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このところの一連の英国医療オンブズマンの報告書関連。
(これまでのエントリーへのリンクは文末に)

障害に対する偏見から通常よりも劣った医療しか提供されず、
もっとスタンダードなレベルの医療が行われていたら死が避け得た可能性があると認定され、
家族に金銭的な賠償が行われたMartin Ryanのケースについて。

オンブズマンの報告書に対する以下のMencapのレスポンスから。


事実関係。

Martin Ryanさん。享年43歳。

重度の知的障害、自閉症とダウン症候群で
言語による意思疎通はできなかった。

2005年11月26日に脳卒中を起こしてKingston Hospital に入院。
同病院には脳卒中の治療のための専門施設がない。

脳卒中の後遺症でMartinは嚥下ができず、通常の飲食はできなくなっていた。

何度もアセスメントが行われたにもかかわらず
病院スタッフがやっと嚥下不能を診断し代替の栄養摂取方法が必要だと判断したのは
12月12日になってからのことだった。

Martinは「絶食(経口摂取不可)」とされていたのに、その間、
経鼻チューブによる栄養補給も点滴も行われなかった。

やっと医師が胃ろう造設を決断し手術室の予約を取った時には
Martinは肺炎を起こして、手術に耐えられるだけの体力を失っていた。
この段階にいたって医師はMartinが助からないと判断、
治療は緩和ケアに切り替えられた。

2005年12月21日永眠。


家族は「Martinは餓死させられたのです」と。

障害に関係した理由によって通常よりも劣った扱いを受けたこと、
そうでなかったらMartinの死が避けられたはずであることを
オンブズマンが認定したことについては歓迎しているものの、

オンブズマンの報告書が医療職の名前を公表せず、
彼らの説明責任を問わなかったことには
激しい憤りを表現しています。


         ――――――


Martinのケースを読むこともまた、
私には娘の腸ねん転手術の追体験となりました。

全身麻酔で開腹手術をしたというのに、娘は
救急搬送の前から既に施設で入っていた腕の点滴だけで手術室から出てきたのです。

手術後に、その腕の点滴が漏れたあと、
外科医は重症児の細い血管に点滴を入れることができませんでした。

尿量はどんどん減り、口からは思うように飲食ができない。
傷口は化膿して開き、肺炎も危ぶまれているというのに
中心静脈から高カロリー輸液を入れる決断も、
経鼻でエンシュアを入れる決断もありませんでした。

手術はしてもらったけれど、娘の命を助けるためには
親がどうにかして口から食べさせる以外になかったのです。
骨折で2ヶ月も寝たきりの挙句に腸の手術をしたばかりの子どもだというのに。

少なくとも水分だけは摂らせなければ死んでしまう……と夫婦が必死になりました。
1日中つきっきりで、なんとか飲ませ食べさせることしか頭になかった。
ありとあらゆる手段で、食べたがらない娘に無理やり飲ませ、食べさせました。

疲れ果てて「なんで食べない! 食べないと死んでしまう!」と
娘を怒鳴りつけた晩があります。

そしたら看護師さんが「お母さん、もう少し肩の力を抜かないと」。
「やかましい」と、あやうく怒鳴りそうになった。「じゃぁ点滴を入れてみせなさいよッ」と。

最後には、しぶる医師に親が頼み込む形で、鼻からチューブを入れてもらいました。
傷口も褥そうも体力も、やっと、それから回復に向かいました。

でも、手術後の1ヶ月、病院と名のついた場所にいながら
「誰もこの子を助けてくれない。この子の命を救えるのは親だけだ」と私は日々思い詰めていたのです。

あの総合病院の外科病棟での体験をずっとトラウマのように抱えながら
他に競争相手もなく旧態依然とした田舎の公立病院だから起きたことだったのかもしれないと
私はずっと頭のどこかで考えていました。

しかし、Mark や Martin の身に起こったことを読むにつれ、
その体験がまったく同じであることに愕然とした。

そして、田舎だったからじゃない、これはきっと多くの障害児・者が
世界中の病院で経験していることなのだと、確信しました。

重い障害があって言葉がないというだけで
骨折の痛みや開腹手術の直後の痛みを、なぜ放置されなければならないのでしょうか。
なぜカロリーも水分も補給してもらえないのでしょうか。

いずれも、障害さえなければ当たり前にしてもらえることのはずなのに。
いずれも、オンブズマンが言う「ルーティーンの医療手順」のはずなのに。

障害児医療の専門家でなければ障害に対する理解が乏しいために、
障害のある人は成人した後にも小児科医にかかり続けるという話が
以前、取り上げられていました。

けれど、成人した人たちは(時には子どもでも)
小児科医の手を超える病気にもなります。

今でも英国のどこかの病院で知的障害のある人が
Mark や Martin や、ウチの娘と同じ目にあっているはずだ、と思う。

日本でも、そういう人が、本当はいっぱい、いるはずだ、と思う。


2009.04.01 / Top↑

以下のMencapが出しているオンブズマンのレポートに対するレスポンスを中心に
それだけでは事実関係が判然としない部分があるので
オンブズマンのレポートの当該部分も参照しながら。

Mencap briefing on Mark Cannon
Mencap’s response to the Health Ombudsman’s report on the death of Mark Cannon
March 2009

まず、事実関係を。

Mark Cannon さん。享年30歳。

いつも利用しているショートステイ先の地方自治体立の施設で脚を骨折。
2003年6月26日か27日の夜のことと思われ、その状況は不明。
27日に入院して手術を受け、7月4日に退院して家に帰る。

家に帰って数日間、痛みで睡眠も食事もとれず、
7月8日にGP受診を経て再入院。14日に退院。
(この間の医療の内容は、私が読んだ箇所からは不明)

8月6日にGPが往診し、気管支炎で抗生剤を処方。
その後、数日間で容態が悪化し、痙攣発作多発、高熱。

10日、脱水症状と栄養不良、腎不全で救急搬送、入院。
翌日、状態が改善せず集中治療室に移されるものの、
13日には安定して要介護者の病棟に移され、そこで容態が悪化、心臓発作を起こす。

再び集中治療室に運ばれるが、
状態があまりにも重篤なため、家族は長い相談の末、治療の中止を決断。
8月29日に死去。


……と、このように事実経過だけを並べると、
まるで本人も家族も黙々と物のように病院から家へ、家から病院へと移動させられ
唯々諾々と医療サイドの指示に従っていたかのように見えてしまうけれど、
決して現実はそうじゃない、と思う。

この一つ一つの事実と事実との間に
どれほど本人の激痛に満ちた時間があり、それを訴える言葉にならない声があり、
身の置き所のない苦痛にもだえ、暴れる体があったことか。

その傍で、やるせなく付き添い、心配に身を揉み、
本人に代わって必死で異常を訴えて、医療職に向けて声を張る家族にとっても、
この1ヶ月あまりがどんなに切迫した思いと、無力感、絶望感に塗りこめられた
息の詰まる消耗的な時間であったことか。

そして、そんな当人と家族を取り巻いて
「知的障害者がワケもなく暴れて迷惑」
「面倒な患者を診てやっているというのにウルサイ親だこと」
「どうせ何も分からない障害者……」という
医療職の目線が、どれほど冷たかったことか。

オンブズマンは次のように言っています。

Markはどうにも我慢できない激しい苦痛を感じて、パニックし、泣き叫び、自分の手を噛み、壁に頭を打ちつけ、平手で自分の顔をたたいていた。母親がなだめようと必死になったが、家族以外の誰一人として、Markのそのような行為が、痛みが治療されていないことからきている可能性を考えなかったように思われる。

オンブズマンの専門家アドバイザーの一人は、痛み止め治療が行われなかったなんて「おそろしいdreadful」といい、もう一人は「開いた口がふさがらないappalling」と称した。専門家アドバイザーは医療に関する事項をアセスメントする立場として、調査結果について、このような表現をあまり使わないものだが、この場合、そのような表現を使うこともまったく当然だとオンブズマンも考える。


この一連の展開について、家族が苦情を申し立てたのは

・まず第一に、Markのショートステイでの骨折が自治体によるケアの不備であること。
・病院がMarkの痛みを適切に管理しなかったこと。
・また退院計画を怠ったこと。
・GPが退院後に適切なケアと診断を怠ったこと。

それに対して、地方自治体に対するオンブズマンの調査結果は

・提供されたケアの重大な欠陥
・スタッフ配置の不備
・ケアの計画性の不備
・Markのケアプランを提供していない管理上の不備
・てんかん発作のアラームを使ってMarkの安全を図ることを怠ったこと
・不服の調査における管理上の不備
・Markの家族に対するきわめて不適切な対応(injustice)

医療に関して、オンブズマンはGPに対する苦情以外、以下のすべてを認めた。

・痛みの管理における過失
・てんかんの管理における過失
・アセスメントとモニタリングにおける過失
・支援サービスをアレンジ・提供しなかったこと。
・トラストと医療コミッションによる不服に対する対応の管理上の不備
・償いようがないほどのinjustice(対応の不備)


オンブズマンはMarkの死を「避けることのできたはずの死」と結論。

「そもそも骨折しなかったら避けられた」という点では福祉サービスの過失を認めて
家族に対して金銭的な賠償をさせているけれども、

上記のボックスに引用した発言からしても、
「骨折の痛みさえ適切にコントロールされていたら
Markは体調を崩すこともなく、死を避けることができた」との判断も。



            ―――――――――


ちょっと呆然として、しばし放心状態になった。

……というのも
私自身が未だにトラウマとして抱えている娘の腸ねん転手術・外科体験も、
元はといえば、施設での大たい骨の骨折から始まったから。

元気な子どもしか知らない人は「たかが脚の骨折くらい」と思うかもしれないけれど、
寝たきりの虚弱な重症児が骨折して身動きもままならなくなるということは
即、命の危険と隣り合わせるに等しい。

幸い、痛みはコントロールしてもらったし、手厚い看護で感染症も乗り切って、
ある程度落ち着くと、ベッド状の車椅子で養護学校にも通わせてもらった。
家に帰れなくなった分、毎週末には親子水入らずで過ごせるように
施設側が母子入園の部屋をあけて使わせてくださる配慮もあった。
家に帰れるようになった最初の週末には、
わざわざ施設の救急車で送り迎えまでしてもらった。

それでも動きが少なくなったことや、ストレスのためか
いよいよギプスをはずそうという直前になって突然、体調が悪化、
腸ねん転を起こしていることが分かって、外科のある総合病院に運ばれた。

運び込まれるや、そのままバタバタと深夜の緊急手術。

私も手術室の前でMarkの家族と同じように、
「あの骨折さえなかったら」と施設職員を責めた。

そして、手術の翌朝から、ここでもまたMarkの家族と同じく、
痛みと痙攣のコントロールを求めて連日の外科スタッフとの闘いが始まった。

なにしろ手術の翌朝だというのに、痛み止めの座薬を入れてくれないのだ。

「この子はこんなに痛がっているんです」と必死で訴え続けているのに
聞く耳を持ってもらえない、やるせなさ。

「痛みを止めるのは命に悪いんじゃ!」と非科学的な説明を乱暴に投げつけられ
蝿のように手で追い払われる悔しさ。

本当は「いつ何が起こるか分からない重症児。なるべく余計なことはしたくない」
「どうせ何も分からない重い障害児」と考えているだけのくせに。

なぜ、障害のない人なら当たり前にしてもらえることすら、
ただ障害があって言葉を持たないというだけで、してもらえないのか。

娘は「んーん、んーん」と力弱い声を振り絞り、
切迫した目の色で、必死に助けを求め続けていた。

おなかを15センチも切り開かれたばかりの娘の痛みを我が身に感じてジリジリしながら、
どうしても助けてやれない無力感に身もだえした。

夜中に「痙攣の発作がどんどんひどくなる。このままでは重積状態になってしまう」と
必死に訴えているのに、そのことの意味すら分からない総合病院の外科の看護師。
せっかく当直の小児科医に電話してくれても直接説明させてもらえない、もどかしさ。
結局、痙攣し続ける娘のところに医師は誰も来てくれなかった。

「素人の癖に」と親を突っぱねるなら、
当然持っているべき知識や技術を持っていない専門職こそが理不尽というものだろうに、
「なんでもないことで大騒ぎをする扱いにくい親」だと白眼視され、
「こんなに手のかかる子を診てやっているのに」といわんばかりの意地悪をされた。

幸いなことに娘は結果的に不幸な転機をたどらなかったけれど、
もしも、あの1月あまりの入院の途中経過が、どこか1つ悪い方に転がっていたら、
ウチの娘もMark Cannonさんと同じように、
苦痛にのたうちながら死ぬしかなかったに違いない。

目の色で、声で、全身の身もだえで「痛い」と必死で訴えているというのに
なぜ言葉で「痛い」と言えないというだけで
誰もが当たり前にしてもらっている医療すら
引っ込められてしまうのだろう。

誰よりも本人を知り、素人なりに学び、さまざまな経験を積んできた親の言うことを
なぜ「どうせ素人の言うことだから」と平然と切り捨てるのだろう。

オンブズマンの報告書が書いていたように

医療職がもっと積極的であったら、
患者を最もよく知っている家族や介護者からの情報やアドバイスに従っていたら、
患者個々のニーズにもっと応じる医療を行っていたら」

Markのように命を落とすことも
ウチの娘のように無用の苦しみを受けることもないのに。

医療現場に知的障害に対する偏見や差別意識があるために
落とさなくてもいいはずの命を落とし、
本来なら経験しなくていいはずの苦痛を放置されている障害者は
彼ら自身が訴える声を持っていないだけで、
家族だって同様に声を奪われているだけで、
本当はもっともっと沢山いるはずだ。


オンブズマンが知的障害者の医療において
特に注意すべきこととして挙げていたのは

・ コミュニケーション
・パートナーとしての協働・協調
・家族・介護者との関係
・ルーティーンの医療手順をきちんと踏むこと
・マネジメントの質
・アドボカシー



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