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Kaylee事件を機に、2007年9月のエントリーを以下に一部再掲。

元記事は2006年に Wesley Smithが書いたもので
生命倫理学者が「息をする死体」「生きている死体」などと称して
脳死状態どころか、植物状態その他、意識のない状態の患者に非人格化を行い、
実験利用しようと企んでいる、と指摘するものです。

ここしばらく当ブログが取り上げているカナダのKaylee事件では、
重い障害があるというだけで、明らかに意識のある患者が心臓のドナーにされかけました。

(それとも生後2ヶ月でまだ言葉を持たないから「意思疎通ができない」
したがって「意識がない」ことにでもされるのでしょうか)

そのことを念頭に、
生命倫理学者らが2006年の段階で既にこんなことを言っていたのだと
読んでみてほしい。


Experimenting with live patients / Some experts think it’s OK to use vegetative human subjects
Wesley J. Smith (San Francisco Chronicle 2006年10月22日)

「生きた患者で実験 / 植物状態の人体利用OKと考える専門家も」というタイトルからして衝撃的ですが、冒頭、この記事が枕に使っているのは”Hunters of Dune”という新刊SF小説。“Hunter……”では、未来のバイオテクノロジストたちは死体からクローンを作っているのですが、そのブリーディング用“タンク”、実は植物状態の女性なのです。

しかし“Hunter……”を荒唐無稽なSFとばかり笑って済まされないのは、臓器提供者として、また動物の臓器を人間に移植する実験用に、意識のない患者を利用しようと提唱する動きが著名な生命倫理学者の中にあるから。近年、実際にthe Journal of Medical Ethicsにはそのような提言を行う論文が相次いでおり、そのために彼らはまず死の再定義によって、意識のない患者の dehumanizing(非人格化?)を試みている、とSmithは警告しています。

ジョージタウン大学の生命倫理学者Robert Veatchの主張

人間存在の本質は統合された心と体の存在であり……人間が法的、道徳的、また社会的意味を持って存在するためには、これら2つが存在しなければならない。植物状態と診断された人たちには意識がないと考えられるため、息をしている間に埋葬するのは単に美的でないという理由でしないだけで、それさえなければ埋葬しても構わない「息をする死体」に過ぎない。

ベルギーのAn Ravelingienらの主張

もしも永続的植物状態を死とみなすことになれば、そうなる以前に本人が同意さえしていれば、死体での実験と同じ条件での実験利用も合法である。永続的な植物状態を「患者」と呼ぶことはやめるべきだ。「患者」と呼ぶと「生きている死体」を誤って人格化してしまい、議論の妨げとなる。

英国のHeather Draperの主張

永続的植物状態の人はまだ生きていると個人的には考える。しかし、だからといって、そういう状態の人を動物臓器の人間への移植実験に利用していけないわけではない。同意能力のあるうちに、同意能力をなくした場合は研究に参加すると決めておくことにすれば問題はない。植物状態やそれに近い状態で何年も生きるよりも、研究に参加して他者を助ける方が間違いなく良い生き方だろう。


         ――――――――――

一番気に入らないのは、「植物状態やそれに近い状態で生きるより実験利用で人様の役に立った方が良い生き方だ」という部分。生命倫理学者が人の生き方の良し悪しを云々することはない、余計なお世話だ、と思う。

しかも、この中の「それに近い状態」が気になります。原文ではother less-compromised state。厳密にいうと「その他、植物状態ほどには能力が失われていない状態」でしょうか。Draperはめでたく植物状態を死と定義できた暁には、次には植物状態ほどではない状態(これは意識がある状態のことではないでしょうか?)にも死の定義を拡大しようと考えているのでしょう。

移植臓器は決定的に不足しています。このバイオテク・ナノテク時代、人体実験に「生きた死体」が使えればどんなに研究が進むかと夢見る人たちも沢山いることでしょう。(「生きた死体」はES細胞の倫理的ジレンマも解消するのでは……。)社会のニーズが増大すれば、死の定義の線引きはさらに軽度な障害像に向かって移動していくのではないでしょうか?


現実に、死んでいない人から臓器が摘出されているとの証言も
去年こちらのエントリーで取り上げたBoston Globeの記事にあります。

しかも、その現場でのルール違反がさらに
「だから、いっそ生きている人から採ってもいいことにしよう」という主張に
裏づけとして利用されています。

ここ数回のエントリーで見てきたように、Kaylee事件が示唆しているのは
医療現場で障害者の命を軽視する「無益な治療」論や尊厳死・自殺幇助合法化議論が
実は臓器移植医療と繋がっているという、あられもない現実であり、

脳死から植物状態へ、意識のない(明確な意思表示ができにくい)患者から
ただ重い障害があるというだけの人へと、
対象が広がっていく「すべり坂」が既に現実のものとなっているという事実。

そして、それと同時進行しているのはきっと、
今回Kayleeの父親の発言やメディアの捉え方に見られたように、
要介護状態になったら無益な治療で社会に無駄なコストをかけ、家族に負担を強いるよりも
科学とテクノロジー研究の役に立って死んでいく方が尊厳のある生き方であり死に方」だという
とてつもなく、ご都合主義な価値観の広がり。


【関連エントリー】
臓器ほしくて障害者の死、早める?(2007/9/14)
2009.04.16 / Top↑
Compassion & Choice については当ブログでも何度も取り上げてきましたが、
前のエントリーで紹介したSeattle Timesの記事が
このC&CのWA支部をどのように紹介しているかというと、

A Washington nonprofit that advocates for quality end-of-life care and expanded choices
良質な終末期ケアと多様な選択肢を求めるアドボケイトであるWA州のNPO

しかし、実際にはC&C(もとはHemlock Society)は
WA州の尊厳死法を認めるかどうかの住民投票に向けて
州外から莫大な資金を持ち込んで尊厳死法実現に積極的に運動した中心的存在。

C&Cのサイトはこちら

米国では2月に
同じく死の自己決定権のアドボケイトthe Final Exit Network(FEN)から
違法な自殺幇助で幹部から4人もの逮捕者が出ており、

C&C側がFENとは違うのだというスタンスを強調して見せていたり
メディアの扱いもFENとC&Cの間に一線を画するところがありますが、

3月27日のLA Timesに医療弁護士 Stanton J. Price という人が
Different assisted-suicide groups, one goal と題した論説を書いて
この2者を質の違う団体と捉えるLA Timesの姿勢に疑問を呈しています。

FENとC&Cのいう「耐えがたい苦痛」とは、ターミナルな状態を超えて
本人にとって、または他者から見て主観的に「苦痛が耐え難い」ものまで拡大解釈しており、
ヘリウムで自殺させる、バルビツール系毒物を使うという手段の違いはあっても
両者とも目指しているゴールは同じである。

LA Timesが 
「FENが提供している、このような倫理的に問題のある‘支援’を
社会が容認することは決してないだろう」と書いたのは、

C&Cも本質的に同じであることを理解していない点だけではなく、

2年前にCalifornia州議会に尊厳死法案が提出された時にJoe Dunn上院議員が
「最後にはお金の力によって自殺幇助の条件が決定付けられるリスク」を指摘して
法案に反対した懸念に照らしても
ナイーブ過ぎる、と批判。

次のように書いています。
………Given our current economic climate, the lack of adequate healthcare for many and the stigma placed on those with chronic disease or disability, I do not share the faith in society or in our politicians such laws require. This dubious fight waged by the Final Exit Network and Compassion and Choice equates to dangerous public policy and places far too many vulnerable people in harm’s way.


現在の経済状況と、多くの人がまともな医療を受けられていない現状や慢性病や障害のある人に課せられたスティグマを考えると、このような法律が必要とする社会や政治家への信頼を、私は彼らのようには持つことができない。FENとC&Cが進めている怪しげな運動は、危険な公共施策に他ならず、あまりにも多くの弱者を危険にさらすものである。


前のエントリーで紹介したC&Cが医師に自殺幇助を呼びかける書簡でも
移植医療の関係者が署名していることが目を引きます。

また、その前の複数のエントリーで紹介したカナダのKaylee事件(文末に関連リンク)では
脳死状態でもなければ、植物状態でもターミナルですらない、
開眼して明らかに意識がある生後1ヵ月半の乳児から
心臓移植のドナーにするという目的で人工呼吸器が取り外されました。

どうせ重症の障害児だから、
そして、おそらくは、たまたま同じ病院に
心臓移植を必要とする生後1ヶ月の乳児がいたから、という理由で──。

「どうせ長くは生きないし、生きたとしても重症の障害を負うのだったら、
他人の命を救って死ぬ方が娘にとっては尊厳のある死だと思った」と
父親は語っています。

脳死でなくてもターミナルでなくても植物状態でなくても
重い障害がある人はどうせ命の質が低いのだから、
そんな苦痛に満ちた「生きるに値しない生」を生きるよりも
臓器を提供し誰かの命を救うために死ぬ方が
本人の尊厳を尊重することになる──。

そういう考えで娘を死なせて心臓を提供すると決めた彼を
メディアは賞賛したのです。

この医療弁護士の懸念は
Kaylee事件でリアルな現実として起こっているではないか、と思う。


そういえば、2年以上前のAshley事件の際に、
かつてSchiavoさんからの栄養と水分供給停止に抗って戦ったJodi Tada氏が警告していました。

忘れないでいてほしいのだけど、社会というのは、
健康な臓器の摘出で社会的コストが削減できるとなったら、やるんですよ。
機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆の方に向かうのだから


          ――――――――

C&Cが最近出した終末期医療の7原則を見ると、
彼らが主張する「死の自己決定権」とは「自己決定がすべて」であることがよく分かります。


2009.04.16 / Top↑
当ブログで既にお伝えしたように
3月に米国Washington州でOregonとほぼ同じ尊厳死法が施行されましたが、
医師や病院はこの法律に参加するかどうかの選択が認められており、
参加しないことを選ぶ病院や医師が相次いでいます。

法律で定められた条件を満たした患者が自殺幇助を望んでも、主治医がこの法律に参加せず、
住居地域で参加する医師も病院も見つけられないケースが発生したことを機に、

死の自己決定権アドボケイト、Compassion and Choice が
尊厳死を望む患者の意思を尊重するよう、
6名の医師の連名で呼びかける書簡を州内の医師らに配布した、とのこと。

この書簡に署名した6名にはWA州医師会の元会長が含まれています。
(現会長ではないのが興味深いところ)

それから、私はここがものすごく引っかかるのですが、もう1人が
The Seattle Cancer Care Alliance の入院移植サービスのメディカル・ディレクター。

医師に対して自殺幇助を呼びかける声の中に移植医療の声が混じっている──。

まったくもって、なにをかいわんや、という感じ。

Physicians urged to honor Death With Dignity Act
The Seattle Times, April 12, 2009


もう1つ、Ashley事件を追いかけてきた者としては
この記事が完全にC&Cサイドの視点から書かれていることについて
「ああ、いかにも Seattle Times だなぁ」と感じていたのですが、

(なぜ「らしい」のかについては Ashley事件「シアトルタイムズの不思議」の書庫を)

そうしたら、プロ・ライフの生命倫理ブログLIFENEWS.COMが14日にこの記事を取り上げて
一方的にC&C側の視点で書く、メディアのバイアスだ」と非難していました。
(リンク記事の3つ目です)

だ、か、ら、Seattle Timesてのは、もともと
世界の医療を企業の効率主義・功利主義で変革しようとする慈善資本主義の御用新聞なんだってば。

なんでAshley事件がシアトルで起こり、
なんで米国第2の自殺幇助合法化がワシントン州だったか。

実はみんな繋がっていると私は思うのだけどなぁ。

            ―――――――

WA州に続いて自殺幇助が合法であると裁判所が判断したMontana州でも
医師会が会員の自殺幇助を容認しないとする見解を発表するなど
法律的には認められても、実際にやろうとする医師がいない状況になっています。

One News Now というサイトに
The Montana Family Foundation のJeff Laszloffyという人が
「医師による自殺幇助、合法化され、無視されて」というタイトルの論説を書いています。

それによると去年12月の Dorothy McCarter判事による合法との判断は
州最高裁に上訴されているとのこと。

Laszloffy氏は、今後、McCarter判断が覆るのではないかと期待。

Doctor-assisted suicide legalized, ignored
OneNewsNow.com, April 14, 2009
2009.04.16 / Top↑