Guardian の日曜版 Observer誌が
これまで自殺幇助合法化に関して積極的に発言してきた以下の5人を
ラウンドテーブルに招いて討論を行っています。
これまで自殺幇助合法化に関して積極的に発言してきた以下の5人を
ラウンドテーブルに招いて討論を行っています。
Baroness Mary Warnock(哲学者)
Baroness Ilora Finlay(緩和ケア専門の教授)
Evan Harris(自由民主党議員)
David Morris(障害者自立運動アドボケイト Independent Living Alternative会長)
Debbie Purdy(死の自己決定権を主張し法改正を求めるMS患者)
Baroness Ilora Finlay(緩和ケア専門の教授)
Evan Harris(自由民主党議員)
David Morris(障害者自立運動アドボケイト Independent Living Alternative会長)
Debbie Purdy(死の自己決定権を主張し法改正を求めるMS患者)
(Warnock, Finlay, Purdyの3人については、こちらに関連エントリーのリスト)
司会は Observer誌の政治部編集長 Anushka Asthana
非常に読みごたえがあるし、
英国の自殺幇助合法化議論の論点がだいたい尽くされている観もあるので
この問題に興味をお持ちの方には、お勧めの議論かも。
英国の自殺幇助合法化議論の論点がだいたい尽くされている観もあるので
この問題に興味をお持ちの方には、お勧めの議論かも。
個人的には、一番強く印象に残ったのは
同じ障害当事者でも、Purdyさんがものを言う時に、例によって
自分自身のこと、自分と同じように考える障害者のことしか念頭においてないのに対して、
David Morrisさんが、合法化されることの影響を、もっと広く捉えていること。
そして、その影響のリスクを非常に具体的に指摘したこと。
同じ障害当事者でも、Purdyさんがものを言う時に、例によって
自分自身のこと、自分と同じように考える障害者のことしか念頭においてないのに対して、
David Morrisさんが、合法化されることの影響を、もっと広く捉えていること。
そして、その影響のリスクを非常に具体的に指摘したこと。
David Morris: I really share very much of what Debbie feels around choice and control as a disabled person. But [when it comes to legislating] what I don't want to see is this being placed in a context where some of our lives are of less value, in the eyes of the law and in the eyes of society, than others. And there's a whole depth of debate which we need to have, which is both ethical, but is also very practical.
Before we legislate for death we should be ensuring that we all, as disabled people, have access to these supports to be able to live effectively. Say last year, for various reasons, I was feeling suicidal but it was nothing to do with my impairment. I could have gone to Dignitas and nobody would have said anything about me being assisted to die, because I'm judged as somebody with an impairment which can be confused with somebody who is terminally ill. And we really need to establish that point.
障害のある人の選択とコントロールについてはDebbieさんと同じ気持ちだけど、合法化されて、法律においても社会においても、我々障害者の命が他の人よりも価値のないものとみなされるようになるのは困る。そういうのは倫理の問題というだけでなくて現実問題なんだから、そういうところまで、ちゃんと議論する必要がある。
死を合法化する前に、障害者みんながちゃんと生きるための支援を受けられるように保障するべきだ。例えば私は去年、いろんな理由で自殺してしまい気分になったことがありました。それは自分の障害とは関係のない気持ちだったのですが、でも私がその時にDignitasへ行っていたとしたら、そこで幇助を受けて死んでも誰も反対しなかったわけですよね。私には障害があるから、ターミナルな人と同じように思われてね。そこのところをはっきりさせておかなければいけない。
Before we legislate for death we should be ensuring that we all, as disabled people, have access to these supports to be able to live effectively. Say last year, for various reasons, I was feeling suicidal but it was nothing to do with my impairment. I could have gone to Dignitas and nobody would have said anything about me being assisted to die, because I'm judged as somebody with an impairment which can be confused with somebody who is terminally ill. And we really need to establish that point.
障害のある人の選択とコントロールについてはDebbieさんと同じ気持ちだけど、合法化されて、法律においても社会においても、我々障害者の命が他の人よりも価値のないものとみなされるようになるのは困る。そういうのは倫理の問題というだけでなくて現実問題なんだから、そういうところまで、ちゃんと議論する必要がある。
死を合法化する前に、障害者みんながちゃんと生きるための支援を受けられるように保障するべきだ。例えば私は去年、いろんな理由で自殺してしまい気分になったことがありました。それは自分の障害とは関係のない気持ちだったのですが、でも私がその時にDignitasへ行っていたとしたら、そこで幇助を受けて死んでも誰も反対しなかったわけですよね。私には障害があるから、ターミナルな人と同じように思われてね。そこのところをはっきりさせておかなければいけない。
それから、
駄々っ子みたいな論理で攻撃的にたたみかけるPurdyさんに対して Finlayさんが
「私が言っているのは個々人のことではありません。
社会に変化が起こるんじゃないかと言っているのです」。
駄々っ子みたいな論理で攻撃的にたたみかけるPurdyさんに対して Finlayさんが
「私が言っているのは個々人のことではありません。
社会に変化が起こるんじゃないかと言っているのです」。
そして、以下のようにも。
Debbie, I'm not. I would never claim that palliative care has a magic wand and can make things magically better; it can't. People are suffering. Suffering seems to be part of the human existence, but what I'm saying is if we take away the duty of care within our society and if we take away the protection of the law from those who are vulnerable, we have to look at what the unintended consequences of that are.
緩和ケアが万能だなんて言っていません。万能じゃない。みんな苦しんでいます。苦しむことは人の存在の一部のようにすら思えますが、私が言っているのは、そういう人をケアする義務を社会から外し、自分で身を守ることのできにくい弱者から法による保護を奪って、そんなことをしたら、どんな思いがけない結果が起きるか、考えなければならないということなのです。
緩和ケアが万能だなんて言っていません。万能じゃない。みんな苦しんでいます。苦しむことは人の存在の一部のようにすら思えますが、私が言っているのは、そういう人をケアする義務を社会から外し、自分で身を守ることのできにくい弱者から法による保護を奪って、そんなことをしたら、どんな思いがけない結果が起きるか、考えなければならないということなのです。
その他に個人的に印象に残ったのは、
・DPPのガイドラインは解釈次第というところがあり、解釈が訴追よりも優先されかねない。現在でも、既に有罪とされても罰されないことがトレンドになりつつある。(Finlay)
・障害者とターミナルな人を混同してはならない。自殺幇助合法化はあくまでもターミナルな人が対象。障害とは関係ない。その意味で、この数週間にあった2つの裁判は、厳密には当てはまらない。でも、Gilderdale事件では陪審員が殺人未遂では無罪と判断したわけで、この、陪審員が決めたということには意味があると思う。陪審員は民意だから。(Warnock)
(障害者は対象じゃないと言いながら、
でも結局、ターミナルではない障害者でも、それが民意であればいいと言っている)
でも結局、ターミナルではない障害者でも、それが民意であればいいと言っている)
・医学的にターミナルだという診断はつくのだから、明確にそういう人に絞ったうえで合法化するべきだ、というHarrisさんに対して、Finlayさんは「ターミナルはそう単純に診断できるもんじゃない。それに医師の説明のし方一つで患者は希望を持つ方向にも、苦しむことを恐れて早まった自殺を選ぶ方向にも誘導されてしまうが、自分は緩和ケアをやってきて、一時は死にたいと望んだ患者が生きていてよかったと感じるようになるケースを沢山見てきた。合法化されると、そういう医療サイドの丁寧な努力に代わって、医療上の判断の中にDavidが懸念しているような道徳的な判断が忍び込むようになる。そうでなくても医療費削減の必要が言われているのだから誘導が起こるに決まっているが、丁寧な緩和ケアにはお金がかかるのだ(そちらをきちんと議論すべきだ?)」と。
・Morrisさんが「この動きは過去の優生思想が出てきたころの時代背景と同じだ」と指摘したのに対して、Harrisさんが「優生は国がやったこと。これは個人の決定権の問題だから話が別」と。これはAshley療法について、Joni Tada と Norman Fost の間で交わされた(Larry King Live 2007年1月12日)のとまったく同じ議論。
・「人は様々な理由で自殺するんです。死にたいと思う気持ちの中には、家族に迷惑をかけたくないという愛他的な理由も部分的に含まれているかもしれない。でも、それは尊敬すべき動機だと私は思う」と、いかにもWarnock。(なにしろ、認知症患者には「死ぬ義務」があると言ってのける人だから。)
・Warnock が「今だって病院死では医師が自分の道徳によって、または人手不足から、患者は医療職の都合で死なされているじゃないか」と指摘して、Harrisが「それは消極的安楽死だからともかくとして、治る見込みがなければ無益だとして死なせているのは現実だ」と言い、Finlayを「それは老年医に対する重大な告発だから、そんなことを言うなら実証しろ」と怒らせた。
(事実はあると思う。でも「どうせ今でも医師が死なせているのだから、死にたいという患者も死なせたっていい」という理屈はないだろう……と前から思う。事実があるからといって、それが正しいのでなければ、その事実の方を変えるための議論をしなければならないと思うのだけど。しかし、こういう「どうせ」論理は、またSingerやFostがよく使っている手でもあるから要注意。「どうせ今でもダウン症児は中絶されているのだから、生まれてきた子に障害があったら治療せずに死なせてもいいということだ」とか「どうせ中絶の決断は親なんだから、生まれた後も障害児については親の決定権でいい」とか。)
2010.01.31 / Top↑
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