こうした考察を経て、では、どういう規制が望ましいのか、について
Dr. Qはだいたい、以下のような提言をしています。
Dr. Qはだいたい、以下のような提言をしています。
障害者に健常者と同じ医療を保障するADA(米国障害者法)違反となるので
これらの医療介入それ自体を法律で禁じることはできない。
そこで、やはり第三者の検討モデルを導入し、
親以外の第三者が本人の利益を代理するという方法をとり、
なおかつ親の提案が承認されるための明確な基準が作られるのがよいのではないか。
第三者の検討で親の要望が許容される条件としては、たとえば
1.その介入が子どもの最善の利益にかなう
2.より侵襲度の低い選択肢では目的を達せられない
3.介入のリスクが非治療的研究で許される最小限のリスクを超えない
4.子どもが成人するまで待てない
5.同じ目的を達成する一時的な解決策がない
障害者アドボケイトへの通知、本人のアドボケイトの任命
倫理委の検討、裁判所の同意などに触れた
WPASと子ども病院との合意をモデルとして議論をスタートしてはどうか。
これらの医療介入それ自体を法律で禁じることはできない。
そこで、やはり第三者の検討モデルを導入し、
親以外の第三者が本人の利益を代理するという方法をとり、
なおかつ親の提案が承認されるための明確な基準が作られるのがよいのではないか。
第三者の検討で親の要望が許容される条件としては、たとえば
1.その介入が子どもの最善の利益にかなう
2.より侵襲度の低い選択肢では目的を達せられない
3.介入のリスクが非治療的研究で許される最小限のリスクを超えない
4.子どもが成人するまで待てない
5.同じ目的を達成する一時的な解決策がない
障害者アドボケイトへの通知、本人のアドボケイトの任命
倫理委の検討、裁判所の同意などに触れた
WPASと子ども病院との合意をモデルとして議論をスタートしてはどうか。
ところで、
この論文の冒頭にある事件のまとめは詳細で
この複雑な事件と論争の全貌を、なるべく手近に知りたい方にはお勧めですが、
いくつかQuellette論文の事実誤認を指摘しておくと、
・部外者を含めた病院の通常の倫理委が検討したと誤解している
(実際は部外者を除外した「特別倫理委」だった)
・「その倫理委には利益の衝突がなかった」と誤解して書いている
(もしAshleyの父親がMicrosoftの役員だったら衝突があるというのが当ブログの指摘)
・ホルモン療法の期間が1年だったと誤解している
(「1年ちょっと」は06年論文のウソで、実際は2年半)
・医師らの論文と親のブログの内容の祖語に気付いていない
・WPASとの合意を病院が遵守していないことに気づいていない
(実際は部外者を除外した「特別倫理委」だった)
・「その倫理委には利益の衝突がなかった」と誤解して書いている
(もしAshleyの父親がMicrosoftの役員だったら衝突があるというのが当ブログの指摘)
・ホルモン療法の期間が1年だったと誤解している
(「1年ちょっと」は06年論文のウソで、実際は2年半)
・医師らの論文と親のブログの内容の祖語に気付いていない
・WPASとの合意を病院が遵守していないことに気づいていない
一か所だけ、思わず「ぶははっ」と吹いてしまった箇所があって、
それは、このケースでは親に虐待の意図がなかったことは
倫理委の検討を求めていることからも明らかだと書いた下りで、
「この親なら倫理委が承認しなかったら、その不承認に従ったであろう」と書いてあること。
それは、このケースでは親に虐待の意図がなかったことは
倫理委の検討を求めていることからも明らかだと書いた下りで、
「この親なら倫理委が承認しなかったら、その不承認に従ったであろう」と書いてあること。
――いえいえ。それは違います。
そんな生易しい親ではなかったからこそ、
病院は特別倫理委員会を招集して、冒頭で父親当人にプレゼンまでさせ、
「ほら、親が誰なのか、よく見てからモノを言え」と、関係職員にプレッシャーをかけ
批判・反論を封じなければならなかったんじゃないでしょうか?
病院は特別倫理委員会を招集して、冒頭で父親当人にプレゼンまでさせ、
「ほら、親が誰なのか、よく見てからモノを言え」と、関係職員にプレッシャーをかけ
批判・反論を封じなければならなかったんじゃないでしょうか?
Ashleyの主治医だった発達小児科医のDr. CowenがSalonの取材に対して
「あなた方は間違っていると、この家族に向かって言うなんて不可能でした」と
(たぶん言外に「この家族に」の部分に傍点をつけて)証言したように。
「あなた方は間違っていると、この家族に向かって言うなんて不可能でした」と
(たぶん言外に「この家族に」の部分に傍点をつけて)証言したように。
倫理委での検討を親が謙虚に求めたわけではなくて、
(あの父親の性格からして「私に自分で説明させろ」と言った可能性はあるでしょうが
もともと倫理委検討の必要の判断をするのは患者サイドではなく医師サイドでしょう)
(あの父親の性格からして「私に自分で説明させろ」と言った可能性はあるでしょうが
もともと倫理委検討の必要の判断をするのは患者サイドではなく医師サイドでしょう)
あの特別倫理委に限って言えば、
職員からの批判・反対を封じるための場として
(2年も表に出なかったことを思うと、かん口令を敷くための場としても?)
病院にとってこそ必要だったんじゃないかと私は思うし、
職員からの批判・反対を封じるための場として
(2年も表に出なかったことを思うと、かん口令を敷くための場としても?)
病院にとってこそ必要だったんじゃないかと私は思うし、
だから、最初から承認という結論ありきで
「承認しなかったら」という仮定はありえないだろうとも思うのですが、
「承認しなかったら」という仮定はありえないだろうとも思うのですが、
でも、もし、あの特別倫理委が「やっぱり無理です。できません」と回答していたら、
いったい、どういうことになっていたんだろう……。
いったい、どういうことになっていたんだろう……。
今、Diekema、Fost両医師が議論にもならない奇怪なヘリクツをこねまわしてでも
何が何でも”Ashley療法”の流布を目指し、せっせと奮闘している背景に思いを致すと、
まさか、Ashley父がおとなしく「その不承認に従った」とも思えないのですが……。
何が何でも”Ashley療法”の流布を目指し、せっせと奮闘している背景に思いを致すと、
まさか、Ashley父がおとなしく「その不承認に従った」とも思えないのですが……。
とても読みごたえのある論文でした。
改めて、科学とテクノロジーの飛躍的な発展のおかげで
これまでできなかったことができるようになり、
それにつれて変貌する価値観によって
人類が長い時間をかけて知恵を絞り、法律や文化を通じて
よりよい社会を作るために積み重ねてきた営為が脅かされていること、
これまでできなかったことができるようになり、
それにつれて変貌する価値観によって
人類が長い時間をかけて知恵を絞り、法律や文化を通じて
よりよい社会を作るために積み重ねてきた営為が脅かされていること、
まさに、その脅威を挟んで
2つの生命倫理の潮流が対峙していることを感じました。。
2つの生命倫理の潮流が対峙していることを感じました。。
Ashley事件は、やはり、ただ重症児一人の問題ではなく、
また“Ashley療法”だけの問題でも、障害児・者だけの問題でもなく、
むしろ、そうした今の時代を象徴して、
また“Ashley療法”だけの問題でも、障害児・者だけの問題でもなく、
むしろ、そうした今の時代を象徴して、
「無益な治療」論や「死の自己決定権」にまで通底していく事件なのだと
当ブログが当初から直感してきたことは、やはり図星だったなぁ……と改めて痛感。
当ブログが当初から直感してきたことは、やはり図星だったなぁ……と改めて痛感。
実は2007年の春頃に、
Ashley事件を日本でも広く知ってもらいたいと考えて、
ある出版社に企画を持ち込んだことがありました。
Ashley事件を日本でも広く知ってもらいたいと考えて、
ある出版社に企画を持ち込んだことがありました。
その時の出版社の返答は「所詮は海の向こうの話に過ぎない」という、つれないものでした。
でも、その後の数年間で、日本社会の空気の中にも、
「どうせ障害児・者」「どうせ高齢者」「どうせ自立できない怠け者」と
人への敬意を値引きする空気は着実に広がってきたし、
「どうせ障害児・者」「どうせ高齢者」「どうせ自立できない怠け者」と
人への敬意を値引きする空気は着実に広がってきたし、
フクヤマのいう our human essence は
日本でもじわじわと浸食され始めているのではないでしょうか。
日本でもじわじわと浸食され始めているのではないでしょうか。
2010.01.15 / Top↑
前段で、Dr. Quelletteは、
重症児への医療介入を家族のプライバシーだとする主張について
以下のような問題点を挙げましたが、
重症児への医療介入を家族のプライバシーだとする主張について
以下のような問題点を挙げましたが、
1.Ashleyに行われた介入セットを州が法律で規制することは可能か。
2.Ashley事件の記録から、規制が必要だと考えられるか。
3.もし必要だとすれば、どのような規制が妥当なのか。
2.Ashley事件の記録から、規制が必要だと考えられるか。
3.もし必要だとすれば、どのような規制が妥当なのか。
著者はここで改めて
州はどのような理念で親の決定権の規制を正当化しているか、を振り返ります。
そして「親の決定権を規制すべき根拠となる懸念のすべてがAshleyケースには存在する」と書きます。
州はどのような理念で親の決定権の規制を正当化しているか、を振り返ります。
そして「親の決定権を規制すべき根拠となる懸念のすべてがAshleyケースには存在する」と書きます。
All of the concerns that have justified limitations on parental decisionmaking in past cases were present in Ashley’s case.
医療上の必要もなしに医療介入が行われたこと。
ホルモン療法は本人の正常な成長を阻害したこと。
Ashleyは子宮と乳房を失い、ホルモン療法の結果は今後ずっと背負っていくこと。
Ashleyには現実の害が生じたし、Ashleyに行われた介入には
自分の意思でない人体事件や臓器提供の場合と同様の重大なリスクがあったこと。
ホルモン療法は本人の正常な成長を阻害したこと。
Ashleyは子宮と乳房を失い、ホルモン療法の結果は今後ずっと背負っていくこと。
Ashleyには現実の害が生じたし、Ashleyに行われた介入には
自分の意思でない人体事件や臓器提供の場合と同様の重大なリスクがあったこと。
それらの意味でAshleyに行われた介入セットは
「女性の性器切除にすら匹敵する」とまで著者は言うのです。
「女性の性器切除にすら匹敵する」とまで著者は言うのです。
また親の利益がAshley本人の利益と混同されていること。
さらに、当該ケースには当てはまらないにせよ、
親の決定権モデルをデフォルト扱いした今回の検討プロセスが前例となると
過去に繰り返されてきた障害児・者への虐待が起こる可能性もある。
さらに、当該ケースには当てはまらないにせよ、
親の決定権モデルをデフォルト扱いした今回の検討プロセスが前例となると
過去に繰り返されてきた障害児・者への虐待が起こる可能性もある。
これらによって、
現在の法規制が「当てはまらない」から親の決定権で、という解釈では
すまないことになるわけです。
現在の法規制が「当てはまらない」から親の決定権で、という解釈では
すまないことになるわけです。
The absence of a medical need for intervention, the permanent nature of change in the child, the unknowable risks of untested interventions, the parents’ conflict of interest, and the obvious potential for abuse change the equation entirely.
圧巻なのは、ここからの数ページ。
これまで抑えてきたものが堰を切ったかのように、手厳しく、
Ashley事件での倫理委の検討の姿勢とプロセスを批判します。
これまで抑えてきたものが堰を切ったかのように、手厳しく、
Ashley事件での倫理委の検討の姿勢とプロセスを批判します。
特に236ページから始まる長い段落で「誰も……した者がいない」と繰り返される非難は
力がこもり、静かな憤りが一文一文を押し出すかのようで、胸が熱くなりました。
力がこもり、静かな憤りが一文一文を押し出すかのようで、胸が熱くなりました。
この事件に興味のある方は、ぜひ原文を読んでみてください。
重症児の体の一部を切除することなど大したことではないとした倫理委の姿勢に対する
冷静な、しかし熱く、厳とした糾弾です。
冷静な、しかし熱く、厳とした糾弾です。
体の一部をもぎ取られることが、その人本人に与える
一見それとはわかりにくいかもしれないけれど、手ひどいダメージ。
(インターセックスの子どもたちが受けさせられる「性器の正常化」を例にとり
そのダメージは研究されて文献がある、とも、それらが親や健常者には
理解されにくいことも当事者らがちゃんと示してきたではないか、とも)
一見それとはわかりにくいかもしれないけれど、手ひどいダメージ。
(インターセックスの子どもたちが受けさせられる「性器の正常化」を例にとり
そのダメージは研究されて文献がある、とも、それらが親や健常者には
理解されにくいことも当事者らがちゃんと示してきたではないか、とも)
そして、身を守るすべを持たない弱者を管理するために身体改造をしようとする姿勢が
社会に与える重大な影響。
社会に与える重大な影響。
フランシス・フクヤマが”the sum of human unity and continuity”と定義し、
“our human essence”と呼んだものを、侵す行為だと指摘したものが誰もいない、と。
“our human essence”と呼んだものを、侵す行為だと指摘したものが誰もいない、と。
(私はここが特に印象的で、Tan論文で当ブログが考えたことに重なるように感じました。)
つまり、ここで言われていることは
法や障害者運動が社会を変えるために積み重ねてきたことの
その歴史性に逆行するほどの影響の大きさを言った者が倫理委に誰もいない、との非難と
私は理解しました。
法や障害者運動が社会を変えるために積み重ねてきたことの
その歴史性に逆行するほどの影響の大きさを言った者が倫理委に誰もいない、との非難と
私は理解しました。
また、これまでにも言われてきたことではありますが、
もっと具体的な検討手順への批判として、
もっと具体的な検討手順への批判として、
・侵襲度の低い選択肢が検討されていない。
・Ashley本人のアドボケケイトがいない。
・利益対リスク検討のアンバランス。
・Ashley本人のアドボケケイトがいない。
・利益対リスク検討のアンバランス。
特に利益対リスクについては、
医療外の目的を謳って社会的な利益を取り上げつつ、
リスクは医療行為の範囲内のみに焦点を当て、社会的リスクを無視している、と。
医療外の目的を謳って社会的な利益を取り上げつつ、
リスクは医療行為の範囲内のみに焦点を当て、社会的リスクを無視している、と。
これらの社会的リスクや害は、
Ashleyの立場だけを代理するアドボケイトがいたら指摘していたはずだと主張します。
Ashleyの立場だけを代理するアドボケイトがいたら指摘していたはずだと主張します。
それらの害として、
Future caregivers, peers, and acquaintances might react more negatively to an unnaturally stunted woman than to a full-grown woman with disabilities.
……the interventions would expose Ashley to what disability activists view as dehumanizing manipulation.
The specter of indignity and attendant moral harm
……Ashley suffered the moral harm that results when a person is denied full human respect.
……the interventions would expose Ashley to what disability activists view as dehumanizing manipulation.
The specter of indignity and attendant moral harm
……Ashley suffered the moral harm that results when a person is denied full human respect.
簡単に私自身の言葉でまとめると、
「障害のない人ならやっちゃいけないけど、この人はどうせ障害者だから」と
体に手を加えるなど、人としての敬意を値引きする姿勢が、また周囲の人の
「どうせ、そういうことをしてもいい人だから」という敬意の値引きにつながる。
それこそがAshleyが被る「道徳上の害」だ、ということでしょう。
(著者はこういう書き方はしていませんが)
「障害のない人ならやっちゃいけないけど、この人はどうせ障害者だから」と
体に手を加えるなど、人としての敬意を値引きする姿勢が、また周囲の人の
「どうせ、そういうことをしてもいい人だから」という敬意の値引きにつながる。
それこそがAshleyが被る「道徳上の害」だ、ということでしょう。
(著者はこういう書き方はしていませんが)
そして、そのような道徳上の害をこそ、
歴史の中で障害者はこうむってきたのであり、
だからこそ、Ashleyケースはまぎれもなく障害者事件なのであり、
だからこそ、こんないい加減な検討を許さない明確なガイドラインが必要なのだ、
というふうに論理が展開して、結論へと向かいます。
歴史の中で障害者はこうむってきたのであり、
だからこそ、Ashleyケースはまぎれもなく障害者事件なのであり、
だからこそ、こんないい加減な検討を許さない明確なガイドラインが必要なのだ、
というふうに論理が展開して、結論へと向かいます。
(次のエントリーに続く)
2010.01.15 / Top↑
Quelletteが事件の概要をまとめた後で展開する、
親の決定権をめぐる現在の法律の考え方の整理はおおむね以下の通り。
親の決定権をめぐる現在の法律の考え方の整理はおおむね以下の通り。
子どもの医療に関する親の決定権は
合衆国憲法修正第14条のDue Process(しかるべきプロセス)条項で保護されており、
一部の例外を除き、親には子どものために最善の決定をする能力があることを前提に
国家の介入を受けない家族のプライベートな領域とされる。
合衆国憲法修正第14条のDue Process(しかるべきプロセス)条項で保護されており、
一部の例外を除き、親には子どものために最善の決定をする能力があることを前提に
国家の介入を受けない家族のプライベートな領域とされる。
そのような親の決定権を制約する例外には3つのモデルがあり、
1.子どもの選択(子どもがmature minor "成熟した未成年"とみなされる場合)
2.法的に禁止された医療介入(女性器切除)
3.虐待・親子の利害の相克がありうる医療介入
a.不妊手術を受けさせる、または人体実験に参加させる決定
b.兄弟への臓器提供をさせる決定
2.法的に禁止された医療介入(女性器切除)
3.虐待・親子の利害の相克がありうる医療介入
a.不妊手術を受けさせる、または人体実験に参加させる決定
b.兄弟への臓器提供をさせる決定
3のカテゴリーの介入に対する規制は州ごとに細かい点では違っているものの
基本事項は共通していて、
基本事項は共通していて、
1.介入実施前に、親の決定について第三者が検討すること
(特に未成年への不妊手術についてはWA州を含む多くの州が裁判所の介入を求める。)
2.その第三者が親の決定に同意する条件が決められていること
(特に未成年への不妊手術についてはWA州を含む多くの州が裁判所の介入を求める。)
2.その第三者が親の決定に同意する条件が決められていること
このような第三者の検討が必要な例外は
優生政策、障害児・者に行われた非倫理的な研究など過去の出来事の反省に基づくもの。
優生政策、障害児・者に行われた非倫理的な研究など過去の出来事の反省に基づくもの。
次に著者は、こうした法規制をAshleyケースにあてはめてみます。
そして、
3つのモデルの最初の2つはAshleyケースには当てはまらない、
3つ目のモデルでも、子宮摘出では第三者の検討が必要かもしれないものの
成長抑制、乳房摘出、盲腸摘出は不妊手術でも実験でも臓器提供でもないから
当てはまらない、というのです。
3つのモデルの最初の2つはAshleyケースには当てはまらない、
3つ目のモデルでも、子宮摘出では第三者の検討が必要かもしれないものの
成長抑制、乳房摘出、盲腸摘出は不妊手術でも実験でも臓器提供でもないから
当てはまらない、というのです。
私は、この点、
そういう医療技術の応用に前例がないから法律が対応していないだけでは? と思うし、
そういう医療技術の応用に前例がないから法律が対応していないだけでは? と思うし、
著者は、子宮摘出についても、
親の弁護士の解釈に触れて、目的が不妊そのものでない場合にまで
裁判所の命令が必要なのかどうかは、まだ議論の余地がある、と言います。
親の弁護士の解釈に触れて、目的が不妊そのものでない場合にまで
裁判所の命令が必要なのかどうかは、まだ議論の余地がある、と言います。
ただ、この論理展開は、どうやら
今後でてくる可能性のあるケースへの懸念を
リアルに示すために著者が敢えて仕組んだワザのようでもあり、
今後でてくる可能性のあるケースへの懸念を
リアルに示すために著者が敢えて仕組んだワザのようでもあり、
すなわち、現状では、このような解釈が可能である以上、
今後「うちの子にも」と手を挙げる親に対して
子ども病院と同じように親の決定権モデルが適用される危険性があることを
著者はこうして提示して見せた……というわけでしょう。
今後「うちの子にも」と手を挙げる親に対して
子ども病院と同じように親の決定権モデルが適用される危険性があることを
著者はこうして提示して見せた……というわけでしょう。
では、そうした状況を踏まえ、
Ashleyのような重症児の“治療”は家族のプライバシーだとする主張には
どのような問題があるのか。
Ashleyのような重症児の“治療”は家族のプライバシーだとする主張には
どのような問題があるのか。
著者は以下の3点を挙げています。
1.Ashleyに行われた介入セットを州が法律で規制することは可能か。
2.Ashley事件の記録から、規制が必要だと考えられるか。
3.もし必要だとすれば、どのような規制が妥当なのか。
2.Ashley事件の記録から、規制が必要だと考えられるか。
3.もし必要だとすれば、どのような規制が妥当なのか。
(次のエントリーに続く)
2010.01.15 / Top↑
おととい、こちらのエントリーで触れた
AJOBのDiekema&Fost論文については、
コメンタリーの募集で公開された掲載前のバージョン全文を読み、
当ブログでも6つのエントリーでいくつかの指摘をしています。
(文末にリンク。ただし指摘できるマヤカシは、この他にも山のようにあります)
AJOBのDiekema&Fost論文については、
コメンタリーの募集で公開された掲載前のバージョン全文を読み、
当ブログでも6つのエントリーでいくつかの指摘をしています。
(文末にリンク。ただし指摘できるマヤカシは、この他にも山のようにあります)
このDiekema&Fost論文で、著者らが最も論駁できずにいたのが
今回もコメンタリーを書いているAlicia R. Quellette の以下の批判論文(2008)。
今回もコメンタリーを書いているAlicia R. Quellette の以下の批判論文(2008)。
Growth Attenuation, Parental Choice, and the Rights of Disabled Children: Lessons from the Ashley X Case
Alicia R. Quellette, J. D.
8 Houston Journal of Health Law & Policy 207-24
Alicia R. Quellette, J. D.
8 Houston Journal of Health Law & Policy 207-24
著者はAlbany Law Schoolの準教授で
Union Graduate College/Mt. Sinal School of Medicine Program in Bioethicsの生命倫理の教授。
Union Graduate College/Mt. Sinal School of Medicine Program in Bioethicsの生命倫理の教授。
この論文、実はもうかなり長いこと手元にあって、
読まなければと思いながら、ずっと先延ばしになっていたので、
コメンタリーで名前を見たのを機に、引っ張り出して読んでみました。
読まなければと思いながら、ずっと先延ばしになっていたので、
コメンタリーで名前を見たのを機に、引っ張り出して読んでみました。
全体の論旨をごく簡単にまとめると、
現在、Ashleyに行われた医療介入に対する明確な法的な規制はなく、
このままでは将来的にも子どもの医療に関する親の決定権の範疇に入ってしまいかねないが、
介入の侵襲度の高さやリスク、障害児の権利の侵害や虐待の可能性に鑑みれば、
Ashley事件での倫理委の意思決定プロセスの欠陥こそが教訓とされて
一定の規制とガイドラインがあるべきだ。
ガイドラインとしては、
Seattle 子ども病院とWPASとの合意内容を基本モデルとしてはどうか。
このままでは将来的にも子どもの医療に関する親の決定権の範疇に入ってしまいかねないが、
介入の侵襲度の高さやリスク、障害児の権利の侵害や虐待の可能性に鑑みれば、
Ashley事件での倫理委の意思決定プロセスの欠陥こそが教訓とされて
一定の規制とガイドラインがあるべきだ。
ガイドラインとしては、
Seattle 子ども病院とWPASとの合意内容を基本モデルとしてはどうか。
この論文の一番大きな意義は、Ashleyケースでの倫理委の検討プロセスについて
法学・生命倫理学者が明確に deficient (欠陥がある)と結論したこと。
そして、それを論拠に明確な規制の必要を説いたことではないでしょうか。
法学・生命倫理学者が明確に deficient (欠陥がある)と結論したこと。
そして、それを論拠に明確な規制の必要を説いたことではないでしょうか。
子どもの医療をめぐる親の決定権とその制約についての
米国の法律的な考え方が非常によくまとめられているので
内容をいくつかのエントリーに分けて、ちょっと詳しくまとめてみます。
米国の法律的な考え方が非常によくまとめられているので
内容をいくつかのエントリーに分けて、ちょっと詳しくまとめてみます。
まずQuelletteも、Ashley論文の常として最初に事件の概要をまとめていますが、
これが非常に詳細です。
これが非常に詳細です。
特に、医師らの論文とメディアでの発言などから倫理委の検討についての説明を拾い、
利益と害を比較検討したら利益が上回ると結論付けたという
Diekema医師らが主張するところの「倫理委での検討過程」をなぞり
逐一確認している部分は、これまでの批判論文で誰もやっていない作業です。
利益と害を比較検討したら利益が上回ると結論付けたという
Diekema医師らが主張するところの「倫理委での検討過程」をなぞり
逐一確認している部分は、これまでの批判論文で誰もやっていない作業です。
その後、障害当事者らから出てきた批判の論点を取りまとめた後で、
著者は子どもの医療に関する親の決定権をめぐる現在の法律的な考え方を整理します。
著者は子どもの医療に関する親の決定権をめぐる現在の法律的な考え方を整理します。
(次のエントリーに続く)
【Diekema&FostのAJOB論文に関するエントリー】
Diekema医師が今更のようにAshley論文書いて批判に反駁(2009/10/1)
Diekema&Fost論文を読む 1:倫理委に関する新事実(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 2:ホルモン療法の期間を修正(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 3:政治的判断を否定(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 4:窮鼠の反撃? 証明責任の転嫁(2009/11/2)
Diekema&Fost論文を読む 5:「だから、ちゃんと検討したんだってば」(2009/11/3)
Diekema&Fost論文を読む 6:司法の否定(2009/11/3)
Diekema医師が今更のようにAshley論文書いて批判に反駁(2009/10/1)
Diekema&Fost論文を読む 1:倫理委に関する新事実(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 2:ホルモン療法の期間を修正(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 3:政治的判断を否定(2009/11/1)
Diekema&Fost論文を読む 4:窮鼠の反撃? 証明責任の転嫁(2009/11/2)
Diekema&Fost論文を読む 5:「だから、ちゃんと検討したんだってば」(2009/11/3)
Diekema&Fost論文を読む 6:司法の否定(2009/11/3)
2010.01.15 / Top↑
日本のマスコミについては、日ごろから、
ある種類の海外ニュースについては報道しないなぁ……という不思議を感じていて、
ある種類の海外ニュースについては報道しないなぁ……という不思議を感じていて、
たとえば、大晦日の米国モンタナ州の自殺幇助合法化なども、
現在、厚労省で終末期医療のあり方について懇談会が議論している最中でもあり、
日本でも報道されてしかるべき大ニュースだと私は思ったのですが、
どうやら共同通信が地味な記事を打ったのみだったようす。
現在、厚労省で終末期医療のあり方について懇談会が議論している最中でもあり、
日本でも報道されてしかるべき大ニュースだと私は思ったのですが、
どうやら共同通信が地味な記事を打ったのみだったようす。
(私自身は検索しても、この共同通信の記事すら見つけられなくて
人に教えてもらって知ったので、まだ気づいていない記事もあるのかもしれませんが
それほど地味だったことは間違いないでしょう)
人に教えてもらって知ったので、まだ気づいていない記事もあるのかもしれませんが
それほど地味だったことは間違いないでしょう)
なんだか、やっぱり……なぁ……というのを引きずっていたところ、
昨夜なんとなく見た深夜のZEROというニュース番組で、
小沢氏の後援会事務所の土地購入資金問題で、何とも不可解な解説を聞いて言葉を失った。
昨夜なんとなく見た深夜のZEROというニュース番組で、
小沢氏の後援会事務所の土地購入資金問題で、何とも不可解な解説を聞いて言葉を失った。
昨日の強制捜査など一連の出来事を報じるVTRが終わってカメラがスタジオに戻った際に、
キャスターの男性が「なぜこの問題に我々国民が注目しておく必要があるかというと……」と
フリップをとりだした。
キャスターの男性が「なぜこの問題に我々国民が注目しておく必要があるかというと……」と
フリップをとりだした。
真中に描かれたゼネコンを挟んで、右側に政治家、左側に国民が描かれている。
そして、ゼネコンから政治家に札束が1つ。
国民からゼネコンに札束が4つ、それぞれ渡っていく矢印。
そして、ゼネコンから政治家に札束が1つ。
国民からゼネコンに札束が4つ、それぞれ渡っていく矢印。
そこで、「これは仮定の話ですが、もしもこういうことが行われていたとしたら」と
前置きしたうえで、キャスターの男性がフリップを使って行った解説は
だいたい、以下のような内容。
前置きしたうえで、キャスターの男性がフリップを使って行った解説は
だいたい、以下のような内容。
ゼネコンが何かの仕事を請け負ってやる時には、
その代金は、このように(4つの札束を指す)我々国民の税金で支払われます。
ところが、その陰で、
もしも便宜を図ってもらう目的でゼネコンから政治家にお金が渡されていたとしたら、
そこでゼネコンが使ったお金は、こちらの代金に跳ね返るわけです。
つまり、こちらで政治家に渡った、この金額分が(札束1つを指す)なかったら、
国民がゼネコンに支払う金額も、このように(一番上の札束に赤でバッテンがつく)
その金額分、少なくて済んだことになり、
その金額分を例えば福祉などに使うことができたはずなのです。
しかし、お金がゼネコンから政治家に渡ったために
国民は払わなくてもいい余分な税金をゼネコンに払うことになり、
福祉には使えなくなってしまったのです。
このように、これは税金の私的流用ということになるので、
我々としては、重大な関心を持って眺めていく必要があるのです。
その代金は、このように(4つの札束を指す)我々国民の税金で支払われます。
ところが、その陰で、
もしも便宜を図ってもらう目的でゼネコンから政治家にお金が渡されていたとしたら、
そこでゼネコンが使ったお金は、こちらの代金に跳ね返るわけです。
つまり、こちらで政治家に渡った、この金額分が(札束1つを指す)なかったら、
国民がゼネコンに支払う金額も、このように(一番上の札束に赤でバッテンがつく)
その金額分、少なくて済んだことになり、
その金額分を例えば福祉などに使うことができたはずなのです。
しかし、お金がゼネコンから政治家に渡ったために
国民は払わなくてもいい余分な税金をゼネコンに払うことになり、
福祉には使えなくなってしまったのです。
このように、これは税金の私的流用ということになるので、
我々としては、重大な関心を持って眺めていく必要があるのです。
もちろん、贈収賄が回りまわって国民の税金の無駄遣いにつながる構図そのものを
否定するつもりはありません。
否定するつもりはありません。
しかし「これは税金の私的流用ということになるので」と言うのは、
解説として、あまりにも不正確ではないでしょうか。
解説として、あまりにも不正確ではないでしょうか。
本当に「収賄」と「税金の私的流用」の区別ができない人物が記事を書いたのか。
それをそのまま読むキャスターも、疑問に思わないほど鈍いのか。
それをそのまま読むキャスターも、疑問に思わないほど鈍いのか。
それとも、
回りまわって国民の税金を余分に使わせることになったのだから、
わいろを受け取った政治家が私的に使う目的で直接的に国民の税金に手をつけたも同然だし、
“同然”である以上「収賄とは、すなわち税金の私的流用」なのだと解釈したとでも?
回りまわって国民の税金を余分に使わせることになったのだから、
わいろを受け取った政治家が私的に使う目的で直接的に国民の税金に手をつけたも同然だし、
“同然”である以上「収賄とは、すなわち税金の私的流用」なのだと解釈したとでも?
まさか「収賄」とするよりも「税金の私的流用」という方が、
いかにも自分の私利私欲で政治家が公金に手をつけたかのように
直接的な視聴者の憤りを掻き立てることができて面白いとでも?
いかにも自分の私利私欲で政治家が公金に手をつけたかのように
直接的な視聴者の憤りを掻き立てることができて面白いとでも?
考えてみれば、そのほかにも不思議はいくつもあって、
先の総選挙前の西松建設問題の際も、
検察の強引な動き方の怪や先走った報道の怪が指摘されていたような気がするけど、
先の総選挙前の西松建設問題の際も、
検察の強引な動き方の怪や先走った報道の怪が指摘されていたような気がするけど、
いまだ捜査段階で事実関係が確認されていない事柄に対しては
以前のメディアは、もう少し慎重に言葉を選んで、
言うならば「推定無罪」原則にのっとって報道していたのでは?
以前のメディアは、もう少し慎重に言葉を選んで、
言うならば「推定無罪」原則にのっとって報道していたのでは?
いつから、こんなふうに「仮定の話ですが、もしも行われていたとしたら」と
その事実があったかのように先走った、しかも不正確な解説をして
(図や写真の使用は無意識の潜入感植え付けにつながりやすいと思う)
国民の一定の感情を誘導するような報道をするようになったのか。
その事実があったかのように先走った、しかも不正確な解説をして
(図や写真の使用は無意識の潜入感植え付けにつながりやすいと思う)
国民の一定の感情を誘導するような報道をするようになったのか。
そして、とても耳についた、ことさらな「福祉」の繰り返し。
「本来なら福祉に使えるはずの国民の税金がこんなに無駄にされていること」への怒りなら
他にも言及すべき対象はたくさんあるはずなのだけど、
この番組はそれらについても「福祉に使えたはず」を
いちいち連発しているのかしら。
他にも言及すべき対象はたくさんあるはずなのだけど、
この番組はそれらについても「福祉に使えたはず」を
いちいち連発しているのかしら。
メディアの不正確な解説で煽られた国民感情が一定のところまで行くと、
その国民感情によって、なんとなく事実であったかのような幻想が先行して、そのうち、
それが事実であったかどうかすら意味がなくなってしまうんじゃないか……というような
そんな不気味を感じると同時に、
その国民感情によって、なんとなく事実であったかのような幻想が先行して、そのうち、
それが事実であったかどうかすら意味がなくなってしまうんじゃないか……というような
そんな不気味を感じると同時に、
このところ、ずっと考えているAshley事件の背景とも思い合わせて、
誰かの意図がメディアの報道姿勢や内容に影響を与えるということが
(私はA事件で一番恐ろしいのは“知っている”CNNが黙したことだと考えています)
彼の地だけでなく、もしかしたら我が国でも現に起こっている可能性について
あれこれと考えていたら、
誰かの意図がメディアの報道姿勢や内容に影響を与えるということが
(私はA事件で一番恐ろしいのは“知っている”CNNが黙したことだと考えています)
彼の地だけでなく、もしかしたら我が国でも現に起こっている可能性について
あれこれと考えていたら、
いったい、この世の中は、これからどうなっていくんだろう……と
ちょっと呆然となってしまった。
ちょっと呆然となってしまった。
2010.01.15 / Top↑
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