2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
英国人の著名指揮者夫婦のDignitasでの自殺に関する日本語の共同通信報道。英国で自殺幇助合法化議論が広がっていることについて何の言及も無い。Dignitasは「スイスの専門病院」だそうな。あ、でも、報道するだけはマシなのか……。日本の報道はゼッタイおかしい。
http://mediajam.info/topic/971976

上記指揮者夫妻の自殺についてGuardianコラムニストのエッセイ。ロマンチックだけど自殺幇助は支持しない、と。冒頭の辺りを読むと、日本で江藤淳氏の自殺の時の様々な人たちの反応と同じ匂いがする。著名な文化人の自殺は、なぜか「自殺」ではなく「自死」と呼ばれ、一般人の自殺よりも高尚なもののように称揚され、美化される。個人的に思い入れのある人が、そう感じることはあるだろうと思う。けれどメディアがこぞって、そういう思い入れをして「自死」と書き、誰も「自殺」という言葉を使わないことに、ものすごい違和感があった。あの時の匂い。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jul/16/assisted-suicide-edward-downes

カナダの尊厳死法案、議会での「最初のステップを通過」。具体的にどういうステップか、ちょっとよく分からないのだけど、来月かその翌月くらいに下院での審議の可能性。もっとも、ここでも「選挙が無ければ」との条件付きで。
http://www.vancouversun.com/news/Euthanasia+bill+passes+first+step/1672857/story.html

英国で豚インフルエンザの患者が1週間で6倍に急増。
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jul/15/swine-flu-cases-sixfold-increase

英国ソーシャルケア緑書に対するアルツハイマー病協会のコメント。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/157534.php

介護者との親密な関係がアルツハイマー病の進行を遅らせる。こういう研究をもっとして欲しい。科学とテクノの簡単解決ばかりじゃなくて。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/157521.php
2009.07.16 / Top↑
当時は英語ニュースをチェックし始めて間もなくで
まだ何もかもが目新しかった頃のニュースだったのと、
とてもきれいな人だったので、
まだブログを始める前だったけど、
この人のニュースはくっきりと記憶にある。

2006年に66歳で双子を産んで、当時世界で最高齢の出産としてニュースになった。
もちろん精子も卵子も匿名ドナーによるもの。

シングル・マザーだった。

家を売って、米国で生殖補助医療を受ける資金を作り、
医師に55歳だと年齢を偽ってまで子どもを産んだ。

その Maria Carmen del Bousada de Laraさんが癌で亡くなった。69歳。

以下の記事によると、2006年に双子を産む前に
腫瘍があることは分かっていたとのこと。

孤児となった2人の養育は、彼らの従兄弟(現在30~40代)などに託される見込みで、
養育費についてはマスコミとの高額な契約があるらしい。

スペインでは、現在、生殖補助医療には年齢制限がないが
必要だとの声が上がっている。



この人に生殖補助医療で子どもを産ませたカリフォルニアの医師は
本当の年齢を知らなかった、知っていたらやらなかった、と言っていますが、

Maria Carmenさんの世界最高齢出産の記録は
確か、そのすぐ後に破られたという記憶があります。

また、それとは別に、
去年の暮れ、インドで70歳の女性が出産したニュースがありました。



「科学とテクノの閉じた世界の論理」という表現を
ここしばらく、このブログで使っているのですが、
これも、その1例ではないでしょうか?

世界のどこかで66歳の出産に成功した医師がいるとなれば、
よし、じゃぁ、次は自分の手で、70歳の出産を成し遂げてみせよう……と。

そして、どこかで自分のクリニックよりも先に70歳の出産が行われたと聞けば、
70歳をはるかに超えて産みたい患者がどこかにいないか……と心待ちにするような……。

出産が無事に行われれば、それでいいのであって、
母体にどんな無理を強いようと、それは患者の自己選択だし
その後の子どもたちがどうなろうと、親の自己責任だし
そんなことは自分の業績には関係ないわけだし、

例えば、
ドナーの家族がその後どういう葛藤を抱えているかとか、
生体肝・腎移植のドナーのその後の体調がどうかということは
移植医としての自分の業績には無関係だから、さほど興味も無く、
だから調査研究する必要など感じない移植医のように。

そして例えば、Johns Hopkins大学病院が2005年から
4方向、5方向、6方向の同時生体間腎臓移植に相次いでチャレンジし成功させ
ついにこのたび、いくつもの病院を巻き込んで8方向に成功してみせたように。

科学とテクノの専門分野の中の人だけに共有されている論理──。
前に、前に、先へ、とにかく先へ──。
今の地平よりも更なる高みに──。
チャレンジ。そして記録――。
誰よりも早く──。

だからこそ、そういう閉じた世界の論理に対して

「でも、生まれてくる子どもの福祉は? 権利は?
 それは本当に倫理にもとることではないの?
 それが社会全体に直接、間接に及ぼす影響は?」と

もっと広い世界の常識・見識・知恵でもって慎重を求めブレーキをかけるのが
倫理規範であり、法だろうと思うのに……。
2009.07.16 / Top↑
生命倫理会議
参議院A案可決・成立に対する緊急声明

2009年7月13日

生命倫理会議 代表 東京海洋大学教授 小松美彦



 生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。去る5月12日に71名(68名+追加3名)の連名を以て「臓器移植法改定に関する緊急声明」を公表し、厚生労働記者クラブにおいて記者会見を行いました。またその後も、「臓器移植法改定に関する徹底審議の要望」(連名者71名)を公表し、ほぼ全ての衆議院議員および参議院議員に送付いたしました。このようにしてこの間、私たちは生命倫理に関わる専門家の立場から、臓器移植法改定に関して討究されるべき諸問題を指摘し、審議の徹底を求めてまいりました(詳細は http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/ )。
 しかるに衆議院では、現行法制定時にも及ばない短時間の議論が行われただけで、主に国会議員諸氏の死生観なるものに委ねるという形で採決がなされ、しかもA案という最も危険な法案が可決されました。私たちはこれに対して、同日6月18日に「緊急声明」(連名者71名)を公表するとともに再び記者会見を行い、参議院では徹底審議がなされることを要望いたしました。しかしながら本日、その最も危険なA案が参議院においても可決され、同案は成立を見ました。そのうえ、参議院は「良識の府」と言われるにもかかわらず、審議時間は衆議院と同じくわずか8時間にすぎず、仮にも徹底審議がなされたとは言い難い有様で、法改定に関して討究されるべき諸問題は依然として放置されたままでした。
 私たち「生命倫理会議」は臓器移植法改定を、脳死患者を初めとした人の生死に関わる問題として、また日本の文化・社会の未来を大きく左右する問題として考えてまいりました。そこでA案成立に対して、満腔の憤怒と抗議の意を込めて、以下の見解を表明いたします。


1)厳密な脳死判定後にも長期脳死の実例がある、という事実が直視されなかった。
 参議院の参考人質疑で森岡正博参考人が指摘したように、無呼吸テストを厳密に実施して脳死と判定された子供のうち、3割以上が長期脳死になっていること、2割は100日以上も心臓が動いていることが、ほかならぬ旧厚生省研究班の論文に明記されている。にもかかわらず、A案提出者はこの事実を長らく無視し、長期脳死は「法的脳死」ではないと主張してきた。これは脳死に関わる事実の重大な歪曲である。その後、参議院厚労委においてはA案提案者もこの事実を認めざるをえなくなったが、その修正が参議院本会議において徹底されないままA案が可決された。このことは国民を欺くものであると言わざるをえない。


2)ドナーとなる子供への虐待の有無を判別する難しさが認識されなかった。
 近年の日本では、子供の虐待が深刻な問題になっている。A案では、子供の脳死判定と臓器提供が親の代諾だけで認められる以上、それらは虐待の証拠隠滅になる可能性があり、子供の人権がさらに侵害される可能性がある。しかも日本小児科学会の調査によれば、大半の小児科医は虐待の判別に関して肯定的な見解を示していない。子供の脳死判定自体が困難であるうえに、虐待の有無を判別することが困難であるにもかかわらず、国会はA案を成立させた。それゆえ今後、実際に重大な人権侵害が起こる危険性が高いと考えられるが、その時には今日を振り返って、法改定の責任が問われるだろう。


3)「脳死=人の死」であるとは科学的に立証できていない、という最も重大な事実が省みられなかった。
 近年では移植大国のアメリカにおいてすら、有機的統合性を核とする「脳死=人の死」という論理は破綻したと認めざるをえなくなってきている。この点で、体温を保ち、脈を打ち、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せ、成長し続ける脳死者を「死人」とすることに、少なからぬ人々が違和感を覚えるのは、単なる感情の問題ではなく、非科学的なことでもない。このように科学的にも「人の死」とできない状態を、A案は政治と法によって「人の死」としてしまった。日本社会で今後、「命の尊さ」といった言葉はもはや説得力を失ってしまうだろう。


4) WHOの新指針の内容を十分に確認せずに、事実に基づいた議論がなされなかった。
 巷間で喧伝されてきたのとは異なり、WHOの新指針には「海外渡航移植の制限」や「移植臓器の自給自足」の方針は謳われていない。それどころかA案は、WHOが求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反する恐れがある。加えて、WHOがA案を推奨しているという事実も存在しない。A案可決・成立は、こうした事実の誤認や歪曲に基づいていた疑いがある。国会の議論に対する国民の信頼は、大きく損なわれざるをえないだろう。


5)ドナーを増やすことが国民全体への責務に反することにはならないか、熟慮されなかった。
 「臓器不足」とは「脳死者不足」にほかならない。しかも交通事故が減り、救急医療体制が再建・整備されれば、「脳死者」もまた減ることが予想される。国民が安全に、安心して暮らせる社会を実現することは、政府および国会が果たすべき本来の務めであるはずだが、それは「脳死者=ドナー」を増やすこととは両立し難い。その意味で、「臓器不足の解消」のために法改定したことは、国民全体の安全・安心は二の次であると宣言したことに等しいのではないか。


6)移植に代わる医療の存在が患者・国民に周知され、また国によって援助されるべきである。
 現在、心臓移植に限っても、移植適応とされる患者への心臓弁形成術・ペースメーカー治療・バチスタ手術などの成功例が出ている。移植をしなくても助かる道が開かれつつある以上、第一により多くの患者・国民がその恩恵に与れるような施策が講じられるべきであるし、それは移植適応とされる患者の治療と、国民全体の安全・安心とを両立させうる方法でもあるだろう。その可能性をさらに広げることこそが政府・国会の責務のはずである。「臓器不足の解消」という目標自体が再考され、新たな取り組みが模索されるべきである。この点は、法改定が確定した現在でも全く変わることはない。


7)現行「臓器移植法」に定められた法改定条件が遵守されなかった。
 現行の「臓器移植法」では、「法律の施行状況を勘案し、その全般について検討が加えられ」ることが法改定の大前提である(附則第二条、下線部引用者)。しかも、これまでの81人の脳死判定と臓器摘出には、法律・ガイドラインなどに対する違反のあった疑いが残る。ところが衆議院でも参議院でも、この点を精査・検討しないままに採決が行われた。さらにA案は、臓器提供の際の「本人同意」さえ不要としている点で現行法の基本理念まで改廃するものであるうえに、日本の法制史上初めて「人の死」を規定したものであると見なされうる。その意味でA案は、「見直し」の名の下に「新法制定」を行った蓋然性が高く、国民に対して著しく誠実さを欠いた行為と言わざるをえない。


 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねたり、法律問題にすり替えたりするべきものではありません。しかるに、今回のA案の可決・成立は、上に述べたように、倫理的にはもとより法的・政治的にも、社会的にも、深刻な諸問題を招くことが危惧されてなりません。特に一点だけ述べるなら、A案提案者は、「法的脳死判定によって脳死が確定しても、臓器提供の意思を撤回すれば脳死者への保険治療を継続する」旨を国会で明言されました。対して「現行法・附則十一条」には、保険適用の期間をめぐって「当分の間」なる言葉が挿入されていますが、A案提案者と国会はかかる言明を「当分の間」に終わらせることなく、永続墨守されることを強く要望いたします。なぜなら、保険適用がはずされ、人工呼吸器がはずされるときこそが、脳死者の息の根を止め、家族との絆を引き裂くときに他ならないからです。


「生命倫理会議緊急声明」連名者(71名)
旭 洋一郎(長野大学教授・障害者福祉論)
天田城介(立命館大学大学院准教授・社会学)
綾部広則(早稲田大学准教授・科学技術論)
安藤泰至(鳥取大学准教授・宗教学)
伊古田 理(千葉工業大学准教授・哲学)
石田秀実(元九州国際大学教授・哲学)
石塚正英(東京電機大学教授・史的情報社会論)
市野川容孝(東京大学大学院教授・社会学)
宇城輝人(福井県立大学准教授・社会学)
大澤真幸(京都大学大学院教授・社会学)
大庭 健(専修大学教授・倫理学)
大林雅之(東洋英和女学院大学教授・バイオエシックス)
冲永隆子(帝京大学専任講師・生命倫理学)
荻野美穂(同志社大学大学院教授・歴史学)
重田園江(明治大学准教授・現代思想)
香川知晶(山梨大学大学院教授・哲学)
柿原 泰(東京海洋大学准教授・科学技術史)
加藤茂生(早稲田大学専任講師・科学史科学論)
加藤秀一(明治学院大学教授・社会学)
金森 修(東京大学大学院教授・フランス哲学)
川本隆史(東京大学大学院教授・倫理学)
鬼頭秀一(東京大学大学院教授・科学技術社会論)
木名瀬高嗣(東京理科大学専任講師・文化人類学)
木原英逸(国士舘大学教授・科学技術論)
木村 敏(京都大学名誉教授・精神医学)
空閑厚樹(立教大学准教授・生命倫理学)
蔵田伸雄(北海道大学大学院教授・応用倫理学)
倉持 武(松本歯科大学教授・哲学)
栗原 彬(立命館大学特別招聘教授・政治社会学)
小泉義之(立命館大学教授・哲学)
小松奈美子(武蔵野大学教授・生命倫理学)
小松真理子(帝京大学准教授・科学史科学論)
小松美彦(東京海洋大学教授・科学史科学論)
小柳正弘(琉球大学教授・社会哲学)
最首 悟(和光大学名誉教授・〈いのち〉学)
齋藤純一(早稲田大学学術院教授・政治理論)
斎藤 光(京都精華大学教授・性科学史)
佐藤憲一(千葉工業大学准教授・基礎法学)
篠田真理子(恵泉女学園大学准教授・環境思想史)
篠原睦治(和光大学名誉教授・臨床心理学)
清水哲郎(東京大学大学院特任教授・死生学)
愼 蒼健(東京理科大学准教授・科学史科学論)
鈴木晃仁(慶應義塾大学教授・医学史)
高草木光一(慶應義塾大学経済学部教授・社会思想史)
高田文英(龍谷大学専任講師・真宗学)
竹内章郎(岐阜大学教授・社会哲学)
竹内整一(東京大学大学院教授・倫理学)
武田 徹(恵泉女学園大学教授・メディア論)
高橋文彦(明治学院大学教授・法哲学)
田中智彦(東京医科歯科大学准教授・政治思想)
田村公江(龍谷大学教授・倫理学)
塚原東吾(神戸大学大学院教授・テクノ文明論)
柘植あづみ(明治学院大学教授・医療人類学)
土屋貴志(大阪市立大学大学院准教授・倫理学)
爪田一壽(武蔵野大学専任講師・仏教学)
土井健司(関西学院大学教授・キリスト教神学)
堂前雅史(和光大学教授・科学技術社会論)
徳永哲也(長野大学教授・哲学)
戸田 清(長崎大学教授・環境社会学)
直江清隆(東北大学大学院准教授・哲学)
永澤 哲(京都文教大学准教授・宗教学)
中島隆博(東京大学大学院准教授・中国哲学)
林 真理(工学院大学教授・科学史科学論)
原 塑(東北大学大学院准教授・科学哲学)
廣野喜幸(東京大学大学院准教授・科学史科学論)
細見和之(大阪府立大学教授・ドイツ思想)
森 幸也(山梨学院大学准教授・科学史)
村岡 潔(佛教大学教授・医学概論)
坂野 徹(日本大学准教授・科学史科学論)
森岡正博(大阪府立大学教授・生命倫理学)
吉本秀之(東京外国語大学教授・科学思想史)


「命の尊さ」といった言葉は、もはや説得力を失ってしまうだろう。

 満腔の憤怒――。

 
2009.07.16 / Top↑
“Ashley療法”論争の当初から一貫して批判を続けている
障害当事者Bad CrippleことWilliam Peace氏が
このたびのDiekema医師らの成長抑制論文を読み、
長いエントリーをアップしています。

Growth Attenuation: Ethics of Treatment
Bad Cripple, July 15, 2009


重症児の親を助けてあげようとの医師らの善意を疑うものではないが、
しかし、社会が障害者の権利を認めてこなかった文化の問題は
欠陥を修正するためにあらゆる手段を尽くそうとする医学の論理では解決できない
と主張しています。

主な批判のポイントは以下の6点で、

1.曖昧な定義で重症の認知障害のある人とそうでない人を区別し、
前者の欠陥を“修正する”ためにあらゆる手段を尽くそうとするものであり、
社会が障害者の市民権を認めてこなかったという問題に対して、医学で解決を図ろうとしている。

2.重症の認知障害が永続するとの誤診の可能性。

3.論文は別問題としているが、対象児の選別プロセスそのものが問題の本質。
 (論文の「重症の認知障害」の定義は単なるアリバイでありマジックであるとの
私の英語ブログの一節が引用されています)

4.何もしないことは最良の結果を生まないと論文は主張するが、
何もしないことは害もなさない。害をなさないことこそ医師がすべきことのはず。

5.これまでの成長抑制は女児に限られており、その歴史と安全性には批判もある。

6.セーフガードは十分にあるとの主張は、優生手術に見られるように、
これまでの障害者の身体に対する侵襲の歴史を省みれば、事実ではない。
このような歴史を無視することそのものが危険な前例となる。


私は、ここしばらく尊厳の問題、法と科学とテクノの問題にこだわっているので、
特に以下の部分が印象的だった。

I cannot help but conclude a specific population or type of child is being selected and considered for growth attenuation while all others are automatically dismissed. This leads me to ask why is it ethically acceptable to attenuate the growth of children with a cognitive disability but no other human beings? What does this mean culturally? To me, this is a strong indication that in spite of what the law may state people with disabilities are not valued.

特定の障害像の子どもだけが選り分けられて成長抑制の対象となり、その他の子どもたちは無条件に対象外となるものと結論せざるを得ない。では、認知障害のある子どもだけが成長抑制の対象となり、その他の人が対象とならないことがどうして倫理的に許容されるのかを問いたい。文化という点から考えて、これはいったいどういうことなのだろう? 私にとっては、これこそ法の規定にもかかわらず、障害者が尊重されていないことの証である。

法の規定の部分で、what the law may state と、
なぜ may が入っているのか、そのあたりのニュアンスが分からないのだけど、

障害の有無を問わず、全ての人間の基本的人権が法によって保障されているとしたら、
なぜ医療がそこに勝手な線を引くことが許されるのか、という点は
私もAshley事件に感じる大きな疑問の1つ。

生命倫理で持ち出されてくる「最善の利益」だとか「利益 vsコストまたは害」の検討とは
あくまで科学とテクノの適用を前提にするから、そこから話が始まるのであって、
実はその前提以前の議論がご都合主義的に省略されてしまっているのではないか、ということは
この事件の当初からずっと考えてきたのですが、

最近、「尊厳」や「法と科学とテクノ」について、
無知なまま、ぐるぐる考えていることとして、

「尊厳」は実は、その省略されている段階の議論にこそ関わっているんじゃないか、ということ。

でも、あまりにも科学とテクノ万能の幻想にたぶらかされ、操られて、
一般の我々までが科学やテクノの分野の人たちと同じようなものの見方を
無意識のうちに共有させられてしまっているので
そのことに気づけないのではないか、ということ。

そのために、人間の「尊厳」までをも
まず科学とテクノの適用を前提に据えた上で、
そこから議論をスタートすることに抵抗も疑問も抱かなくなっているのではないか。

臓器移植という技術がまず存在し、それは推進するべきものとの前提があり、
そこから人の死を決めなければならない事態と議論が発生するために、
その議論が本来あるべき尊厳や人権という観点から始まるのではなく
移植件数を増やすことを目的とした小手先の議論に限局されてしまうことに
違和感を抱く人がこんなにも少なくなってしまったように。

しかし、科学とテクノロジーはそれ自体の論理によって
本来、自己増殖的に前に前にと進む性格のものだということは
Peace氏がいうように歴史が証明している。

それだけに、科学とテクノが自らの閉じた世界の論理だけで独善的な暴走をしないように
社会はもっと広い視野から規制をかけてきたはず。

そのことに、一般の我々はそろそろ目覚めなければならないんじゃないのか……
科学とテクノの万能幻想の催眠術から逃れるために……

ということを今、ぐるぐると考えている。




2009.07.16 / Top↑