えて」
マーサ・A・ファインマン 岩波書店 2009

厚くて私にはかなり難解で、どこまで理解できたか不安もあるのだけど、
余裕がある限りエントリーにしておかないと読んだことすら忘れてしまうので、
とりあえず自分用のメモとして、自分なりに捉えたままに。

まず、Amazonの「Bookデータベース」によると、本書の概要は

子どもの頃はもとより、病を得たとき、障害を持ったとき、そして老いたとき、誰もが他の誰かに依存し、ケアを受ける。人は誰かに依存しなければ生きていけ ない存在なのだ。であるならば、ケアは社会全体で担うべきではないのか。自律、独立、自活の価値が称揚される陰で、結婚した男女によってつくられる家族の なかに隠されてきた依存とケアの現実を緻密に分析し、「性の絆」ではなく「ケアの絆」にもとづく家族、市場、国家の再編を大胆に説く。

……というのだけれど、私の印象では、
この本が緻密に分析しているのは婚姻家族における「依存とケアの現実」ではなくて、
依存とケアの問題が私事とされ、婚姻家族の中に押し込められ「隠されてきた」社会のカラクリの方。

それはともかくとして、本書がタイムリーに興味深いのは自律・自己決定権花盛りの時代に
原題 the Autonomy Myth であるように「自律した個人」なんて”神話”に過ぎないと喝破したこと。

……自律と聞くと、誰もが獲得できる状態のように思われている。されにそれは個人が(自発的に)伸ばしてく特徴であり、結局はその人に資質があればこそ可能(ないときはそれまで)と受けとめられている。この最も単純化された自律観からは、避けられない依存や二次的依存という現実が抜け落ちている。ここで想定されている世界は、成人だけの世界である。しかも可能性や能力に恵まれているため、政府に求めるのは(安全保障と裁判所を除くと)才覚に任せて地位も名誉も掴めるような、勝手気ままを保証してくれる規則だけという人々の世界だ。本書の趣旨は、こうした視点が妄想で、このような自律が個人レベルでは本来得られず、望ましくもなく、したがって政策的な観点からは破壊的だと述べることに尽きる。(P.263-264)

ここで「二次的依存」と言われているものは、
依存状態にある誰か(子ども、障害者、高齢者その他)のケアを担う人が
自分自身も働けなかったり、生活に制約を受けて依存状態になること。

簡単にいえば、
誰だって家で子育てや介護をやっていれば、やっていない人と同じように職場で働けるわけなどないのに、
それでも育児も介護も職場に持ち込んではいけないプライベートとされている。
(それで職場で「やっぱり女は……」と能力の問題にすりかえられたりもする)

フェミニズムもまた家族をばらばらの「自立した個人」として
男女間の平等を重視するあまり、依存とケアの問題に取り組みそこなったために、

家族の中で実践されている“母親業”の現状に目配りができていないため、
平等モデルが実際には不平等を後押ししている(p.175)」。

女性が自律を手に入れ、家族問題の制約から自由になれるという考えは
母親になると徐々に蝕まれていく。フェミニズム法学は妻としての女性の伝統的な役割に比べ、
母としての役割にははるかにあいまいな対策しか講じていないように思える。(p.161)」

このように、女性が家族の中で依存とケアの問題を担うことを当然の前提としたうえで、
社会的財の再分配が家庭と職場を通じて行われるという仕組みを通じて
家庭の外の社会は依存の問題とは無縁の世界としてありえてきたし、

経済的な責任を負う男性のプライベートな管理責任の範囲として
プライバシー権も家族単位で捉えられてきた。
(そして、その中で男女間の権力関係・虐待もまた私事として隠ぺいされてきた)

しかし、米国では結婚して子どものいる世帯が全世帯の4分の1を割り、
シングルマザーと子どもから成る世帯が急増している(p.102)など、
家族はすでに多様化し、いわゆる“伝統的な”家族は揺らいでいる。

一方、富の再分配にもゆがみが生じており、

労働者一人一人の窮状が強く懸念されるのは、アメリカではゲームのルールが変わってしまったと実感するからだ。資本主義の構造と受け止め方の変化によって富の分配の歪みはいっそうひどくなった。アメリカ社会の超富裕層の富と洋々たる未来とその他の人々との格差を思うと、個人主義と権利意識のなかにあるやったもの勝ちの感覚を抑制できるものはもはやないと感じられる。(p.250)

こうした社会の変化の中で、著者が唱えるのは「依存に対する集団的責任論」。
(これ、高齢者バージョンの日本語にすれば「介護の社会化」ですね)

誰もがケアを必要とする状態になるし、
そのケアは誰かが担わなければならない、
そしてケアを担う人はそれによって依存状態を避けられない。
それを現実として認め、それに対して社会全体で責任を負うべく、
家族、市場、国家の役割を組み替えていこうとの提案。

性的つながりに基づいた伝統的な家父長的な家族ではなく、
ケアする人される人という関係性に基づいた単位として家族を捉えなおす。

そして国家は家族単位ではなく個人に対して
①基本的な社会的財を一生涯保障し、
②ケア労働を支えるための扶助をまず直接的な支援として、
それから間接的には、ケアを担いつつ働ける職場づくりのため市場の再編を行う。

もちろん、そこには権力の介入という問題が起きてくるので、
これまでの家族プライバシーという概念も刷新されなければならない。

家族プライバシーは歴史的には
国家や権力の介入から家族や個人を守ってきたが
虐待や差別、権力関係を隠蔽してきた両面性を持つ。

家族プライバシーと個人のプライバシーのバランスを捉えなおす必要がある。

著者は、夫婦間、男女間、親子間の関係を捉えなおしたうえで、
ウッドハウスの「子どもには基本的ニーズ権がある」とする考えを前提に
男女の性的結合を単位とした家族プライバシーではなく、
ケアする者とケアされる者の結合を単位としてプライバシー権を唱える。

          ――――――

この本を読むと、「日本には家族介護の美しい伝統がある」という亀井静香氏らの反対を押し切って、
日本に介護保険制度が作られたのは改めて、すごいことだったんだなぁ……とつくづく思った。

私は娘が2歳の時に大学専任教師の仕事を辞めたのだけれど、その直後に、
仕事を辞めざるを得なかった苦しさと格闘すべく「母性神話」についての翻訳本を読んだ際に、
「子どもに障害でもあれば話は別だけど……」というトーンで
障害児の母親だけはフェミニズムの主張の枠外に取り分けられたことに、
ものすごく傷つき、フェミニズムに対して深く失望したことがある。

“Ashley療法”論争においても
「女の子の性器切除だから是認される」との女性差別は指摘されたけど、
「重症児はここまでしてでも親が一生涯面倒をみるのがよい」という主張の陰には
「重症障害児は子どもが死ぬまで親が(とくに母親が)ケアするのが当たり前」という
女性差別が潜んでいるとの指摘は、どこからも出てこなかった。

著者のフェミニズム批判はなかなか鋭く力がこもっていて、そんなことを振り返りながら読んだ。

どんどん弱肉強食化する世界で、自律と自己責任を看板に押し立てて
国家と企業とが社会に対する責任をのがれ、弱者を切り捨てて終わろうとしているならば、
それを是正するために、まずすべての個人に最低限の社会財を一生涯保障し、
なおかつケアする人・される人に対する支援が行われる社会の再編を、というのは
とても妥当な提案のような気がする。

「国家が基本的な社会的財を個人に対して生涯保証する」とはベーシック・インカムのことだろうか。

そういえば、こちらのエントリーで読んだ山森氏の「ベーシック・インカム入門」にも、
女性が担ってきた家事育児介護などはその他の労働と同じ労働であり、
かならずしも片方の性や家庭というゲットーに結び付けられる必要はない、という主張があった。

ただ、著者の主張で、どうしても引っかかるのは、
なぜ「ケアする人とされる人」がセットで家族に代わる単位でなければならないのか、という点。

社会の変化と人口の高齢化に伴って、
今後、身近にケアしてくれる人がいない高齢者は増えてくるはずだし、
そうでなくても「ケアを必要とする人」に「ケアする人」が必ずしもいるとは限らない。
たまたま現在はいたとしても、い続けるとも限らないのだから
「ケアを必要とする人」個々への直接的な支援がまず最初にあって、
「ケアする人」への介護者支援もまた別建てで行われるという考え方では何故いけないのか。

ケアする人とされる人の組み合わせを家族に代わる社会的機能の単位とするのでは、
伝統的な家族において女性が男性の管理下に置かれる付属物のように扱われてきたのと同じように、
依存状態にある人の独立した人格や権利を認めず、ケアする人の責任と管理下におくことになるのでは?

どうも著者は子育てと高齢者介護だけを念頭にイメージしていて、
障害者のケアをあまりイメージしていないような気がするのだけれど、
依存状態にある人が子どもであれ障害者であれ高齢者であれ基本的には全く同じ問題のはず。

同様に、私が著者に賛同できないのは、
プライバシー権を、ケアする者とされる者の単位に認めようとの最後の部分の主張。

この部分に来て、
子どもの権利擁護の問題になると(障害者・高齢者虐待は話すら出てこない)、著者は
「だって親は基本的にはこどものためを思っているのだから、それを信頼して」などと、
論理展開がにわかに腰砕けになってしまう。

家庭における男女間の差別、権力関係、虐待と同じことが
ケアする人・される人の関係においては起こりにくいと、
どうして著者は、こんなにも簡単に信じられるのだろう。

それは、結局、フェミニズムによるジェンダー中立性重視という失敗を批判してきた著者自身が
やはり女性問題としての文脈でのみ、つまり「ケアする」側の視点からのみ、
「依存とケア」の問題を捉えているからではないのだろうか。
2010.01.12 / Top↑