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アスピリンを常用したからといって心臓麻痺と脳卒中の予防になるのは、既に発作を起こした既往歴のある人だけ。このところ、健康な人もスタチンを飲め、アスピリンを飲め、と姦しかったから。ほら、やっぱり科学者の言うことはコロコロ変わる……というか、仮に予防効果が多少はあるとしたって、健康体でどうしてアスピリンやスタチンを飲まされなければならないのだ? と素人は思う。こういうのが本当に予防医学なのか。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8072215.stm

脳卒中の後遺症に苦しむ兄の自殺を幇助したとして逮捕されたJune Hartleyさんの裁判続報。Felony ではなくてaccessory として有罪を認めたとのこと。記事のトーンからすると、悪意によるものではないので実刑にはならないのではないか、というニュアンス。弁護士が「慈悲による特異な状況での行為。Felonyにするべきではない」と「慈悲」という言葉を使っているのが気になるのと、記事に対する読者コメントに自殺幇助合法化に向かってまっしぐらという世論がありありと。ターミナルでなくても、痛みに苦しんでいるのでなくても、医師でなくても、なんでもありで自殺幇助を認めろと自分が言っているということに、この人たちは気づいていない
http://www.lodinews.com/articles/2009/05/29/news/1_hartley_090529.txt

コネチカットMiddleburyの高齢女性の死はGeorgia州の警察情報に照らしてFENとの関連が濃厚に。
http://www.courant.com/news/custom/topnews/hc-web-middlebury-suicide-0529may30,0,6692915.story

WA州の尊厳死法適用第1例のFlemmingさんと反対運動をしていたALS患者のPaytonさんが同日に亡くなったことについて、「そのアイロニー」として書いた記事。自殺幇助合法化運動が集めた資金が、反対運動が集めた資金の5倍にも及んでいた、と。当時、州外から膨大な資金が流入していることは読んだ記憶があるけど、どういうところから出ているのだろう、そのお金は。
http://www.associatedcontent.com/article/1790746/linda_fleming_john_peyton_and_assisted.html?cat=62
2009.05.30 / Top↑
前々回のエントリーで引用した
こびと症の人とジャーナリストの論争から
個人的な体験について考えたこと。

ずっと昔、娘がお世話になっている身障センターの整形外科の先生方が
子どもの障害を知ったばかりの親が集まる母子入園での診察で
まだ動揺の大きな親たちに向かって、何の配慮もなく
「この子はどうせ一生歩かないよ」などと放言しては傷つけることを
批判する文章を書いたことがある。

(発達小児科の先生方には、もうちょっと親の心情に対する配慮があった)

私が書いたものを読まれたからかどうかは分からないけれど、
その数年後に娘が骨折した時に何人かの整形外科医と話をした際には、
「申し訳ないけれど、ミュウさんが立って歩くことは、この先もないと思うので」
「こう言っては大変申し訳ないですが、ミュウさんは歩かないので」と
どなたも「歩かない」と口にするたびに、いちいち無用の気を使われるのに、
ほとほと情けない気持ちになった。

「歩かない」と言うのが気に食わないから詫びろと求めたのではなかった。

重症児の親になって10年以上も経てば、
我が子が一生歩かないだろうことくらい単なる事実として受け止めている。
実際、歩かないのだから、歩かないと医師から言われることに何の不都合もない。
「この先も歩かないことを考えたら、リスクのある手術で足をまっすぐにする益はない」と
普通に言ってもらって全然かまわない。
「確かに、この子は歩きませんからリスクの方が大きいですね」と同意するだけだ。

けれど今の私が「この子は生涯歩かない」と言われても
余計な感情をかきたてられることなく単なる事実として受け止められるのは、
それまでの10年以上もの年月の間に様々な体験を積み、知識を身につけ、
様々な葛藤や心の波立ちを繰り返しながら障害のある子どもの親として成長し、
心の、少なくとも表層部分は渋皮のように鍛えられてきたからだ。

生まれて間もない我が子に障害があると知ったばかりの親の心は
生まれたての雛のように無防備で柔らかなのです。

因幡の白兎のように赤剥けて血がにじみヒリヒリしている。

そこに塩を擦り込むのは
本当は「歩かない」とか「歩けない」という言葉ではない。
その赤剥けの心に配慮しない無神経の方。

私たち親が分かって欲しいのは、そのことなのに、
それだけのことが、どうしてこんなに伝わらないのだろう……?

ずっと、そのことを考え続けている。

         ――――――――

母性神話や障害児の母親に対する美化が
子育てや介護の負担に苦しむ母親に、悲鳴の口封じになっているということについて

私たちは「しんどいけど可愛い」という順番でしか、ものを言うことを許されない。
そろそろ「可愛いけど、しんどい」という順番で、ものを言い始めてもいいのではないか。
という表現で伝えようとしたことがある。

もちろん諸々の周辺的解説付きで、ずっと前に文章にしたものだけど、数年前に
ある精神障害者の地域生活支援センターの職員さんたちと
子育て支援について話していた時に
同じ文脈でこの表現を使ったことがあった。

その場にいた子育て中の女性スタッフは「それ、すごく分かる」と涙を浮かべ、
我が子の子育てを妻に任せている男性スタッフは反発もあらわに
「なぜ言葉の順番の問題なのか、分からない」と首をかしげた。

分かって欲しい、と一心に念じて言葉に乗せる思いは
すでに同じ思いを知っている人には、まっすぐに伝わっていくのに
分かっていないからこそ一番分かってもらいたい相手の心には届かない。

子育て支援の必要を感じてその議論の場を設定した、
精神障害者支援について素晴らしい見識と業績を持った支援のプロにすら伝わらない。

むしろ心よりも手前に張り巡らされた厚い壁に跳ね返されてしまう。

いつも、そう感じるのは、どうしてなのだろう。
ずっと考えている。

         ―――――――――
 
差別を受ける立場から差別する側に対して異議申し立てが行われた場合に、
それが「言葉の言い替え」や「政治的に正しい言動」の次元に矮小化されてしまって、
「なんで言葉や声しか届かないのだろう。心が届かないのだろう」と
異議申し立ての声を上げた側は歯噛みするほどもどかしい思いをする……というのは
実はよくある話なのだろうと思う。

本当に、スタノヴィッチの解説のように
進化の過程で組み込まれた自律的認知系TASSを
それとは独立して働く分析的認知系によって乗り越えることで
この問題は解決できるのだろうか。

他者の人生の一回性や当事者性を理解することを拒絶するのがTASSだとして、
分析的な思考によって、それは乗り越えられるのだろうか。

他者の痛みをリアルに想像することは難しいし、
できるとしても、せいぜい所詮、想像することだけではないのだろうか。
そもそも、その「想像」は本当に可能なのだろうか。

……と、こびと症を見た時の違和感を分析的思考で乗り越えよ、とする
スタノヴィッチの解説に引っかかって、実は3日ほど、このことばかり考えていた。

で、とりあえず、たいしたことに思い至ったわけじゃなくて、
実はただ当初のスタノヴィッチ説を再確認しただけなのだけど、

そうか、彼が乗り越えろと言っているのは、
こびと症の人を見た時の違和感そのものではなくて、
違和感があるのは事実だから仕方がないだろうと、そこで終わる態度なのだ、と。

人生の一回性や当事者性も他者はリアルに体験することはできない。
つまり他者の痛みを直に自分が経験することはできない。
その感覚の限界は変えようがない。

スタノヴィッチが言っているのは、
「その変えようのなさをどうするか」という問いではなく、
「その変えようのなさを前に自分はどうするか」という問いこそが問題なのだ……なんだな、と。

そう考えれば、
せめて「歩かない」の前に詫びてみようかと考えてくれたドクターたちは
少なくとも分析的思考で努力をしてくれたということになる。

しかも、あの当時、ふんぞり返って患者にも看護師にも平気で暴言を吐き、
手術室で看護師のやることが気に入らなければメスが飛んだという逸話すらある医師が
患者の母親に「申し訳ないけど」と、とりあえず詫びようと考え、
それを若手の医師らにも指導・徹底してくれたのだとしたら、
それは、ずいぶん落差の大きなジャンプだったことだろう。

その努力を努力と認めずに「分かってないッ」と否定したのは
今度はこちらの分析的思考が不足していたのかもしれない。

「ああ、少なくとも努力をしてもらえたのだ」と捉えることができれば、
もう少し、その先を分かってもらおうと私も働きかけることができたのかもしれない。

「なぜ順番の問題になるのか分からない」と首をかしげた男性に、
それは順番の問題ではないのだと辛抱強く説明し、
「分からない」で終わるのは、そこでドアを閉めることですよ、と
働きかけることができたのかもしれない。

そこで「やっぱり男には伝わらない」と諦めて黙ったのは
私もそこでドアを閉めてしまったのだろう。

20数年間の医療との付き合いで
私の中には医療や医師に対する偏見がかなり強固に出来上がって
それこそTASS的な反応を示してしまうところに至ってしまったけど、

障害のある子どもの母親として
自分が体験した痛みや、今も自分のうちにある思いを伝えるための言葉を
やっぱり自分なりに探し続けてみる以外にはないのだろうな、と改めて思う。

アナバチにならないための自分なりの方策として。

そして重症障害児・者の認知能力についても

「分からないと証明できない」ことは
「分からないと証明できた」のと同じではない、
依然として「分かっているかもしれないし、分かっていないかもしれない」なのであれば、
その人への侵襲を検討する際には「分かっているかもしれない」を前提にすることが
倫理的な判断というものではないか、とも主張し続けていくことにしよう。

ちょっと大げさだけど、
私たちをアナバチ化しようとするNBICテクノクラートへの私なりの抵抗として。

どうせ分からないと思われている人たちが実は分かっていることを
証明する必要すら感じないほど確かに“知っている”者として。
2009.05.30 / Top↑
前のエントリーの続きになります。


もう1つ、スタノヴィッチが挙げた2つの認知系のせめぎあいの例で
「お、面白い」と思ったのは、

進化的に都合がよいように組み込まれた自律的認知系TASSでは
正方向の情報は受け入れやすく、負の方向の情報は受け入れにくい、という話。

「AはBである」という情報には目が向きやすいし飲み込みやすいのだけど、
「AはBではない」という情報には目が向きにくく、
提示されても前者ほどには、すんなり飲み込めない。

なるほど、だから、一般大衆を科学とテクノの簡単解決でイケイケに乗せていって
その方向自体への疑問を抱かせないためには
「このビタミンを飲めば、この病気が予防できる」
「この遺伝子の変異があれば、この病気の確率が高い」
「この研究が進めば、この病気は治る」など
「AはBである」とか「AをすればBになる」というタイプの情報が
次から次へと矢継ぎ早に提供されていくだけでいいわけか……と。

そのイケイケの勢いの中で
「クローン肉が安全でないというエビデンスは見当たらない」といわれれば
「クローン肉は安全ではない」という否定と
「エビデンスは見当たらない」という否定には
TASSが拒否する方向に認知を働かせるものだから、
TASSに受け入れやすい「クローン肉は安全である」という情報に
頭の中で勝手に書き換えられて、

その情報を論理的・分析的・科学的に理解すると、それは実は
「クローン肉は完全には安全でないかもしれない」とか
「クローン肉には完全に安全でない可能性もある」ということでもある……
という事実は頭から消えてしまうのね、きっと……。

重症障害があって言葉で意思を表現することができない人の認知についても

「分かっていることが証明できない」ということは
依然として「分かっているかもしれないし、分かっていないかもしれない」であるに過ぎないのに、
なぜか、そこで「だから分かっていないことが証明できた」かのように飛躍し、
「この人はどうせ分かっていない」と、非常に非科学的な論理にすり替えられてしまう。

それでも、多くの人がその論理の非科学性に気づかずに
医師が「分かっていると証明できないから、この患者は分かっていない」と判断するのは
相手が医師だというだけで科学的なアセスメントなのだと思い込んでしまう。

これも「分かっていることが証明できない」が「AがBではない」タイプの情報であるために
TASSにとって受け入れにくく、したがって

「AでないことがBである」タイプの情報に置き換えられると、
そこに起きている飛躍が見過ごされやすいのかもしれない。

……など、提示される、いわば「人間の認知の隙」みたいなものの事例が
私にとって、すこぶる興味深かったのは、
Ashley事件でみんながたぶらかされてしまったカラクリを
それらがイチイチ説明してくれるようにも思えたから。

Ashley療法論争で
Diekema医師の説明は最初から一貫性がなく矛盾だらけだったのに
世界中の人たちが「どこかおかしい」と感じつつも巧妙に誘導され騙されてしまったのも
もしかしたらD医師が生まれ持っているらしいペテン師の天分というものが、
このような”認知の隙”に付け込むワザに本能的に長けているからかもしれない。

そして、この指摘は、たぶん、当ブログが前から主張している
”ない”研究は”ない”ことが見えなくなってしまう落とし穴にも
まっすぐ通じていくような気がする。

しかし、スタノヴィッチがこの本を書いたのは
自分の頭でものを考え懐疑するという態度を失うのは怖いことなのだぞ、
それでは知的テクノクラートにいいように振り回され利用されてしまうぞ、と警告するためだ。

TASSだけにコントロールされて
単純で硬直的な行動パターンがルーティーンとして定着し
疑問を感じるとか内省するといった柔軟な心の働きを失った状態のことを
誰かが「アナバチ性」と呼んだのだそうな。

餌のコオロギを毒針で麻痺させておいてから
いったん穴に入って中を確認したうえでコオロギを引っ張り込む習性のあるアナバチは、
中に入っている間にコオロギを移動させられると、
入り口まで運んでから、また中に入っていく、
また離しておくと、また入り口まで運んでから中に入っていく。
頭の中が空っぽのアナバチは何度でもそれを繰り返すんだと。

だから、分析的な心でTASSの専横に対抗しようということを
スタノヴィッチは「ロボットの反逆」というのかぁ……。

その辺りにはもっと深い思索があるようだったけど、
私にはここが限界で、白状すると、途中で面倒くさくなって読むのを諦めた。

ただ、彼が反逆しろといっているのは前のエントリーで引用した前書きからすれば、
遺伝子の利己的な思惑に対してのみではなく、たぶん、
TASSに飲み込みやすい話と論法で一般大衆をたぶらかしてアナバチ化・知的プロレタリアート化して
支配・利用・搾取・使い捨て、切捨てにしようと企む知的エリートたちに対してなのだ……
ということが妙に生々しく印象に残った。



2009.05.30 / Top↑
「心は遺伝子の論理で決まるのか -二重過程モデルで見るヒトの合理性―」
キース・E・スタノヴィッチ、椋田直子訳 みすず書房、2008

なぜ読もうと思ったのか、もう覚えていないのだけど、
県立図書館にリクエストしておいたのが、すっかり忘れた頃になって届いたので読んでみた。

もともと無知な文系頭なのだから理解できない部分も沢山ある一方で、
理解できるところには面白い話がゴロゴロしていた。

例によって細部については間違っているところはあると思いますが、
自分なりの捉え方と言葉で大胆かつ雑駁にまとめてみると、
この本の要旨とは

人間は遺伝子が複製を繰り返して生き延びるための乗り物に過ぎないという
ドーキンス理論をベースに、

人間の認知には2つの系があって、
1つは遺伝子が生き延びるために最適な条件を選ぼうとする進化的に適した認知の系で、
これを著者は自律的システムセットTASSなどと呼ぶ。

もう1つが自分という個体にとって最適な条件を
いわば理や知でもって分析的に選ぼうとする認知の系。

で、この2つの系がせめぎあっているために
人間は必ずしも常に合理的な行動をとることができないのだ……という例を
いくつも提示・解説し、その2つのせめぎあいを理解することによって
人間が遺伝子の利己的な利益に屈しない(著者は「ロボットの反逆」と呼ぶ)ためには
後者の系をいかに利用していくべきかを考える……という話。

全体に、この人もまた、心とか情動の問題を置き去りにしたまま
認知とか知能とか合理だけで人間の行動を説明しようとしているのには
ぜんぜんついていけなかったのだけど

2つの系のせめぎあいの例が、いろいろ、めっぽう面白かった。

その中に障害に対する認知の話(P.206-208)があって、
これには目のウロコを1枚落としてもらった。

ジャーナリストのジョン・リチャードソンが書いた
「小さな世界 - こびと症の人々、愛、悩みの真実」という本の中にある
著者とこびと症の女性との手紙での論争の話。

リチャードソンがこびと症の人々の大会に出向いた時に、
参集している彼らの姿をwrong(「変」と訳してあります)と感じたと書いたことから、

こびと症の女性アンドレアがそれを批判し、
それに対してリチャードソンが
「嘘をつきたくなかったからありのままに書いた、
病気の症状への恐れそのものは自然なものだ」と主張。
それから手紙でのやり取りが続くのですが、

「もちろん、ちがっているものを見た第一印象で、いろいろな理由から不安になるのは分かります。──自分自身との違いを怖れるとか、未知のものを怖れるとか。でも、皆それを乗り越えます。……私が知りたいのは、あなたがこの考えを変えるつもりがないのかどうかです。もし、変えるつもりがないのであれば、これ以上文通を続けることはできません」

「こうしたことは、幼い頃にハードワイア接続されています。……美の基準と、その基準から外れる例はつねに存在します。ごく単純な規範的思考です。しかし、外見をまったく見るなというのは、人間をやめろというのと同じことです」

「違いを受け入れるのは、からだを無視するのとはべつのことです。違いが変に思えない状態に到達することなのです」

リチャードソンはやがて
アンドレアが求めているのは単に「政治的に正しい」答えじゃないか、とウンザリし、

「統計の部屋なるものがあったとして、見渡したところ1万5000人が「平均的」体格で、こびと症の人がひとりだとしたら、どちらが変に見えるでしょうか。幼児番組のやさしくて正直な司会者、ミスター・ロジャース流にいうならば、どちらがなじんでいないでしょうか。繰り返しますが、私は「変だ」とはいっていません。「変に見える」といっているのです。最初は。爬虫類なみのこの脳内で。私の、爬虫類なみの脳内で」

著者はここで
リチャードソンが「ハードワイア接続されている」というのは
脳内のTASSだから仕方がないという主張だが
アンドレアは彼に対してTASSを組み替えろと求めているのではないのだ、というのです。

TASSの組み換えなど不可能だということくらいアンドレアにも分かっている、
彼女が求めているのは、TASSを認めてそれと同一視するのではなく、
分析的な心を使ってTASSを乗り越えて欲しい、ということであり、
自分の本能的反応を擁護することに熱心になるあまり、
リチャードソンはアンドレアが望んでいることを正しく理解できなくなっている、と。

私たちが進化の途上にあった時代の環境においては、アンドレアのような人たちが変に見えて、それなりの扱いを受けることだけに生物学的意味があった。しかし、私たちが自分の持てる分析的システムにTASASを制御させるとき、文化は前進する。アンドレアの友人たちと同じように私たちも「第一印象では不安になっても、それを乗り越え」て、「違いが変に見えない状態に到達する」ことができる。ただしそのためには、数世紀をかけて生み出された文化的ツールを使い、分析的心でよく考えることが必要である。



例えば
あのNorman Fostがシアトル子ども病院生命倫理カンファで
「無益な治療」論の正当化に引っ張り出した
「重症児は太古の昔から殺されてきたのだ」という理屈──。

いまだに「自然に任されたら淘汰されたはずの存在」だからと
出生・着床前遺伝子診断を正当化する理屈──。

そういう物言いを念頭において、このスタノヴィッチの解説を
以下の、この本の前書きの最初の数行と合わせて考えると見えてくるものがある。

本書を書こうと思い立ったのは、ある悪夢のような未来像にとりつかれていたからだった。それは、知的エリート層だけが現代科学の持つ意味を理解している、ユートピアならぬ「ディストピア(暗黒郷)」の姿である。悪夢の世界の知的エリート層は、自分たち以外の人間にはこうした意味を理解吸収する力がない、と暗黙のうちに、あるいははっきり言葉にして決め付けている。そのかわり一般の人々には、科学以前の昔から伝えられた物語──概念上の方向展開を強いられず、したがって不安に駆られることもないお伽噺──が与えられる。要するに、社会的、経済的プロレタリアートがいなくなったと思ったらなんのことはない、知的プロレタリアートが登場していた、という科学的唯物論が支配する未来世界のイメージである。

なるほど、むしろTASSで納得しやすい話を持ち出せば
世論は操作しやすいわけか……。

「障害児は太古から殺されてきたのだ」とは、
山森氏が「ベーシック・インカム入門」で書いていた
福祉切捨てに反対する人を黙らせるための恫喝「財源はどうする!」と同じなのですね。

それにしても、この前書きに書かれている科学的唯物論が支配するディストピアって、
トランスニューマニストらが描いてみせる未来図そのものじゃないか……。
2009.05.30 / Top↑