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先日、以下の2つのエントリーで紹介したChristine Ryan の論文について



米国でAshleyケースを批判してきた障害児の母親ブロガーの間で話題になっているので、
一応メモとして、以下に。

The Burden of Parental Decision Making and the Negative Impact on Disability Rights
LIFE WITH A SEVERELY DISABLED CHILD, October 14, 2009/10/16

Who is a “non-person”?
The flight of our Hummingbird, October 15, 2009


これらの記事に寄せられたコメントの憤りが激しい。

世の中の誰もがパーソン論を知っているわけではないし、
誰だって初めて non-person という言葉に出会うと、
本当に金槌で頭をぶん殴られたくらいの衝撃を受ける。

私もそうだったから、
英国議会のヒト受精・胚法改正議論でnon-personという言葉に初めて出会った時には
オロオロと取り乱してしまうほどの衝撃があった。

言葉が「赤ん坊と同じ」と違っていただけで、
もともとAshley事件から多くの人が受けた衝撃とは、そういう種類のものだったのだということが
Ryan論文を読むと、とてもよく分かる。

(私は、この衝撃が、論理的な定義を超えた”尊厳”に関係していると感じているのだけど、
まだ、そこのところを、うまく表現することができない。たしかフランシス・フクヤマだったかが
テクノの過剰な介入に人が受ける”生理的な嫌悪感”を重視していたような、ああいうこと?)

Ashley事件のそんな衝撃から、いろいろ調べ始めたことを通じて、
私は思いがけない多くのことを発見してきた。

今でも、知れば知るほど、世の中には自分の知らないことだらけだということを思い知らされている。

私がこれまで見ようともしてこなかったところ、私の知識がはるかに及ばないところでは
一体どんな事態が進行しているのか……と考えると、空恐ろしい。

私にとってAshley事件は、いつのまにか、
そんな不気味で大きな世界に向けて開かれた小さな窓のようなものになった。

この小さな窓を得たことで、
私は世界で起こっていることのあれこれを、わずかながら覗き見ることができるようになったと同時に、

Ashleyの小さな事件で次々に起こることの中にも、
その大きな世界で進行している事態の大きな図が象徴・凝縮されているとも感じるようになった。

Ashley事件も「無益な治療」も自殺幇助合法化も製薬会社のスキャンダルもトランスヒューマニズムも
”救済者兄弟”もパーソン論もDALYもQALYもヘイト・クライムの増加も
それぞれは繋がりを持たない別々の議論や出来事のように見えるけれど、

実はいずれも、世界で進行していること全体の大きな図の中の1つの必然として起こり、
その大きな図の一部として互いに繋がりあって、時代の力動みたいなものを作り出している──。

ずっと、そんな気がしている。
2009.10.17 / Top↑
相変わらず、映画「私の中のあなた」と”救済者兄弟”のことを考えている。

私がピコーの小説を知ったのは2007年のシアトル子ども病院生命倫理カンファでの
兄弟間の骨髄移植についての Dr. Pentz の講演を Webcast で聞いた時。

その講演でも紹介されていたし、
その後、あちこちで目にもしたのだけれど、

生体間臓器移植で臓器を提供するドナーは
自己肯定感や自信につながって、自尊感情が向上するといわれている。

つまり、臓器提供はドナーにとっても利益になるのだという説が
まことしやかに唱えられている。

(ただし上記のPentz講演は、これは成人での研究で言われていることだとして
子どもについては疑問視している)

ドナーは、自分が良いことをしたと感じて自己評価が上がるという話は、
映画でも、裁判のシーンで、医師らの証言の中に出てきていた。

映画を2度目に見た時に
私は、この「ドナー神話」に強いデジャ・ヴ感を覚えた。

それ以来ずっと考えている。

「ドナー神話」とは「母性神話」の再生産に他ならないのでは――?


女性であれば誰でも、子育ては本能的な喜びであり、苦にならないはず。
母親であれば、わが身を捨てても子を守ること、子を幸せにすることが他の何よりも大きな喜びのはず。

女性とは
自分を二の次、犠牲にして他者に尽くし、
他者を幸福にすることに喜びを感じるように作られた心美しい生き物なのだ。

だから、主婦にとっては、家族の健康と幸福が何よりも喜びであり幸せであり、
家族のために存在し、家族のために働くことが、主婦には大きな生きがいとなるし
もちろん介護だって、女性なら生まれながらに素養と技術を身につけている。

生み、育て、自分よりも他者を優先させて尽くす性として、
女性性は賛美され、神聖視され、称揚されて、

そうして他者の命や生活や労働を下支えする役割を女性は背負わされてきた。

社会にとって都合のよい相手に都合のよい役割を押し付けるために
自分自身は絶対にその立場になることがない人たちによって、都合のよい神話が作り出され、
それが様々な心理操作に利用され、社会の価値観や規範意識に根付いていく――。

母親になった女性が
「私は子育ても楽しいけど、仕事の方がもっと好き」とか
「子育てにそれほどの喜びを感じられない」と感じていたとしても
あからさまに口にするのがはばかられたり、
時には誰にも言えずに罪悪感や自責を抱えて苦しむほどに
母性神話を内在化させてしまっているように、

臓器移植の必要な人の家族がドナーになることを当然視された時に、
映画のアナのように「腎臓をあげた後は用心しながら生きていくなんてイヤだ」と
本当は感じていたとしても口に出して言えないほどに、
愛があれば臓器提供は選択の問題にすらならない
「臓器提供はドナーに自信と誇りと喜びをもたらすはず」との神話は
すでにこの社会の中に根を張ろうとしているのではないのか。

しかし、それは、
女性に家事や子育てや介護を背負わせてきた「母性神話」が
今度は臓器の提供者を確保するための「ドナー神話」として再生産されているだけではないのだろうか?

そして、子育てや介護の負担に苦しむ女性からSOSの声を奪っているように、
ドナーと指さされた人から「イヤだ」と抵抗する声を奪っていこうとしているのではないのだろうか?

         
           ------


このエントリーを書くに当たって、
ものすごく久しぶりに、上記、Pentz講演のエントリーを読んでいたら、

18歳以下の子どもは形のある(solid) 臓器の提供者にはなれない、という下りがありました。

…………???????

じゃぁ、「私の中のあなた」のアナは仮に本人が望んだとしても、
ケイトに腎臓を提供できないことになるし、

医師もそれを知っていなければならなかったことになるのだけど????

それに、この講演の質疑においても
提供しても再生産される骨髄と、再生産がありえない腎臓では提供後のドナーへの負担が違うので、
別の話として考えなければならないという議論もあって、

講演そのものが子どもでの兄弟間の臓器提供をテーマにしていることを考えると、
ちょっとこれも、どういうことなのか????


【10月19日追記】
「臓器目的で子ども作って何が悪い」とFostで拾った記事で
14歳で兄弟に腎臓提供をしたケースが言及されていました。

上記の18歳は、私の聞き間違いだったのか……?




2009.10.17 / Top↑