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自分で意思決定できない人の不妊手術に関するイリノイ州の上訴裁判所の意見書の中から
特にAshley事件にも当てはめて考えられる点について考えてみました。

Ashley事件ではもちろん
子宮摘出について裁判所の判断を仰がなかったことそのものが違法だったわけですが、
Diekema医師をはじめとする倫理委や病院サイドの正当化の論理の検証として。

もう1つ、「自ら望まないのに自分の身体を侵害されない権利」を考えると
Ashleyに行われた大量のホルモンによる成長抑制と乳房芽の切除に関しても、
同じ考え方が適用されて然りだとも私は考えるので。

①これまでの判例で確認されたこととして、イリノイの上訴裁判所は
自分で意思決定できない人の不妊手術を認めるかどうかを検討するに当たって、
親や後見人や社会の便宜や利益ではなく、本人の最善の利益だけを考えなければならない
また不妊手術を求めている親や後見人の利益が本人の利益と同じだと考えてはならない
という2点を挙げています。

②イリノイ州のケースでは叔母は裁判所によって認められた法定後見人(guardian)ですが、
それとは別に直接の利害関係のない法定代理人(guardian ad litem)が96年から任命されており
敵対的審理が行われています。
(制度に精通していないので日本語訳については仮訳で、誤っている可能性もあります。)

Ashleyのケースでは
本人の利益だけを代理する人が存在せず、従って敵対的審理もありませんでした。
法定代理人が任命されて、なおかつ敵対的審理が尽くされることが必要だったと
WPASの調査報告書で指摘されています。

③このイリノイのケースでは本人が「全身麻酔は怖いからイヤ」だと述べていて、
その発言は尊重されています。

それに加えて、本人側の証人である家庭医も、
卵管結紮は全身麻酔の大きな手術になるので、
手術以前にもっと侵襲度の低い方法がすべて試みられるべきだと語っています。

裁判のプロセスでも、双方の証人から
複数の避妊方法についてメリットとデメリットが詳細に論じられ、
それぞれ相手側の証人に反対尋問が行われています。
卵管結紮よりも侵襲度の低い選択肢がすべて個別に徹底的に検証されたのです。

この部分を読むと、Ashleyケースでの議論で
子宮摘出以外の選択肢の検討が全く不在だったことが改めて奇異に感じられます。
これはホルモンによる成長抑制についても乳房芽の切除についても同様。

④Ashleyケースでの正当化の議論は常に最善の利益の検討に終始していますが、

いきなり最善の利益議論を始めてしまうことそのものが
「一定条件を満たせば行ってもいい」との前提に立つものであり
それ以前の「行うこそそのものの是非」段階を飛ばし、論理的段階を追った議論になっていないと
当ブログでは以前に指摘しました。

この意見書の代理決定のスタンダードでいくと、

最善の利益の検討の前に、
本人意思の証明が試みられなければならないことになっています。

この段階はAshleyのケースでは存在しませんでしたが、
もしもセーフガードとしてAshley本人の利益だけを代理する法定代理人が任命されて、
法定代理人による敵対的審理の中で
Ashley本人に意思決定能力があった場合には、
不妊そのものか、子宮摘出という方法のいずれかについて同意しなかった
ということが証明されたとしたら、

最善の利益検討の段階はありえなかったことになるのです。

Ashleyの場合、子宮摘出の主たる目的は生理による不快を取り除くことでしたから
方法の侵襲度という点で本人が同意しなかったとの証明は可能だったのではないでしょうか。

この代理決定スタンダードと全く同じ認識でなかったにせよ、
ここで不妊を求める側に何重もに求められている証明責任の重さを
仮にもシアトル子ども病院の施設内審査委員会の委員長を務めるDiekema医師が
全く認識していなかったとは思えません。

その証明責任の重さに比べて、
「利益と可能な害とを秤にかけて、利益が大きいと判断したから子宮と乳房芽の切除も成長抑制も可」という、
なんの具体性もない、大雑把な正当化の、なんと軽々しいことか。

ここでもまた炙り出されてくるのは、Diekema医師の正当化におけるマヤカシでしょう。
2008.05.01 / Top↑
イリノイ州のK.E.Jの不妊手術の裁判裁判官が出した意見書を読んでいて、
自分で意思決定できない人の卵管結紮の妥当性や然るべき手続きという本題とは違うところで
素朴な疑問を抱いた点があるので。

不妊手術を求めた叔母側は一連の裁判にかかる弁護士費用について
本人の財産の中から支出したいと裁判所に許可を求めました。
本人には子ども時代に障害を負う原因となった交通事故の賠償金があります。

それに対して、本人の法定代理人(guardian ad litem)は
それによって本人の財産が激減し将来の経済的安定が大きく脅かされると
強く抗議しているのですが、

裁判所は最初の裁判までの弁護士費用については本人の財産からの支弁を認め、
上訴裁判の費用については却下しています。
さらに法定代理人の報酬も本人の財産から出すように金額を定めました。

裁判所が認めた理由は
医学上の判断であり、後見人は裁判所に持ち込む権利がある」というもの。

しかし、本人にすれば叔母は勝手に裁判を始めたわけで、
その叔母側の弁護士費用が自分のお金で支払われるというのは、どうなの?
……と、ちょっと解せない気分になる一方、

確かに後見人の叔母の立場で考えると、
後見人の仕事の範疇での判断が裁判を必要としているのだったら、
自分が費用を出すのは納得できないだろうとも思うし……。

自分で決めることが難しい人の代理決定が裁判所に持ち込まれる場合の費用というのは、
この意見書を読んでいて初めて気がついた問題なのですが、
これは案外に深刻な問題ですね。

裁判所がセーフガードとして機能する義務をいくら力説したところで、
後見人制度による代理決定で裁判に要する費用が本人や後見人にかぶせられていたのでは、
本人の権利は擁護できないような気がするのですが、
実際どうなっているのか制度についての知識を全く欠いている私には
なんとも考えようがありません。

ただ、日本の成年後見人制度も含めて、
これはとても大きな現実問題じゃないかと初めて気づいて、考え込んでしまいました。

ちなみに、このケースで叔母側の弁護士費用として本人の財産から支弁される金額は24000ドル。
もっとも弁護士費用の問題について詳述してある箇所は
正直、読んでもよく分からないので、費用の点については概略部分でしか理解していません。
2008.05.01 / Top↑
4月19日のエントリーで紹介した話題ですが、
法廷後見人の叔母(伯母かも)が知的障害のある女性K.E.J.の不妊手術の求めたのに対して、
イリノイ州の上訴裁判所が認められないとする決定を行いました。
その際に出された裁判官の意見書が同裁判所のサイトにアップされています。

ダウンロードした意見書はこちら

イリノイ州では初の法的判断ということでもあり、
また当然ながら去年から論争になっているAshley事件も裁判官の念頭にあったと思うし、
Ashley事件の問題点を改めて振り返るという意味でも
大きな興味をもって読んでみました。

自分で意思決定できない人の不妊手術に関連する権利として、意見書は
①プライバシー権として既に確立されている子どもを産む・産まないの自己決定権
②自分の身体に自ら望まない侵襲を受けない権利
を挙げて、いかなる医療にも本人の同意が必要だというのを基本認識にしています。
(子どもの医療に関する親の代理決定権もプライバシー権として認められています)

しかし、いずれの権利も絶対的なものではなく、
本人の最善の利益である限りにおいては
後見人(guardian)が本人のこれら権利を超えることも可とします。

ただし基本的な人権を侵すものであるから、裁判所による慎重な検証が必要だとし、
特に親や後見人の決定権濫用とそれによる虐待の可能性については
裁判所が充分なセーフガードを保障する義務と責任を繰り返し強調しています。

そして、注目したいのは the heavy burden of proof
不妊手術を求める側には明白で説得力のあるエビデンスを提示する重い証明責任があるとの指摘。

意見書はこの考え方に基づいて過去の判例を参照し、以下のように
セーフガード、最善の利益検討、代理決定のスタンダードを整理しています。

セーフガードのスタンダード

①裁判所はguardian ad litemを任命し、本人の利益を守らせなければならない。
②充分な法廷での審議を行い、不妊手術を求める側とguardian ad litemの双方に対してエビデンスを提示し、相手側証人に反対尋問を行う機会を与える義務が裁判所にはある。
③本人に対して医学上の、また心理学上の充分な評価を行わせる義務が裁判所にはある。その際、提案されている不妊手術に関して本人に意思決定の能力があるかどうかに特に注意を払った評価を行うこと。

本人の最善の利益を認めるに当たって考えるべき6つのファクター

代理決定のスタンダードが満たされ、
充分なセーフガードが保障された後に初めて検討されるべきとの前提で、

①自己決定能力を欠いた人(ここでは以下「本人」とします)が妊娠または出産によってトラウマまたは心理的なダメージを被る可能性。またその逆に、不妊手術によってトラウマまたは心理的なダメージを被る可能性。
②本人が自らの意思で性行為を行う、または性行為の起こる可能性のある状況に身を置く可能性。
③本人が生殖または避妊について理解する能力がない、そして、この先も永久に理解する能力を持たないこと。
④本人が子どもの世話をする能力、あるいは子どもの世話をする能力のある配偶者と将来結婚する可能性。
⑤予見可能な将来に本人の状態を改善する、あるいは不妊手段としての選択肢やより侵襲度の低い方法を可能とする科学・医学の進歩が起こりうるエビデンス。
⑥不妊手術を求めている人の動機の善良さ。

 代理決定のスタンダード

不妊手術を代理決定しようとする者は、
本人に意思決定能力があったら不妊手術を望んだはずだということ、
さらに本人に意思決定能力があったら、ここで選ばれた不妊の方法に反対しないであろうことを
明白で説得力のあるエビデンスによって証明しようとすることができる。

すべての手順を経て、然るべきエビデンスがすべて提示され、
最終的にこれらの証明責任を果たせた場合には、裁判所は不妊手術を認める命令を出すことになる。

不妊手術に反対する側は、
本人に意思決定能力があったら不妊手術を望まなかったはずだということ、
さらに本人に同意能力があったら、ここで選ばれた不妊の方法に同意しなかったであろうことを
明白で説得力のあるエビデンスによって証明しようとすることができる。

このいずれかが充分に証明された場合には、
本人の意思が尊重され、裁判所は不妊手術の要望を却下する。

これらの証明手順においては、本人の最善の利益を分析する必要はない。

双方の証明努力によって明白な結果が出せない場合に、
裁判所は最善の利益の検討を行う。

この場合に不妊手術の要望が認められるのは
現在の、また将来の科学・医学の発達により可能になる、他のより侵襲度の低い方法と比べて、
その方法が本人の最善の利益であると証明責任を果たせた場合のみ。

最初の段階では、意思決定能力があったと仮定した場合の本人の意思が探られて、
それがいずれかの方向で証明された場合には
最善の利益を検討するまでもなく本人の意思が尊重されるのですが、

そのためには、
不妊手術を求める側には不妊手術そのものと方法の両方について本人意思の証明が求められるのに対して、
反対する側は、不妊手術か方法のいずれかについて本人意思に沿わないと証明できれば阻止できることになり、
不妊を求める側に、より重い証明責任が課せられてています。

最初の本人の意思確認の段階が結果をもたらさなかった場合に初めて
次の段階として本人の最善の利益が問題になる。

こちらの段階では不妊を求める側には、
求めている方法による不妊が、現在と将来のあらゆる可能を考えて、
より侵襲度の低い方法のいずれと比べても本人の最善の利益であるという証明責任を果たさなければならない。


このK.E.J.のケースについては

・ 本人に意思決定能力がないこと
・生殖能力があること
・性行為があること
・親の責任を果たす能力がないが、その一方で子どもを産む希望を奪われることは不可逆的な心理的ダメージをもたらす可能性があること
を事実確認した上で、

永久的な避妊を行うことが本人の最善の利益である。
が、もっと侵襲度の低い方法ではその目的が達せられないと証明されてはいない。
卵管結紮は特に過激な方法で、上記2つの権利を共に侵すものである」と結論。

叔母側が永久的な避妊についての必要性では証明責任を果たしたが、
その方法の妥当性については証明できていない、という判断でしょう。

ただ、詳しく意見書を読んでいくと、
「永久的な避妊が最善の利益」という結論には矛盾する
本人への配慮があちこちに散見され、
裁判所もこの辺りで揺らいでいる印象があります。

(私の読みが不十分という可能性もありますが。)

ちなみに今回の却下の最も大きな理由は、卵管結紮という方法について
本人の最善の利益であることを叔母が充分に証明できなかったという点。
不妊手術を求める叔母の動機が善意であることは認めています。

叔母が卵管結紮を求めた理由は
・ 永続的で効果的(パッチは剥げる、注射とパッチは太る、IUDは自分で取り出す)
・ 他の薬も飲んでいるのでホルモンを投与するより手術の方が身体に負担が小さい
・ もしもK.E.J.が妊娠して子どもを産んだら、後見人の自分が世話をすることになる

卵管結紮よりも侵襲度の低い複数の避妊方法が使える可能性については
裁判の過程でメリット・デメリットが1つずつ具体的に丁寧に議論されており、
避妊リング(IUD)が適切。
将来認可されれば部分麻酔で皮下に埋め込むインプラント方式も検討に値する
と結論付けられています。


そのほか、個人的にとても印象的だった点を上げると、

・本人の意思決定能力を確かめるために、裁判官は本人と2人だけで別室で話をします。本人の法定代理人からは誘導の可能性があると抗議が起こりますが、裁判官は「誘導しているのはあなたの方かもしれない」と却下。法定代理人が懸念した通り、それまで「不妊手術はイヤだ、いつか子どもを産みたい」と言っていた本人は、40分間別室で裁判官と話をすると不妊手術に同意してしまいます。が、裁判官が確かめようとしていたのは本人の意思がどこにあるかではなく、意思決定能力。従って、裁判官はこれによって「本人は周囲の人間によって影響される。したがって自分で意思決定する能力を欠いている」との判断を行っています。これは、なかなか……。

・本人には子どもを産んでも育てる能力がないことは証明されたけれども、本人の父親が「子どもを産むことがあったら子育てを手伝う」と言っていることと、もう1つ、将来本人が子育て能力のある夫と結婚する可能性、将来的に本人が子育て能力を獲得する可能性も考えて、子どもを産んでも育てられないと決め付けることはできないとの判断をしていること。(じゃぁ、どうして永久的避妊が本人の最善の利益になると結論づけるのか、矛盾するようにも……。)

・子どもを産んで育てたいという本人の希望については、上記の能力判断からさらに踏み込んでいて、たとえ子育て能力がないとしても「将来子どもを産みたい」という夢と希望を断たれることは本人に深い心の傷を負わせるとの判断が行われています。一方、産んだ後になってその子どもを奪われるとしたら、そちらの心の傷の方が大きい可能性も考えなければならないことも指摘しています。
2008.05.01 / Top↑