それらが警告しているのは主に以下の2点のようです。
②製薬会社の法令遵守の問題(臨床試験の不十分または不透明)
不用意に無認可の向精神薬が処方されるケースが英国で急増している。
18歳未満にこうした薬が処方される割合は倍になったという調査結果。
中には2歳でADHDだと診断されて、これらの薬を処方された例も。
相当に深刻そうです。
子どもへ投与された場合の効果や安全性については短期の試験しかされておらず、
しかし長期の影響、特に発達期の子どもたちの脳への影響については分かっていない」
しかし、米国のFDAに当たるMHRA (the Medicines and Healthcare products Regulatory Agency)は
「薬の適応については処方する医師が判断すること。副作用は詳しくモニターされている」と。
誰しも身近に実感しているのではないかと思うのだけれど、
実は逆に我々は足をすくわれているんじゃないかという気がする。
薬とテクノロジーに実は人類はじわじわと蝕まれていくんじゃないのか――?
実は寿命を延ばす効果がないばかりか
逆に命を縮めているかも……
「ビタミンを摂取するならサプリで摂るよりも
果物と野菜をしっかり食べなさいということですね」
その病気や障害についての詳細な情報が母親に提供されるよう求める法案が
米国議会の関連委員会を通過しました。
By Wesley Smith
The Weekly Standard, March 31, 2008
一方で障害者への差別をなくす努力をしつつ、
その反面でダウン症をはじめとする障害や病気を持った子どもの排除に忙しい
米国社会の障害者に対するダブルスタンダードと、
医師らによる否定的な情報提供と中絶への誘導が行われているのではないか
という疑義。
子どもとの暮らしの中から語るポジティブな声がそうした情報の中に
しっかり含まれていれば9割という数値は変わるのではないか、と。
この法案を提出したEdward Kennedy 上院議員は強固な中絶権支持者で、
共同提出者であるSam Brownback 上院議員は熱心なプロライフであること。
共にこの法案のスポンサーとしてバランスの取れた情報提供の必要を訴えているというのは
なかなか悪くない話ですね。
選別的中絶の問題はその先へ行くと無益な治療法論や、
さらにネオ優生思想の問題へと繋がってもいて、
繋がっているのだということは頭においたうえで、
一つ一つの問題を丁寧に考えていくことが大事なんじゃないでしょうか。
一つ一つの議論での勢いに任せた乱暴な議論によって
充分な検討がなされないままに、
それぞれが影響しあって、なし崩しに
「どうせ障害児だから」という社会の空気がいつのまにか作られていくということ。
この「どうせ重症児だから」という空気であり、
多くの人の発言から聞こえてくる言外の「どうせ」という響きでした。)
ハイテクで人間の病気はほぼ克服できて寿命が飛躍的に延びるとか
難病が間もなく克服されるといった話の華やかさはないけれど、
子どもの障害や病気を知らされた親にネガだけでなくポジも含めた充分な情報提供を行うという、
一見地味だけれど本当はとても大切なことを1つずつしっかり抑えていくという努力が
やはり忘れられてはならないのだと思う。
いきなり小泉元首相が国会で演説している映像にぶつかって面食らった。
後期高齢者医療制度ができた当時、政府がいかに説明もせず強引に決めてしまったか
国会や委員会での質疑の映像を編集して流しているところだった。
憤りで体が硬直した。
今の高齢者はカネ持ってるし、とね。
それをメディアが知らなかったとは言わせない。
メディアはちゃんと知っていたはずだし、
今いろんな形で起こっている医療と福祉の崩壊は、
当時から既に多くの人に予想も懸念もされていたというのに、
医療制度改悪や介護保険改悪の動向も障害者自立支援法案もロクに報道せず、
オモシロおかしい選挙に仕立て上げて小泉政権の追い風を作ったのは
あなたたちメディアではないのか。
日本中から危機感を募らせた障害者らが不自由な身体を国会へ運び
国会議事堂周辺に布団を持ち込んでまで座り込んだ。
彼らの存在をメディアが知らなかったとは言わせない。
それでも彼らの映像を流すことも、その切実な訴えをきちんと報道することもせず、
ホリエモンと彼の行く先々に群がる人々を
あなたたちは、ひたすら追いかけ続けたのではなかったか。
高齢者らが天引きされた年金を受け取って混乱をきたし、怒りが頂点に達した日を待って
当時の委員会での強引な採決場面を放送し、
「こうして決められた制度は許せない」、「廃止すべき」と嵩にかかって叩く。
老人は、また余分にゼニをとられることに怒っているのです。
今日もらえるはずの年金が減っていたことに怒った高齢者は、
やがて今度はこれまで受けることができていたはずの医療が
新制度に変わって受けられなくなるという事態にも直面して、
さらに腹を立てることになる──。
あなたたちメディアにあるのではないのか。
「あ、やっぱり、こういう話が出てきたよ……」と嫌な匂いがした。
90年代に使われ始めた薬と治療法のお蔭なのだそうですが、
それをさらに遡る頃から数十年間、
ノルウェイでの出生120万件を追跡調査した結果、
(ただし多胎児は対象に含まれていません)
大人になっても子どもが持てなかったり、
産んでも自分と同じ未熟児になる確率が高いということが分かり、
今後の医療の課題として提起している……という記事がAPに。
「大半の未熟児は健康に育ち、正常に子どもを産む」と。
ごく一部の死亡数を比べると月満ちて生まれた場合よりも死亡率が高い――。
女の子より男の子で高い――。
記事は「出生時の損傷と小児癌が一因だろう」と。
ごく一部の子どもがいないケースや未熟児だったケースを
月満ちて生まれた人の場合と比べるとどちらも高かった――。
「大半は正常に成長し正常に親になる」という事実を無視し、
「どうせ子どものうちに死ぬ確率が高いし、生殖率も低いのだから」
今後どこまで未熟児を助けるべきか課題だ……というのは
論理の飛躍というにも飛ぶ方向がズレているんじゃないでしょうか──?
出生総数の12,8パーセントという高率で未熟児が生まれているのですが、
その理由は生殖医療による多胎児の増加と高齢出産の増加だというのです。
未熟児の行く末を調べてみたら早死にしたり正常な生殖ができない確率が未熟児でなかった人よりも高いから
やっぱり未熟児を助けるのは考えものだ……というのは論理展開がおかしいでしょう。
障害児が生まれる確率を高くするような技術を平気で多用しておきながら、
その一方で障害胎児や障害新生児を排除しようとして様々に理屈をひねるのと
全く同じ話の進め方なのですが、
障害が起こるリスクを上げるような生殖技術の利用をもっと慎重にすべきだし、
未熟児が生まれないように今の生殖医療のあり方を考え直さなければ……、
という方向に向かうのが正しいのでは?
曖昧な表現だったと気づいて一部訂正した時に、
ああ、こういうレトリックの魔術はコワイなぁ……と気づいた。
しかも「大半は正常」という前置き付きの前者であるにもかかわらず、
いつのまにか後者の事実があるように錯覚(歪曲?)されているのではないでしょうか?
読んだことがなかったし、正直なところアーサー・C・クラークという作家にも興味がなかったのですが、
新聞で追悼記事を読んでいるうちに
THニストたちの夢の萌芽がこういうところにあるんだろうなと想像されたので
「幼年期の終わり」を読んでみたら、
(ちなみに読んだのは89年に書き直された第一章を含む新訳。翻訳がものすごくよかった。)
私には一番面白かったのは第1章で、
そこだけ独立の短編かというほどぐいぐい惹きつけられた。
トランスヒューマニストがあげつらう時に、
彼らは芸術にはあまり触れない。
実は彼らも知っているからなのでしょうか。
この作品を読んで、とてもTHニスト的だなぁ……と
思わず苦笑してしまったのは、
50年代に書かれて21世紀に設定されたクラークの未来世界が
知的レベルの高いエリート白人男性の価値観で作られていること。
(一応、肌の色が既に意味をなくした未来世界とされており、
物理的にも数時間で地球上のどこでも移動可能なのだから、
肌の色という点だけで言えば黒人も登場はしますが。)
この未来世界の性役割分担は50年代のまんま。
仕事をするのはみんな男性で
女性は育児と家事をモンクも言わずに引き受けて
彼らの帰りを家でおとなしく“待って”いるのだから、
こればっかりは笑ってしまった。
その姿に人間が理屈抜きの恐怖を覚えるのは
「種族の記憶」とでもいうものがあるからだろうと。
ここではキリスト教文化が“人類”に拡大されてしまっているし。
食事は主語もなく作られて、主語もなく「片づけが終わる」ものであり、
登場人物たちが集うパーティでは飲み食いが行われているのに、
それを運ぶ人も片付ける人も存在しない。
だからおそらくその他の機関も存在して社会を機能させているようだから、
当然のごとく、そうした機能を支える労働者が必要なはずなのだけど、
組織の下層部分を支える労働者も単純労働の従事者もいない、
少なくとも表に姿が見えない世界なのです。
せいぜい登場するのは
彼らが愛情を注ぐ対象となる妻と子ども、それから愛人という準主役。
この世界で姿を見せる人間はそれだけ。
あたかもみんなが主役のように夢を描いて人をたらすトランスヒューマニズムや、
「主役たるマジョリティの利益のために」功利主義で障害者を切り捨てるリベラルな生命倫理と
根っこのところが繋がっているような。
表に姿が見えてこない人たちは一体どうなっているのか。
いったいどんな人間がどんな過酷な役割を割り振られているのか。
薄暗い片隅で舞台に漏れきこえないように声をふさがれて殺されていく存在は
本当にいないのかどうか。
13日のWashington Postで
エネルギー問題も貧困も最新テクノロジーが解決し、
人の寿命は毎年1年ずつ延びていくというバラ色の未来図を
またまた、お得意の「指数関数的速度」という言葉を頻発して描いてみせています。
国全体が経済成長を遂げているとしても、
国内の格差はほとんど人命軽視の次元ほどに広がっているのんじゃないのかいな。
アジアやアフリカの貧しい国はどんどんと
さらなる貧困へと追い詰められているのではなかったのかいな。
(さすがにKurtzweilもアフリカの貧困に触れてはいませんが。)
「コンピューター・サイエンティストであり発明家」と紹介されていること。
今まで発明家とか未来学者だとか紹介されるのは見たけど、
彼が「科学者」だったとは知らなかった……。
そういえばWPには年明け前後に次のような記事がありました。
ヨーロッパや日本が人口減と高齢化に悩む中で
米国だけは順調に人口が回復し始めているんだぞ、と
その大きな要因を
働く女性への育児支援施策の充実と国民の宗教心の厚さに勝手にこじつけて
得意そうに胸を張る……といった趣の記事なのですが、
(実は子沢山文化の移民の流入が主因との声も)
後者の記事が懸念しているような現実もある。
という話も去年あったと記憶しているのですが、
頻繁に耳にするところでもあり、
これまでは取り立てて読んでみようとは考えなかったのだけれど、
実施する期間に一律で上限が設けられて維持期リハが切り捨てられたことに対して、
脳卒中の後遺症でリハビリ中の世界的免疫学者、多田富雄氏が
朝日新聞への投稿を皮切りに言論闘争を繰り広げた際の論説集。
そうしたリハビリによって日常生活をかろうじて維持している患者に
リハビリ中止は「死ね」というに等しい。
介護の現場には受け皿になるだけのリハビリが質量とも存在しない。
(この春始まった後期高齢者医療制度を考えると、まさに的中の予言ですね。)
リハビリ中止からどんどん状態が悪化して遂に亡くなったことについて、
「小泉さんがこの硯学を殺したと、私は思っている」とまで書く。
リハ医療界の大物、石川誠氏(長嶋茂雄氏のリハ医として一般に名が知れた)がこの切捨てを主導したが、
それは自分の病院などが担っている回復期リハへの利益誘導が動機であった
とも実名を挙げて指弾している。
石川医師が院長を勤める回復期リハ病院が大手セキュリティ会社セコムの資本だというのは
私はこの本で初めて知った。びっくり。
高額な機器を使用したパワーリハというのが流行っていたっけな。
あれも某高名医師に近い某企業の専売特許みたいにして広がっていたんだったっけな。)
現役を退きはしたものの、リハビリのおかげでものを書く能力を取り戻した。
厚労省のリハビリ打ち切り策がそれまでも奪おうとした時、
氏は自分がもはや1人の弱者であることを骨身に沁みて痛感したのではなかろうか。
世の中でうまく渡っていこうなどという世知が残っている人間にはできないと思う。
ひたすらまっすぐな怒りなのだなぁ、とつくづく。
世界的な免疫学の権威であり強者であった氏の発言を世の中はどのように迎えたか、
転じて、弱者となった氏が渾身の力をかき集め、
ひたむきな怒りをこめて発するこれらの声を
世の中のマジョリティがいかに軽々と聞き流してしまうことか。
この本と比べてみると一目瞭然。
読者のみなさんも尋常ではない感動振りです。
私などは見たこともないような用語が登場したり、
いずれの書評も高尚で格調高く、
さすがに闘病記の読者までレベルが高いのかと感心しそうになったところ、
ひょっこりと
「脳卒中になった人も、著者より苦しんでいる人もいっぱいいる、
そういう人と著者の違いは
著者は病気になる前から有名だったということだけだ」
という感想が登場し、思わず笑ってしまった。
これもまた、きっと一面としては真実だよね。
世間は拍手を送るけれども、
障害者が自分の権利を正面から訴え始めるや、
拍手をやめて背を向けるというのも
一面としての真実であるように。
ある高名なジャーナリストが癌になった妻の介護について語る講演を
聴く機会がありました。
とても印象的だったのは、
彼が「介護は楽しかった」と何度も繰り返すこと。
老いと共に身体を触れ合うことなどなくなっていた夫婦が
自分も裸になって妻の不自由な身体を
もつれ合うように抱きかかえて風呂場に連れて行き、
身体の隅々まで洗ってやる行為は、
それだけで気持ちの通う老後の愛の行為だったと。
だから自分にとって介護は楽しかった、
妻の介護ができて幸せだったと。
「ああ、確かに介護にはそういう面がある」と思いながら聴きました。
健常な子どもが成長すると親と子が身体を触れ合うことなどなくなりますが、
子どもに重い障害があると、親と子はいつまでも身体を触れ合って暮らしていきます。
そして、
愛する誰かに全身を委ねること、
愛する誰かに全身を委ねられることの中には
言葉を超えた豊かな交情があるというのは親子であっても同じだと
私自身も日ごろからそう実感しているのは事実。
もちろん、
それだけではない厳しい現実が他に沢山あることに
こういう美談の“お約束”としてとりあえず目をつぶれば、
そういう1面は確かにあるよね、と聞ける……ということであり、
そういう一面があるからといって、
だから「介護は楽しかった」とまで言ってしまうのは
見ないフリ、なかったフリをし過ぎるよね……という気もしないわけじゃなかった。
講演後、会場から真っ先に出た質問は、
「美しい夫婦愛の物語を聞かせてもらったが
介護の中で限界を感じたことは本当になかったのか。
自分はたった4ヶ月母親を介護しただけで
どんどん追い詰められていった。
あなたは、そういう限界を感じたことはなかったのか」
非礼にならないように抑制しつつ、そこには、ちょっと挑戦的なトーンも。
介護に追い詰められたことのある人、
その時に自分の中の人間としての弱さ醜さと直面せざるを得なかった人は、
そのことから自分自身が深い傷を受ける。
だからこそ、この人はジャーナリストが語る介護の美しさの一面性を
黙って見逃すことができないのだなぁ、と思うと
私にはどこかすがすがしくすら感じられる質問でした。
それに対するジャーナリストの答えは、かなりお粗末で、
「介護の限界ですか? それは、
私は所詮本人ではないから、
本人の気持ちは理解しきれないという限界を感じましたけどね。
それ以外の限界というのは、なかったなぁ」
あくまでも上から人にモノを語ってやろうとする傲慢だった。
手伝いに入ってくれる(もしかしたら主に介護を担っていたかもしれない)娘が2人いて、
それまでと変わらぬ仕事を続けながら妻を“介護”し、
妻の末期にすら取材で2度も海外へ出かけることが可能だった彼の「介護」と、
おそらく主たる(もしかしたら唯一の)介護者として
肉体的にも精神的にもボロボロになって
これ以上頑張れない極限状態でも助けを求める先すらなく
途方にくれたり絶望したりという事態の繰り返しの中で
徐々に追い詰められていったのだろう質問者がいう「介護」とは
同じ「介護」という言葉で表現されるには
その体験はあまりにも違う。
でも、その一方で、
時を置いて振り返ったら質問した女性の介護体験もきっと
限界を感じる苦しい時間一色でベタ塗りされていたわけではなく、
ジャーナリストが語ったような豊かさも
折々にはちりばめられていたのではないかなぁ……とも思う。
介護体験を語るというのは、とても難しい。
介護には、状況やそれを強いられる密度と長さによっては、
介護する側が心を病んでも不思議はないほどに過酷な現実もあれば、
介護し介護される関係性の中でしか結ぶことのできない人との関わりや繋がりと、
そこにしか見つけることのできない種類の濃密な関係性というものもあって
その両方が常に混然としているのが本当のところではないかと思うのです。
それなのに、なぜか自分の介護を言葉で語ろうとすると、
ポジかネガのどちらかだけでしか語れなくなるところがある。
一方だけを語ったのではウソにしかならないし、
どちらかだけを語ったのでは一面の真実にしかならない。もどかしい。
その両方がどちらも混然とあることを上手く言葉にするというのは
ほとんど至難の業なのかもしれない。
(それをほぼ成し遂げている小説作品はいくつか読んだことがあるのですが。)
そういえば、10数年前に友人がいったことがあった。
「障害のある子どもを持って大変ですね」と言われると、
「いいえ、そんなこと、ありません」と言いたくなる。
でも、
「障害があっても普通の子育てと違わないでしょう」と言われると、
「いいえ、大変なんです」と言わずにいられない。
──介護を巡る思いは複雑すぎて、簡単には言葉にならない。
【追記】
これを書いて、ふっと考えた。
自分の介護体験を語ろうとするとポジとネガのどちらかしか語れなくなるのは
もしかしたら介護を巡る2つの相反する感情の間で
自分自身が引き裂かれているからなんだろうか……?
世の中には本当にいろんなブログがあるんだなぁ……と目を見張ることは多いけど、
Civil society voices on the Bill and Melinda Gates Foundation
(ゲイツ財団についてモノ言う市民社会の声)
マイクロソフトの独占的世界支配の具としているとして、
主にゲイツ財団の活動の透明性に疑問を投げかけつつ
財団に関するニュースやブログ記事などを収集するブログのようです。
「Lancetの特集はゲイツ財団に買収されたのか?」と
疑惑を投げかける、気になるポストが目に付きました。
それに対するLancet誌からのリアクションを紹介するのが9日のポスト。
あちこちの財団からお金が出ているらしいのですが、
ゲイツ財団のように巨額を投じている場合には、
財団の利益や、財団が資金を提供している機関からの投稿に対して、
本当にLancetとして独立した審査ができるのか――。
しごく当たり前の、そういうもの。
この春にSeattleのWashington大学にGates財団の資金で創設された研究機関があって、
Lancet誌がお金を介してそこに繋がっていく構図なのです。
これについては、またあちこち当たってみてから
改めて書こうと思いますが、
科学研究については資金がどこから出ているかを確かめてから……という程度には
世の中の裏側というのを意識はしていたつもりだけど、
と感じるほどの雑誌にもお金にまつわるそういうウラがあったんだと知ると
ちょっと衝撃。
受け取った人の中では独立した審査や公平中立なんて不可能にするだけの魔力が
お金というものは具わっていると、私は個人的に考えますが。
仮に見返りを要求する意図などゼロだったとしても、
そのお金を頂戴する側には、
いつのまにやら過剰な“慮り”や
言われないうちから先回りの“配慮”をさせてしまう魔力──。
人間一人ひとりの善意や悪意とは無関係に
必ず生じるものなのでは──?
英語ではphilanthrocapitalism。
かなり大雑把な理念であちこちにお金を投じた20世紀の慈善事業のやり方を
慈善ヴァージョン1.0とすると
マラリアがGDPに与える損失を算定して
それなら撲滅にお金を使うことに価値がある…と判断を下すBill Gates氏のように
投資と同じ計算で「社会の利益を最大にする」ことを目的とした慈善事業は
いわば慈善ヴァージョン3.0だと、
以下の記事を書いた筆者のPeter Wilbyは言う。
ヴァージョン2.0については不問に、とのこと)
英米には各種チャリティや団体の活動データを提供する団体があって、
そのようにして行われる寄付行為で働く原理はどうやら
「最少金額で最大多数の生命を救うために」。
簡単にまとめると、
これまで税を通じて富の分配を担ってきた政治の社会保障機能を鈍化させ、
ごくわずかな富裕層のコストパフォーマンスの価値観が優位となることで
支援の効果が見えにくい(つまり最も支援を必要とする)人々が黙殺されていく、
また、これまで社会の変革をもたらしてきた市民運動の活力がそがれる。
実は己のビジネス拡大だけであるばかりか、
そのかわり我々を大金持ちにしてくれる仕組みはこのままにしといてね」
この記事に書かれているゲイツ財団の支援原則の
「最も大きな変革を起こせるところにお金を」にしても、
結局はリベラルな生命倫理の説く功利主義の論理。
むしろ「無益な治療」論を後押しする方向に動くことでしょう。
啓発活動を行っています。
まったく同じ必要を痛感しているところ。
自分で意思決定できにくい人の権利擁護のために
法的代理人制度を始めとする然るべき手続きの存在が知られていないのはもちろん、
そういう人の権利が慎重に擁護されることの大切さがそもそも
ほとんど認識されていません。
本来の「しかるべき手続き」を基準に事実を検証するということがなされないまま
いつのまにか「世論」が盛り上がっていく。
世論の目をそこから逸らせようとする意図が働いた場合に
世論とは、いかに誘導しやすいものであることか。
「本人の最善の利益」などという非常にいかがわしい言葉と概念が横行している現在、
とても大事なポイントを突いて非常に大切なことだと思います。
Terriと同じような状況に置かれた人を財団や支援者に知らせる機能。
Terriのように生命維持のためのケアを拒否された人を受け入れる医療機関を作りたい。
脳損傷の患者への治療停止事案を巡って法律と医療の両面からサポートするシステム作り。
自分たちの個人的な憤激に終わらせず
障害への無理解による多くの障害者の切捨て阻止に向けて
積極的に行動される情熱と行動力に敬服します。
マイノリティの権利擁護はやっぱり利権とは無縁だからなのでしょうか?
Terri Schiavo事件で司法への政治介入は間違いだったと発言したことについて
「Obama候補がShiavo事件について発言」のエントリー(3月2日)で書きましたが、
Shiavo事件の本質は関係者に基本的な事実認識ができていなかったことと、
障害者問題についての認識不足だった、と。
Ashley事件に関する議論を巡って当ブログが一貫して指摘していることと全く同じで、
事件の事実関係をきっちり調べろと学生を指導したのではないのか、と。
反応もあって植物状態ですらなかったからこそ議会が介入したのであり、
Terriとの結婚生活の間から続いていた愛人がいて
彼女との間に既に子どもが2人もいたし、
93年以降は妻の検査もリハビリも放棄していたのだと。
彼らの主張するところを本当に分かっていたのか。
これが「死ぬ権利」の問題ではなく
「生き続ける権利」の問題だということが分かったはずなのに、
お互いの誤解や間違いをそのままなぞり続けて……ったく……
Ashley事件でのメディア報道のいいかげんさにspitzibaraが感じるのと全く同じ。
栄養分と水分の補給中止を認めた裁判官たちも
自身で独自に事実関係をちゃんと把握していないと批判。
「障害者について、もっと勉強せよ」
私は誰よりもDiekema医師に同じことを言いたい。
6人のドナーから6人のレシピアントへの生体間腎移植が同時に行われたという
世界初、偉業達成のニュース。
ドナーとレシピアント6ペアの移植が単純に同時に行われたというのではないのです。
家族や友人など親密な関係にある人がドナーになろうとするケースが多いわけですが、
マッチして希望通りに腎臓をあげられるとは限らない。
1組のペアの間では実現不能な腎移植も、
何組か揃えることによってマッチングが可能となる、と。
2005年に3方向、一昨年の11月には5方向の同時生体間腎移植を成功させています。
愛他的(個人的関係がなくボランティアで提供しようという人)ドナーが1人加わることによって
5人のドナーから5人の患者への移植が可能になったということでしたが、
(ドミノ移植も含まれていたとのこと)
いきなり6人への移植が可能になった。
(人を組み合わせるのではなく腎臓を組み合わせる移植システムとの意でしょう)
2006年に5方向のニュースを読んだときには、
そのカラクリがよく分からないままに考えていたのですが、
自分の愛する人が臓器をもらったとたんに
ドナー予定者がイヤだと言いだすのを避けるためだとか。
なるほど──。
無駄にしないシステムだよね、画期的だね、とは思うのですが、
(見も知らない人に自分の腎臓を片方あげてもいいと
ボランティアで思える人というのが
正直なところ私は個人的には想像できにくいのですが)
外科医12人、麻酔科医11人、看護師18人の陣容で
手術室6室を使い10時間の手術だったとのことで、
この手術を受ける人は、いったいどれだけの医療費を支払うのだろう、
それとも世界のパイオニアたる病院の偉業達成に協力するのだから
無料または大幅な値引きがあるのか……
移植医としては、やっぱり次は7方向で……?
彼らが人生の真理を極めようとの志に目覚めて哲学者への道を選んでいるのではなく、
自分が進もうとする分野で成功するためには
哲学を受講して論理的思考力、文章力、分析と批判能力を身につけるのが有利……
との計算によるもの。
理屈で闘って人を論破するテクを身につけようという発想ですね。
超極端な事例を考え付いては
なんだかんだと高飛車な理屈をこねくり回し
結局は自分に都合のいい結論を導く……
米国の支配層に増えていくだろう……ということなのか。
生命倫理学者と呼ばれてる人たちみたいな──?
論理だけで相手を言い負かしたら、それが正しい証明になるわけでもないと思うんだけど、
なんていうことを自分の生活では当たり前として楽しんでいながら、
数値だけで乱暴にぶった切って捨てる、
一番大きなLLサイズは6枚入って1260円。ざっと1枚が210円。
姿勢維持が困難な老犬のための食事補助用品で高さが3段階調節可能。
こちら4700~6300円。
中型だと1日のレンタル料は1500円。
納入・設置時に5000円~7000円。
ただし15日以上の利用は一律22500円。
老いても放っておいていいとは思わない。
家族同様に過ごしてくれば、できるだけのことをしてやりたいのが人情だし。
こうなるのも自然の成り行きだし、選択肢があるのは悪いことではないし。
引っかかってしまうというか
悲しい気持ちになってしまうというか
納得できない気分になるのは
こぉぉぉぉぉんなにも豊かな日本で、なんで
介護保険の改正でそれまで使えていた電動ベッドを取り上げられたり、
介護費用削減に直接結びつく効果が見込めなければリハビリを受けられなくなったり、
障害者自立支援法で支援を切られたり自己負担が担えなくて
家から外に出られなくなったり、
排泄や食事にすら不自由したり、
時には命に関わるほどのリスクをしのんで暮らさなけりゃならないんだ──?
障害のある子どもを抱えた親が
こんなに次々とボロボロになり絶望して
家族を殺し自分も死んでいくんだ──?
「年寄りはなるべく国のゼニ使わずに効率よく老いて死ね」という制度が
「日本で長生きしてよかった」という制度へと
簡便に変身するわけではありませんよね、福田さん、舛添さん?)
それ以下の我々貧しい民草の選択肢は狭まっていく一方。
一般の国民には最低限の社会保障すらおぼつかないのに
富裕層だけは巨大マーケットで選択肢がたくさん……というビジネスについては
特別消費税を課してもらえないものだろうか──。
この2日間暴動が続き、
(ただし店に食品がないわけではなく高くて買えない食糧不足)
体制が脆弱な国を中心に世界中で暴動が起こり政治不安・治安の悪化を招くと
国連人道局の局長が警告。
この20年間で200から400に倍増して
それでなくとも人道局の仕事は困難を極めているというのに、と。
物価高と食糧不足が理由で起こっているのは
・象牙海岸で激しい抗議行動。
・2月にカメルーンで値上げ反対の暴動で40人死亡。
・モーリタニア、モザンビーク、セネガルで過激なデモ。
・ウズベキスタン、イエメン、ボリビア、インドネシアで抗議行動。
そういう世界の貧困地域で人々が暴動を起こすほどの素地は
それまでに他の事情でも諸々に積み重ねられていたのでしょうし、
それも、もうどうにも止められないくらいの猛スピードで。
たいていは意味を結ばず流れていく音楽みたいなのに
そのニュースだけ、なぜかはっきり聞こえてきて
思わず包丁を使う手を止めた。
そこだけはテレビの前までいって見たのですが、
父親の方が言い放った言葉がすごかった。
そうだよ。違法行為だよ。
だから何なんだよ?」
前後に報道された詳細は分からないまま、
この開き直りだけは頭にリフレインし続けた。
「どうせ医師の思うようにはさせてくれないから裁判所へは行くな。
実際に罪に問われたことはないのだから法律など無視して
生きる価値のない患者は切り捨てよ」
と言い放つことの、
ちょうど裏返しではないのか、ということ。
強者の側・権力の側が弱者を守る責任を放棄して
一部の富裕層にだけ都合のいい世の中がものすごい勢いで作られていき、
もしくは都合よく使い捨てられる消耗品となるかしか道はないぞ。
身を捨てて証明するか。証明できなければ生きる価値はない。
もうオマエたちを守るものはどこにもいない──。
名もなき貧しき民草は自分たちが呼吸する空気の中から
既に敏感に読み取り始めていて、
(もちろん意識してなどいないけれど)
ただの弱肉強食なのであれば
社会の秩序を尊重する意味もないし、
個の側だって社会秩序を拒否する盾にとる……。
(そういえば兄弟が夫婦になっていたという話も最近どこかであったような気がする)
近親相姦すら「違法だから、それで?」と開き直れるほどの
自己選択・自己責任、社会秩序や法の軽視に受けた軽いショックは
ネットで検索したら裁判で2人は既に近親相姦の罪で有罪判決を受けているのですが、
この2人も「わかってほしい」わけですね。
今日になってふっと思ったのですが、
ただ「わかってもらいたい」だけなのかも……、と。
「普通でなくてもいい」ということと「普通の願いをかなえたい」ということの間で
答えを探しながら生きているんだということを、
ずっと自分の「普通でなさ」を受け入れてくれなかった周囲に
ただ「わかって欲しい」……んだろうか。
彼がOprahの質問に緊張しながらも誠実に答えようとしていた姿に
あまり余分なものを感じなかった気がするからなのか、
特にゲイの人権がどうのこうのと講釈を垂れたいタイプでもなく、
他の人にも自分と同じことができる可能性を説きたいわけでもなさそうで
むしろ戸惑っているようにすら見えた。
自分の性別に違和感を感じるようになったというけど
あなたはどうだったの?」
かなり遅くまで自分の性に違和感を感じなかったような話だったのと、
それ以後は父親が母親役割と父親役割の両方を担って育ててくれた
と話していたのが印象に残ったのですが、
例えば大きな病気と必死で闘っている人が「自分だけの闘病記」を書かずにはいられないのと
実は同じなんだろうか?
誰よりも性別を意識しているということでもあるという堂々巡りが、
性別によって傷ついたり苦しんできた人の自己肯定作業の宿命なのかも知れないのだけれど、
私はこれと同じ宿命的な堂々巡りを感じるのですが)
「女でもない男でもない人として我が子を持ちたいから
性別とは関係なしに妊娠している今の自分」までには、
ちょっと距離というか飛躍がありますね。
将来子どもを産むことも想定して生殖機能は残した……という話が
その距離と飛躍を埋めるのかなぁ。
ガセだという声があったことに反発してのテレビ出演なのかもしれませんが、
「ごく普通の妊娠。経過は良好」と番組にコメント。
番組中にお腹の胎児を超音波で見ている映像や
夫婦が準備している子ども部屋や赤ちゃんの服、
その他、夫婦の大変親密な映像まで
よくも、まぁ、ここまで……と思うほど、あれもこれも公開。
一体なんなのか分からない。
「世の中はまだこういうことに対して準備ができていない」として
もれなく公表には反対したということなのですが、
番組の中でも
「ショッキングだろうけど、今の時代には可能だし、実際に起きているわけですよ」
と言っているのだから、
やはり技術的に可能なのだから
みんなもやろうぜと呼びかけているつもりなのか……?
「一般には倫理的に疑問視されることを
例外的にやれてしまった人
または自分で勝手にやってしまった人は
それを公表せずにいるべきなのか」と考えると
これがまた難しい。
病院が内密裏に実施した特例だった可能性があると
spitzibaraは考えており、
Beatieの場合は自分で受精させて勝手に妊娠してしまったわけですが)
それが前例を作ることになるから、
当然そこには滑り坂の懸念が出てくるのだろうけれど、
それもやっぱり違うだろうと思うし。
想像もできないことが起こりうる現実に
現場の専門家ですら付いていけていないほど
進みすぎた技術の方なのだろうけれど、
一部メディアも煽ったし、擁護した人が一定数いたにもかかわらず
英国でKatie Thorpeの子宮摘出は認められなかったことが
やはり大きなヒントではないのか、と私は思うのです。
地味であっても時間がかかっても踏むべき手順はちゃんと踏む、ということ。
議論すべきことは順を追ってきちんと漏れなく議論するということ。
最も弱い者が守られるだけのセーフガードをちゃんと整えるということ。
切り捨てるためのアリバイとしてではなく、守り抜くためのセーフガードとして。
それが整えられないうちは慎重が上にも慎重に、ということ。
その子どものために緊急避難的に考えておくべきこと、
この一家の個別のケースのために考えるべきことと同時に、
こういうことが起こりうる社会として法律や医療や倫理問題や
興味本位に騒ぐ前に考えるべきことが沢山あるだろうし、
当面禁止するくらいの慎重さを持って欲しいと、
よその国のことながら、思う。
他所の国だからといって、関係も影響も全くないとは思えないし。
すかさず「トイレット・ペーパーいらない?」
唯一の難点がこれ。
「味噌、いらない?」
「美味しい水あるけど、買わない?」
その日はなんだか未練がましく値段や個数を並べて粘った。
「そりゃ、そうだよね」と、今度はすんなり折れて
その代わりみたいにオジサンがボヤくところによると、
売れようと売れまいとそれでカンベンしてもらえたのだけど、
今度から一定数を売らなければならないことになって
ノルマをさばけなければ罰金を食らう──。
……とばかりに頭を転がしつつ車に戻るオジサンの後姿は苦渋に満ちていた。
なんでモノまで売らなけりゃならないんだよ、
しかも罰金ったって、そんなの無茶だよね……と
つぶやきながら階段を戻りかけて
「あ、これなんだ。同じなんだよ」と。
今のドライバーさんの話はまったく同じなんだ、繋がっているんだ、と思ったわけです。
自然災害に人災を加えたと非難を浴びたFEMA(連邦緊急事態管理庁)について
この本の中でFEMAの元職員は言います。
「いかにライバルよりも安くあげられるか」、
「いかに目に見える結果だけを短期間に出せるか」を証明することに血道をあげ、
すぐに目には見えないけれども本当は何よりも大切な本来の仕事と
じっくり取り組む余裕をなくしていく日本だって同じことで、
簡単に言えば9ページの以下の数行に尽きると思う。
そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙句、使い捨てにされていく。
宅配のドライバーさんがノルマを課せられて水や紙を売らされて、
宅配はちゃんと配達していてもモノ売れなきゃ給料から罰金を徴収。
それがイヤなら辞めても結構、代わりならいくらでもおるわい……と
無言のうちに脅されるのと同じことで、
いっぱい進行しているんじゃないだろうか。
少なくとも日本ではまだ起こっていないと思う(これからもそう願いたい)アメリカの悲惨は、
それ以外に生きる道が見出せないほどの隘路に貧困層を追いつめておいて
詐欺同然の口車で軍にリクルートしては真っ先にイラクの前線に送り込む恐ろしいカラクリ。
不法移民も貧困層も兵士として使い捨てにする分にはまだしも使い道があるといわんばかりに。
民間の会社が“社員”を雇って“派遣”するのだから
国には責任は全くないし
給料だって条件だって無法地帯みたいなもので、
どんなに非人間的な条件であろうと不満があれば辞めればいい、
それ以外に生きていけないからやるという代わりの人間はいくらでもいる、と。
まさに「使い捨て」。
この本に描かれた「暴走型市場原理システム」を科学とテクノロジーへと当てはめてみると、
それって正にトランスヒューマニズムと生命倫理が描く図になるのでは……?
いかにも実験に協力すれば治療してもらえるような舌先三寸でたぶらかして
すずめの涙の報酬で人体実験の資材としてリクルート……なんて、
本当は既に起きているのかも?
格差社会が貧困層を兵士として使い捨てている図は
そのまま科学とテクノロジーの世界でも起こっている、
またはこれから起ころうとしている図……ということでしょう。
歯止めはもうかけられないのか。
広く信じられているタンザニアで
幸福になる魔法の薬の材料にする祈祷師らに対し、
大統領が摘発を命じた、と。
政府はアルビノ殺しを黙認していると非難したこともあったとか。
それを持たない者・与えられていない者の身になるということができにくくて、
だから、持てないこと・与えられないことの理不尽も痛みも理解できないために
その無理解・無関心から生まれる差別というのがあるのだろう、と。
強い者から差別される痛みに苦しんでいる者が、
自分よりもさらに弱い者の弱さを自分の痛み苦しみのはけ口として利用する
差別の重層構造みたいなものもあるのでは。
その差別に乗じて、ただの弱いものイジメで憂さ晴らしも起こりやすいだろうし。
敢えて差別を作りだすこともあるのかもしれないし。
牛の細胞に人間のDNAを入れたハイブリッド胚の作成に成功したと、
4月1日に発表したとのこと。
着床前診断による障害・病気の排除の関連で取り上げていますが、
ハイブリッド胚の研究目的での作成を認める条項については
両党とも自由投票ということになった模様。
早々とハイブリッド胚が作られても特段、違法ということにはならない。
なぜなら、ヒト受精・胚機構(HFEA)がこのチームにライセンスを与えたから。
来月に法案が議会を通ったら、いよいよそのライセンスの法的位置づけが公式になる
……ということなのだそうで。
人間の卵子を使わずにES細胞を作ることができて
女性から卵子を採取したりヒト胚を破壊する倫理問題も
なかなか数が望めない卵子不足も解消する、
パーキンソン病やアルツハイマー病の解明や治療法に役立てること出来る、
個々人に合ったオーダーメイドの治療に結びつく……などなど。
「ハイブリッド胚」とか「キメラ胚」とかではなく、
admixed embryos (混成胚、でしょうか?)という
新しい呼び方が目に付くようになってきたこと。
まぁ、法案が通過する見通しが立ったんだろうな……と勘ぐってしまった。
いくらオーソリティのある機構が作ってもいいとライセンスを与えたからといって、
(ちなみにHFEAはKing’s Collegeのチームにもライセンスを与えています。)
ハイブリッド胚の研究利用を認める法律が成立していないのに
研究者が既成事実をちゃっかり作ってしまって、
法律が後追いしたら「そのライセンスの法的位置づけが公式なものになる」って……
どうも、この辺りの感覚が前からよく分からない……。
……ということを考えていたからか、たまたま
英国で進化発生工学という難しそうな研究をしておられる方の
ブログ・エントリーに行き当たったので、
以下にTBさせてもらいました。
ああ、そういうところにいる人の目にはこういうふうにモノが見えるんだなぁ……と納得すると同時に、
既成事実が世間の知らないところで実はどんどん進行しているのかもしれない……とも。
科学研究の予算を削ってきた過去10年の施策を批判し、
威勢のいい気炎を吐いています。
彼の発言を巡って野党側から出ている批判などについて興味がおありの方には
上記記事を直接当たってもらうとして、
「これまで政治的な正しさによって萎縮させられて
モノを言う気力すらなくしてしまった科学者に
もっと堂々と意見を言わせよう。
科学者が活躍できる環境を取り戻そう」
ということのように思われるのですが、
科学者には自分たちを働かせてくれるコミュニティに奉仕する“義務”があると
科学者らに呼びかけます。
その奉仕の義務をどのように果たせといっているかというと、
コミュニティへの奉仕ができる。
我々のこの傷つきやすい惑星を救う道を見つけることによって、できる。
人々の人生を美と希望と感嘆で満たすことによって、できる。
なんだか、
「とりあえず大衆の目先の欲望に応えてやれ。
そうすれば科学の力を見せ付けて社会から信頼を勝ち取り、
これまでみたいに政治的正しさに遠慮しなくても
思う存分好きなように研究できるんだぞ」
と檄を飛ばしているように聞こえるし、
彼が言う「政治的正しさ」とは「先進科学における倫理問題」のことではないでしょうか。
ES細胞研究におけるヒト胚の破壊という倫理問題においても
科学者の側からは「倫理問題がうるさくて自由な研究が出来ない」という声も
起こっていたわけですが、
「倫理問題」→「政治的な正しさ」という言い替えを導入したとすれば
あらゆる倫理的な配慮を欺瞞だと切り捨てる一言にもなっていたはず。
どうも胡散臭い言辞です。
私が必ず思い出してしまう怖い漫画があって、
小学生の頃(今から40年以上前)に読んだ楳図かずおの短編作品。
なにしろ頭も体の感覚も普通なのに、
誰からも死体のように見える状態に陥ってしまった男が
病院で身体を切り刻まれて(たぶん死因を特定するための解剖だった?)
悲鳴を上げ続けるのに誰にも伝わらない恐怖と絶望のうちに
ついに棺に納められてしまうのです。
誰にも伝わらないまま棺おけの蓋が閉じられます。
棺は段取り通りに焼き場に運ばれ、
ついに釜に入れられて火がつけられます。
そして苦悶と絶望の絶叫を放ちながら
男は生きたまま焼かれていく……。
小学生が読むような雑誌に掲載されていたことか──。
やはり楳図かずおは時代を先取りした天才なのでしょう。
自分が生きていることを誰にも分かってもらえない孤独。
自分が生きたまま焼かれてしまうことを知りつつ
その刻限に刻々と近づいていくのを止められない恐怖と絶望。
今の私にとっても、思い出すだに怖くてならない話です。
人間というものが体験し得る
最も恐ろしい孤独と恐怖と絶望の1つだと思う。
私は必ずあの漫画を思い出すのです。
愛する者にそんな死に方など、万が一にもさせたくない。
そんな死に方をしている人がいるのかもしれないと想像するだけでも
なんだか苦しくてなってしまう。
テキサスの病院で脳死を宣告されたのは去年11月19日のこと。
ポケットナイフで足をなぞったりツメの間に押し付けたりすると反応を示した、と。
医師らが自分の死亡宣告をするのを聞いたことを覚えていると語り、
「動けなかったから、その時やりたかったことができなくてよかった」と。
「たぶん窓が飛び散るくらいの激しさで掴みかかっていただろうね」
血流は全く見られなかったというのですが、
いまだに記憶には障害があるものの
テレビに出演してこれだけ筋の通った会話ができるところまで回復しているのは事実。
よくよく考えると恐ろしい言葉ではないでしょうか。
臓器を摘出するための医療に切り替えられて
死んでいく人が現実に沢山いるのだから。
自分が脳死宣告される声を聞いた記憶を持ちつつ死んでいくのだとしたら……?
医師らが始めようとする気配や会話が
もしかしてその人の最後の記憶になるのだとしたら……?
ドナーになろうとの愛他的行為の見返りなのだとしたら
それはあまりにも酷い話では?
いまどきアメリカで男児に割礼を行うのは熱心なユダヤ教徒の家庭くらいなのだろうと
何の根拠もなく思い込んでいたために
いまだに半数が割礼を受けているという以下の記事にはビックリしたのですが、
2005年には56%にまで減少。
そのために以前は「そういうもの」と深く考えずに行われてきた慣行に
夫婦間で意見が分かれるケースが増えてきているとの記事。
By Marnell Jameson, Speical to the Times,
The Los Angels Times, March 31, 2008
アメリカ小児科学会の男児割礼についてのガイドライン。
新生男児の割礼に医療上の利益がある可能性も示されてはいるが
しかしルーティーンとして推奨するに充分なデータではない」ので、
両親はそれぞれ子どもにとって何が最善の利益かを考え、
医療上の利益のみでなく文化的、宗教的、民族的な伝統も考慮に入れるのが望ましい……
……のだそうで。
「新生児期の割礼には不利益とリスクと同時に医療上の利益と利点もある……(中略)
医療上の利益とリスク、民族的、文化的、宗教的、また個人的な選好も考慮されるべきである。」
こんないいかげんな態度では専門家集団としてバツが悪くなってきたところに、
(というのは記事にはないspitzibaraの勝手な解釈に過ぎませんが)
アフリカの成人男性の調査で
割礼した人はしていない人よりも異性間性交によるHIV感染の確率が低い
という結果が報告された。
米国で問題視されている男性同士の性行為による感染とは別の話でもあり、
米国疾病予防管理センターCDCが現在この調査結果を精査・検討中。
新しくガイドラインを見直すための検討チームを昨年作り、
来年にも新ガイドラインが発表される予定とのこと。
1人がAshleyケースで今なお奮闘目覚しいDiekema医師で
もう1人はユダヤ人で「自分のところで伝統の鎖が切れるのはイヤだった」から
ユダヤ人ではない妻の反対を押し切って息子に割礼を行ったFreedman医師。
以下のFreedman医師の発言には
また笑いを誘われてしまうのですが、
たいていの男は自分の持ってるものをよしとするのだから」
Freedman医師に比べれば、かなり生真面目です。
宗教上の信念がないのであれば、
両親の考えるべき主たる問題は割礼が子どもに利益となるかどうかでしょう。
データからは利益になるともならないとも言えません。
Ashleyケース以外の問題においては
実に健全な発言をするのですよ。この人は。
「意見が分かれるのは悪いことではない」と言っている。
「意見が分かれるのは悪いことではない」というスタンスは慎重。
その慎重さが健全・まっとうだと思います。
データが皆無な novel で controversial な処置であり
「効果も副作用も想像する以外にはない」と論文に書きながら
「慎重な検討の結果、本人の利益と結論した」だとか
「どうせ本人には尊厳すら理解できない」などと
訳の分からない強弁を振り回す──。
“Ashley療法”批判に対しては、きわめて攻撃的な姿勢を剥き出しにする。
前者ではウソを強弁で誤魔化そうとするからそうなる、としか思えない。
そうした傾向に歯止めをかけようとの動きを知ると、つかのま心が慰められます。
2月末に保健・教育・労働・年金委員会での可決にこぎつけています。
The Prenatally and Postnatally Diagnosed Conditions Awareness Act。
母親に対して、
その病気・障害に関する情報ならびに支援に関する情報の提供と
支援機関や支援サービスへの紹介を保障すると同時に、
ピア・サポートプログラムのさらなる充実、
周産期に病気・障害が診断された子どもを養子に迎えようという家族の登録制度の創設
を謳うもの。
共和党のSam Brownbackと民主党のEdward Kennedy上院議員は
去年7月18日の法案提出時に記者会見にて趣旨を説明。
その際には米国ダウン症協会やダウン症児を持つ親のスピーチもあって、
ダウン症児は何も出来ないとか自立した成人になれないという神話を解体する必要が訴えられたとのこと。
Sam Brownback Press Release, July 18, 2007
National Right to Live News, August 2007
「ダウン症児だから選別的中絶」のコワさ
選ばないことを選んだ夫婦の記録
などのエントリーにおいて、
それぞれの障害像の実際や、子育ての現実には目が向けられないまま、
「障害児はお荷物」、「どうせ何も出来ない」、「生きるに値しない」などと
スティグマに満ちたイメージ先行によって
功利主義的な切り捨てが推進されているのではないかとの懸念を提示してきました。
むしろ中絶に向けての誘導ツールとなりかねないし、
「ちゃんと説明を受けたうえで、個人の決定権によって中絶が選択された」という
選別的中絶への手続き上のアリバイ整備に終わらないかという懸念がないでもありません。
もう一歩進んで生活そのものを支える支援サービスの充実こそが不可欠だし、
肝心なところが抜け落ちていると思わないでもないのですが、
その中でもこうした視点を持って政治が動こうとしていることだけでも
救いのように思えてくるような……。
同様の減少傾向は全米で起こっているものとみられ、
このような傾向は広がりを見せるとも。
現在では37歳とのこと。
その倫理面に疑問を呈しています。
ペンシルバニア大学の倫理学者Arthur Caplanが登場。
その選択の結果とは無関係だというフリをする傾向があるけれども、
我々が遺伝子検査にお金を払うのは
嚢胞性線維症を減らすことに繋がる生殖上の決定を行う人があることを知っているからだ」
「今後、ホモセクシュアルの遺伝子が検査できるとなったら?
背が低い遺伝子の検査が可能となったら?」
と、今後遺伝子検査が広がるに伴い、
こうした倫理上の問題はより複雑化すると懸念。
米国でナース・プラクティショナーを目指しておられる方のブログで、
遺伝学の授業で嚢胞性線維症の患者さんの話を聞かれたという記事がありましたので、
TBさせていただきました。
仕事をしながら元気に暮らしておられる姿と
「早くから治療できる可能性」と前向きに捉えておられる言葉に
胸を衝かれます。
障害や病気と共に生きている人の実像や、治療や支援の可能性にも目を向けたうえで、
遺伝子検査の意味をもっと広く深く考える機会が
医療職はもちろんのこと、
親になろうとする前の世代の人たちも含めて
広く様々な立場の人にあるといいのですが。