2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
高校生の時に交換学生として訪れた米国の小さな町から
市の客人として親善訪問団が来訪中。
個人的に知っている人もわずかにおられるので
内輪の歓迎パーティに出かけた。

そこで、大して意味もない四方山話として、
初めて米国に行った1970年代に日本の田舎の女子高生がびっくりしたことの1つは
女性がみんなパンツをはいていて、スカートをはいている人がいなかったことだ、と
多少オーバーに面白おかしく披露してみた。

そして、海軍基地のある、その町から来た何人かの女性と
ちょうどリブ全盛の時代だったのよね……てな話を交わしていたら、

ちょっと高齢の一人が
「海軍基地が女性職員にパンツで出勤してもいいと許可を出したのが70年頃だった」と。

「……ってことは、それ以前は
女性職員はスカートで出勤しなければならなかったということですか?」
「ええ、そうよ」

ぎぇ。知らなかった……。

その70年代には
北欧では(たぶん米国でも?)まだ知的障害者に対する強制不妊手術が行われていたり、
日本でも私と同じくらいの年齢の若者たちが北朝鮮に続々と拉致されていたのだけど、

そんなこと私は何も知らなかった。

ベトナム反戦運動すら、
おバカな田舎の高校生にはフォークソングの世界でしかなかった。

ほんとうに何も知らず何も考えないバカ娘だった──。

だから、

世の中がいつからか加速度的にずんずん悪くなったから今こうなっているのか、

それとも

前からずっと世の中は今と同じくらいひどいところだったのを
ただ何も知らず野放図に生きてきた私が知らなかっただけなのか、

自分では判断がつかなくて困ってしまう。

たぶん、そもそも、そういう捉え方しかできないこと自体が
私の無知蒙昧の証拠なのだろうけど。

それにしても、ショックだった。
私がジーンズをはいて何も考えない高校生をやっていた時代に、
米国にはスカート出勤を義務付けられた女性たちがいたなんて。
2009.04.14 / Top↑


昨日のエントリーで紹介したカナダのKaylee事件について
障害者の人権アドボケイト The Canadian Association for Community Living(CACL) から
4月9日付でプレス・リリースが出ていました。

CACLのサイトではリリースを見つけられなかったので、
それをコピペしてあるNot Dead Yetのエントリーを以下に。



全体として、
トロント子ども病院の医師らが
障害があることによってKayleeの治療を最初から無益と考え、
Kayleeを心臓移植のドナーにすることを最優先にもろもろの判断が行われたために
家族が振り回されてしまった事件と認識、

医療が障害のある患者の生命の質を低いものと判断する昨今の傾向に
警告を発する内容となっています。

親への説明が最初から
できるようになる可能性のあることよりも
できないことにばかり焦点を当てていたし、

障害とは、「この障害がある子どもはすべてこうなる」と
単純に予測できるようなものではないにもかかわらず、
医師らはKayleeの予後を実際よりも厳しく描き、
Joubert症候群だから、すぐに死ぬ、と思い込ませた、と指摘。

(Joubert症候群で呼吸管理が必要なのは睡眠時無呼吸があるために過ぎない、とも)

子どもが重病であったり死の危険に直面しているという、
親にとっても精神的、肉体的も苦しい状況下で
家族は医療者が敬意をもち尊厳ある治療を行ってくれるものと信じ、
また医療者の説明や判断はバイアスのない公平なものだと
その誠実さを信頼する以外にはないのに、

生死を分かつ医療の判断が
他者から見て「生命の質が低い」かどうかのバイアスに左右されている。

この事件を報道するメディアの論調にも共通して
「障害のある生は生きるに値しない」との価値観が織り込まれている、と批判。

このような価値観の蔓延が
出生前遺伝子や選別的中絶を増加させているが、
このトレンドはかつての優生思想を髣髴とさせる、と。

そして以下の言葉でリリースを締めくくっています。

Kayleeちゃんは助からないかもしれない。
しかし、もしKayleeちゃんが万が一、悲しい転機をたどるとしても、
それが、本来受けることができたはずの万全の治療とサポートを
障害があるために受けられなかったことによる死であってはならない。


【Kaylee事件 関連エントリー】


 
2009.04.14 / Top↑