もう何年も前のことなのだけど、
重症児やダウン症児、自閉症児の母親が6人ほど集まった時に、
たまたま「選別的中絶」の話になり、
重症児やダウン症児、自閉症児の母親が6人ほど集まった時に、
たまたま「選別的中絶」の話になり、
あれやこれや勝手なことを言い合っているうちに、ふと思いついて
自分でも答えが出せないまま転がし続けている質問を投げかけてみたことがあった。
自分でも答えが出せないまま転がし続けている質問を投げかけてみたことがあった。
「お腹の子どもに障害があると分かって
産もうかどうしようかと悩んでいる若いお母さんから相談を受けたとしたら、どう答える?」
産もうかどうしようかと悩んでいる若いお母さんから相談を受けたとしたら、どう答える?」
同じ立場の、気心が知れた人間だけしかいなかったその場で、
急にみんなが珍しく寡黙になった後にポツリ、ポツリと言葉になっていったのは、
急にみんなが珍しく寡黙になった後にポツリ、ポツリと言葉になっていったのは、
子どもが生まれてから今までたどってきた道筋を振り返ったら、
簡単に「産んだら?」なんて自分には言えない。
でも、今、子どもに障害があるから私たち親子は不幸かと問われたら、そうでもない。
むしろ、それなりに幸せだと思う。
だから、「堕したら?」とは言いたくない。
簡単に「産んだら?」なんて自分には言えない。
でも、今、子どもに障害があるから私たち親子は不幸かと問われたら、そうでもない。
むしろ、それなりに幸せだと思う。
だから、「堕したら?」とは言いたくない。
その時の会話から10年近くが経ち、子どもたちは既に成人して、
親の老いや親亡き後が気になり始めている中で
「それなりに幸せだと思う」という部分については、
またそれぞれに微妙なニュアンスを帯びてきているに違いないのだけれども、
親の老いや親亡き後が気になり始めている中で
「それなりに幸せだと思う」という部分については、
またそれぞれに微妙なニュアンスを帯びてきているに違いないのだけれども、
去年の初めからアシュリー事件を追いかけながら、
私はこれと同じ問いを様々な形でずっと自分に問い続けていて
正直なところ、まだ同じ割り切れなさの中で答えなど出せないでいるのは、
私はこれと同じ問いを様々な形でずっと自分に問い続けていて
正直なところ、まだ同じ割り切れなさの中で答えなど出せないでいるのは、
“Ashley療法”は絶対に間違っていると頭でも本能でも考え感じる反面で、
ずっと子どものままでいてほしいという願望は自分の中にもあったし、
体が小さければ、まだまだいろんな体験をさせてやれるのに、という思いは
見果てぬ夢や日々の悔い・無念として今でも私自身の中にもあるから。
ずっと子どものままでいてほしいという願望は自分の中にもあったし、
体が小さければ、まだまだいろんな体験をさせてやれるのに、という思いは
見果てぬ夢や日々の悔い・無念として今でも私自身の中にもあるから。
でも
Ashleyに行ったホルモン大量投与による身長抑制、子宮と乳房芽の切除について
「ぜんぜん難しい決断ではなかった」と繰り返すAshleyの父親や
Diekema医師の常に「どうせ……」をベースにした正当化や
トランスヒューマニストらの「もっと健康に、もっと頭が良く」という掛け声に、
障害者への新たな種類の差別が芽吹く気配や、
Ashleyに行ったホルモン大量投与による身長抑制、子宮と乳房芽の切除について
「ぜんぜん難しい決断ではなかった」と繰り返すAshleyの父親や
Diekema医師の常に「どうせ……」をベースにした正当化や
トランスヒューマニストらの「もっと健康に、もっと頭が良く」という掛け声に、
障害者への新たな種類の差別が芽吹く気配や、
英国産婦人科学会や議会での障害児は生まれないように、生まれても殺そうとの提言や
出生前診断でダウン症と分かった胎児の9割が中絶されているという事実や
米国テキサス州などの無益な治療法に
「障害」という抽象的な言葉だけで線を引いて、
ここから先は悩まずに切り捨ててもいい人間だと決めていこうとする意図を感じるにつけ、
出生前診断でダウン症と分かった胎児の9割が中絶されているという事実や
米国テキサス州などの無益な治療法に
「障害」という抽象的な言葉だけで線を引いて、
ここから先は悩まずに切り捨ててもいい人間だと決めていこうとする意図を感じるにつけ、
とても強く思うのは、
私たちの中にある、相反する気持ちの間で揺れ動く「割り切れなさ」こそが、実は
人が人として生きて互いに関わる中で一番大切なもののあり場所ではないのか、ということ。
人が人として生きて互いに関わる中で一番大切なもののあり場所ではないのか、ということ。
私たちが子どもの障害を巡って自分の中の相反する気持ちの間で葛藤したり、
子どもの障害の受容を何度もやり直したりしているのは、
もともと生きていくということがそれ以外にはやりようがないからで、
子どもの障害の受容を何度もやり直したりしているのは、
もともと生きていくということがそれ以外にはやりようがないからで、
子どもが自分にとってかけがえがないから、そうしているというよりも
実は、そういうふうに生きてきたことが
子どもと自分をお互いにかけがえのない存在として結び付けているのかもしれず、
実は、そういうふうに生きてきたことが
子どもと自分をお互いにかけがえのない存在として結び付けているのかもしれず、
それは障害のある子どもと親の関係だけではなくて
なんにせよ人生の一回性の当事者であるということが、きっと
相反する利益や気持ちの間でどろどろと葛藤しながら、
ぎりぎりのところで折り合いを見出していく以外にやりようがないからなのだろうし、
なんにせよ人生の一回性の当事者であるということが、きっと
相反する利益や気持ちの間でどろどろと葛藤しながら、
ぎりぎりのところで折り合いを見出していく以外にやりようがないからなのだろうし、
だからこそ大事なのは選択し決断した内容よりも、むしろ
その「どろどろ」や「ぎりぎり」の方なんじゃないだろうか。
その「どろどろ」や「ぎりぎり」の方なんじゃないだろうか。
人生の中で何かを変えたり、人との関係で大きな意味を持ったりするのも、
選択や決断の内容そのものではなくて、むしろ
そこに至る過程やそこに注いだ想いやエネルギーだったりするんじゃないだろうか。
選択や決断の内容そのものではなくて、むしろ
そこに至る過程やそこに注いだ想いやエネルギーだったりするんじゃないだろうか。
そんなのは本来、障害があるとかないということとは無関係な
誰にとっても生きるというのはそういうことだという話のはずなのに、
そこに「障害」という、たった一つの抽象的な言葉でもって簡単に線を引いて
ここから先は悩まなくてもいいことなのだと決めるのは、
そこに大きなゴマカシが潜んでいるのを感じるし、
それは、人としてとても大切なことを手放せとそそのかしていることのような気がする。
誰にとっても生きるというのはそういうことだという話のはずなのに、
そこに「障害」という、たった一つの抽象的な言葉でもって簡単に線を引いて
ここから先は悩まなくてもいいことなのだと決めるのは、
そこに大きなゴマカシが潜んでいるのを感じるし、
それは、人としてとても大切なことを手放せとそそのかしていることのような気がする。
そそのかしている人たち自身は既にそれを手放してしまったから言えることなのだから、
そういう人たちが今の世界に急速に広げていこうとしている
「どろどろ」も「ぎりぎり」もない、きっぱりした線引きは
ただ障害のある人たちを切り捨てていくというだけに留まらず、
世の中の価値観そのものを変え、世の中のあり方を根本から造り替えていくように思えて
私にはとても恐ろしい。
「どろどろ」も「ぎりぎり」もない、きっぱりした線引きは
ただ障害のある人たちを切り捨てていくというだけに留まらず、
世の中の価値観そのものを変え、世の中のあり方を根本から造り替えていくように思えて
私にはとても恐ろしい。
2008.05.14 / Top↑
まず、
法が大きな枠組みを決め、個別の解釈・適用についてはヒト受精・胚機構が判断を担うという
過去20年間の生殖補助医療とヒト胚の研究利用規制について、
このように急速に変化する時代に柔軟な対応を可能とする優れたやり方である、と
評価した上で、しかしながら法律の中には時代にそぐわなくなった部分もあると指摘。
特にBMAの関心がある改正法案のポイントとして
ES細胞研究、胚診断、認可された治療へのアクセスの3つの問題を挙げています。
法が大きな枠組みを決め、個別の解釈・適用についてはヒト受精・胚機構が判断を担うという
過去20年間の生殖補助医療とヒト胚の研究利用規制について、
このように急速に変化する時代に柔軟な対応を可能とする優れたやり方である、と
評価した上で、しかしながら法律の中には時代にそぐわなくなった部分もあると指摘。
特にBMAの関心がある改正法案のポイントとして
ES細胞研究、胚診断、認可された治療へのアクセスの3つの問題を挙げています。
以下、項目ごとにまとめてみます。
ここで気になるのは、ES細胞研究の成果としてあげられていることと、
そこに滲んでいる意識。
そこに滲んでいる意識。
「IVF(体外受精)の技術そのものも、その後の成功率やその他の生殖補助技術も、
70、80年代のES細胞研究がなければありえなかった」ことに次いで
以下のように書かれています。
70、80年代のES細胞研究がなければありえなかった」ことに次いで
以下のように書かれています。
ES細胞研究は遺伝病の理解を高め、90年代初頭に英国の研究者が特定の疾患について非常に早期に胚を診断する技術を開発することに繋がった。着床前診断(PGD)と呼ばれるこのテクニックにより、それらの病気を持った子どもが生まれるリスクの高い家族に何千もの健康な子どもが生まれてきた。
病気についての理解が高まると、治療技術が向上するのではなく、
その病気を持った人間を排除する技術が向上するわけですね。
その病気を持った人間を排除する技術が向上するわけですね。
着床前遺伝子診断
着床前遺伝子診断を求めるのは嚢胞性線維症やデュシェンヌ型筋ジストロフィーなど特定の遺伝病の子どもが生まれるリスクの高い夫婦である。BMAはこの目的での胚診断を支持し、深刻な病気のリスクが大きい場合のみPGDの使用を認めることに同意する。またこの節の文言が緩やかな(broad)ものとなっており、必ずしも出生時に発現していないもの(遅れて症状が出るハンチントン病)も、確実ではないが発病する確率が高いもの(家系的な乳がんと大腸がんのnon-gully penetrantな症状)も含まれることを歓迎するものである。
癌の遺伝子をもった胚を排除することも認めているわけで、
今後は新たな病気の遺伝子が特定されていくにつれ、
「重大な病気」に含められる対象も増えていくことでしょう。
BMAは、兄弟の病状が命を脅すものであったり深刻であり、この技術が最善の選択肢であるすべてのケースにおいて着床全遺伝子診断の使用を支持する。
こう書いた後で、主要な懸念として
ドナーになるべく選別されて生まれてくる子どもが
自分の生い立ちから心理的な害を被る可能性を指摘して見せているのですが、
例えば「おそらくは他の子どもと同じように愛されるであろうが」という前置きや、
生い立ちによって兄弟ほど愛されていない、尊重されないと感じる可能性を「仮想的な害」と称し、
病気の兄弟が苦しんだり死んだりする「リアルな害」と対置して
救済者兄弟を正当化することなどに、
私はうさんくさいものを感じてしまう。
ドナーになるべく選別されて生まれてくる子どもが
自分の生い立ちから心理的な害を被る可能性を指摘して見せているのですが、
例えば「おそらくは他の子どもと同じように愛されるであろうが」という前置きや、
生い立ちによって兄弟ほど愛されていない、尊重されないと感じる可能性を「仮想的な害」と称し、
病気の兄弟が苦しんだり死んだりする「リアルな害」と対置して
救済者兄弟を正当化することなどに、
私はうさんくさいものを感じてしまう。
「仮想的な害」だというならば、そんな仮想で態度を決めるよりも、
救済者兄弟にされた子どもが受ける心理的な影響についてまず予見なく詳細な調査を行い、
その結果が出るまで態度を保留するというのが真に科学的な態度ではないのでしょうか???
救済者兄弟にされた子どもが受ける心理的な影響についてまず予見なく詳細な調査を行い、
その結果が出るまで態度を保留するというのが真に科学的な態度ではないのでしょうか???
これはBMA見解に書いてあるわけではありませんが、
シアトル子ども病院生命倫理カンファのPentz講演で紹介されていた
救済者兄弟の倫理問題の正当化の論理というのは、
「他の家族の利益または家族全体の利益」 vs 「本人の害」
などと、利益だけを家族に拡大して比較するというムチャな話で、
Pentzも特に子どもには拒否することが出来ないという点を問題視していました。
シアトル子ども病院生命倫理カンファのPentz講演で紹介されていた
救済者兄弟の倫理問題の正当化の論理というのは、
「他の家族の利益または家族全体の利益」 vs 「本人の害」
などと、利益だけを家族に拡大して比較するというムチャな話で、
Pentzも特に子どもには拒否することが出来ないという点を問題視していました。
BMAの見解はテクノロジーの利用と胚の選別は主として苦しみと損傷(impairment)を軽減する目的で行われるべきものとする。したがって、例えば親と同じ障害を持つ子どもを欲しがるケースのように、重度の障害、病気や健康問題のある子どもが生まれる確率を上げる目的で胚を選別することを禁じる14(4)(9)(10)節をBMAは支持する。
口蓋裂のような軽微な障害であっても体の変形がある胎児は中絶が認められていることを思えば、
「健康問題」まで含まれていることも気になるところです。
「健康問題」まで含まれていることも気になるところです。
それにテクノロジーと胚の選別の目的を「苦しみと損傷の軽減」だとする表現も、
上記の着床前遺伝子診断の項目にあった「ゆるやかな文言」を歓迎する姿勢そのもので、
これでは今後の解釈次第でなんだってアリになるのでは?
上記の着床前遺伝子診断の項目にあった「ゆるやかな文言」を歓迎する姿勢そのもので、
これでは今後の解釈次第でなんだってアリになるのでは?
レズビアンの夫婦に生殖補助医療を認めるために
「父親の必要」という法律の文言を
「支援的な子育て(supportive parenting)の必要」に変えようとする政府案に対して、
そういうのは一括に規制できるものではなくケース・バイ・ケースでしか判断できないとの
立場を表明しているのですが、
「父親の必要」という法律の文言を
「支援的な子育て(supportive parenting)の必要」に変えようとする政府案に対して、
そういうのは一括に規制できるものではなくケース・バイ・ケースでしか判断できないとの
立場を表明しているのですが、
その主張を導き出すために基本姿勢として提示されている
「生殖を補助する医療者は将来の子どもが予見可能な重大な害を被ることがないよう
保証する責任がある。
これは治療が提供されるとの前提に立つべきことを意味する。
子どもの将来の幸福が危ぶまれるという確かなエビデンスがある場合には
医療者はその治療を認めてはならない」という見解。
「生殖を補助する医療者は将来の子どもが予見可能な重大な害を被ることがないよう
保証する責任がある。
これは治療が提供されるとの前提に立つべきことを意味する。
子どもの将来の幸福が危ぶまれるという確かなエビデンスがある場合には
医療者はその治療を認めてはならない」という見解。
この見解そのものはレズビアンの夫婦への技術提供の問題を超えて、
広く生殖補助医療に関するBMAの倫理基準と思われますが、
これは例えばイリノイの上訴裁判所が知的障害女性の不妊手術を却下した論理の
ちょうど逆になっています。
広く生殖補助医療に関するBMAの倫理基準と思われますが、
これは例えばイリノイの上訴裁判所が知的障害女性の不妊手術を却下した論理の
ちょうど逆になっています。
社会として子どもを守るというスタンスで考えれば、
まず提供するという前提に立った上で明白な害のあるケースだけ拒むというのは
またえらく消極的なセーフガードではないのか。
まず提供するという前提に立った上で明白な害のあるケースだけ拒むというのは
またえらく消極的なセーフガードではないのか。
子どもに利益があるとのエビデンスがあり、
子どもに害がないことが明白なエビデンスによって証明されてのみ、
初めて認められるというほどの強く厚いセーフガードでは、何故いけないのか。
子どもに害がないことが明白なエビデンスによって証明されてのみ、
初めて認められるというほどの強く厚いセーフガードでは、何故いけないのか。
その子どもが受ける害に対する守りの消極性が
救済者兄弟への害の捉え方の消極性にも現われているのでしょうが、
昨今の医薬品や最新テクノロジーにも感じることですが、
(リスクや副作用について十分な検証をせずに利点だけを喧伝して使われている、など)
あるべき姿勢としては、これは逆なんじゃないでしょうか。
救済者兄弟への害の捉え方の消極性にも現われているのでしょうが、
昨今の医薬品や最新テクノロジーにも感じることですが、
(リスクや副作用について十分な検証をせずに利点だけを喧伝して使われている、など)
あるべき姿勢としては、これは逆なんじゃないでしょうか。
害やリスクに対する守りの意識が薄いことを感じるたびに、
どんなに患者のためだとか本人の利益だといわれても、
所詮はこの法案の目的に謳われているように
技術競争を意識して医療者・科学者が「やりたい」だけで
患者をその資材扱いしているからなんじゃないの? と思ってしまう。
どんなに患者のためだとか本人の利益だといわれても、
所詮はこの法案の目的に謳われているように
技術競争を意識して医療者・科学者が「やりたい」だけで
患者をその資材扱いしているからなんじゃないの? と思ってしまう。
それにしても、この文書に見られる文言の言い替えの数々。
コトの本質を見えにくくする方向での言い替えばかりです。
それこそが、「やりたい」人たちが実は倫理的な問題を意識しているという
証拠なんじゃないでしょうか。
コトの本質を見えにくくする方向での言い替えばかりです。
それこそが、「やりたい」人たちが実は倫理的な問題を意識しているという
証拠なんじゃないでしょうか。
2008.05.14 / Top↑
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