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9日にNY Timesにダーウィンに関する社説やらOp-Edやらが並んでいたと思ったら、
今年はダーウィンの生誕200年、しかも今日がその誕生日とのこと。

そんなこととはつゆ知らず、数日前から読んでいて奇しくも今日読み終えたのが
進化から見た病気:「ダーウィン医学」のすすめ(栃内新 著)

ダーウィン医学というのは1991年に
医師ランドルフ・ネシーと進化生物学者ジョージ・ウィリアムズによって提唱された
まだ新しい学問だというのですが、

この本を読んでいると、とりたてて事新しいことを主張しているわけではなく、
実はみんなが常識として知っていることのような気もしてくる一方で、
それを新たな医学として提唱し、それによって警鐘を鳴らすことが
必然となってしまった時代背景のほうを改めて考えさせられる。

前に最相葉月さんの本で遺伝子の改変について、
ある科学者が長い進化の歴史を無視していることの不自然を指摘していたのに、
とても共感できたのですが、

「ダーウィン医学」の考え方は要するにそういう視座で、

人間とは似つかない姿から5百億年もかけて進化してきたヒトの現在ある姿は
病気や、それに抵抗する免疫システムなど良いものも悪いものもひっくるめて
一定の必然を含んでいる、と。

私は読んでいると「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉が浮かんだ。

前からトランスヒューマニストや科学とテクノ万歳文化の人の言動には
「あのね、世の中には良いばっかりのことも悪いだけのことも、ないのよ。
何かを得ようと思ったら、何かを失わなければならないのが、この世の摂理なんだからねっ」と
オバサンはいつもつぶやいてきたし。

例えば、
案外に人間は体の中の細菌と上手く共生しているとか、
だから寄生虫の駆除に成功して「清潔すぎる」環境で子どもが育てられるようになった辺りから
アレルギーが増えてきたとか、

大きな進化の中で捉えた場合には
すべてあざなえる縄のごとき禍福なのだから
悪いものを今のようにただ闇雲に最新科学の強力で排斥するだけでは
回りまわってまた別の悪いものが出てくるのが自然の摂理……という話……と解釈した。

もう1つは、
抗生物質の発見で人類は感染症との闘いに勝利したと一度は考えられたけれど、
すぐに耐性菌が出現してきたように、
人間が進化するスピードはウィルスや細菌が進化するスピードには及ばない、という話。

次々に開発される抗がん剤にも
癌細胞のほうで分裂を繰り返すたびに遺伝子で進化して
その抗がん剤への耐性を身につけているとか、
タミフルが使われるようになってまだ10年なのに、
すでにタミフルに耐性のあるインフルエンザ・ウィルスが出現している、など。

(鶏インフルエンザの出現に驚愕したのは、ついこの前なのに、
もう変異が起って人間から人間に感染するようになるだろうという話も思い出した)

だから先端医学の強力でブルドーザーのように都合の悪いものをなぎ倒していくだけでなく
長い進化の中で病気を捉えるダーウィン医学の視点も必要なのでは、という主張は
私にはとても説得力があった。

ダーウィン医学では、薬を用いた治療についてもう一度考えることを推奨している。薬を使うなというのではなく、毒になることもある薬によって、もともと持っている身体の自然治癒能力を妨害してはいないかという観点を持つことが重要なのである。(P.58)

遺伝子の働きというのはつねに環境との相互作用で決まるものであり、特定の環境では生存に有利だった遺伝子が異なる環境のもとでは新しい病気の原因になったりすることもある。また逆に、病気を起こす原因となる遺伝子だと思われるものが、他の病気を防ぐ働きを示したりすることが見出されることもある。現時点で我々が持っている科学(医学)知識も過渡的なものであり、新しい発見の後にその誤りあるいは不完全さが明らかになることも想定する必要がある。(P.136)

複雑な体と引き換えに再生能力を失い、細胞が速やかに増殖し成長や分化する能力と引き換えに、がん化の危険性を引き受ける。驚くほどうまくできていると感嘆すると同時に、その制約の頑固さにあきれてしまう思いをすることもあるのが進化の真実だ。どんなに不都合に思えても、それを代償として手に入れた有利さが必ずあるのが進化のルールでもある。生物である以上、ヒトもこの制約から逃れることはできない。(P.154)

「代理母」による出産は生物が長い進化の時間を経て受け継いできた、遺伝子と生殖細胞の連続性を断ち切ってしまうという重大なできごとである。進化という観点から見ると、昨今の生殖補助医療は生物の連続性を無視した驚愕の医療へと発展しつつあるように思える。(P.168)

出生前診断によって、あらかじめ重篤な先天性の疾患が予想される時には、胎児および母親を含めた家族の福祉のために、産まないという選択が行われることには同情的意見が多い。しかし、出生前診断をするということは、今までならば自然選択によって行われていたことにヒトが介入し、人為選択となりうることに注意しなければならない。(P.170)

今日に至るまで38億年の間、自然選択にのみ任されてきた遺伝子の変化を、我々の技術で人為変化・人為選択できるようになったときに、何をしてよいのか、何をすべきでないのか、そうしたことをしっかりと把握する前に行動してしまうことは取り返しのつかない結果を生む恐れがある。先端医療の持つインパクトは、何億年もかけて受け継がれてきた地球における進化の連鎖を、ヒトが断ち切ってしまうことを可能とするくらい大きなものだということを認識しておく必要があるだろう。(P.171)

我々は長い進化の過程で、先祖の子孫として子の地球上に生まれてきた。そして、その長い生命の連鎖を次世代に受け渡すためには、もちろん次世代の子孫が生き延びることができるまでしっかりと育てることが必要だが、彼らが自立できるようになったならば、彼らのために地球の資源を受け渡していくこともまた必要なことなのだ。(P.189)

最後の1段はトランスヒューマニストに訓として垂れてやりたい箇所。

この前読んだ「Ashley療法は自然に反する。したがって間違っている」という批判も、
やっぱり、ただ「バカな批判」だと切り捨ててしまってはいけないものを
含んでいるのだ……と改めて思った。


このエントリーの冒頭で触れたNY Timesの記事は
いくつか読んでみたものの、
進化論に何の抵抗もない日本人としては面倒くさい感じもしたので
一応、メモとして以下に。




以上は2月9日のNY Times。



以上が2月11日のNY Times。
2009.02.12 / Top↑
前のエントリーに続いて、いただきもので
the Hastings Center Report, January-February 2009に掲載の論文
“Respecting Children with Disabilities – and their parents”
「障害のある子どもを尊重すること ――親も含めて」

著者はThe Hastings Centerの上級研究員Erik Parens

新興テクノロジーで身体を作り変えることや
新たな科学による自己理解の形成への影響などのテーマで研究している人のようです。

大まかな論旨としては、

医療技術を社会的な目的に用いることに対して
障害者自身がどのように発言してきたかを振り返ってみると、
障害の種別により、またその人の考え方や年齢によって多様であり、
十分な説明を受けた判断能力のある障害者は
そうした手術を拒否する場合もあれば自ら求める場合もある。

それならば、他に良い方法が見つからない以上、
十分なインフォームドコンセントを経たうえで
子どもと家族のことを一番把握している親に決めさせてあげればいい。

ただし、Parensは
親を尊重するということは何でも言いなりになることではない」と書き、
十分なインフォームドコンセントの必要を強調しています。

医療以外の問題解決の選択肢が本当に存在しないのかどうか。
医療を手段とする場合と、医療以外の手段を使う場合のコストはどうか。

そして、最も重要な問いとして、
親にとっては聞かれたくない、考えたくない問題であろうけれども、

あなたは子どもを1人の人として捉えるのではなく
 自分の延長・一部として捉えていませんか」と
問い、親に考えさせなければならない、と。

また、もう1つParensがこの論文で指摘しているのは、

「生後6ヶ月の赤ん坊の知的レベル」といった表現は
体の成長が本人にとっては微妙で予見不能な形で重要なものであることを
覆い隠してしまう可能性がある。
そのことも親にはきちんと認識させるべきである、と。

彼が挙げているのは
小さい頃には子どもの歌が好きだったのに、
体の成長に伴ってベートーベンのシンフォニーなどに趣味が変わった
Seshaという障害のある女の子の事例。

知的な成熟をもたらしたのが体の成長だとは限らないので
これをもって「だから体の成長が本人にとって大事」と主張することには
ちょっと無理があると思うのですが、

Seshaの事例の直後に
障害をもった人の生活がどのようなものか直接体験がある人は
このように本人にとっては体の成長が意味を持っていることを知っている、
という点を強調していることからしても、

Parensが言いたいのは
「生後6ヶ月の赤ん坊と同じ」と知的レベルを決め付けて
本来ならできたはずの(体の成長などの)体験を奪ってしまうのは感心しない、
その体験はその人の成熟に大事な意味を持っているかもしれないのだから、
ということではないかと思われます。


これらの2つは大事な指摘であり、
私もそのまま同意するのですが、

同時に、なぜ、
これらの指摘はAshleyケースにおける親と病院の判断への批判でありながら、
論文そのものの結論は「親に決めさせてあげよう」になるのかが分からない。

文脈としては上記2点はあくまでも
親へのインフォームドコンセントへの「ただし書き」といった扱いで、

結論は再び、
こうした点について、きちんとICした上であれば、
他に良い選択肢がない以上、
「社会的な目的で医療を使いたいという親の言い分は
額面どおりに受け取ってあげることが
障害のある子どもたちと親を尊重することになるだろう」と。


「他にいい選択肢がないから」と繰り返して
この人は自分の結論を正当化しているのですが、

そこを煮詰めて考えるのが、
生命倫理学の専門家である、あなたの仕事じゃないんですか──?

また「総論で賛成しておいて、あとで各論になると反対」というのは
巷によくある話ではありますが、

“Ashley療法”論争に出てくる専門家の歯切れの悪さにいつも感じるのは

先に各論を並べて反対しているくせに、
その後に平気で「でも総論は賛成」とまとめることができる不思議──。
2009.02.12 / Top↑