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英国保守党Cameron党首の息子Ivan君の死について、
Timesにあった追悼記事という趣の1本から
特に目に付いた点、それから個人的に思うことを。


息子の病院通いや看病の体験が、
Cameron氏の医療に対する考えに影響を与えて
NHSの存在そのものに否定的だった保守党の姿勢を転換させた。

NHSのような金のかかる制度はもはや無用だとする声に対して
妻と一緒に準備したとされるスピーチでCameron氏は
「NHSは20世紀の最も大きな偉業の1つだと確信している。
家族が常時、昼も夜も来る日も来る日も、NHSに頼っていると
NHSがどんなに貴重な存在であるかが本当に良くわかる」。

また
息子さんは死なせてあげる方が幸せかもしれないと夫婦で考えることはないかと
問われたこともあったようで、

「難しいですね。夫婦で話すことはよくあります。
ものすごく辛い発作が起きたら……。これ以上は話したくない……」

Ivan君の死は、どうやら、
けいれん発作の重積によるもののように思われます。



政治家というのは、
こんな無神経な質問を見も知らぬ相手から投げかけられて
答えを迫られなければならないものなのか……。

私も問われたことが何度かある。

ウチの娘もIvan君と同じ重症の脳性まひで同じ発作もあるけれども、
どちらも程度がIvan君より少し軽いので、おのずと質問の方向も微妙に違っていて、

「お産の時に、いっそ死んでくれていたらよかったのに、と思うことは?」と
人により、私との関係によって、様々に違う表現とトーンで。

ほとんど初対面に近い相手がそんなことを聞く無神経に
殴りつけたいほどの憤りで頭が真っ白になり、絶句したこともある。

娘の幼児期に、
うつ状態に陥った私を心配して毎日のように寄ってくれる友人が
恐らくは彼女がずっと心の奥で私のために転がし続けてきた、その質問を、
私を案ずるがゆえに問わずにいられないといった顔つきで
押し出すように口にした時には、

答えようと思った。
分かってもらいたいとも思った。

だから説明しようとはしたのだけれど、
あまりにも多くの思いや言葉が
絡まりあってぐずぐずになった毛糸玉みたいに胸元でこんぐらがって、
その、ほどけなさは、ただもう絶望的で──。


「考えたことがあるか」と文字通り聞かれたのだとすれば、
それは「考えたことはある」が答えになります。

しかし、そういうことを「考えたことがある」ということは
決して「だから、そう思っている」ということと同じではないし

それどころか、答えようとしている内容はきっと
「そう思っている」からは遠くへだたってもいて、
伝えたいその思いと、「ある」と答えることとの隔たりの、あまりの距離感を前に、
「考えることはある。あることはあるけど、でも……」の後は、絶句するしかなくなる。

親としての自分の気持ちにしたところで、
その距離感のどこかの、いつも同じどこかの定点に
心が定まっているというふうなものでもなくて、むしろ、
子どもの状態や家族全体の状況、親自身の体調や精神状態によって
その距離感のどこかをウロウロ、ふらふらと漂っていたりもするのだから、

誰かに向かって言葉で説明しようとする以上は
何らかの言葉を選択するしかないのだけれども、
どの言葉を選択して何を言っても所詮その言葉が言い表すのは
複雑な気持ちのほんの一面でしかない……という意味では
その言葉は口にした瞬間にウソになるしかなくて、

その時も
むなしく言葉を探してあっぷあっぷするだけで、結局なにも言えなかった。

数年前に、その友人が
「私は、あなたに酷いことを言ったことがあった……」と。

あの時のことを言っているのだと気付くのに、しばらくかかった。
ああ、この人も覚えていたのか……と、びっくりした。
きっと彼女自身の傷になっていたんだな……と、申し訳ない気がした。

ううん。謝ることなんか、ないよ。
あの時、私、気持ちはちゃんと受け止めたんだから。
だから腹なんて立たなかったよ……ただ……

ただ……なんなんだろう……。

ただ、どうしても言葉にならなかった。

この20年以上、ずっと心配しながら見守ってくれた彼女に
今でも説明できるものならしたいけれど、どうしても言葉にならない。

同じ思いを知っている人なら何も言わなくても分かるのだけど、
同じ思いを知らない人には、どんなに言葉を尽くしても伝えることが出来ない──。

そんな思いというものが、ある……としか言いようがない。

いったんは誠実に答えようとしたCameron氏が
「これ以上は話したくない」としか言えなくなったのは
そういうことなんじゃないだろうか。

きっと障害のある子どもの親は
そんな問いを自分自身も何度も心に自問しながら、
答えなど出せないまま日々を生きることを通じて
死ぬまで自分の答えを探しているんじゃないか……という気がする。

それとも、
同じ思いを知らない私には分かりようがないことなのだけれど、

Ivan君が亡くなったことで、
Cameron氏の自問は何かが変わるのだろうか。
答えが見つけられるのだろうか。


Ivan Reginald Ian Cameron 君のご冥福を──。
2009.02.26 / Top↑
前のエントリーで取り上げた
全9州における、自殺幇助容疑での the Final Exit 捜査関連。


Arizona州Phoenixで2006年に
慢性的な精神疾患のある58歳の女性 Jana Van Voorhisさんの自殺に
The Final Exit Networkから訪れた老人2人が関与したとして

Maricopa郡検察官が家宅捜査令状をとる、と。

女性に精神疾患があった点を
特に検察当局は重視している、とのこと。



Janaさんの自殺の詳細については
同じニュースサイトで2007年に長文の記事があるのですが、
非常に長いので、最初のページしか読んでいません。一応、以下に。

Death Wish
The Final Exit volunteers call it assisted suicide.
Prosecutors may call it manslaughter
By Paul Rubin, the Phoenix New Times, August 22, 2007

【追記】

このエントリーをアップした直後に
アップデートとして記者会見の模様が同じサイトに出ていましたが、
新たな情報は特になかったようです。

2009.02.26 / Top↑
「耐え難い状態に苦しんでいる人々を助けるために活動する」とウェブサイトに謳う
尊厳死アドボケイト the Final Exit Network の代表を含む幹部ら4名が
会員に成りすましたGeorgia州検察局捜査員のおとり捜査によって逮捕された。

容疑は昨年6月の58歳の男性 John Celmer氏のヘリウムによる自殺幇助。

The Final Exit Network は2004年に設立され、
会費納入済みの会員が現在3000人いる。

exit とは名詞で「出口」、動詞で「出る」で
同ネットワーク内では自殺または自殺することを exit と表現する。

同ネットワークでは50ドルの会費を支払って手続きを行うと、
自殺したいと思った時には“exit ガイド”と呼ばれる担当者がつけられる。

その“exit ガイド”の指示によって会員が
ヘリウムのタンク2本と、彼らが“exit バッグ“と呼ぶ(頭にかぶる)袋を購入し、

いよいよ自殺の覚悟が決まると、
”exit ガイド“が実際の自殺のプロセスを指導する”上級 exit ガイド“を連れて
会員の家にやってくる。

ネットワークでは、
ボランティアで終末期の患者の自殺をサポートしてはいるが
実際の自殺行為に手を出すわけではないので、
違法行為には当たらない、と主張。

Georgia州では
「故意に、積極的に自殺を幇助すると公に広告する、
または申し出る、自分がそういう行為を行うとする」ことを
自殺幇助と定義している。

The Final Exit Network については、他にも
フロリダ、メリーランド、ミシガン、オハイオ、ミズーリ、コロラド、モンタナ の
7州において家宅捜索が行われている。

またArizona州では25日にも
捜査結果を報告する記者会見が予定されている。


The Final Exit Network の公式サイトは こちら

【追記】
この件に関しては、あちこちのメディアで取り上げられて
ものすごい数の記事が出てきているのですが、
いくつかを読んでみたところ、

逮捕された4人のうちの1人は the Fianl Exit と提携しいていた医師。

またGeorgea州の捜査では
事後に自分たちの関与の証拠を消すべく書類の改ざんが行なわれていた、という話も。

        ----

闇で自殺幇助が行われているという問題については
当ブログでも以下のエントリーで取り上げています。



なお、NY Times に、 死に関連した記事をまとめたページがありました。こちら
2009.02.26 / Top↑
カナダに
Alex Schadenberg という人が代表を務めている
Euthanasia Prevention Coalition (安楽死防止連盟)という組織があるのを最近知って、
そのブログを時々のぞいてみたりしているのですが、

そこの記事で
ずっと頭に引っかかっていながら調べようともせずにいた疑問に
ひょっこり答えが見つかった。

日本語の「無理心中」に当たる英語、ここではmurder-suicide 。

なるほど──。

以下の記事の別の箇所には
「一家心中」に当たる a family suicide という表現もあるのだけど、

murder-suicide の方では
わざわざ murder という言葉が入っているのが、ぎくりとさせる。

子どもが自ら自殺するわけではない、
親が子どもを殺害して後に(または殺害すると同時に)親が自殺するのが事実のありようなのだから

本来、これは、ぎくりとさせる表現が使われるべき事実なんだ……ということを考えた。



When Financial Despair Turns Deadly
Euthanasia Prevention Coalition, February 24, 2009


障害のある子どもの親が子どもを殺すと、
日本の世間の人々は大いにショックを受けて
「それでも親か」と激しく指弾するのだけれど、

その割りに子どもを殺した後で親が自殺してしまうと
それは「無理心中」ということになって
こちらは誰も「親が子どもを殺した」とは騒がない。

障害者自立支援法が云々され始めてから
相当な件数の親子心中があったようにも思うのだけれど、
あまり大きく報道されることもなく、
ひっそりと忘れられていく。

障害のある子どもが親によって殺されるという事実そのものは変わらないはずなのに、
前者は「酷い事件」、後者は「哀しい事件」と捉えられる。

それは、
前者では事件を見る人が子どもの立場に立つのに対して、
後者では同じ人が親の立場へと立ち位置をいつのまにか移動させているということではないのか、

そのようなダブルスタンダードは
結局親が自殺することで子の殺人が不問に付されているということではないのか、

そこには「心中」を巡る日本人独特の美意識も関係しているのかもしれないけれど、
どこかにやはり「子どもは親の所有物であり、全面的に親の責任」という
抜きがたい意識があるからではないか、

だからこそ、
自分が生きて子どもだけを殺すのは「子どもへの愛情の欠落」だと短絡・指弾される一方で、
親が自分も一緒に死ぬ覚悟で子どもを殺すのは「愛情からの行為」だと
情緒的に許容されてしまうのではないか、

そうした社会のダブルスタンダードは、結局のところ、
障害のある子どもの親に対して暗黙のうちに
「障害のある子どもに対する全責任は親にあるのだから全てを抱え込め。
それができないなら連れて死ね」と
メッセージを送っているようなものではないのか……。

そういうわだかまりを私はずうっと心の中に抱えているので、
経済不況で一家心中が増えているという内容のこのニュースの中で
murder-suicide という表現と出くわした時に改めて考えた。

「心中」「無理心中」に代わる表現が必要なのでは──?
2009.02.26 / Top↑