2ntブログ
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去年11月の住民投票で賛成多数で決まり、
先週金曜日に具体的な手続きなどの細則が最終的に決定されて
Washington州の尊厳死法(Death With Dignity Act)が3月5日に施行されるのを前に

昨日、州立ホスピスなど緩和ケア関連団体が共催で
州内110のホスピスの職員に向けてセミナーを開催。

その中で
1998年から尊厳死法のあるOregon州の
ホスピスの看護師やソーシャルワーカーの話を聞いたところ、
彼らは自分の死を早めたいと望む終末期の患者と接するに当たって
ジレンマを感じているとの調査結果が報告された。

自分の状態に則したニーズが満たされれば患者は死を早めようとはしないし、
自然な死のプロセスによって家族に癒しと納得がもたらされることから、
「そのプロセスを省略して死を早めることを選ぶ患者を見るのは悲しい」と語る人も。

一方、法律が施行された後にも
一定の地域内ではカトリックの病院など医療職に新法に従わないように求める
「無自殺ゾーン」を作ろうという声もあるが、
勤務時間外にその区域外での医療職の行為を縛るものではない。

New doctor-assisted suicide law takes effect March 5
The Seattle Post-Intelligencer, February 23, 2009

このセミナーではJan HellerというSeattleの生命倫理学者も登場したらしいのですが、
記事に引用されているのは2点で、

そのうちの1つが
先日のシアトル子ども病院の成長抑制シンポで問題になっていた
acts of commission と acts of omission の別。

日本語になりにくいのですが、
何かを“する”ことによって行う行為、と
何かを“しない”ことによって行う行為、と言えばいいのか……。

ここでは
自分で致死薬を飲ませて「意図的に殺す」という行為(act of commission)と
死にゆく患者に余計な医療を行わずに「死なせる」という行為(act of omission)
とが対比させられていて、

Hellerが言うのには
「両者を区別しない倫理学者もいるから
皆さんも同じように区別などしないのがよい。
そうでなければ頭が混乱してワケがわからなくなるから」。

もう1つHellerが言ったこととして、
医療によって生命の長さだけは伸ばせるけれども、
それと同時にその質も一緒に上げて両立させられることは滅多にない。


考えたって、どうせ分からないから
積極的に殺すのも、消極的に死なせるのも、一緒くたにしてしまえばいい──。
命の長さと質はどうせ両方は望めないのだから早く死なせたって構わない──。
身体の全体性や尊厳を侵されたって、どうせ重症児だから分からない──。

こんなふうに「どうせ」で何もかも片付けてしまえるなら
倫理学者など最初から不要ではないか。

いったい生命倫理というのは、どういう学問なんだ???? 
2009.02.24 / Top↑
UCLAの科学者らが1240人の女性を調べたところ、
食品のパッケージや殺虫剤、家の中にある物品に含まれる化学物質によって
妊娠しにくい身体になっている可能性がある、と。

もっとも予備的な調査であって、両者の相関関係が決定付けられたわけではないとのこと。



香川の受精卵取り違え事件のテレビニュースで
体外受精で生まれる子どもが年間2万人もいると聞いたのには仰天した。

そこまで不妊の人が増えているとは……。

もちろん要因は1つや2つではなく
いくつもの要因が複雑に絡み合っているのだろうとは思うけれども、

不妊の問題に限らず、
このブログで科学とテクノロジーの周辺で起こっている諸々を追いかけていると
なんとなく考えてしまうのは、

科学とテクノロジーで何でも簡単解決しようとする文化は
一見、様々な問題を簡単に解決していくように見えて、
実はその問題を引き起こす原因を作ってきた犯人だったりもするのだけれど、
もはや因果関係を調べられないほど我々の日常生活が影響されているし、
みんなが科学とテクノロジーはひたすら前進のツールだと信じて疑わないために
駆使すればするだけ、また将来の新たな問題の種を蒔いているのだとしても、
誰も気付かないし、気付きたくもないし、気付かれたくもない……。

そういう循環がぐるぐる回っている……なんてことは?
2009.02.24 / Top↑
Wesley Smith が自身のブログ Secondhand Smoke で
日本で起きた受精卵取り違え事件を取り上げています。

「どんな手段を使っても欲しいものは手に入れる権利がある」とする
“権利がある”文化(Entitlement Culture)に対して
自分はずっと警告を発してきたが

今回日本で起きた悲劇は、その文化の縮図である、という論旨。

子どもがほしいという女性が赤の他人の卵子を使って生む──。
5つの胚を子宮に入れて選別で弾いた余剰胚3つを廃棄する──。
健康上の理由で、または仕事を中断したくないという理由で
貧しい女性を代理母に雇って子どもを産んでもらう──。

すべて「女性の生殖権」なのだから、
我々はこれらについてコメントすることを許されない。

ところが全員IVFで生んだという子どもが既に6人もいる女性が
さらにIVFで8つ子を産んだとたんに非難の嵐が起きた。

ここまでくると、
「なんだって個人の選択」社会もさすがに平成を失うのだが、
しかし、何でもアリを許してきた社会に
8つ子の母を非難する権利があるのか。

その過程で命を傷つけたり犠牲にすることの道徳的なコストなどお構いなしで、
欲しいものは何でも手に入れる権利が我々には等しくあるという社会を、
この領域(生殖補助医療)はますます具現していく。

しかし、知恵に耳を澄ませば、我々は時に限界の範囲内で生き、
その中で最善を尽くさなければならないこともある。

もちろん、それで苦しむ人はいる。
ならば、その苦しみに共感し、それを軽減するための支援をするべきだろう。

しかし、そのことが、より健康な社会を形作ることにも寄与するのだ。
その教訓を忘れたことで、我々は高いツケを支払っている。




私は新聞の関連記事を読み、いくつかのテレビニュースを見ただけなのだけど、

事件が伝えられる文脈も、
出てくる専門家や町の人のコメントも、

被害者としての親の立場に立って
テクニカルなミスをした医療の責任を追及するトーンのものが多い……という気がする。

でも、この事件を知って心がざわめくのは、これが、ただ
テクニカルな間違いが起こらないように注意する義務があったのに
サービス提供者がそれを怠ったためにサービス購入者が身体的精神的な苦痛を被った……という
単純な話じゃないから……のはず。

もちろん、他人の受精卵を入れられてしまった夫婦が被害者であることは間違いないし、
その肉体的、精神的なダメージはどんなにか大きなものだろう。
誤って他人の子宮で成育した自分の胚を中絶されてしまった夫婦もまた
被害者であることは間違いないのだけれど、

誰もあからさまに触れようとしないところに、
もう1人の被害者がいる。

この事件のニュースで私が一番心ざわめくのは
本来ならそのまま生きるはずだった命が抹殺されてしまったという事実に
誰も正面から触れようとしないこと。

この医師による受精卵の取り違えが過去にもあったとすれば、
現在、既に生まれて別の親の子として暮らしている子どもの存在は一体どうなるのだろう。

この事件では生物学上の両親には知らされないままに中絶されてしまったわけだけれど、
その胚の所有権は本来、一体誰にあったのか。

もしも生物学上の両親がミスについて知らされて
自分たちの子どもを殺されたくはないから
このまま代理母として生んでほしいと望んだとしたら、
一体それは倫理的にはどういうことになるのだろう?

ざわめく心の中から沸きあがってくる疑問は
テクニカルに簡単解決できないものばかり……。
2009.02.24 / Top↑