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(このエントリー、一部ネタバレを含みます)

このところ何度かエントリーで取り上げてきた映画「私の中のあなた」が
いよいよ明日封切りになります。

明日できれば見に行こうと思っているのですが、
原作小説を読んだのは2年も前のことで、
正直なところ、もうあまり覚えていないので、
この前から再読していて、やっと今日すべり込みセーフで読み終えました。

2年前は図書館で借りて翻訳「わたしのなかのあなた」を読んだのですが
その直後のクリスマスにこの本のペーパーバックをもらったので、
今回は英語で”My Sister's Keeper"を読みました。そのため、
専門用語まで調べることになるような面倒な引用をしないで済む範囲のことになりますが、

自分なりのメモの意味もあって、
映画を見る前に、ちょっと言葉にしておこうかと思って。

この2年間、米国の医療や生命倫理についていろんなことを知って、考えてきたし、
つい先日は ロングフル・バース訴訟をテーマにしたピコーの新作小説も読んだばかりだし、
やはり、このブログを始めて間もなかった初読の時とは印象がずいぶん違いました。

先日、その新作”Handle With Care“を読んだ時には
自分の個人的な問題との距離があったから前作の方が良いと感じたのかと思いましたが、
結局そうではなかったようです。

むしろ、今回、再読しながら感じたのは、
実は“My Sister's Keeper” も “Handle With Care”も
同じ鋳型にはめて作られた、いってみれば、同じ1つの物語なのだな、ということ。

それほど、この2つの物語、人物造形が全く同じ。
そして、その造形は、といえば、実は、日本でもおなじみの、
あの「美しい障害児の家族像」のステレオタイプに他ならない。

そして、そのステレオタイプこそが、どうやらPicoultにとって、
テーマである問題との直面を部分的に回避する仕掛けにもなっている。

例えば、2作とも母親はこれ以上求めることが出来ないほど自己犠牲的、献身的です。
病気の娘のケアのために、惜しげもなく仕事をなげうって専業母となった。
そのことを悔いてなどいない。
自分の身体がどんなに疲れ果てていようと、
常に病気の娘のケアにはこれ以上ない献身を注ぐ。
専門家をしのぐ知識と技術を身につけて、
娘の危機には、医療職に対して臆せずに命令を下すほど毅然と対処する。

(私はピコーの好む、病院で母親が医療職に指示を飛ばす場面を読むたびに、
実際にこの通りの態度をとってみな、看護師からも医師からも、
どんな仕打ちが帰ってくることやら……と苦々しい。もしかして日本だから?)

そんな母親の行動や決断がたとえ愚かであったとしても、
それは決して自分のエゴや都合ではなく、
ひとえに娘への愛情の深さゆえのことなのです。

デザイナー・ベビーを作って、その子どもの臓器提供を当然視するとか
自分の子どもの目の前で「生まれないほうが良かった命だ」と主張するといった行動をとる母親が
それでも大衆向けミステリーの作中人物として読者に許容されるためには
これ以外の母親像はありえないでしょう。

(この「病気や障害のある子に向ける親の深い愛」物語が批判封じに有効……とは
また、なにやら”Ashley療法”擁護論を彷彿とさせますが……)

それに対するに、母親ほど直接的に献身しないだけ、冷静で客観的な判断ができる、
そのために妻と対立しても娘の側に立とうとする父親。

そして、病気の子どもは、いずれも美しく、機知に富んで賢明で健気で素直。
そう、まるで、天使のように。

しかし、作者がまったく問題から逃げてしまっているというわけではなく、
挿入される数々のエピソードや周辺的な登場人物の造形によって
ピコーなりに“救済者兄弟”やロングフル・バース訴訟までやる親の愛情のあり方に
否定的なメッセージを送っています。

それが、「わたしのなかのあなた」では兄のジェシーの放火であり、
”Handle With Care“では妹の過食症でした。

そして「わたしのなかのあなた」の癲癇発作を隠して生きてきた弁護士であり、
生まれるなり養子に出された自分は誰にも愛される資格がないと感じて、
生母を捜し求めている、“Handle With Care”の弁護士であり、
病気の兄弟の死がトラウマになっている産科医の夫でした。

そして、その2作ともに、ミステリー作品の宿命でもある
読者をあっといわせる“どんでん返し”の結末が伝えようとしているメッセージは
作中の多くのエピソードと同じく「人の生き死には人智を越えたところにある」ということ。

2作とも、大きな倫理問題を取り上げながら、
正面から取り組むことが出来ずに、家族愛の物語に逃げてしまってはいますが、
全体のトーンとメッセージは、やはり
生や死を科学と技術でコントロールできるようになったというだけで、
子の生や死を親がコントロールしようとすることへの懐疑なのだと思います。

弁護士の癲癇を知った恋人が言った
You don’t love someone because they’re perfect.
You love them in spite of the fact that they’re not.

「人を愛するのは、その人がパーフェクトだからじゃない。
パーフェクトでないにもかかわらず、愛するのよ」
という言葉のように。

母親のサラが物語の終盤で言った
I realize then that we never have children, we receive them.
「子どもは“作る”ものじゃないのね。子どもは“受け取る”ものなんだわ」
という言葉のように。

そして、私にとって最もずしんと重く響いたエピソードは初読の時と同じで、
サラとブライアン夫婦がずっと若い時に旅先で出会った、占い師の言葉だった。

運勢は粘土と同じで作り変えることが出来るけど、
人が作り変えることができるのは自分の未来だけ──。


【追記】
その後、映画を見て書いたエントリーこちら

             ――――――

ついでに、先日見つけた服部弘一郎という映画評論家の映画レビューを以下に。


この人は、前にエントリーを立てた沢木耕太郎氏のレビューと違って、
救済者兄弟が現実であることをちゃんと知っていて、
冒頭でわざわざsavior sibling という英語まで使って説明している。

それでいて、どうして、次のような一文が書けるのだろう?

この映画の中で問われているのは「私は何のために生まれ、何のために今ここに存在しているのか?」という人間にとって根源的な問題だ。

それらしい言葉を適当に弄ぶのも、たいがいにするがいい。

誰もが自分なりに生きていく過程で自由に問うことを許されているはずの、
その“根源的な問い”を

生まれる前から他者に規定され、奪われてしまっている“救済者兄弟”の倫理性をこそ
この物語で、我々は考えなければならないのではないのか?

“救済者兄弟”が既に生まれている現実から目を背けないのであれば──。



【原作関連エントリー】
「わたしのなかのあなた」から
「わたしのなかのあなた」から 2
「わたしのなかのあなた」から 3
ネタバレを含みます。物語を知らずに映画を見ようと思われる方にはお勧めしません)



2009.10.08 / Top↑
前のエントリーの続きです)


このように、この論文は冒頭で、
personの定義次第だとして、重度知的障害者の基本的人権を崩してしまうのですから、

この後でプライバシー権、生殖権、親が子どもを育てる権利を次々に論じたり
これまで当ブログでもまとめてきたサイケヴィッチ判決ストランク判決など、
様々な判例を引き合いに出して長大な論文に仕立て上げているのは
みんな、議論をそれらしく見せるための単なるゴタクに等しい。

それらゴタクとコケオドシを剥ぎ取って裸にすれば、要するに

重度知的障害児・者は non-person であり、我々とは違うのだから、
我々には極端な選択肢も彼らにとっては妥当な選択肢であり得る。
親の理由によっては諸々の条件を勘案して不妊手術を許可してもかまわない

(Our everyday life experiences may not be sufficient in cases involving people who are different from ourselves. P.315)

この論文、これだけのことを強引に言い続けて、ここまでで既に35ページなのですが、
実は、この35ページは、ただの序章。

論文の主眼は、最後の5ページ、最終章にあるらしくて、
そこでは”Ashley療法”に限定した議論が行われます。

そこで主張されているのは、

現在の法的ドクトリンのままでは、
親が“Ashley療法”に関して最善の利益の証明責任を果たすことは不可能で、
子どもを保護する責務を負った裁判所が“Ashley療法”を認めることはありえない。

For a court to legally approve of the application of the “Ashley Treatment” there needs to be a flexible, yet constitutional model in place that does not create confusing legal precedent.

すなわち、裁判所が“Ashley療法”を認めるためには
柔軟で、なおかつ憲法にのっとった新しい基準が必要なのである。

This Note argues that courts should not automatically reject a request to administer the “Ashley Treatment” without performing an intensive factual inquiry into whether the “Ashley Treatment” presents a legally permissible treatment option that is in the best interests of the child.

裁判所は親からのAshley療法の要望を自動的に却下するのではなく、
Ashley療法が子どもの最善の利益にかなう療法として法的に認められる治療かどうかを
個別の事例の事実に基づいて検証すべきである。

これまでの章で検証してきたように、
重症児は我々一般とは別の世界に住んでいるのだから、

Dresserの「改定最善の利益」分析ツールやElizabeth Scottの「自律モデル」を採用すれば、
憲法で保障された人権を尊重しつつ、その子どもが住んでいる世界を十分に理解し、
(the small subjective world in which the incompetent person lives)

家族全体の利益その他を多面的に考慮した上で
我々の場合には極端な選択となることが彼らには理にかなっていると判断することは可能なはずである。

(この正当化の論理、どこか”救済者兄弟”の正当化論に通じますね。
 家族全体の利益は、その子どもの利益でもある、という……)

そこで、結論。

If the parents have presented sufficient clear and convincing evidence before a court showing that administering the “Ashley Treatment” is more important to the child than her fundamental interest in procreation and bodily integrity, then the request is extreme, but nonetheless reasonable, and courts should carefully examine whether the procedure is permissible in the particular case.

基本的な生殖における利益や身体の統合性よりもAshley療法の方がその子どもにとって重要だと
親が明白で説得力のある議論をすれば、たとえ極端なことだとしても
裁判所は認めたっていいじゃないか……と。

どうやら、この論文が延々40ページを費やして言いたかったのは

”Ashley療法”が向上させる子どものQOLは
基本的な人権や尊厳や身体の統合性よりも重要なのだ。

今のままの基準でAshley療法に裁判所がGOを出せないなら、
新しい基準を採用して、Ashley療法を法的に認めろ。


……ということは、
これを書いた人も、もしかしたら、いるかもしれない“書かせた人”も
Ashley療法が法的に認められるものではないと、承知しているわけですね。

(もしかしたら、すでに裁判所が却下した事例があるのかも……?)

「それなら”Ashley療法”はやっていはいけなかったんですね……」と
すっこむのが理にかなった判断というものだろうに、

この論文は不思議なことに、
「それなら、裁判所が”Ashley療法”を認めるには、何が必要なのか?」という発想をする。

そして、裁判所にAshley療法を認めさせるための新基準を打ち出すべく、
まずはパーソン論を持ち出して、重症の知的障害者には
憲法や国連障害者権利条約で保障された基本的人権まで否定してかかる……。

(国連障害者人権条約は、障害当事者サイドからの”A療法批判”で、よく言及されていましたしね)


この論文の論理展開の決定的な転回点は
「重症の知的障害のある人は一般の人間とは別の世界の住人である」という線引きで、
Diekema医師の“Ashley療法”正当化ロジックと奇妙なほどの重なりを見せています。

また、重症児が住んでいるのも重症児に必要なのも家族との「小さな世界」……というのも
2007年の論争でDiekema医師が繰り返していた主張でもあります。

(そういえば、この論文、イントロダクションでいきなり、
2007年1月のLarry King Live での同医師の当該発言を長々と引用しています)

Ashley事件の背後にうごめいている意図と力とは、いったい、どういうものなのか……?


2009.10.08 / Top↑
「成長抑制は障害児の尊厳を侵すものだ」との批判に対して、
Ashley事件の立役者であるDiekema、Fost両医師が今年6月に書いた成長抑制論文
「“尊厳”は定義なく使っても“無益な概念”だ」と一蹴していることから、

このところ“尊厳”が、ずっと気になっていて
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」という報告書をめくってみたりしたところ、
(各章が長いのと難解なので、最初のところで止まってしまっていますが)

「これはあくまでも道徳的な議論なんですよ」というカムフラージュの陰で、
知的能力の低い人の“尊厳”や”道徳的地位”と見せかけて、否定されているのは実は“人権”なのではという
疑問が沸いてきていたのですが、

なんと、

“道徳的な”議論ではなく法律的な議論において、パーソン論を根拠に
憲法が万民に保障する基本的な権利から重度の知的障害者を除外する論文に出くわしてしまいました。

議論の流れとしては、十分に予測できたものなのだけど、
現実に出てくると、やはり大きな衝撃を受けます。

しかも、これが“Ashley療法”を法的に妥当とするために新たな基準を提言する論文だというのが、
また、なんというか、実に象徴的というか……。

問題の論文は以下のもので、去年9月の発表。

Revisiting the legal standards that govern requests to sterilize profoundly incompetent children:
in light of the “Ashley Treatment,” is a new standard appropriate?
Christine Ryan,
Fordham Law Review, September 26, 2008


タイトルは
はなはだしく自己決定能力を欠いた子どもの不妊手術の要望を規制する法的基準を再考する:
“Ashley療法”に照らして、新たな基準は妥当か?

40ページにも及ぶ、この長大な論文は
35ページまでの知的障害者の不妊手術に関する法的原理の検証と、
最後5ページの”Ashley療法”の考察に分かれており、

35ページまでの大まかな論旨は、

現在、重い知的障害のある子どもの不妊手術の要望を検討する際に
裁判所が用いている基準は「代理決定」原則と「本人の最善の利益」原則の2つで
この2つをミックスしたハイブリッドの判断がされるのが通例だが、
(確かに当ブログで詳細に読んだイリノイのK.E.J.ケースがそうでした)

実際には前者の原則で「本人が意思決定できたとしたら何を望んだか」を
推測することが誰にとっても不可能であるばかりか、
最初から一度も意思決定能力がなかった子どもには当てはまらない。

結局は「代理決定原則」といっても実際には「最善の利益原則」でしかなく、

判事の道徳観、価値観によって左右されているのが実情で、
これまでの諸々の判例を見ても一貫した判断が行われているとは言いがたい。

そこで、新たな基準として、Rebecca Dresserの「改定最善の利益」を採用してはどうか。

Dresserがいうように、もともと、重い知的障害のある人は”我々とは違う世界の住人”なのだから、
我々には極端な選択肢だとしても、彼らにとっては理にかなった選択肢、ということもありうる。

重い知的障害のある人の最善の利益を検討するに当たっては、
彼らが住んでいる小さな世界の内面をなるべく正確に探りつつ、
医療だけでなく心理的・社会的など外在的な要因を広く含めて検討してはどうか。
(例えば家族全体の利益とか、社会が受ける利益とか)

そこには子どもに保障された権利と、親に保障された権利の衝突が生じるが、
そもそも、親になるためには最低限の子育ての責任を担う能力が前提条件なのだから、
重症の知的障害のある人の生殖権は法的に認める必要がなく、
(Ryanは根拠として、Elizabeth Scottの「自律モデル」なるものを引っ張ってきています)

一定のセーフガードさえあれば、限られたケースでは、慎重な検討を経た上で
はなはだしく自己決定権を欠いた子どもへの不妊手術は認められて良い。


しかし、なんといっても、この論文がすごいのは、こうした本題に入る前の段階で
憲法が万人に保障している基本的権利から重症の知的障害者を除外してみせること。

また、その根拠がパーソン論だというのだから、ぶったまげてしまう。

問題の箇所は、ⅠのA「個人の権利の憲法による保障」で、

合衆国憲法は“いかなる州も
いかなるpersonからも生命、自由、財産をしかるべき法の手続きなしに奪ってはならない”と規定している、と述べた後で、

しかし、personとして道徳的な地位が認められるには一定の条件があり、
この規定ははなはだしく知的能力を欠いたnon-personには当てはまらない、と主張する。

さらに、

より包摂的な定義として、社会と最高裁は
全ての生きている人間に道徳的な地位が付与されると認めてきたし
国連障害者の権利条約は障害のある子どもにも障害のない子どもと同じ権利があるとし、
personには生まれた瞬間から憲法上の保護が付与されると規定する、と述べた後で、

”しかし、これらの定義では意識があることがパーソンであることの最低の条件となっており、
永続的植物状態やこん睡状態にある人は除外されている”、と主張。

ここで要注意点として指摘しておきたいのは、
当ブログが何度も指摘してきたパーソン論のマヤカシが起こっていること。

著者は、重症の知的障害と植物状態やこん睡状態とを(わざと?)混同しているように思われますが、

しかし、重症の知的障害児は“意識がない”わけではないので、著者の論法では、
国連障害者人権条約が保障する健常児と同じ権利の対象から
重症の知的障害者が除外されることにはなりません。

そもそも、憲法が万人に保障する基本的な人権を否定する論拠になるほどに
パーソン論がいつから世の中のスタンダードとして受け入れられたというのだろう。


次のエントリーに続きます)
2009.10.08 / Top↑
自殺に使われると知りながら
医師がターミナルな患者に毒物を渡したら犯罪になるのかどうか
法の明確化を求めて、コネチカット州の医師らが裁判所に提訴。

代表者の Dr. Gary Blickは
「これは自殺の話じゃない、思いやり・共感の話だ」と。

検察側は
CT州の法は自殺幇助を明確に違法行為と規定している、と。


【10月19日続報】
特に新展開というわけでもないようですが、

2009.10.08 / Top↑