・ まず、サラとブライアンにこのようなテクノロジーの可能性を示唆した人物は
原作でも映画でもケイトの主治医のDr. Chanceなのだけれど、
小説の方では単に「次の子どもを産んでみたら、
たまたま適合したケースもあった」という話として出てきたのに対して、
(その後、夫婦がどのように具体的な技術に行き着いたかは語られていない)
原作でも映画でもケイトの主治医のDr. Chanceなのだけれど、
小説の方では単に「次の子どもを産んでみたら、
たまたま適合したケースもあった」という話として出てきたのに対して、
(その後、夫婦がどのように具体的な技術に行き着いたかは語られていない)
映画では直接的に「技術的に適合を保障することは可能」と医師が明言していた。
ただし、「これは法的には医師が公言してはまずいのだけど」という前置き付きで。
ただし、「これは法的には医師が公言してはまずいのだけど」という前置き付きで。
これまで兄弟の治療目的の臓器提供者としての遺伝子診断の利用を法的に認めていると
当ブログが読みかじった情報で確認が取れているのは英国とスウェーデンとフランス。
(ただし英国のヒト受精・胚法改正法の施行はまだだと思います)
当ブログが読みかじった情報で確認が取れているのは英国とスウェーデンとフランス。
(ただし英国のヒト受精・胚法改正法の施行はまだだと思います)
スペインと米国で生まれているのは事実ですが、
その法律的な背景は定かではありません。
(詳細は以下のリンクに)
その法律的な背景は定かではありません。
(詳細は以下のリンクに)
・映画の法廷でのサラと弁護士のやり取りの中で
骨髄提供まで白血球の提供と同じように扱われて
針の大きさだけが問題視されていたけれど、
骨髄提供まで白血球の提供と同じように扱われて
針の大きさだけが問題視されていたけれど、
オーストラリアの医療における子どもの権利擁護システムでは、
骨髄提供はガーディアンシップ委員会の了承を必要とする「特殊な医療」と規定されています。
それだけドナーへのリスクが大きいということであり、
映画ではアナが合併症を起こして2週間の入院を要したことによって
そのリスクを間接的に表現して終わったのが気になった。
骨髄提供はガーディアンシップ委員会の了承を必要とする「特殊な医療」と規定されています。
それだけドナーへのリスクが大きいということであり、
映画ではアナが合併症を起こして2週間の入院を要したことによって
そのリスクを間接的に表現して終わったのが気になった。
・原作小説によると、骨髄移植に必要な費用は最低10万ドル。
2009.10.10 / Top↑
昨日、映画「私の中のあなた」を見てきました。
それで、いろんなことを考えているうちに、なんとなく
自分がとても強い予断を持って見たような釈然としない後味が残ったので、
今日もう一度いって見てきました。
それで、いろんなことを考えているうちに、なんとなく
自分がとても強い予断を持って見たような釈然としない後味が残ったので、
今日もう一度いって見てきました。
まだ、いろんなものが未整理で混沌としたまま、ぐるぐるしているので、
これは、脈絡なしの、私自身のメモのようなものです。
これは、脈絡なしの、私自身のメモのようなものです。
注)もろにネタバレしています。
・原作とはずいぶん違っている点はあったけれど、全体に、1つ1つのシーンに原作の複雑な背景をコンパクトに象徴させて、あれだけの長い作品の世界をうまく描ききってあったような気がする。映画として悪くなかっただけでなく、ある意味では原作をさらに普遍化して、より親のエゴの本質に迫ってすらいるのかもしれない。この映画は「家族の物語」というよりも、「親と子の関係性」、「親であるということ」を問う物語となっているような気がする。
・ただ、そのために、逆に、アナが臓器ドナーとしてテクノロジーで作られたデザイナーベビーに設定されていることの意味が薄れてしまっているのも事実。特に日本では多くの人が、”救済者兄弟”が既に生まれている現実を知らずにこの映画を見ることを思うと、そこのところが、やっぱり、ちょっと引っかかっている。科学とテクノロジーによって親が子の生命をコントロールできるようになった時代だからこその問いが、映画ではより普遍化されて、より深く本質に近くなったともいえるけれど、時代性の中で問われている“救済者兄弟”の倫理問題そのものは逆に見えにくい。
・私がこの映画を見る前に一番引っかかっていたのは、原作で13歳だったアナがどうして11歳に変わったのかという点だった。映画はアナの訴訟を、医療における未成年の意思決定の問題というよりも、親権の及ぶ範囲の問題と捉えていると思う。カリフォルニア州では子どもが親から独立できるのは14歳からだとか、アナの医療拒否を実現するためには親権の一時停止を申し立てるとか、といった、原作にはない話が登場した。ピコーが医療決定において意思を尊重されるべきと判断される「成熟した未成年」(Diekema医師によると12歳から14歳)にアナの年齢を設定して、これを医療の問題として捉えたのに対して、映画はむしろ親権一般の問題に拡大したのではないだろうか。それもまた、テーマを“救済者兄弟”の倫理性よりも親と子の関係性へと普遍化しようとしたのだと考えると、うなずける点ではある。
・それと同じことが、裁判の結末の描き方にも言える。裁判官がアナに向かって「門限や宿題やブロッコリーを食べることについては親の言うことを聞かなければいけないとしても、あなたの身体について決定権があるのは、アナ、君自身です」と言い渡すシーンは、アナを“救済者兄弟”と人物設定したこの物語においては、不可欠なシーンだったと思う。このシーンをなくして、ケイトの死後に弁護士が届ける書類で済ませるのであれば、映画ではアナは救済者兄弟である必要はなく、たまたま遺伝子型が一致したためにドナーにされそうな妹でも良かった。逆に言えば、問題を普遍化した映画の方は、裁判の結末はエピローグで十分だったということになる。
・一方、映画では、子どもたち3人が親には出来なかった深さでお互いに理解しあっていた姿が、うまく描けていた。親が自分たちこそが子どもたちの一番の理解者であり、子にとって何がベストであるかを最も良く知っているのは親である自分たちだと思い込んでいるのが、いかに親の勘違いであるか、というメッセージは、小説以上に強く描き出されて妙味があった。
・その意味で、私に最も印象的で心に残るのは、多くの人が挙げている海辺のシーンよりも、ついに娘の死を受け入れた母親のサラを、幼子を抱く親のようにケイトが抱いてベッドに横たわっているシーン。これもまた、ケイトが生き延びる原作小説にはないシーンだ。臓器提供を当たり前として強要し、アナの無言の声に耳を傾けてこなかっただけではなく、実はサラは自分が一番守ろうとしたケイト自身の意思や声を最も手ひどく無視してきたのだ。それが映画では小説以上にくっきりと描き出されていた。親はいつまでも自分が子どもを守らなければならないと信じて疑わないし、そこには子への過剰な支配の可能性も潜んでいるのだけれど、実は子の方が、いつのまにか親をしのぐほどに成長していたりもする。
・物語のミステリーは、アナの訴訟はケイトがアナにやらせたことだった。小説で引っかかったことの1つは、それならば、なぜアナが思いがけない事故で脳死になった時に、ケイトは腎臓移植に同意したのか、という点だった。それも含めて、小説ではケイトの視点がエピローグまで出てこないために、ケイトは「白血病の少女」という、どこか抽象的な存在になってしまっている。その欠点が映画では補われて、むしろケイトの存在感が引き立っていた。病気を美化せず、なるべくリアルに描こうとしていた姿勢も良かった。テイラーとのエピソードは特に光って、問題は死ではなく、むしろ生なのだと感じさせた。実は小説では、テイラーの死を知ったサラは、そのことをケイトに隠す。そして、ずいぶん後になって知らされたケイトを激怒させる。これもまた、親が過剰に子どもを守ろうとする独善を描いて、とてもサラらしいエピソードだ。
・小説、映画のどちらにおいても、印象に残るのは let go という言葉。映画ではサラの妹がサラに向かって言っていた。あなたは最後まで諦めず病気の子どもを守りぬく母親を必死でやっていて、それ以外のことが目に入らなくなっているけど、あなたに必要なのは let go することだ、と。日本語にはなりにくいけれど、これは「諦める」ということではない。戸田奈津子さんは「受け入れること」と訳していた。ゆこうとするものを、無理やりにでも手元に残しておきたいと、しがみついていく自分の手を、ゆるめ、放してやること。障害のある子どもの親たちにも、子に障害がなくとも自分の力で将来の幸福を保証してやろうとして子にプレッシャーをかけ続ける親のエゴにも、何が何でも科学とテクノロジーで生も死もコントロールし欲望を満たそうとする時代の姿勢にも、おそらく、必要なのは、自分にはどうすることも出来ないことを受け入れ、しがみつこうとする手を緩め、放してみること。自分が手の中に捕まえていると思っているもの自身の力と可能性を信じて。(そして、親にとって、それは、なんと難しいことなのだろう……と、改めて考え込むのだけれど。)
・映画では、アナに訴訟を起こさせたケイトの意思がクローズアップされて、アナ自身には腎臓提供の意思があったかのように描かれてしまったけれども、原作には弁護士に問い詰められて、アナが「(提供拒否は)私自身が望んでいたことでもあったから」と認めるシーンがある。人の心は単色ではない。2つのまったく正反対の思いの間で揺らいでいたり、引き裂かれていたりする。相手への愛情が深ければ深いだけ、引き裂かれる痛みが深かったりもする。
・実は原作には、半ページにも満たない、不思議なプロローグがくっついている。3歳の時、私はmy sisterの口を枕で塞いで殺そうとした、たまたま見つけた父親に止められてベッドに戻され“何も起こらなかったのだよ”と言い聞かされた、と。このプロローグの「わたし」は、果たしてケイトなのかアナなのか……。私は、この「わたし」はケイトでもありアナでもあったと考えている。2人いずれにも相手を殺したいほどの思いが潜んでいても少しも不思議ではないし、その思いがあるからといって、2人が互いに抱いている姉妹としての愛情が嘘になるわけでもないと思う。姉妹だから、親子だから、夫婦だから、家族だから、その愛情はいつも愛するだけの単色であるわけではない。愛のステレオタイプほど、人の心の複雑さを見えにくしてしまうものはない。だからこそ、科学とテクノロジーが愛を口実に使う時には、余計に用心しなければならないのだと思う。“救済者兄弟”然り、生殖補助医療や遺伝子診断然り、Ashley事件然り、日本での子どもの脳死臓器提供議論も然り。
科学とテクノロジーは、親が子に及ぼす支配力を圧倒的に強力にしている。アナの訴訟が家族の亀裂を明らかにしたように、科学とテクノロジーの発展は親と子の間にある支配・被支配の関係を浮き彫りにしている。生命倫理は現在、親の愛を盾にとって、科学とテクノロジーの味方、親の支配の味方についてしまっているけれど、本当にそれでいいのか。アナの弁護士が言ったように、それでは誰が一体、子どもの側に立つというのか──。
沢木耕太郎氏は、原作を読まずに映画を見ろと書いているけれど、
私は日本でこの映画を見る人のうち1人でも多くが原作小説を読み、
科学とテクノロジーで生命の操作がどんどん可能になっていく今の時代性の中で
この物語の意味を考え直して欲しいと思う。
私は日本でこの映画を見る人のうち1人でも多くが原作小説を読み、
科学とテクノロジーで生命の操作がどんどん可能になっていく今の時代性の中で
この物語の意味を考え直して欲しいと思う。
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