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ヒト・パピローマ・ウイルス(HPV)ワクチンGardasilについて、
ワクチンの安全性を監視する団体the National Vaccine Information Center(NVIC)が
リスクを調査するようにObama政権と議会に対して出していることを
17日のエントリーで取り上げた記事で読んだばかりですが、

そのGardasil、

11歳以上の女児を対象に認可されて2年でCalifornia州では
13歳から17歳の女児の4人に1人が初回接種を受けている(推奨は6ヶ月間に3回)、

10代の少女、親、若い女性の多くが希望している、

……との調査結果が
The UCLA Center for Health Policy Research から。

HPVワクチンの使用や受容について研究が発表されたのは初めて。

一般に受け入れられたとみてよかろう、と。

2009.02.21 / Top↑
英国のMS女性の
「私の自殺を手伝う夫を罪に問わないで」という訴え
それはむしろ罪を背負う覚悟でやってくれと頼むべきことなのではないか……などと考えていたら

先週の「伊で安楽死の女性、死因は心臓発作」のエントリーに
「安楽死は相手に自分のために殺人犯になってくれと頼むのと何が違うのか」と
なんさんから頂戴したコメントで思い出した医療倫理の思考実験が、またぞろ気にかかってきたので。

「医療倫理」(トニー・ホープ著 岩波書店)という本にあった思考実験の話。

運転手が炎の噴き出るトラックのから抜け出せないでいる。彼が助かる道はない。間もなく焼死するだろう。運転手の友人がトラックの近くにいる。この友人は銃を持っており、射撃の名手である。運転手は友人に自分を打ち殺してくれと頼む。焼死するよりも、撃たれて死んだ方が苦痛が少なくてすむだろう。

法的考慮はすべて度外視して、純粋に道徳的な問いとして尋ねてみたい。はたして友人は運転手を撃つべきだろうか。

普遍的な答えがあると前提している点で
この思考実験の問いは人間の関係性とか心理の複雑さを無視していて
始めから無理があるのでは……と私は思ったのですが、

同時に頭に浮かんだのは、なんさんと同じ疑問で、

もしも運転手がここで「撃ってくれ」と頼むとしたら
殺人を犯すという究極の負担を自分のために引き受けてくれと
相手に向かって頼むことなんじゃないのか。

それならば、
頼めるだけの信頼関係が2人の間にあると、
少なくとも運転手の方が信じていなければ頼めないのではないか……と。

「だから友人という設定にしてあるではないか」と
この思考実験を考えた人は反論するのだろうけれども、
でも、友人関係というのは、それほど単純なものなんだろうか……。


著者がこの思考実験で挙げている
「撃つべき」とする理由

①苦しみが少なくてすむ。
②運転手が望んでいる。

「撃つべきでない」とする理由

①撃っても傷つけるだけで終わった場合に撃たなかった場合よりも大きな苦痛を与える。
②運転手が焼死を免れる可能性
③長く罪の意識を感じなければならない友人に公平でない。
④人を殺すことは不正という原則を曲げると「滑り坂」になる。
⑤延命治療差し止めは死を自然に任せるが、殺すことはその逆で自然への介入である。
⑥神を演じることになる。
⑦安楽死は自然に任せることだが殺人は根本的な不正である。


著者はこの後、
「撃つべきでない」①から⑦の理由を1つずつ論じて、
それぞれに十分に説得的な論拠になりえてないと結論していきます。

(もともと、この思考実験そのものが
医療現場における安楽死正当化の文脈で登場しているものです)

しかし著者が①~⑦を1つずつ否定する議論は
人を人とも思わない、なんとも浅薄なもので、

例えば①について著者は
「撃たなかった場合」「うまく撃ち殺せた場合」「傷つけただけで終わった場合」
それぞれに運転手が経験する苦痛の総量をX、Y、Zとし、
それぞれが起こりうる確率との掛け算をすれば
撃つことが正しいと主張します。

でも、こんなのは運転手と友人の関係性によって全然違う話になる、
それが人間関係というもんでしょうが……と
私はここを読んだ時に絶句した。

友人だから2人の間に単純明瞭な愛情と信頼だけがあるなんて
私には考えられないし、

2人が友人として過ごしてきた年月には
温かい思い出や恩義や感謝や愛着やいおとしさが積み重ねられてきたであろう一方で
それぞれに対する優越感・劣等感・嫉妬や猜疑や特定の出来事へのこだわりといった
ネガティブな思いも複雑に積み重ねられているはずで、

そもそも運転手が友人に「撃って」と頼むことそのものからして
「こいつならそれを引き受けてくれる」と確信できる間柄だと
少なくとも運転手の主観では理解されているのか、
それとも「そんなことを頼める間柄ではないのだけど頼んでみるしかない」と
捉えられているのかによって、出発点がまるで違う。

「こいつは自分が苦しむのを心の底で喜んでいるに違いないから、
そうさせないためにも撃たせたい」と考えて
「撃って」と頼むことだって、
友人だからこそ、ありうるかもしれない。

つまり、2人の関係性によって
運転手が経験する苦痛も、ただ単に肉体的な苦痛だけではないはずで、
そんなことをあれこれ考えてみれば、
「撃たなかった場合」「怪我だけさせた場合」「撃った場合」の苦痛なんて
客観的に数値で大小を比較できるようなものじゃないのでは……?

この先も生きていく友人が抱え込まざるを得ないものについても
同じことが言えるはずだと思うのですが、

さらに著者は③について
だいたい次のように反駁しています。

この思考実験の目的は
この場合に「撃つ」という行為が正しいかどうかを決めるためのものであり、

「もしも運転手を打つことが正しいのであれば、
友人は彼を撃った場合(そうすることで運転手の苦しみを減らした場合)に
罪の意識を感じるべきではない」

だから罪悪感を感じる可能性は論点を先取りしていることになって、
行為の正しさを決める理由にはならない。

あははは。

「罪の意識を感じるべきではない」と
おエライ倫理学者サマが決めてくださったら
人間てな罪の意識を感じなくなるものなんっすか。

知らなかったなぁ。

正しいことをしたと頭でいくら自分に言い聞かせても
心の方は、そう思い通りに言うことを聞いてくれない、
やってはならないことをやってしまったと心が感じるならば
罪悪感からなかなか逃れられないのが人間てもんで、

そういうのが人を人たらしめる“倫理”感というものだとばかり
凡人は思い込んでいました。

もしも
「殺人はこの場合は正しいのだから罪悪感を感じるべきではない」と
高いところから命令するのが生命倫理学者だとしたら、

「理屈をどうこねくり回されようと苦しい」と感じてしまう下々の人の心のほうが、
よっぽど倫理的だし信頼に値するじゃないか、と思う。

案外、だからこそ、高いところから号令をかけたい人たちは
人には心があることを無視して話を進めるのかもしれない。
2009.02.21 / Top↑
このところの英国での自殺幇助合法化に向けた動きと
そのさなかでのDebbie Purdyさんへのメディアの注目を受けて、

Wesley Smithが英国のTelegraph紙に寄稿しています。

自殺幇助合法化運動の推進者らから合法的自殺幇助のモデルとされている
Oregon州の実態について、

高価な抗がん剤治療の支払いは拒むが幇助自殺の費用なら出してやる
政府からの通知を受けた癌患者が去年2人出たこと。

実際には終末期どころか、たいした病気の症状すらない人に致死薬が処方されており、
合法化のウリ文句の「苦痛の軽減」にはなっていないこと、

法律的にはウツ状態の人に致死薬の処方は認められないことになっているが
去年Oregon州で医師の幇助を受けて自殺した人の中で
アセスメントを受けるべく精神科へ紹介を受けた人はゼロだったこと、

こうしたウツ状態の患者は精神科でケアすべきだし、
自分が家族の負担になっているとの末期患者の罪悪感も
本来ホスピスで適切にケアされるべきでありながら、
精神科の介入なしに医師が致死薬を処方することを州が認めてしまったら

ホスピスケアそのものが廃れて
結局は高齢者、病者に死ねと圧力がかかる「滑り坂」になる。

で、Smith氏の結論は

合法的自殺幇助のモデルとの看板の陰で、Oregonで明らかになったのは
合法化が切り捨て、医療の荒廃、患者の命の軽視に繋がるということだ。

‘Right to die’ can become a ‘duty to die’
By Wesley Smith,
The Telegraph, February 20, 2009
2009.02.21 / Top↑