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オーストラリアで実験的に、高学位のナース・プラクティショナーを責任者として、常勤換算で15人職員を擁する簡易診療所に200万ドル投入。年間3万件の診療を行えるのでは、との見込み。(たしかオーストラリアの診療待ちも英国並みに長かったから、その対策?)
http://www.canberratimes.com.au:80/news/local/news/general/heat-on-nurseled-clinic-to-succeed/1521621.aspx?src=enews

あの衝撃の歌姫Susan Boyleさん、例の番組で順調に勝ち進んでおり、土曜日に最終決勝戦に。
http://www.guardian.co.uk/media/2009/may/25/susan-boyle-in-final

自閉症児と家族向けサマー・キャンプ。行動療法中心に。南カリフォルニア。夏休みの間の支援って、日本でも少なくて親子が煮詰まる。
http://www.medicalnewstoday.com:80/articles/151150.php

Obama大統領が胚性幹細胞研究への連邦政府の助成金を解禁して科学者を狂喜させたのもつかの間、NIHが準備中の倫理指針はどうやら厳格なものになりそうで、現在進行中の研究すら最初からやり直すことになる可能性も、と科学者ら懸念。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/24/AR2009052402141.html

昨日もどこかでこの話題は見た。イラクで米兵の自殺が多発しているらしい。昨日見かけたのは「最大の敵は兵士の自殺」みたいなタイトルだった。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/24/AR2009052402142.html

患者が意識のある状態で脳腫瘍を取り除く手術をして、Webcastを通じてその映像をインターネットで公開する……って、なんのため? と思ったら、病院の宣伝だと。その感覚、どこか根本的に間違ってない? 競争に勝ち残ることが何より大事な価値になった医療現場の感覚……。あ、でも慈恵医大青戸病院の事件を思えば、患者にとっても一定の安全保障になるのかな……。いや、やっぱり別問題ですよね。
http://www.nytimes.com/2009/05/25/health/25hospital.html?_r=1&th&emc=th
2009.05.25 / Top↑
かなり前のことになりますが、テレビで
“日本人初のママさん宇宙飛行士”山崎直子さんの記者会見を見ていたら
「ミッションの間、家事はどなたが?」という質問が飛び出したのには
今の時代にまだこんなバカな質問をする男性記者がいるのかと
食事中の箸が思わず口元で止まってしまって、

日本国政府も「男女共同参画型社会」を云々するのなら
まずはこういう時代遅れのメディアの”常識”から教育し直してよね……と考えた。

その数日後、某所において
最近あちこちで話題になっている介護職不足とそれに伴う処遇改善の必要について
現時点で国が考えていることを厚労省の官僚が説明する場面に居合わせた。

その後、3%の介護報酬アップが発表されましたが、
これはそれ以前のこと。

官僚の説明の後に会場の介護職の男性から手が上がって、
「たちまち来年度の介護報酬の改定で報酬が上がるかどうかの議論も
気にはならないわけではないけれど、自分たちとしては
将来的にも介護職として働きながら
子どもを育て家族の介護などもしなければならない。
介護の仕事をしながら、そんなふうに家庭を営んでいけるような
息の長い支援というものも考えてもらいたい」

それに対して、その官僚の回答は
「それは部局が違う。
子育て・介護すなわち家庭と仕事の両立という問題では
女性の子育て支援、就労支援の担当になるので」と、いくつか省内の部局を挙げて
「そちらに問い合わせていただきたい」。

──え? 唖然としてしまった。

子育て支援・介護者支援はすなわち女性支援……って、
本当に日本国厚生労働省としての見解なの──?

それって、アンタの個人的な”常識”じゃないの──?

男女共同参画社会を論じさせたら、この同じ官僚だって多分こんなバカな発言はしないと思う。
介護保険の担当者として介護保険を論じる時にも
「介護は女性の仕事か」と突っ込まれるような失言はしないはず。

だけど、子育て支援は別問題だと、とっさに捉えてしまったのは
縄張り意識の破れ目から彼の個人的な”常識”が覗いてしまったのだろうと思う。

「子育てをしない男を父親とは呼ばない」と、あざといポスターを作った厚労省の官僚が
個人としての腹の中では「でも子育ては、やっぱり女の仕事だから」と
根強い”常識”を温存しつつ、場面によって、その2つのスタンダードを使い分けている。

彼の失言が物語っているのは
介護を巡るダブルスタンダード・美意識の根深さ。

そして、彼の発言を聞いても、
おそらく誰もそれが“官僚の失言”だとは気がつかないことが
この社会におけるダブルスタンダードの根強さを、さらに物語っている。

介護の社会化が言われ、子育て支援が言われ、障害児の親への支援が言われる一方で
「愛情さえあれば子育ても介護も苦にならないはず」との美意識が
無言のうちに社会からの規範として介護者自身に内在化されている。

そんなダブルスタンダードの存在が同時に、
支援を必要とする人から悲鳴を口封じして、
助けを求めるSOSの声を奪っている……と
当ブログはずっと訴えてきました。

そろそろ「子育ても介護も女性の仕事」という”常識”を
本気で捨ててはどうでしょうか。

そして、国は本気になって、男女を問わず、
基本的な家事・育児・介護の能力をきっちりと身につけた大人を育てる教育をする。

そしたら「ウンチのオムツだけは男には替えられない」などと
非科学的なことを言い訳にする男もいなくなるし、

障害のある子どもの子育てを妻に全面的に押し付けておいて
「ボクの面倒はちっとも見てくれないで、妻はグチと文句ばっかり」と幼児並みのタワゴトをほざいて
子育ての責任ごと家庭を放り出すような無責任な男も減る。

男性独居高齢者がろくに料理も掃除もできないからといって
ちょっとやる気にさえなれば無用なはずのヘルパーを派遣する必要もない。

高齢者を虐待する筆頭に上がるのは息子介護者だというのは有名な話で、
男性は家事・介護能力が低いことがストレスになるのが原因だと
よく専門家が分析していることはもちろん、

私はここにはもう1つ、別の要因があると推測していて、それは、
「介護みたいな汚いお世話仕事はもともと女の仕事」だと思い込んできた男性が
いざ自分が介護者役割を担わざるを得なくなった時に、
「なんで男の自分がこんなことをやらないといけないんだ」という不満を
潜在的に抱えているからではないか、

それが
介護のストレスを溜め込んでしまった時に
一気に爆発してしまうのではないか、ということ。

政府が本気で子育て支援や介護費用の削減を考えるのなら
国民全員が性別を問わず大人になったら誰でもある程度の
家事、子育て、介護ができるような教育を整備し
「家事も子育ても介護も女の仕事」という常識を根絶やしにすべく
意識啓発に努めるのが一番の早道なのでは──?

そういう社会なら、
夫婦や家族がともに子育てや介護の負担を担えるキャパシティがまず今より大きくなるし、

誰もがすることであるだけに社会全体に負担感がある程度共有・理解されて
非現実的な理想像や美意識の押し付けが解消され、
負担に対する社会の風通しもよくなって、

苦しい時には苦しいと率直に悲鳴を上げ、
自責や罪悪感に縛られることなくSOSを出して助けを求めることができる。

それは子どもや高齢者への虐待の防止にも繋がる……。

そんな気がするのですが。


2009.05.25 / Top↑
まずは、お知らせ

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東京大学READ「経済と障害の研究」公開講座

ベーシック・インカムの課題と可能性
::::::::::::::::::::

日時:7月4日(土)13時―17時
場所:東京大学本郷キャンパス 経済学研究科棟 第1教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_01_j.html

講演・山森亮さん(『ベーシック・インカム入門』著者、同志社大学教員、経済学)
「ベーシック・インカムの課題と可能性:
  障害者運動の思想から何を引き継げるか」

課題提起
川越敏司さん(はこだて未来大学教員、経済学)
澤田康幸さん(東京大学教員、経済学)

情報保障
手話通訳・文字通訳あり
点字レジュメ、拡大文字レジュメは事前にお問い合わせください。

講座終了後に懇親会を予定しています。懇親会への参加を希望される方は、事前にお
申し込みください。

懇親会申込・お問い合わせ先
read.koukai@gamil.com

主催・東京大学READ「経済と障害の研究」
http://www.read-tu.jp/index/


山森氏の「ベーシックインカム入門」は何ヶ月か前に読んだ。

私はつい最近まで何も知らなかったので、
ネオリベ社会の行き詰まりで出てきた概念だとばかり思っていたベーシックインカム(BI)が
実は200年もの歴史を持つ思想だということや、

(米国キング牧師らの公民権運動や
イタリアのフェミニズムの運動や
日本の青い芝の会の活動が求めていたのもBIだとか)

これまで経済学の中でBIがどのように議論されてきたかという背景、
日本の福祉施策が実は就労促進のワークフェアでしかないことや
福祉国家が宿命的に持っている命の序列化と切り捨ての指摘、
それゆえにBIが持つ今日的意義など、とても興味深かった。

BIとは何ぞや、という話は、
初めてBI本を読んでみた時のエントリーがこちらに。


特に介護の問題と照らして個人的に印象的だったのは、
イタリア・パドアの女性たちが家事労働に賃金を求めて1971年に出した文書の一節で、

家事労働は資本主義社会内部に未だ存在する唯一の奴隷労働である。(中略)

いわゆる「家庭内」労働が女性に「自然に」帰属する属性であるという考え方を私たち女性は拒否する。それゆえ主婦への賃金の支払いのような目的を拒否する。反対に、はっきりと言おう。家の掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫、料理、子どもの世話、年寄りと病人の介護、これら女性によって今まで行われてきた全ての労働は、他と同様の労働であると。これらは男性によっても女性によっても等しく担われうるし、家庭というゲットーに結び付けられる必然性はない。

私たちはまた、これらの問題(子ども、年寄り、病人)のいくつかを、国家によるゲットーを作ることで解決しようとする資本主義的あるいは改良主義的試みも拒否する。

これは日本の介護保険について
樋口恵子さんたち「高齢社会を良くする女性の会」が今なお主張し続けていることだ。

それでも介護の社会化を謳った介護保険が
わずか数年で「財源がもたない」という話になれば
社会化どころかノーマライゼーションだの脱施設だのという美名の下に
介護負担はまたぞろ家庭に(つまり女性に)押し戻されて
もはや同居家族がいればヘルパーの生活援助も認められない。

それから終末期医療や障害児・者への医療と教育で言われる「社会的コスト」に関しては、

ノーベル経済学者賞を受賞した経済学者のステイグリッツはアメリカを例にとり、財政赤字の責を福祉などの社会扶助支出に帰するのは誤解に基づく議論だと指摘しているが、日本の社会扶助支出はGDP比でそのアメリカよりも低いのである。日本で、私たちがもし財政再建のため福祉支出を削らなくてはいけないと思い込まされているとするならば、それは「誤解」か、あるいは何か別のことへの予算支出を隠ぺいするためのスケープゴートに福祉がされているに過ぎない。(P. 40)

奇妙なのは、お金がかかる話すべてに財源をどうするかという質問がされるわけではないことである。国会の会期が延長されても、あるいは国会を解散して総選挙をやっても、核武装をしようと思っても、銀行に公的資金を投入するのにも、年金記録を照合するのにも、すべてお金がかかる。だからといってこうしたケースでは「財源はどうする!」と詰め寄られることはまずない。

こうした中で特定の話題(生活保護などの福祉給付やベーシックインカムなど)にのみ財源問題が持ち出されるあり方を見ていると、財源の議論を持ち出す動機は往々にして財源をどう調達するかについて議論したいのではなく、単に相手を黙らせたいだけであると思わざるを得ない。(P.222)


まったく同じことが医療のコストについても言えるはずだと
当ブログでもずっと考えてきた。



本当に医療費を押し上げているのは
常に数値が示されて「コストがかかる」とあげつらわれる
終末期の患者さんたちや障害児・者なのか。

その一方に、
莫大なコストがかかるはずなのにコスト計算がされることのない
最先端医療やトランスヒューマニスティックな研究があるのではないのか──。
2009.05.25 / Top↑