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この頃、薬関連のニュースがやたらと目に付くのですが、
それらが警告しているのは主に以下の2点のようです。

①安易な過剰処方
②製薬会社の法令遵守の問題(臨床試験の不十分または不透明)

ここでは「子どもへの安定剤使用に不安」というBBCニュースを。

Fear over child tranquilliser use
BBC, April 7, 2008/04/16


他動や自閉症の子どもらに
不用意に無認可の向精神薬が処方されるケースが英国で急増している。

92年から05年までの13年間で
18歳未満にこうした薬が処方される割合は倍になったという調査結果。
中には2歳でADHDだと診断されて、これらの薬を処方された例も。

米国での同様の傾向を英国が後追いしている、この事態。
相当に深刻そうです。

これらの薬はオトナへの臨床試験で認可されたもので、
子どもへ投与された場合の効果や安全性については短期の試験しかされておらず、

上記調査を行ったロンドン薬科大学のIan Wong教授は

「これらの薬には確かに大きな効果があります。
 しかし長期の影響、特に発達期の子どもたちの脳への影響については分かっていない

として、特に15歳以下では慎重に、と警告。
 
しかし、米国のFDAに当たるMHRA (the Medicines and Healthcare products Regulatory Agency)は
「薬の適応については処方する医師が判断すること。副作用は詳しくモニターされている」と。

──お役所答弁。

------ -----


発達障害のある子どもとか、キレやすい大人が急増しているのは
誰しも身近に実感しているのではないかと思うのだけれど、

なんで、その原因を調べてみようとする研究者はいないんだろうか。

私は素人だから何の科学的根拠もないけど、

医薬品やテクノロジーによる健康至上・肉体改造狂騒曲に多くの人が踊らされる時代になって
実は逆に我々は足をすくわれているんじゃないかという気がする。

人類が改良型へとヴァージョンアップしていくんじゃなくて、
薬とテクノロジーに実は人類はじわじわと蝕まれていくんじゃないのか――?



2008.04.17 / Top↑
ビタミンのサプリメントは、
実は寿命を延ばす効果がないばかりか
逆に命を縮めているかも……

という研究結果が出たんだそうで。

Vitamin supplements may increase risk of death
The Guardian, April 16, 2008/04/16


Guardianの記事は
「ビタミンを摂取するならサプリで摂るよりも
果物と野菜をしっかり食べなさいということですね」

そんなの、もともと当たり前の常識。
2008.04.16 / Top↑
4月1日のエントリーで紹介しましたが、

周産期に子どもの病気や障害が分かった場合に
その病気や障害についての詳細な情報が母親に提供されるよう求める法案が
米国議会の関連委員会を通過しました。

それについて、保守系の論客Wesley Smith が賛意を表明しています。

Politically Correct Eugenics: Brownback and Kennedy do the right thing
By Wesley Smith
The Weekly Standard, March 31, 2008

最初にSmithが指摘するのは
一方で障害者への差別をなくす努力をしつつ、
その反面でダウン症をはじめとする障害や病気を持った子どもの排除に忙しい
米国社会の障害者に対するダブルスタンダードと、

現在ダウン症だと分かると中絶されている9割のケースでは
医師らによる否定的な情報提供と中絶への誘導が行われているのではないか
という疑義。

実際にダウン症の子どもを育てている親が
子どもとの暮らしの中から語るポジティブな声がそうした情報の中に
しっかり含まれていれば9割という数値は変わるのではないか、と。

ちなみに、
この法案を提出したEdward Kennedy 上院議員は強固な中絶権支持者で、
共同提出者であるSam Brownback 上院議員は熱心なプロライフであること。

中絶については立場が正反対の2人が
共にこの法案のスポンサーとしてバランスの取れた情報提供の必要を訴えているというのは
なかなか悪くない話ですね。

中絶の是非の問題は、その先に行くと選別的中絶の問題があり、
選別的中絶の問題はその先へ行くと無益な治療法論や、
さらにネオ優生思想の問題へと繋がってもいて、

もちろん、全部をひっくるめて論じるような大雑把な議論はできないのだけれど、
繋がっているのだということは頭においたうえで、
一つ一つの問題を丁寧に考えていくことが大事なんじゃないでしょうか。

一番怖いと感じるのは、
一つ一つの議論での勢いに任せた乱暴な議論によって
充分な検討がなされないままに、
それぞれが影響しあって、なし崩しに
「どうせ障害児だから」という社会の空気がいつのまにか作られていくということ。

(Ashley事件で私が何よりも強烈に肌に感じたのは
 この「どうせ重症児だから」という空気であり、
 多くの人の発言から聞こえてくる言外の「どうせ」という響きでした。)

そういう動きが現に懸念されるからこそ、
ハイテクで人間の病気はほぼ克服できて寿命が飛躍的に延びるとか
難病が間もなく克服されるといった話の華やかさはないけれど、
子どもの障害や病気を知らされた親にネガだけでなくポジも含めた充分な情報提供を行うという、
一見地味だけれど本当はとても大切なことを1つずつしっかり抑えていくという努力が
やはり忘れられてはならないのだと思う。
2008.04.16 / Top↑
さっき10時過ぎに何も考えずにテレビをつけたら
いきなり小泉元首相が国会で演説している映像にぶつかって面食らった。

なんだ、なんだ? と思ったら、

「報道ステーション」が
後期高齢者医療制度ができた当時、政府がいかに説明もせず強引に決めてしまったか
国会や委員会での質疑の映像を編集して流しているところだった。

何をいまさら──。
憤りで体が硬直した。

後期高齢者の医療を切り離すという方向性だけは明確に打ち出されていましたよ、当時。
今の高齢者はカネ持ってるし、とね。
それをメディアが知らなかったとは言わせない。

小泉政権下で過酷な弱者切捨て施策が次々と巧妙に進められていることを
メディアはちゃんと知っていたはずだし、
今いろんな形で起こっている医療と福祉の崩壊は、
当時から既に多くの人に予想も懸念もされていたというのに、

2005年の総選挙の時に郵政民営化の刺客騒ぎばかりに連日狂騒して、
医療制度改悪や介護保険改悪の動向も障害者自立支援法案もロクに報道せず、
オモシロおかしい選挙に仕立て上げて小泉政権の追い風を作ったのは
あなたたちメディアではないのか。

あの選挙の当時、
日本中から危機感を募らせた障害者らが不自由な身体を国会へ運び
国会議事堂周辺に布団を持ち込んでまで座り込んだ。
彼らの存在をメディアが知らなかったとは言わせない。
それでも彼らの映像を流すことも、その切実な訴えをきちんと報道することもせず、
ホリエモンと彼の行く先々に群がる人々を
あなたたちは、ひたすら追いかけ続けたのではなかったか。

後期高齢者医療制度の内容を今日まで知らなかったわけでもあるまいに、
高齢者らが天引きされた年金を受け取って混乱をきたし、怒りが頂点に達した日を待って
当時の委員会での強引な採決場面を放送し、
「こうして決められた制度は許せない」、「廃止すべき」と嵩にかかって叩く。

後期高齢者医療制度が混乱をきたしているのは「説明が足りない」からではありません。
老人は、また余分にゼニをとられることに怒っているのです。

そして、
今日もらえるはずの年金が減っていたことに怒った高齢者は、
やがて今度はこれまで受けることができていたはずの医療が
新制度に変わって受けられなくなるという事態にも直面して、
さらに腹を立てることになる──。

そのことをメディアはちゃんと知っているはずだ。

新制度について「説明が足りない」責任の一端は、
あなたたちメディアにあるのではないのか。
2008.04.16 / Top↑
このニュースはタイトルを見た瞬間に、
「あ、やっぱり、こういう話が出てきたよ……」と嫌な匂いがした。

現在、どんどん小さな未熟児が助かるようになったのは
90年代に使われ始めた薬と治療法のお蔭なのだそうですが、
それをさらに遡る頃から数十年間、
ノルウェイでの出生120万件を追跡調査した結果、
(ただし多胎児は対象に含まれていません)

未熟児は子ども時代に死んでしまう確立が(未熟児でない場合よりも)高く、
大人になっても子どもが持てなかったり、
産んでも自分と同じ未熟児になる確率が高いということが分かり、

どこまで小さな赤ん坊を助けるのかという問題を
今後の医療の課題として提起している……という記事がAPに。


しかし、とても不思議なんだなぁ、この話の展開。

だって、ちゃんと書いてあるんですよ、
「大半の未熟児は健康に育ち、正常に子どもを産む」と。

大半の未熟児は正常なんだけれども、
ごく一部の死亡数を比べると月満ちて生まれた場合よりも死亡率が高い――。
女の子より男の子で高い――。

研究では原因が分析されていないにもかかわらず、
記事は「出生時の損傷と小児癌が一因だろう」と。

大半の未熟児は先ゆき普通に子どもを産むんだけど、
ごく一部の子どもがいないケースや未熟児だったケースを
月満ちて生まれた人の場合と比べるとどちらも高かった――。

こちらについても、この研究では理由は調べていません。

なぜそうなるのかという理由も原因も分析しないでおいて、
「大半は正常に成長し正常に親になる」という事実を無視し、
「どうせ子どものうちに死ぬ確率が高いし、生殖率も低いのだから」
今後どこまで未熟児を助けるべきか課題だ……というのは
論理の飛躍というにも飛ぶ方向がズレているんじゃないでしょうか──?

そして、もっとヘンなことが、この記事には書いてある。

米国では2006年に
出生総数の12,8パーセントという高率で未熟児が生まれているのですが、
その理由は生殖医療による多胎児の増加と高齢出産の増加だというのです。

一方で大人の都合と医療技術とで、わざわざ未熟児を増やしておきながら、
未熟児の行く末を調べてみたら早死にしたり正常な生殖ができない確率が未熟児でなかった人よりも高いから
やっぱり未熟児を助けるのは考えものだ……というのは論理展開がおかしいでしょう。

遺伝子に手を加えたり、生殖補助医療で胚を操作したり
障害児が生まれる確率を高くするような技術を平気で多用しておきながら、
その一方で障害胎児や障害新生児を排除しようとして様々に理屈をひねるのと
全く同じ話の進め方なのですが、

障害児が生まれて困るのであれば、
障害が起こるリスクを上げるような生殖技術の利用をもっと慎重にすべきだし、

上記の研究結果から今後の課題を引っ張り出すというのであれば、
未熟児が生まれないように今の生殖医療のあり方を考え直さなければ……、
という方向に向かうのが正しいのでは?

【追記】
曖昧な表現だったと気づいて一部訂正した時に、
ああ、こういうレトリックの魔術はコワイなぁ……と気づいた。

「未熟児の行く末を調べてみたら早死にする確率が未熟児でなかった人に比べて高い」

という文と

「未熟児の行く末を調べてみたら早死にする確率が高い」

という文では意味するところがまるで違う。

ここで報告されている調査結果はあくまでも前者。
しかも「大半は正常」という前置き付きの前者であるにもかかわらず、

「だから今後、未熟児をどこまで助けるべきか」と論理が飛躍する時には
いつのまにか後者の事実があるように錯覚(歪曲?)されているのではないでしょうか?
2008.04.15 / Top↑
もともと小説でも映画でもSFというジャンルが苦手なので
読んだことがなかったし、正直なところアーサー・C・クラークという作家にも興味がなかったのですが、
新聞で追悼記事を読んでいるうちに
THニストたちの夢の萌芽がこういうところにあるんだろうなと想像されたので
「幼年期の終わり」を読んでみたら、
(ちなみに読んだのは89年に書き直された第一章を含む新訳。翻訳がものすごくよかった。)

いや、面白かった。
私には一番面白かったのは第1章で、
そこだけ独立の短編かというほどぐいぐい惹きつけられた。

第2章以降にしても、これが53年に発表されたとは脅威の想像力・創造力。

人類がもっと頭が良くなった時にもっとできるようになることを
トランスヒューマニストがあげつらう時に、
彼らは芸術にはあまり触れない。

特に文学にはまず触れない。

頭の良さだけで文学的創造ができるわけではないことを、
実は彼らも知っているからなのでしょうか。

だって、これはクラークという作家の彼にしかできない「芸」だもの。

その一方、
この作品を読んで、とてもTHニスト的だなぁ……と
思わず苦笑してしまったのは、
50年代に書かれて21世紀に設定されたクラークの未来世界が
知的レベルの高いエリート白人男性の価値観で作られていること。
(一応、肌の色が既に意味をなくした未来世界とされており、
物理的にも数時間で地球上のどこでも移動可能なのだから、
肌の色という点だけで言えば黒人も登場はしますが。)

クラーク氏は男性と女性の性役割については未来永劫不変だと考えていたみたいで
この未来世界の性役割分担は50年代のまんま。
仕事をするのはみんな男性で
女性は育児と家事をモンクも言わずに引き受けて
彼らの帰りを家でおとなしく“待って”いるのだから、
こればっかりは笑ってしまった。

また人間がオーヴァーロードと呼ぶ宇宙人の外見は「悪魔」にそっくりで、
その姿に人間が理屈抜きの恐怖を覚えるのは
「種族の記憶」とでもいうものがあるからだろうと。

話は“人類”と“宇宙の支配者”という対立軸で描かれているはずなのですが、
ここではキリスト教文化が“人類”に拡大されてしまっているし。

(矢印型のしっぽ……日本人である私のイメージでは「悪魔」というより「バイキン」)

「自分が望まない仕事についている人間が誰もいなくなった世界」では、
食事は主語もなく作られて、主語もなく「片づけが終わる」ものであり、
登場人物たちが集うパーティでは飲み食いが行われているのに、
それを運ぶ人も片付ける人も存在しない。

国連も各国の政府も警察も学校も各種研究機関もあり、
だからおそらくその他の機関も存在して社会を機能させているようだから、
当然のごとく、そうした機能を支える労働者が必要なはずなのだけど、
組織の下層部分を支える労働者も単純労働の従事者もいない、
少なくとも表に姿が見えない世界なのです。

つまり主役しか存在しない世界なわけですね。

知的労働に従事している男性主役たちと、
せいぜい登場するのは
彼らが愛情を注ぐ対象となる妻と子ども、それから愛人という準主役。
この世界で姿を見せる人間はそれだけ。

この辺りに私は一番トランスヒューマンな感じを受けた。

「幼年期の終わり」はこの点では
あたかもみんなが主役のように夢を描いて人をたらすトランスヒューマニズムや、
「主役たるマジョリティの利益のために」功利主義で障害者を切り捨てるリベラルな生命倫理と
根っこのところが繋がっているような。

知的レベルの高い白人エリート男性優位の価値観という根っこ。

彼らの描いて見せる主役だけの世界で、
表に姿が見えてこない人たちは一体どうなっているのか。

その舞台ウラや奈落の下を覗いてみたら
いったいどんな人間がどんな過酷な役割を割り振られているのか。

ジャマだから見苦しいからと奈落の底に放置されたり
薄暗い片隅で舞台に漏れきこえないように声をふさがれて殺されていく存在は
本当にいないのかどうか。
2008.04.15 / Top↑
トランスヒューマニストのRay Kurtzweilが
13日のWashington Postで
エネルギー問題も貧困も最新テクノロジーが解決し、
人の寿命は毎年1年ずつ延びていくというバラ色の未来図を
またまた、お得意の「指数関数的速度」という言葉を頻発して描いてみせています。

Making the World A Billion Times Better
By Ray Kurtzweil
WP, April 13, 2008

彼はIT技術のおかげでアジアの貧困は半減したと書いているのですが、

彼が言っているのは中国とインドのことなのかもしれないけど、
国全体が経済成長を遂げているとしても、
国内の格差はほとんど人命軽視の次元ほどに広がっているのんじゃないのかいな。

世界中を嵐のように席巻しつつあるグローバリズムによって
アジアやアフリカの貧しい国はどんどんと
さらなる貧困へと追い詰められているのではなかったのかいな。
(さすがにKurtzweilもアフリカの貧困に触れてはいませんが。)

もう1つ「え?」と思ったのは、記事の最後でKurtzweilが
「コンピューター・サイエンティストであり発明家」と紹介されていること。
今まで発明家とか未来学者だとか紹介されるのは見たけど、
彼が「科学者」だったとは知らなかった……。


この記事を読んで思い出したのですが
そういえばWPには年明け前後に次のような記事がありました。




前者は
ヨーロッパや日本が人口減と高齢化に悩む中で
米国だけは順調に人口が回復し始めているんだぞ、と
その大きな要因を
働く女性への育児支援施策の充実と国民の宗教心の厚さに勝手にこじつけて
得意そうに胸を張る……といった趣の記事なのですが、
(実は子沢山文化の移民の流入が主因との声も)

その一方で首都の子どもの3分の1は貧困に苦しんでいるという
後者の記事が懸念しているような現実もある。

そういえばブッシュ大統領が無保険の子どもたちへの医療保障予算をカットした
という話も去年あったと記憶しているのですが、

米国の子どもたちがまともに医療を受けられていないという問題は
頻繁に耳にするところでもあり、

Kurtzweilが言うほど問題は単純ではないのでは?
2008.04.15 / Top↑
収録された文章のいくつかは発表された時に新聞などで読んだので、
これまでは取り立てて読んでみようとは考えなかったのだけれど、

何がきっかけだったか急に手にとってみる気になって、
多田富雄「わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか」を。

2年前の診療報酬改定でリハビリが急性期と回復期に重点化され、
実施する期間に一律で上限が設けられて維持期リハが切り捨てられたことに対して、
脳卒中の後遺症でリハビリ中の世界的免疫学者、多田富雄氏が
朝日新聞への投稿を皮切りに言論闘争を繰り広げた際の論説集。

機能の改善のためだけでなく維持や低下予防のためにもリハビリは不可欠で
そうしたリハビリによって日常生活をかろうじて維持している患者に
リハビリ中止は「死ね」というに等しい。

上限日数以後は介護保険で、と厚労省はいうが
介護の現場には受け皿になるだけのリハビリが質量とも存在しない。

リハビリの切捨ては今後さらに進む弱者切捨ての前兆に過ぎない。
(この春始まった後期高齢者医療制度を考えると、まさに的中の予言ですね。)

……などを大きな論点として氏は批判を展開しているのですが、

とにかく、多田氏はまっすぐにひたすら憤っている。

脳出血の後遺症と闘いながら執筆活動を続けていた社会学者の鶴見和子さんが
リハビリ中止からどんどん状態が悪化して遂に亡くなったことについて、
「小泉さんがこの硯学を殺したと、私は思っている」とまで書く。

さらに
リハ医療界の大物、石川誠氏(長嶋茂雄氏のリハ医として一般に名が知れた)がこの切捨てを主導したが、
それは自分の病院などが担っている回復期リハへの利益誘導が動機であった
とも実名を挙げて指弾している。

(高額な医療費がかかる富裕層対象の病院だというウワサは前に聞いたことがあったけど
 石川医師が院長を勤める回復期リハ病院が大手セキュリティ会社セコムの資本だというのは
 私はこの本で初めて知った。びっくり。

 そういえば厚労省が介護予防を云々し始める前には
 高額な機器を使用したパワーリハというのが流行っていたっけな。
 あれも某高名医師に近い某企業の専売特許みたいにして広がっていたんだったっけな。)

この世界的免疫学者は脳卒中に見舞われて口でしゃべる言葉を奪われ、
現役を退きはしたものの、リハビリのおかげでものを書く能力を取り戻した。
厚労省のリハビリ打ち切り策がそれまでも奪おうとした時、
氏は自分がもはや1人の弱者であることを骨身に沁みて痛感したのではなかろうか。

これほど、どこまでも丸裸の怒りを表明することは、
世の中でうまく渡っていこうなどという世知が残っている人間にはできないと思う。

これは現役を退いて世間から“降りた”人ならではの
ひたすらまっすぐな怒りなのだなぁ、とつくづく。

それにしても、
世界的な免疫学の権威であり強者であった氏の発言を世の中はどのように迎えたか、
転じて、弱者となった氏が渾身の力をかき集め、
ひたむきな怒りをこめて発するこれらの声を
世の中のマジョリティがいかに軽々と聞き流してしまうことか。

氏のこれまでの多くの著書の出版社や出版の形を
この本と比べてみると一目瞭然。

著名な学者であっても弱者が憤る声は、ゼニにはならない……。


        ―――――――

ちなみに氏の闘病記の方は大手出版社から出ています。
読者のみなさんも尋常ではない感動振りです。

Amazonで読者書評を読んでいると、
私などは見たこともないような用語が登場したり、
いずれの書評も高尚で格調高く、
さすがに闘病記の読者までレベルが高いのかと感心しそうになったところ、
ひょっこりと
「脳卒中になった人も、著者より苦しんでいる人もいっぱいいる、
そういう人と著者の違いは
著者は病気になる前から有名だったということだけだ」
という感想が登場し、思わず笑ってしまった。

自分が読んでいないのだから何を言う資格もないけど、
これもまた、きっと一面としては真実だよね。

障害者が「感動と勇気を与えてくれる社会のオアシス」でいる限り
世間は拍手を送るけれども、
障害者が自分の権利を正面から訴え始めるや、
拍手をやめて背を向けるというのも
一面としての真実であるように。
2008.04.14 / Top↑

ある高名なジャーナリストが癌になった妻の介護について語る講演を
聴く機会がありました。

とても印象的だったのは、
彼が「介護は楽しかった」と何度も繰り返すこと。

老いと共に身体を触れ合うことなどなくなっていた夫婦が
自分も裸になって妻の不自由な身体を
もつれ合うように抱きかかえて風呂場に連れて行き、
身体の隅々まで洗ってやる行為は、
それだけで気持ちの通う老後の愛の行為だったと。

だから自分にとって介護は楽しかった、
妻の介護ができて幸せだったと。

「ああ、確かに介護にはそういう面がある」と思いながら聴きました。

健常な子どもが成長すると親と子が身体を触れ合うことなどなくなりますが、
子どもに重い障害があると、親と子はいつまでも身体を触れ合って暮らしていきます。

そして、
愛する誰かに全身を委ねること、
愛する誰かに全身を委ねられることの中には
言葉を超えた豊かな交情があるというのは親子であっても同じだと
私自身も日ごろからそう実感しているのは事実。

もちろん、
それだけではない厳しい現実が他に沢山あることに
こういう美談の“お約束”としてとりあえず目をつぶれば、
そういう1面は確かにあるよね、と聞ける……ということであり、

そういう一面があるからといって、
だから「介護は楽しかった」とまで言ってしまうのは
見ないフリ、なかったフリをし過ぎるよね……という気もしないわけじゃなかった。

講演後、会場から真っ先に出た質問は、
「美しい夫婦愛の物語を聞かせてもらったが
 介護の中で限界を感じたことは本当になかったのか。
自分はたった4ヶ月母親を介護しただけで
どんどん追い詰められていった。
あなたは、そういう限界を感じたことはなかったのか」

非礼にならないように抑制しつつ、そこには、ちょっと挑戦的なトーンも。

介護に追い詰められたことのある人、
その時に自分の中の人間としての弱さ醜さと直面せざるを得なかった人は、
そのことから自分自身が深い傷を受ける。

だからこそ、この人はジャーナリストが語る介護の美しさの一面性を
黙って見逃すことができないのだなぁ、と思うと
私にはどこかすがすがしくすら感じられる質問でした。

それに対するジャーナリストの答えは、かなりお粗末で、
「介護の限界ですか? それは、
私は所詮本人ではないから、
本人の気持ちは理解しきれないという限界を感じましたけどね。
それ以外の限界というのは、なかったなぁ」
あくまでも上から人にモノを語ってやろうとする傲慢だった。

手伝いに入ってくれる(もしかしたら主に介護を担っていたかもしれない)娘が2人いて、
それまでと変わらぬ仕事を続けながら妻を“介護”し、
妻の末期にすら取材で2度も海外へ出かけることが可能だった彼の「介護」と、

おそらく主たる(もしかしたら唯一の)介護者として
肉体的にも精神的にもボロボロになって
これ以上頑張れない極限状態でも助けを求める先すらなく
途方にくれたり絶望したりという事態の繰り返しの中で
徐々に追い詰められていったのだろう質問者がいう「介護」とは

同じ「介護」という言葉で表現されるには
その体験はあまりにも違う。

でも、その一方で、
時を置いて振り返ったら質問した女性の介護体験もきっと
限界を感じる苦しい時間一色でベタ塗りされていたわけではなく、
ジャーナリストが語ったような豊かさも
折々にはちりばめられていたのではないかなぁ……とも思う。

介護体験を語るというのは、とても難しい。

介護には、状況やそれを強いられる密度と長さによっては、
介護する側が心を病んでも不思議はないほどに過酷な現実もあれば、
介護し介護される関係性の中でしか結ぶことのできない人との関わりや繋がりと、
そこにしか見つけることのできない種類の濃密な関係性というものもあって
その両方が常に混然としているのが本当のところではないかと思うのです。

それなのに、なぜか自分の介護を言葉で語ろうとすると、
ポジかネガのどちらかだけでしか語れなくなるところがある。

一方だけを語ったのではウソにしかならないし、
どちらかだけを語ったのでは一面の真実にしかならない。もどかしい。

その両方がどちらも混然とあることを上手く言葉にするというのは
ほとんど至難の業なのかもしれない。
(それをほぼ成し遂げている小説作品はいくつか読んだことがあるのですが。)

そういえば、10数年前に友人がいったことがあった。

「障害のある子どもを持って大変ですね」と言われると、
「いいえ、そんなこと、ありません」と言いたくなる。
でも、
「障害があっても普通の子育てと違わないでしょう」と言われると、
「いいえ、大変なんです」と言わずにいられない。

──介護を巡る思いは複雑すぎて、簡単には言葉にならない。

【追記】
これを書いて、ふっと考えた。

自分の介護体験を語ろうとするとポジとネガのどちらかしか語れなくなるのは
もしかしたら介護を巡る2つの相反する感情の間で
自分自身が引き裂かれているからなんだろうか……?

2008.04.14 / Top↑
インターネットをぶらぶらしていると、
世の中には本当にいろんなブログがあるんだなぁ……と目を見張ることは多いけど、

ゲイツ財団を監視するブログもちゃんとあった。

その名もなかなかシャレていて、
門番という意味のgatekeeperに引っ掛けて、Gates Keepers

サブタイトルは、
Civil society voices on the Bill and Melinda Gates Foundation
(ゲイツ財団についてモノ言う市民社会の声)

慈善事業の名に隠れて、財団の巨大資金を
マイクロソフトの独占的世界支配の具としているとして、
主にゲイツ財団の活動の透明性に疑問を投げかけつつ
財団に関するニュースやブログ記事などを収集するブログのようです。

このところ、時々覗いてみていたのですが、

あの権威ある科学誌Lancetに対して、
「Lancetの特集はゲイツ財団に買収されたのか?」と
疑惑を投げかける、気になるポストが目に付きました。



「Lancetの特集はゲイツ財団に買収されたのか?」と6日に疑問を提示、
それに対するLancet誌からのリアクションを紹介するのが9日のポスト。

Lancetの特集記事で特に政治的に物議を醸す生殖がらみのものについては
あちこちの財団からお金が出ているらしいのですが、
ゲイツ財団のように巨額を投じている場合には、
財団の利益や、財団が資金を提供している機関からの投稿に対して、
本当にLancetとして独立した審査ができるのか――。

ここでGates Keepersが投げかけている一般的な疑問というのは、
しごく当たり前の、そういうもの。

しかし、個別的な問題として指摘されているのは、
この春にSeattleのWashington大学にGates財団の資金で創設された研究機関があって、
Lancet誌がお金を介してそこに繋がっていく構図なのです。

Ashley事件ウォッチャーとしては聞き捨てならないので、
これについては、またあちこち当たってみてから
改めて書こうと思いますが、

とりあえず、この話を別にして考えてみても、
科学研究については資金がどこから出ているかを確かめてから……という程度には
世の中の裏側というのを意識はしていたつもりだけど、

「Lancetに論文が出た」というと、「お、懐から印籠を出してきたぞ」
と感じるほどの雑誌にもお金にまつわるそういうウラがあったんだと知ると
ちょっと衝撃。

出した人の意図はともかくとして、
受け取った人の中では独立した審査や公平中立なんて不可能にするだけの魔力が
お金というものは具わっていると、私は個人的に考えますが。

仮に出した人が「こうして欲しい」といわなくとも、
仮に見返りを要求する意図などゼロだったとしても、
そのお金を頂戴する側には、
いつのまにやら過剰な“慮り”や
言われないうちから先回りの“配慮”をさせてしまう魔力──。

それは、巨額のお金が動くところには
人間一人ひとりの善意や悪意とは無関係に
必ず生じるものなのでは──?
2008.04.13 / Top↑
「慈善資本主義(もしくは博愛資本主義)」という新語ができているんだそうな。
英語ではphilanthrocapitalism。

例えばロックフェラー、フォード、カーネギーといった大金持ちが
かなり大雑把な理念であちこちにお金を投じた20世紀の慈善事業のやり方を
慈善ヴァージョン1.0とすると

21世紀の現在、例えば
マラリアがGDPに与える損失を算定して
それなら撲滅にお金を使うことに価値がある…と判断を下すBill Gates氏のように
投資と同じ計算で「社会の利益を最大にする」ことを目的とした慈善事業は
いわば慈善ヴァージョン3.0だと、
以下の記事を書いた筆者のPeter Wilbyは言う。

(進化・変貌の大きさを強調して3.0としているので
ヴァージョン2.0については不問に、とのこと)

It’s better to give than receive
By Peter Wilby
The New Statesman, March 19, 2008


富裕層や慈善団体が「さぁ、自分はどこに寄付をしよう?」と考える際に参考にと
英米には各種チャリティや団体の活動データを提供する団体があって、
そのようにして行われる寄付行為で働く原理はどうやら
「最少金額で最大多数の生命を救うために」。

Wilbyはこうした慈善事業のあり方に5つの懸念を述べているのですが、
簡単にまとめると、

社会の格差を肯定、固定化し、
これまで税を通じて富の分配を担ってきた政治の社会保障機能を鈍化させ、
ごくわずかな富裕層のコストパフォーマンスの価値観が優位となることで
支援の効果が見えにくい(つまり最も支援を必要とする)人々が黙殺されていく、
また、これまで社会の変革をもたらしてきた市民運動の活力がそがれる。

そもそも超富裕層が慈善事業を通じてやっているのは
実は己のビジネス拡大だけであるばかりか、

彼らが慈善資本主義によって流しているのは

「世の中が抱える問題は我々のビジネス・テクニックに任せて。
 そのかわり我々を大金持ちにしてくれる仕組みはこのままにしといてね」

というメッセージに他ならないではないか、とWilbyは批判。

……というのが「慈善資本主義」。

      ----      ----

Shiavo財団がスポンサー不在に困っているんだったら、
Gates財団に支援を申請すればいいのに……と
前のエントリーでふざけてみたけど、
ジョークにしても、この溝、相当に深かったようですね。

「最少金額で最大多数の命を救うため」というのにしろ、
この記事に書かれているゲイツ財団の支援原則の
「最も大きな変革を起こせるところにお金を」にしても、
結局はリベラルな生命倫理の説く功利主義の論理。

彼らのお金はShiavo財団ではなく、
むしろ「無益な治療」論を後押しする方向に動くことでしょう。
2008.04.13 / Top↑
前のエントリーで Nat Hentoff による Schiavo事件批判を紹介しましたが、

その後編に当たる4月7日の記事内容は
Terriの両親や家族が闘いの過程で設立した財団の活動紹介と協力要請となっています。

テリー・シンドラー・シャイボ財団
The Terri Schindler Shiavo FoundationのHPはこちら
(SchindlerがTerriの旧姓)

「無益な治療」理論に抵抗するためのラジオ番組をスタートするというニュースも最近ありましたが、
「死ぬ権利」ばかりが喧伝される世の中で、
「生きる権利」を訴え続けていこうとしている同財団は

法的代理人制度、医療を巡る代理決定の考え方や予めの意思表示について
啓発活動を行っています。

これについては、私も Ashley事件について眺めてくる過程で、
まったく同じ必要を痛感しているところ。

事件を巡るブログやニュース記事へのコメントを見ていると、
自分で意思決定できにくい人の権利擁護のために
法的代理人制度を始めとする然るべき手続きの存在が知られていないのはもちろん、
そういう人の権利が慎重に擁護されることの大切さがそもそも
ほとんど認識されていません。

そうすると、
本来の「しかるべき手続き」を基準に事実を検証するということがなされないまま

イメージ先行の「常識」によって大雑把な感情論で是非が論じられ
いつのまにか「世論」が盛り上がっていく。

「しかるべき手続き」に対して敢えて知らないフリをして
世論の目をそこから逸らせようとする意図が働いた場合に
世論とは、いかに誘導しやすいものであることか。

(Ashley事件はその典型でしょう。)

シャイボ財団の啓発活動は
「本人の最善の利益」などという非常にいかがわしい言葉と概念が横行している現在、
とても大事なポイントを突いて非常に大切なことだと思います。

また財団が今後やろうとしていることとしてHentoffが紹介しているのは

アラート・システム
Terriと同じような状況に置かれた人を財団や支援者に知らせる機能。

医療センター設立
Terriのように生命維持のためのケアを拒否された人を受け入れる医療機関を作りたい。

法的支援機関の設立
脳損傷の患者への治療停止事案を巡って法律と医療の両面からサポートするシステム作り。


大変な事業です。

Terriさんを救うことができなかったご家族の無念を
自分たちの個人的な憤激に終わらせず
障害への無理解による多くの障害者の切捨て阻止に向けて
積極的に行動される情熱と行動力に敬服します。

しかし財団への大口スポンサーはまだいないとのこと。
マイノリティの権利擁護はやっぱり利権とは無縁だからなのでしょうか?

ゲイツ財団に支援を申請してみたらどうなんだろう……?
2008.04.12 / Top↑
米国民主党の大統領候補Barack Obama上院議員が
Terri Schiavo事件で司法への政治介入は間違いだったと発言したことについて
「Obama候補がShiavo事件について発言」のエントリー(3月2日)で書きましたが、

そのObama発言に対して、
コラムニストのNat Hentoffが2度に分けて批判を繰り広げています。

Terri Shiavo事件を「米国史上最も長い公開処刑」と呼ぶHentoffは
Shiavo事件の本質は関係者に基本的な事実認識ができていなかったことと、
障害者問題についての認識不足だった、と。

Nat Hentoff: Barack Obama vs. Terri Schiavo
By Nat Hentoff
The Sacramento Bee, April 1, 2008

Securing the right to live
By Nat Hentoff
The Washington Times, April 7, 2008

彼の批判の最大の要点は
Ashley事件に関する議論を巡って当ブログが一貫して指摘していることと全く同じで、

無責任にモノを言う前に、事件の事実関係をきちんと把握せよの1点。

特にObama候補は元法学の教授なのだから
事件の事実関係をきっちり調べろと学生を指導したのではないのか、と。

Terri Shiavo(当時41歳)には自発呼吸があり、末期でもなく、
反応もあって植物状態ですらなかったからこそ議会が介入したのであり、

本人は尊厳死を希望していたはずだと主張した夫には
Terriとの結婚生活の間から続いていた愛人がいて
彼女との間に既に子どもが2人もいたし、
93年以降は妻の検査もリハビリも放棄していたのだと。

また全米29の障害者団体がいっせいに批判活動を展開したというのに
彼らの主張するところを本当に分かっていたのか。

事実関係が把握できていれば
これが「死ぬ権利」の問題ではなく
「生き続ける権利」の問題だということが分かったはずなのに、

メディアも事実関係をおろそかに適当な解釈で報道しては、
お互いの誤解や間違いをそのままなぞり続けて……ったく……

…というHentoffの苛立ちは
Ashley事件でのメディア報道のいいかげんさにspitzibaraが感じるのと全く同じ。

Hentoffはさらに
栄養分と水分の補給中止を認めた裁判官たちも
自身で独自に事実関係をちゃんと把握していないと批判。

4月1日の文章の最後で彼がObama候補に呼びかけているのは
障害者について、もっと勉強せよ

Ashley問題については
私は誰よりもDiekema医師に同じことを言いたい。
2008.04.12 / Top↑
米国メリーランドのJohns Hopkins 大学病院で
6人のドナーから6人のレシピアントへの生体間腎移植が同時に行われたという
世界初、偉業達成のニュース。

といっても、
ドナーとレシピアント6ペアの移植が単純に同時に行われたというのではないのです。

生体間移植では
家族や友人など親密な関係にある人がドナーになろうとするケースが多いわけですが、
マッチして希望通りに腎臓をあげられるとは限らない。

そんな「あげたいけどあげられない」ドナーとその相手とをペアとして捉えた場合に、
1組のペアの間では実現不能な腎移植も、
何組か揃えることによってマッチングが可能となる、と。

同病院はこの他方向同時移植のパイオニアで
2005年に3方向、一昨年の11月には5方向の同時生体間腎移植を成功させています。

で、今回6方向をやった、というニュース。


今回の手術に関する病院サイトはこちら

2006年の5方向手術に関する病院サイトはこちら


2006年の5方向の際もドナー希望者を個人的に連れてきた患者は4人で、そこに
愛他的(個人的関係がなくボランティアで提供しようという人)ドナーが1人加わることによって
5人のドナーから5人の患者への移植が可能になったということでしたが、
(ドミノ移植も含まれていたとのこと)

今回も5人の「愛する人にあげたいけどできない」ドナーに愛他的ドナーが1人加わることで
いきなり6人への移植が可能になった。

同病院では、これをKidney Paired Donation(KPD)と呼んでおり
(人を組み合わせるのではなく腎臓を組み合わせる移植システムとの意でしょう)

ドミノ移植も含め、組み合わせがクロスして錯綜するから同時なのかと
2006年に5方向のニュースを読んだときには、
そのカラクリがよく分からないままに考えていたのですが、

上記BBCの記事によると
自分の愛する人が臓器をもらったとたんに
ドナー予定者がイヤだと言いだすのを避けるためだとか。
なるほど──。

確かに、あげたくてもあげられない人や愛他的ドナーの善意を
無駄にしないシステムだよね、画期的だね、とは思うのですが、
(見も知らない人に自分の腎臓を片方あげてもいいと
ボランティアで思える人というのが
正直なところ私は個人的には想像できにくいのですが)

2006年の際は
外科医12人、麻酔科医11人、看護師18人の陣容で
手術室6室を使い10時間の手術だったとのことで、

今回も関わったスタッフざっと100名。

普通に働いている人が盲腸の手術をしたら破産の危機だといわれる米国で
この手術を受ける人は、いったいどれだけの医療費を支払うのだろう、
それとも世界のパイオニアたる病院の偉業達成に協力するのだから
無料または大幅な値引きがあるのか……

つい下世話なことを考えてしまう。

もう1つ、どうしても考えてしまうのは
移植医としては、やっぱり次は7方向で……? 
2008.04.11 / Top↑
アメリカの大学生に不人気な講座の典型だった哲学がどうやら最近人気……といっても、
彼らが人生の真理を極めようとの志に目覚めて哲学者への道を選んでいるのではなく、

医学にせよ法学にせよ経済学にせよ
自分が進もうとする分野で成功するためには
哲学を受講して論理的思考力、文章力、分析と批判能力を身につけるのが有利……
との計算によるもの。

つまり学問としての哲学でも、よくある哲学学ですらなく、
理屈で闘って人を論破するテクを身につけようという発想ですね。

ってことは、関係性とか人の感情など全く度外視した
超極端な事例を考え付いては
なんだかんだと高飛車な理屈をこねくり回し
結局は自分に都合のいい結論を導く……

そういう正当化の豪力ワザばかりに長けた頭でっかち人間が
米国の支配層に増えていくだろう……ということなのか。

今なんだかやたら威勢のいい
生命倫理学者と呼ばれてる人たちみたいな──?


なんか、なぁ。

何もかも科学で説明がつくわけでもなければ
論理だけで相手を言い負かしたら、それが正しい証明になるわけでもないと思うんだけど、

そういうのって、

お気に入りの空間で好もしく思う相手と美味しいものを食べて理屈抜きのシアワセに浸る……
なんていうことを自分の生活では当たり前として楽しんでいながら、

他人の食については平気で栄養素とカロリーの問題に貶めて
数値だけで乱暴にぶった切って捨てる、

それも「どうだ、反論はできまい」と高圧的に。

……みたいな人が増えるということのような気がする。
2008.04.11 / Top↑
インターネットの健康ショップ「ケンコーコム」の
ペット用品のページの中にある高齢ペット・介護用品ページから。

例えば介護ベッドはサイズとグレードによって4400円から20000円。

スプリング構造で通気性抜群の床ずれ予防ベッド(介護ペット用品)です。優れた体圧分散性と通気性の良さで、老犬や介護の必要なワンちゃんの床ずれを防ぎます。また、移動中の車の揺れや衝撃、ケージの硬さや冷えなどを避けることも出来ます。

ペットの紙パンツ介護用はSサイズだと20枚入って1000円程度。
一番大きなLLサイズは6枚入って1260円。ざっと1枚が210円。

老犬用スロープは6090円と4200円の2種類。

老犬介護用高さ調整機能つき食事台というのは、
姿勢維持が困難な老犬のための食事補助用品で高さが3段階調節可能。
こちら4700~6300円。

老犬介護用持ち手つき食器も3サイズそろって1000円台各種。

床ずれ予防パット(穴あり)2個セットで4305円。

          ―――――――

NHKが2005年7月26日に放送した
「まちかど情報室」という番組の特集「高齢ペットの健康支えます」で紹介されているのは
酸素濃度を高める機能を持つペット用のケージ。

製造販売元のテルコムのHPでチェックしてみたら、レンタルで、

初回だけの基本料金に10000円。
中型だと1日のレンタル料は1500円。
納入・設置時に5000円~7000円。
ただし15日以上の利用は一律22500円。

ペットのリハビリ・温泉・鍼灸療法についてはこちら

ペットフード輸入販売会社アイムス・ジャパン株式会社は
高齢ペット犬の幸福度に関するアンケートを行っており、その結果はこちら


      ―――――

別に犬だからペットだからといって、
老いても放っておいていいとは思わない。
家族同様に過ごしてくれば、できるだけのことをしてやりたいのが人情だし。

してやりたい人がいればニーズがあるからマーケットがあるわけで、
こうなるのも自然の成り行きだし、選択肢があるのは悪いことではないし。

ただ、な~んか
引っかかってしまうというか
悲しい気持ちになってしまうというか
納得できない気分になるのは

ペットの介護用品を眺めてみるだに
こぉぉぉぉぉんなにも豊かな日本で、なんで

老いた人間や障害のある人間は
介護保険の改正でそれまで使えていた電動ベッドを取り上げられたり、
介護費用削減に直接結びつく効果が見込めなければリハビリを受けられなくなったり、
障害者自立支援法で支援を切られたり自己負担が担えなくて
家から外に出られなくなったり、
排泄や食事にすら不自由したり、
時には命に関わるほどのリスクをしのんで暮らさなけりゃならないんだ──?

なんで老人の介護に疲れた家族や
障害のある子どもを抱えた親が
こんなに次々とボロボロになり絶望して
家族を殺し自分も死んでいくんだ──?

自由診療が認められる一方で後期高齢者医療制度ができたりすることも同じだけれど、

(「長寿」と言い替えただけで
 「年寄りはなるべく国のゼニ使わずに効率よく老いて死ね」という制度が
「日本で長生きしてよかった」という制度へと
簡便に変身するわけではありませんよね、福田さん、舛添さん?)

選択肢が増えていくのは一定の所得層以上であって
それ以下の我々貧しい民草の選択肢は狭まっていく一方。

せめて
一般の国民には最低限の社会保障すらおぼつかないのに
富裕層だけは巨大マーケットで選択肢がたくさん……というビジネスについては

道路特定財源みたいに社会保障特定財源として
特別消費税を課してもらえないものだろうか──。
2008.04.10 / Top↑
主食を中心に食糧の値段が1年で2倍に跳ね上がったエジプトで
この2日間暴動が続き、

物価高による食糧不足から他にも世界各地で暴動が起こっていることから
(ただし店に食品がないわけではなく高くて買えない食糧不足)

このまま食品の値上がりが続くと
体制が脆弱な国を中心に世界中で暴動が起こり政治不安・治安の悪化を招くと
国連人道局の局長が警告。

人道援助を必要とする災害は地球温暖化の影響で
この20年間で200から400に倍増して
それでなくとも人道局の仕事は困難を極めているというのに、と。

エジプトの暴動のほかに
物価高と食糧不足が理由で起こっているのは

・先週ハイチの暴動で4人死亡。
・象牙海岸で激しい抗議行動。
・2月にカメルーンで値上げ反対の暴動で40人死亡。
・モーリタニア、モザンビーク、セネガルで過激なデモ。
・ウズベキスタン、イエメン、ボリビア、インドネシアで抗議行動。


たぶん、物価高と食糧不足は最後の引き金に過ぎず、
そういう世界の貧困地域で人々が暴動を起こすほどの素地は
それまでに他の事情でも諸々に積み重ねられていたのでしょうし、

「ルポ貧困大国アメリカ」が描いていた暴走型市場原理システム
実はアメリカ一国の話ではなく世界全体を飲み込んでいる。

なんか、人間社会そのものが崩壊に向かっているという感じがして。
それも、もうどうにも止められないくらいの猛スピードで。

関連エントリー
象牙海岸の悲惨
2008.04.10 / Top↑
夕方、CNNjを流しっぱなしていたら、
たいていは意味を結ばず流れていく音楽みたいなのに
そのニュースだけ、なぜかはっきり聞こえてきて
思わず包丁を使う手を止めた。

オーストラリアで実の父と娘が夫婦となって子どもまでいる――。

2人で仲良くインタビューを受けているので、
そこだけはテレビの前までいって見たのですが、
父親の方が言い放った言葉がすごかった。

「違法だってことくらい分かっているさ。
 そうだよ。違法行為だよ。
 だから何なんだよ?」

“ながら”で聞いて分かるほどの英語耳ではないので
前後に報道された詳細は分からないまま、
この開き直りだけは頭にリフレインし続けた。

それからずっと考えているのは、

これは例えば FostParis が医療の世界で
「どうせ医師の思うようにはさせてくれないから裁判所へは行くな。
 実際に罪に問われたことはないのだから法律など無視して
 生きる価値のない患者は切り捨てよ」
と言い放つことの、
ちょうど裏返しではないのか、ということ。

競争原理・市場原理・グローバリスムだネオリベラリズムだ功利主義だと、
強者の側・権力の側が弱者を守る責任を放棄して
一部の富裕層にだけ都合のいい世の中がものすごい勢いで作られていき、

オマエらはワシらの世の中を支える底辺労働力となるか、
もしくは都合よく使い捨てられる消耗品となるかしか道はないぞ。

世の中の役に立てるか。それを証明できるか。
身を捨てて証明するか。証明できなければ生きる価値はない。
もうオマエたちを守るものはどこにもいない──。

そんなメッセージを
名もなき貧しき民草は自分たちが呼吸する空気の中から
既に敏感に読み取り始めていて、
(もちろん意識してなどいないけれど)

もはや個々人の寄る辺となる社会が崩壊しつつある
ただの弱肉強食なのであれば
社会の秩序を尊重する意味もないし、

権力の側が切り捨ての武器にしてきた「自己責任・自己選択」を
個の側だって社会秩序を拒否する盾にとる……。

それも考えてみたら自然の成り行きだよね、と。


もちろん近親相姦を肯定するわけではありませんが、
(そういえば兄弟が夫婦になっていたという話も最近どこかであったような気がする)

近親相姦そのものがどうだというよりも、
近親相姦すら「違法だから、それで?」と開き直れるほどの
自己選択・自己責任、社会秩序や法の軽視に受けた軽いショックは

男性が妊娠腹をしている写真を見た時と同じ
「ありえないものを見た」という衝撃に近くて

「ありえない言葉を聴いた」という感じだったので。

              ―――――

この“夫婦”については 
ネットで検索したら裁判で2人は既に近親相姦の罪で有罪判決を受けているのですが、

以下の記事によると2人は「リスペクトと理解を求めている」のだそうです。
この2人も「わかってほしい」わけですね。

2008.04.09 / Top↑
昨夜、Guardianで
世界で初めて妊娠した男性 Thomas Beatie がテレビに出たとの記事を読み、

YouTubeでOprahと話をしている彼のビデオを見て、
前のエントリーを書き、

ずっと彼のことが頭に浮かび続けているうちに
今日になってふっと思ったのですが、

この人はもしかしたら、
ただ「わかってもらいたい」だけなのかも……、と。

「普通」から外れていることに苦しんできた自分が
「普通でなくてもいい」ということと「普通の願いをかなえたい」ということの間で
答えを探しながら生きているんだということを、

それが苦しいことであると同時に自己肯定の試みでもあるだけに、
ずっと自分の「普通でなさ」を受け入れてくれなかった周囲に
ただ「わかって欲しい」……んだろうか。

そんなふうに感じたのは、
彼がOprahの質問に緊張しながらも誠実に答えようとしていた姿に
あまり余分なものを感じなかった気がするからなのか、

自分からテレビに出てわざわざ脚光を浴びたいとか
特にゲイの人権がどうのこうのと講釈を垂れたいタイプでもなく、
他の人にも自分と同じことができる可能性を説きたいわけでもなさそうで
むしろ戸惑っているようにすら見えた。

「ゲイとかトランスセクシャルの人はどこかの時点で
自分の性別に違和感を感じるようになったというけど
あなたはどうだったの?」

「やっぱり女の子に惹かれたの? 女の子と付き合いたかった?」

などの質問にもOprahの期待通りの答えは出てこなくて、むしろ
かなり遅くまで自分の性に違和感を感じなかったような話だったのと、

5歳の時に母親が自殺して、
それ以後は父親が母親役割と父親役割の両方を担って育ててくれた
と話していたのが印象に残ったのですが、

この人が自分が妻に代わって妊娠した姿をゲイの雑誌に公表したのは、
例えば大きな病気と必死で闘っている人が「自分だけの闘病記」を書かずにはいられないのと
実は同じなんだろうか?


            ―――――――

性別を意識していないと敢えて主張しなければならないのは
誰よりも性別を意識しているということでもあるという堂々巡りが、
性別によって傷ついたり苦しんできた人の自己肯定作業の宿命なのかも知れないのだけれど、

(「障害」は「個性」だと声高に主張しないといられないことにも
 私はこれと同じ宿命的な堂々巡りを感じるのですが)

「一度男であることを選んだ」のだから性別を意識していないわけではないし、

でも、その「男であることを選んだ」という事実から
「女でもない男でもない人として我が子を持ちたいから
性別とは関係なしに妊娠している今の自分」までには、
ちょっと距離というか飛躍がありますね。

性転換手術をするときに、具体的な方法までは考えていなかったけど
将来子どもを産むことも想定して生殖機能は残した……という話が
その距離と飛躍を埋めるのかなぁ。

実は何も大して深く考えてなかったりしてね。
2008.04.09 / Top↑
以前のエントリーで紹介した
性転換して男になって結婚した後に妊娠した(やっぱ、ややこしいな)Thomas Beatie氏が3日に
妻と一緒にOprah Winfrey の番組に出演したとのこと。

発言の内容は先月ゲイの雑誌に妊娠を公表した際の記事とほぼ同じ。


ゲイの雑誌に写真を公開したものの
ガセだという声があったことに反発してのテレビ出演なのかもしれませんが、

彼の妊娠を担当している産科医も
「ごく普通の妊娠。経過は良好」と番組にコメント。

You Tube に投稿されたビデオを見てみると、
番組中にお腹の胎児を超音波で見ている映像や
夫婦が準備している子ども部屋や赤ちゃんの服、
その他、夫婦の大変親密な映像まで
よくも、まぁ、ここまで……と思うほど、あれもこれも公開。

こうまでして世の中にアピールしたい動機が
一体なんなのか分からない。

夫婦がこれまでに相談した機関は
「世の中はまだこういうことに対して準備ができていない」として
もれなく公表には反対したということなのですが、

自分の子どもを持ちたいのは男でも女でもなく人としての願いだと彼自身は主張しており、
番組の中でも
「ショッキングだろうけど、今の時代には可能だし、実際に起きているわけですよ」
と言っているのだから、
やはり技術的に可能なのだから
みんなもやろうぜと呼びかけているつもりなのか……?


「なぜ、こうまでして公開したいのか」
という疑問はAshley父にも通じていくのですが、

じゃぁ逆に、
「一般には倫理的に疑問視されることを
例外的にやれてしまった人
または自分で勝手にやってしまった人は
それを公表せずにいるべきなのか」と考えると
これがまた難しい。

(Ashleyの場合は父親の地位への配慮から
 病院が内密裏に実施した特例だった可能性があると
 spitzibaraは考えており、
 Beatieの場合は自分で受精させて勝手に妊娠してしまったわけですが)


公表すればメディアはセンセーショナルに騒ぎ
それが前例を作ることになるから、
当然そこには滑り坂の懸念が出てくるのだろうけれど、

かといって、公表せずに水面下で済まされていいのかといえば、
それもやっぱり違うだろうと思うし。

本当は公開するかしないか以前に、
想像もできないことが起こりうる現実に
現場の専門家ですら付いていけていないほど
進みすぎた技術の方なのだろうけれど、

Ashleyの前例が作られて
一部メディアも煽ったし、擁護した人が一定数いたにもかかわらず
英国でKatie Thorpeの子宮摘出は認められなかったことが
やはり大きなヒントではないのか、と私は思うのです。

物事の勢いや誰かの声の大きさに影響されることなく、
地味であっても時間がかかっても踏むべき手順はちゃんと踏む、ということ。
議論すべきことは順を追ってきちんと漏れなく議論するということ。
最も弱い者が守られるだけのセーフガードをちゃんと整えるということ。
切り捨てるためのアリバイとしてではなく、守り抜くためのセーフガードとして。
それが整えられないうちは慎重が上にも慎重に、ということ。

(Katie Thorpeの子宮摘出要望と却下の顛末については
Katieケース裁判へ
GuardianのKatie記事
他、「英国Katieのケース」の書庫に。)

    -----       -----

Beatie夫妻の子どもはここまで来たら生まれるのだろうけれども、
その子どものために緊急避難的に考えておくべきこと、
この一家の個別のケースのために考えるべきことと同時に、

社会が今回のケースをどのように位置づけるのかということ、
こういうことが起こりうる社会として法律や医療や倫理問題や
興味本位に騒ぐ前に考えるべきことが沢山あるだろうし、

なによりもこの問題において最も弱い者とは生まれてくる子どもなのだから。

それらの問題に社会としての結論が出るまでは
当面禁止するくらいの慎重さを持って欲しいと、
よその国のことながら、思う。

これはAshley問題でも同じ。
他所の国だからといって、関係も影響も全くないとは思えないし。
2008.04.08 / Top↑
先週のある日のこと。

堤未果氏の「ルポ貧困大国アメリカ」を読んでいる時に玄関のブザーが鳴ったので、
出てみると某社の宅配便。

「あ、どうも」と荷物を受け取ろうとすると、
すかさず「トイレット・ペーパーいらない?」

このオジサンはきびきびして気持ちがいい人なのだけれど、
唯一の難点がこれ。

荷物を手渡しし終えるかどうかというタイミングで
「味噌、いらない?」
「美味しい水あるけど、買わない?」

「いらない」と言えば「あ、そう」と引き下がってくれるから大して気にはならないのだけれど、
その日はなんだか未練がましく値段や個数を並べて粘った。

「でも歩いて2分で行ける生協でセールの時買うと120円も安いよ」と言うと
「そりゃ、そうだよね」と、今度はすんなり折れて
その代わりみたいにオジサンがボヤくところによると、

つい先日までは売る努力さえしていれば、
売れようと売れまいとそれでカンベンしてもらえたのだけど、
今度から一定数を売らなければならないことになって
ノルマをさばけなければ罰金を食らう──。

わし、宅配便のドライバーなのに、なんで、こんな目に?
……とばかりに頭を転がしつつ車に戻るオジサンの後姿は苦渋に満ちていた。

ドライバーさんの仕事は宅配なのに、
なんでモノまで売らなけりゃならないんだよ、
しかも罰金ったって、そんなの無茶だよね……と
つぶやきながら階段を戻りかけて
「あ、これなんだ。同じなんだよ」と。

「ルポ貧困大国アメリカ」に書かれていることと
今のドライバーさんの話はまったく同じなんだ、繋がっているんだ、と思ったわけです。

例えばハリケーン・カトリーナの際に全く機能せず
自然災害に人災を加えたと非難を浴びたFEMA(連邦緊急事態管理庁)について
この本の中でFEMAの元職員は言います。

FEMAは実質的に民営化されたも同然でした。他の多くの業界同様、アメリカ人が最も弱い「自由競争」という言葉と共にです。私たちは市場に放り出され、競争が始まりました。主要任務はいかに災害の被害を縮小し多くの人命を救うかということから、いかに災害対策業務をライバル業者よりも安く行うことができるかを証明するということに代わったのです。(P.43)

郵便局も病院も学校も介護の現場も、
「いかにライバルよりも安くあげられるか」、
「いかに目に見える結果だけを短期間に出せるか」を証明することに血道をあげ、
すぐに目には見えないけれども本当は何よりも大切な本来の仕事と
じっくり取り組む余裕をなくしていく日本だって同じことで、

この本に描かれていることは
簡単に言えば9ページの以下の数行に尽きると思う。

……国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを越えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在、私たちが今まで持っていた、国家単位の世界観を根底からひっくり返さなければ、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねない程の恐ろしい暴走型市場原理システムだ。
 そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙句、使い捨てにされていく。

これ、
宅配のドライバーさんがノルマを課せられて水や紙を売らされて、
宅配はちゃんと配達していてもモノ売れなきゃ給料から罰金を徴収。
それがイヤなら辞めても結構、代わりならいくらでもおるわい……と
無言のうちに脅されるのと同じことで、

実はこれと同じ話が形を変えて誰の周りにも
いっぱい進行しているんじゃないだろうか。

ただ、この本に書かれていることで、
少なくとも日本ではまだ起こっていないと思う(これからもそう願いたい)アメリカの悲惨は、
それ以外に生きる道が見出せないほどの隘路に貧困層を追いつめておいて
詐欺同然の口車で軍にリクルートしては真っ先にイラクの前線に送り込む恐ろしいカラクリ。

貧困が徴兵装置として機能する格差社会。
不法移民も貧困層も兵士として使い捨てにする分にはまだしも使い道があるといわんばかりに。

しかも戦争まで民営化されて
民間の会社が“社員”を雇って“派遣”するのだから
国には責任は全くないし
給料だって条件だって無法地帯みたいなもので、
どんなに非人間的な条件であろうと不満があれば辞めればいい、
それ以外に生きていけないからやるという代わりの人間はいくらでもいる、と。
まさに「使い捨て」。

ところで、
この本に描かれた「暴走型市場原理システム」を科学とテクノロジーへと当てはめてみると、
それって正にトランスヒューマニズムと生命倫理が描く図になるのでは……?

そういえばNorman Fostは言っていましたね。
薬の人体実験などでリスクを犯して被験者になってくれる人には
リスクに見合うだけの報酬を払えばいいのだと。

無保険だから医療が受けられない貧困層を
いかにも実験に協力すれば治療してもらえるような舌先三寸でたぶらかして
すずめの涙の報酬で人体実験の資材としてリクルート……なんて、
本当は既に起きているのかも?

この本が描いて見せている
格差社会が貧困層を兵士として使い捨てている図は
そのまま科学とテクノロジーの世界でも起こっている、
またはこれから起ころうとしている図……ということでしょう。

本当にいいのか。
歯止めはもうかけられないのか。

と、いつも同じ、ごまめの歯軋り。
2008.04.08 / Top↑
先天性白皮症(アルビノ)の人は家族に呪いがかかっていると
広く信じられているタンザニアで

去年19人ものアルビノの人が殺されたとのこと。

その遺体の一部を切り取っては
幸福になる魔法の薬の材料にする祈祷師らに対し、
大統領が摘発を命じた、と。

タンザニア・アルビノ協会がかつて
政府はアルビノ殺しを黙認していると非難したこともあったとか。



そういえば、ナイジェリアでも

       ------        -------

差別には2通りあるのかもしれない、と時々考える。

それがなんであれ持っている者・与えられている者には
それを持たない者・与えられていない者の身になるということができにくくて、
だから、持てないこと・与えられないことの理不尽も痛みも理解できないために
その無理解・無関心から生まれる差別というのがあるのだろう、と。

もう1つ、
強い者から差別される痛みに苦しんでいる者が、
自分よりもさらに弱い者の弱さを自分の痛み苦しみのはけ口として利用する
差別の重層構造みたいなものもあるのでは。

そこに既に差別があったら、
その差別に乗じて、ただの弱いものイジメで憂さ晴らしも起こりやすいだろうし。

もしくは、その口実のために
敢えて差別を作りだすこともあるのかもしれないし。
2008.04.04 / Top↑
英国Newcastle 大学のチームが
牛の細胞に人間のDNAを入れたハイブリッド胚の作成に成功したと、
4月1日に発表したとのこと。

当ブログでもこれまで「ネオ優生思想」の書庫で
着床前診断による障害・病気の排除の関連で取り上げていますが、

英国上院では目下ヒト受精・胚法の改正審議が行われており、
ハイブリッド胚の研究目的での作成を認める条項については
両党とも自由投票ということになった模様。

まだ法案の審議はそういう段階で投票は来月らしいのに
早々とハイブリッド胚が作られても特段、違法ということにはならない。
なぜなら、ヒト受精・胚機構(HFEA)がこのチームにライセンスを与えたから。
来月に法案が議会を通ったら、いよいよそのライセンスの法的位置づけが公式になる
……ということなのだそうで。

ハイブリッド胚を作成するメリットは、
人間の卵子を使わずにES細胞を作ることができて
女性から卵子を採取したりヒト胚を破壊する倫理問題も
なかなか数が望めない卵子不足も解消する、
パーキンソン病やアルツハイマー病の解明や治療法に役立てること出来る、
個々人に合ったオーダーメイドの治療に結びつく……などなど。


ちょっと気になるのは、ここへ来て
「ハイブリッド胚」とか「キメラ胚」とかではなく、
admixed embryos (混成胚、でしょうか?)という
新しい呼び方が目に付くようになってきたこと。

こういう言い替えが起こるということは、
まぁ、法案が通過する見通しが立ったんだろうな……と勘ぐってしまった。

それにしても、
いくらオーソリティのある機構が作ってもいいとライセンスを与えたからといって、
(ちなみにHFEAはKing’s Collegeのチームにもライセンスを与えています。)
ハイブリッド胚の研究利用を認める法律が成立していないのに
研究者が既成事実をちゃっかり作ってしまって、
法律が後追いしたら「そのライセンスの法的位置づけが公式なものになる」って……
どうも、この辺りの感覚が前からよく分からない……。

【追記】
……ということを考えていたからか、たまたま
英国で進化発生工学という難しそうな研究をしておられる方の
ブログ・エントリーに行き当たったので、
以下にTBさせてもらいました。

この人が「競争」について書いておられる部分がとても興味深いです。

科学と医学の研究の最先端の現場にいる人の率直かつナマナマしい話を読むと、
ああ、そういうところにいる人の目にはこういうふうにモノが見えるんだなぁ……と納得すると同時に、

「ハイブリッド胚もう作っちゃいましたぁ」などと公表される研究からは想像もできないような
既成事実が世間の知らないところで実はどんどん進行しているのかもしれない……とも。





2008.04.04 / Top↑
昨年11月のオーストラリアの政権交代で労働党の新政権でイノベーション相となったKim Carr氏が
科学研究の予算を削ってきた過去10年の施策を批判し、
威勢のいい気炎を吐いています。

New deal for science, end to ‘cultural wars’
The Canberra Times, March 20, 2008

組織的な詳細や
彼の発言を巡って野党側から出ている批判などについて興味がおありの方には
上記記事を直接当たってもらうとして、

Carr氏が言っていることは基本的には
「これまで政治的な正しさによって萎縮させられて
モノを言う気力すらなくしてしまった科学者に
もっと堂々と意見を言わせよう。
科学者が活躍できる環境を取り戻そう」
ということのように思われるのですが、

そのために彼は科学を個々人の身近なものにしようと語り、
科学者には自分たちを働かせてくれるコミュニティに奉仕する“義務”があると
科学者らに呼びかけます。
その奉仕の義務をどのように果たせといっているかというと、

人々をもっと金持ちに、もっと健康に、もっと頭がよく、もっと安全にすることによって
コミュニティへの奉仕ができる。

我々のこの傷つきやすい惑星を救う道を見つけることによって、できる。

人々の人生を美と希望と感嘆で満たすことによって、できる。

地球を救うのはともかくとして、
なんだか、
「とりあえず大衆の目先の欲望に応えてやれ。
そうすれば科学の力を見せ付けて社会から信頼を勝ち取り、
これまでみたいに政治的正しさに遠慮しなくても
思う存分好きなように研究できるんだぞ」
と檄を飛ばしているように聞こえるし、

この文脈でよくよく考えてみると、
彼が言う「政治的正しさ」とは「先進科学における倫理問題」のことではないでしょうか。

例えば長く議論されていた
ES細胞研究におけるヒト胚の破壊という倫理問題においても
科学者の側からは「倫理問題がうるさくて自由な研究が出来ない」という声も
起こっていたわけですが、

そうした状況に誰かが仮にCarr氏のように
「倫理問題」→「政治的な正しさ」という言い替えを導入したとすれば

それは
あらゆる倫理的な配慮を欺瞞だと切り捨てる一言にもなっていたはず。

政治的な正しさ──。
どうも胡散臭い言辞です。
2008.04.03 / Top↑
脳死者からの臓器摘出を考える時に
私が必ず思い出してしまう怖い漫画があって、

もうタイトルも何も覚えていないのですが、
小学生の頃(今から40年以上前)に読んだ楳図かずおの短編作品。

病気だったのか事故だったのか、
なにしろ頭も体の感覚も普通なのに、
誰からも死体のように見える状態に陥ってしまった男が
病院で身体を切り刻まれて(たぶん死因を特定するための解剖だった?)
悲鳴を上げ続けるのに誰にも伝わらない恐怖と絶望のうちに
ついに棺に納められてしまうのです。

通夜と葬式の間も彼は必死で周囲に自分が生きていることを知らせようとするのですが、
誰にも伝わらないまま棺おけの蓋が閉じられます。

暗闇の中で外の気配から彼は焦燥を募らせていくのですが、
棺は段取り通りに焼き場に運ばれ、
ついに釜に入れられて火がつけられます。
そして苦悶と絶望の絶叫を放ちながら
男は生きたまま焼かれていく……。

なんという救いのない壮絶な漫画が
小学生が読むような雑誌に掲載されていたことか──。

あの時代にはリアリティのないホラーだったかもしれないけれども、
やはり楳図かずおは時代を先取りした天才なのでしょう。

生きているのに死んだことになってしまって、
自分が生きていることを誰にも分かってもらえない孤独。

生きたまま切り刻まれる苦痛はもちろん、
自分が生きたまま焼かれてしまうことを知りつつ
その刻限に刻々と近づいていくのを止められない恐怖と絶望。

それは当時の私にとって想像を絶する恐怖と絶望だったのですが、
今の私にとっても、思い出すだに怖くてならない話です。

あの漫画に描かれていた男の体験は
人間というものが体験し得る
最も恐ろしい孤独と恐怖と絶望の1つだと思う。

臓器を採るために脳死体にメスを入れると血圧が跳ね上がったなどと聞くと、
私は必ずあの漫画を思い出すのです。

私はそんな死に方はしたくないし、
愛する者にそんな死に方など、万が一にもさせたくない。

もしかしたら現実に
そんな死に方をしている人がいるのかもしれないと想像するだけでも
なんだか苦しくてなってしまう。
2008.04.03 / Top↑
Zach Dunlapさん(21)が交通事故にあい、
テキサスの病院で脳死を宣告されたのは去年11月19日のこと。

臓器提供に同意した家族がいよいよZachさんと最後の別れに臨んだ時に手足が動き、
ポケットナイフで足をなぞったりツメの間に押し付けたりすると反応を示した、と。

48日間後に退院を許され、現在自宅療養中。

Man Declared Dead Feels ‘Pretty Good’
Associated Press, March 24, 2008


3月24日にNBCテレビの番組に両親と共に出演した彼は
医師らが自分の死亡宣告をするのを聞いたことを覚えていると語り、
「動けなかったから、その時やりたかったことができなくてよかった」と。

「その時やりたかったこと」というのは医師らに掴みかかって生きていると言いたかったのかと問われて、
「たぶん窓が飛び散るくらいの激しさで掴みかかっていただろうね」

脳死状態の彼の脳のスキャンを見た父親の話でも
血流は全く見られなかったというのですが、
いまだに記憶には障害があるものの
テレビに出演してこれだけ筋の通った会話ができるところまで回復しているのは事実。

「本当にありがたいです。諦めないでいてくれたことがありがたいです」

Dunlapさんのこの言葉、
よくよく考えると恐ろしい言葉ではないでしょうか。

諦められて、
臓器を摘出するための医療に切り替えられて
死んでいく人が現実に沢山いるのだから。

その人たちがもしかしてDunlapさんと同じように
自分が脳死宣告される声を聞いた記憶を持ちつつ死んでいくのだとしたら……?

臓器を保存するための処置を(それはとりもなおさず自分を殺す処置になるわけですね)
医師らが始めようとする気配や会話が
もしかしてその人の最後の記憶になるのだとしたら……?

そんな孤独と絶望の中で死んでいくことが
ドナーになろうとの愛他的行為の見返りなのだとしたら
それはあまりにも酷い話では?
2008.04.03 / Top↑
なにしろ私は世の中のたいていの問題についてモノを知らないので、
いまどきアメリカで男児に割礼を行うのは熱心なユダヤ教徒の家庭くらいなのだろうと
何の根拠もなく思い込んでいたために
いまだに半数が割礼を受けているという以下の記事にはビックリしたのですが、

1965年に米国で生まれた男児の85%が割礼を受けたのに対して、
2005年には56%にまで減少。
そのために以前は「そういうもの」と深く考えずに行われてきた慣行に
夫婦間で意見が分かれるケースが増えてきているとの記事。

Delicate decision: To circumcise or not?
By Marnell Jameson, Speical to the Times,
The Los Angels Times, March 31, 2008

読んで「なんだ、そりゃ?」と、つい笑ってしまったのは
アメリカ小児科学会の男児割礼についてのガイドライン。

「現存の科学的エビデンスでは
新生男児の割礼に医療上の利益がある可能性も示されてはいるが
しかしルーティーンとして推奨するに充分なデータではない」ので、
両親はそれぞれ子どもにとって何が最善の利益かを考え、
医療上の利益のみでなく文化的、宗教的、民族的な伝統も考慮に入れるのが望ましい……
……のだそうで。

ついでに米国泌尿器科学会の見解。
「新生児期の割礼には不利益とリスクと同時に医療上の利益と利点もある……(中略)
医療上の利益とリスク、民族的、文化的、宗教的、また個人的な選好も考慮されるべきである。」

要するに「おのおの好きなようにして」ということだったわけですね。

さすがに夫婦の間で意見が割れるという事態が起こってくると
こんないいかげんな態度では専門家集団としてバツが悪くなってきたところに、
(というのは記事にはないspitzibaraの勝手な解釈に過ぎませんが)
アフリカの成人男性の調査で
割礼した人はしていない人よりも異性間性交によるHIV感染の確率が低い
という結果が報告された。

ただし人種も違えば、
米国で問題視されている男性同士の性行為による感染とは別の話でもあり、
米国疾病予防管理センターCDCが現在この調査結果を精査・検討中。

そこで小児科学会としても、この新データをもとに
新しくガイドラインを見直すための検討チームを昨年作り、
来年にも新ガイドラインが発表される予定とのこと。

で、上記記事にはそのチームから2人の医師が取材を受けているのですが、
1人がAshleyケースで今なお奮闘目覚しいDiekema医師で
もう1人はユダヤ人で「自分のところで伝統の鎖が切れるのはイヤだった」から
ユダヤ人ではない妻の反対を押し切って息子に割礼を行ったFreedman医師。

米国小児科学会・検討チーム・メンバーの発言だと考えると
以下のFreedman医師の発言には
また笑いを誘われてしまうのですが、

「だいじょうぶですよ。
親がどっちの決断をしたとしても、
たいていの男は自分の持ってるものをよしとするのだから」


       ―――――

一方、この問題に関するDiekema医師の発言は、
Freedman医師に比べれば、かなり生真面目です。

割礼について最近意見が分かれているという事実は悪いことではありません。
宗教上の信念がないのであれば、
両親の考えるべき主たる問題は割礼が子どもに利益となるかどうかでしょう。
データからは利益になるともならないとも言えません。

まったく不思議なのですが、
Ashleyケース以外の問題においては
実に健全な発言をするのですよ。この人は。

ここでも「データからは利益になるともならないとも言えない」のだから
「意見が分かれるのは悪いことではない」と言っている。

学会のガイドラインと同じで、結局そうとしか言えないのでしょうが、
「意見が分かれるのは悪いことではない」というスタンスは慎重。
その慎重さが健全・まっとうだと思います。

その人が“Ashley療法”についてだけは
データが皆無な novel で controversial な処置であり
「効果も副作用も想像する以外にはない」と論文に書きながら
「慎重な検討の結果、本人の利益と結論した」だとか
「どうせ本人には尊厳すら理解できない」などと
訳の分からない強弁を振り回す──。

しかもこの問題については「意見が分かれてはいけない」ようで
“Ashley療法”批判に対しては、きわめて攻撃的な姿勢を剥き出しにする。

つまり、Ashley問題での発言と他の問題での発言の間に一貫性がないわけです。
前者ではウソを強弁で誤魔化そうとするからそうなる、としか思えない。
2008.04.02 / Top↑
障害児・者切捨ての話ばかりが目に付く中、
そうした傾向に歯止めをかけようとの動きを知ると、つかのま心が慰められます。

障害胎児・新生児の親への情報提供と支援を謳う法案が米国上院に提出され、
2月末に保健・教育・労働・年金委員会での可決にこぎつけています。

法案の名称は
The Prenatally and Postnatally Diagnosed Conditions Awareness Act。

妊娠中と出産後1年以内にダウン症をはじめとする病気・障害が明らかになった場合に、
母親に対して、
その病気・障害に関する情報ならびに支援に関する情報の提供と
支援機関や支援サービスへの紹介を保障すると同時に、

そうした周産期に判明する障害を巡って親子を支援する情報集約機関の充実、
ピア・サポートプログラムのさらなる充実、
周産期に病気・障害が診断された子どもを養子に迎えようという家族の登録制度の創設
を謳うもの。

現在米国では妊娠中にダウン症と診断された場合は9割が中絶されています。

この法案を提出したスポンサーである
共和党のSam Brownbackと民主党のEdward Kennedy上院議員は
去年7月18日の法案提出時に記者会見にて趣旨を説明。
その際には米国ダウン症協会やダウン症児を持つ親のスピーチもあって、
ダウン症児は何も出来ないとか自立した成人になれないという神話を解体する必要が訴えられたとのこと。

その際のプレス・リリースはこちら。



関連報道の一部を以下に。



Disposing of the Disabled
By Ken Conner
Townhall.com, March 29, 2008

          ――――――

これまで当ブログでも、
「ダウン症児だから選別的中絶」のコワさ
選ばないことを選んだ夫婦の記録
などのエントリーにおいて、
それぞれの障害像の実際や、子育ての現実には目が向けられないまま、
「障害児はお荷物」、「どうせ何も出来ない」、「生きるに値しない」などと
スティグマに満ちたイメージ先行によって
功利主義的な切り捨てが推進されているのではないかとの懸念を提示してきました。

この法案の「情報提供」も提供者のスタンスによっては
むしろ中絶に向けての誘導ツールとなりかねないし、
「ちゃんと説明を受けたうえで、個人の決定権によって中絶が選択された」という
選別的中絶への手続き上のアリバイ整備に終わらないかという懸念がないでもありません。

また、情報提供や養子縁組の制度を充実させようとするならば、
もう一歩進んで生活そのものを支える支援サービスの充実こそが不可欠だし、
肝心なところが抜け落ちていると思わないでもないのですが、

それでも、すさまじい速度で功利主義がアメリカの医療を席巻していく現状を思えば
その中でもこうした視点を持って政治が動こうとしていることだけでも
救いのように思えてくるような……。


当ブログのその他の関連エントリー

2008.04.01 / Top↑
米国マサチューセッツ州での調査において、
遺伝子診断の導入以降、嚢胞性線維症患者の数が半減したとの結果が
the New England Journal of Medicineに。

こうした調査はマ州のものが初めてなので、
同様の減少傾向は全米で起こっているものとみられ、

また新たな病気の遺伝子が発見されるにつれて、
このような傾向は広がりを見せるとも。

一方、医学の進歩によって嚢胞性線維症の患者の平均寿命はここ数年で倍に伸び、
現在では37歳とのこと。

以下の記事は「遺伝子スクリーニングが難しい倫理問題を引き起こしている」と
その倫理面に疑問を呈しています。

Genetic screening raises tough ethical issues
The Star-Ledger, March 10, 2008

ここにも、当ブログで何度も発言を取り上げている
ペンシルバニア大学の倫理学者Arthur Caplanが登場。

「遺伝子検査は選択と情報に関わる問題であって、
その選択の結果とは無関係だというフリをする傾向があるけれども、
我々が遺伝子検査にお金を払うのは
嚢胞性線維症を減らすことに繋がる生殖上の決定を行う人があることを知っているからだ」

またCaplanは
「今後、ホモセクシュアルの遺伝子が検査できるとなったら?
背が低い遺伝子の検査が可能となったら?」
と、今後遺伝子検査が広がるに伴い、
こうした倫理上の問題はより複雑化すると懸念。

ちなみに英国では
着床前診断で嚢胞性線維症をはじめ障害・病気の遺伝子を持つ胚を
そうした遺伝子を持たない胚よりも優先して選んではならないとする法案が現在審議されていますが、


【追記】
米国でナース・プラクティショナーを目指しておられる方のブログで、
遺伝学の授業で嚢胞性線維症の患者さんの話を聞かれたという記事がありましたので、
TBさせていただきました。

20代の患者さんが病気を日常の一部として受け入れ、
仕事をしながら元気に暮らしておられる姿と

遺伝子検査を全否定するのではなく、
「早くから治療できる可能性」と前向きに捉えておられる言葉に
胸を衝かれます。

授業の中にこういう機会を設けられる遺伝学の先生が素晴らしいと思う。

病気や障害がただの統計数字やスティグマに満ちた悲惨なイメージとして否定的に捉えられないように、
障害や病気と共に生きている人の実像や、治療や支援の可能性にも目を向けたうえで、
遺伝子検査の意味をもっと広く深く考える機会が
医療職はもちろんのこと、
親になろうとする前の世代の人たちも含めて
広く様々な立場の人にあるといいのですが。
2008.04.01 / Top↑