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以前にも何度か紹介した
カナダ Alberta大学の哲学や障害学の研究者らが中心になっている生命倫理系のブログ
What Sorts of Peopleが4月9日にKaylee事件を取り上げていました。

エントリーと最初のSobsey氏のコメントの主眼は、
この事件を報じたメディアの記事が如何に事実を正しく伝えなかったか、
いかに多くの人が事実を誤認したままにこの事件を捉えたか、という点。

そして、それによって
Kayleeをドナー候補とした当初の医師らの判断そのものが疑わしいという事実が
覆い隠されてしまっている、との指摘。

(このあたりの構図、Ashley事件に非常によく似ています)

概要をざっと以下に。

例えば、Kayleeの心臓摘出のための呼吸器外しは、報道によると
Donation after Cardiac Death (DCD:心臓死後の提供)や
Non-Heart Beating Donation
(NHBD:呼吸器をはずして一定時間拍動がないことを確認しての提供)
プロトコルにのっとって行われたもので、

だからこそ、
呼吸器をはずした後、一定時間内に心臓が止まらなかったために
心臓移植が断念されたのだと解釈され、

あたかもKayleeが呼吸器を外されても生き続けたことで
奇跡が起こったかのように書かれたのだけれども、

もともとKayleeは脳死ではなかったのだから
最初からDCDの対象にもNHBDの対象にもなるはずのない患者だったのであり、
この子をドナー候補と考えたことそのものが不当な判断だったのである。

Joubert症候群の睡眠時無呼吸はたいていの場合、成長するにつれて解消されるし、
Joubert症候群の子どもの中には予後のよいケースもある。
少数ながら大学まで卒業したケースもある。

そんな子どもがどうしてターミナルだと言われたのか?
確かにKayleeはリスクのある状態だったのかもしれない。
しかし、リスクがあることは決してターミナルな状態ではない。

Kayleeが呼吸器をはずしても死ななかったのは奇跡などではなく、
もうすぐ死ぬだろうという医師らの見立てが間違っていたということであり、
両親にも間違った助言が行われたということである。

皮肉なことに、命に関わるほどの睡眠時無呼吸症候群を治療している子どもは多い。
それだけで心臓移植のドナーとして命を犠牲にされなければならないのなら
みんな死ななければならないのか?

しかし、最も気になるのは、
2つ目のコメントに引用された父親の発言から明らかになった以下のような事実。

Kayleeの状態について最初からずっと
「非常に悪いので、治療をせずに死なせてあげたほうがいい」と言い続けた医師たちが

いざ呼吸器をはずしてみたら心臓が止まらず移植が不能となったとたんに、今度は

「こういう子どもたちは成長につれて状態が改善する傾向があるから」
除細動機で1年くらいは呼吸を手伝ってあげたほうがよい、と言い始めた、と。



この事件は、もしかして、
同じ病院に心臓移植が必要なLillianちゃんという赤ん坊がいなかったら
最初から起こらなかったのでは──?

でも、それって、一体──?


【関連エントリー】

2009.04.15 / Top↑
Kaylee事件について書いた昨日のエントリーの後半部分を、
別エントリーとして以下に独立させました。


Kaylee事件のニュースを読んでから
ここしばらく、ずっと頭の隅っこに引っかかっている素朴な疑問が
またぞろ気になり始めた。

それは、4月4日の朝日新聞の記事。

97~98年の日本循環器学会心臓移植委員会の調査結果を取り上げて、
臓器移植法の改正に期待する関係者らの声を紹介しているのだけれど、

私がものすごく違和感を覚えたのは
その記事の右上に どん! というくらいの存在感で目を引く大きな分数。

136 / 432

この分数は記事タイトル「心臓移植 実現は 136 / 432」の最後の部分なのだけど、
「心臓移植 実現は」の活字よりも大きい数字が使われている上に
活字の白黒が逆転し、大きな黒い四角の中に白い数字が浮き出しているので
イヤでも目に付く、非常に視覚的アピール力の大きな分数になっている。

もちろんアピールしているのはリード部分の冒頭にあるように
「国内で心臓移植が必要とされた患者の3割しか、移植が受けられ」ていない実態で、

分数にしたのは
「移植が必要な人が432人もいるのに136人しか受けられていない」というギャップを
際立たせようとの意図なのだろうけど、

そこでは、そのギャップを憂う気持ちが、そのまま
「136を、もっと432に近づけていくべきだ」との主張と重なっている。

つまり、この部分を拡大して分数にするという編集判断から生まれるのは、

見る人の意識の中で、、
分子を限りなく近づけていくべき目標として、分母を位置づける視覚効果であり、

読者が受けるのは
「本来なら移植を受けられるべき人が、まだまだ受けられていない」という印象なのでは……。

少なくとも私には、この大きな分数は
「心臓をもらうべきなのに、まだもらえていない人がこんなにもいる」と
声を張り上げているように見えた。

しかし、臓器移植って、もともと、そういうものだったっけ……?
というのが、この分数を見た時に感じた素朴な違和感。

移植用の臓器って、もともと、ほしい人みんなに行渡るべきものだったっけ?

たまたま運悪く亡くなる人があって、たまたまその人が奇特な志の持ち主で、
さらにたまたま、その臓器が自分の状態にぴったりだった場合に、
運よくいただける……そういうものだったんじゃなかったっけ?

だからこそ、「命の贈り物」と呼ばれたんじゃなかったっけ?

いつから「命の贈り物」が「もらえるのが当たり前」のものに変わったんだろう?
臓器はいつから「必要な人すべてに行渡るべきもの」になったんだろう?

そもそも臓器移植という医療の性格からして
必要な人すべてに行渡るという状況が一体可能なんだろうか。

仮に理論的に可能だとして、
それは本来、あるべき状態と想定したり、目指すべきことなのだろうか。

医療技術が進歩して臓器移植がある程度安全な医療となったのだとしても、
だからといって臓器移植という技術の本質が変わるわけではないのに、
こんなふうに分数にしてしまえる神経というのは、
技術が進歩したことによって、人の死の上に成り立っている医療技術の本質を忘れて
それ以外の外科手術と同じように捉え始めているからではないのか。

もしも本当に、この分数の分母と分子とを限りなく近づけていくことを
移植医療が目指すのだとしたら、

それは、もはや「誰かの篤志によってありがたくいただく命の贈り物」ではなく
「贈り物の強要」になってしまう恐れはないのだろうか。




敢て Kayleeちゃんの写真を再掲しました。

ほんの数日前まで医師や親たちが、この子の心臓を
「Lillianちゃんにあげよう」と決めていた事実の重大さを考えたい。

「Kayleeちゃんは、どうせ、すぐに死ぬんだから、今から死なせてしまおうね。
Kayleeちゃんの心臓が止まったら、すぐに取り出してLillianちゃんにあげるよ」
といって、このピンク色をした赤ちゃんから呼吸器が外されたのだという事実を──。

それでも死なずに自力で呼吸しながら生きている
今のKayleeちゃんの、この姿を──。

心臓移植を巡って新聞に大きく掲載された分数の
分母を、分子を限りなく近づけていくべき目標と捉える発想には
こういう事件を起こす可能性が潜んでいる……なんてことは
本当にないのかどうか、ということを──。


ちなみに、Denver子ども病院では
心停止から75秒でドナーの子どもの心臓を摘出しているのだとか。


【Kaylee事件 関連エントリー】

2009.04.15 / Top↑
Brown大学の研究者らが
連邦政府によって全ナーシングホームに義務付けられた報告データと
メディケア・メディケイド・サービスセンターのデータベースのデータで
褥そうの発生率を比較したところ、

ヒスパニック系の入所者が多いナーシングホームのほうが
ヒスパニック系の入所者が少ないナーシングホームに比べて
発生率が高かった。

今回の調査結果が何を意味するのか、もっと研究が必要、と。

このたび the Journal of the American Medical Directors Association に掲載。

今回の主著者Michael Gerardo 教授(Brown大)らは2007年にも
黒人の方が白人よりもケアの質の低いナーシングホームに入所する確率が高いとの
調査結果を報告している。

Health Affairsに発表された、その論文によると、
最も格差が大きかったのは中西部で、
人種によって入所するナースホームが分かれていることと
ケアの不平等の間には密接な相関があった、と。

Reduced Standard Of Care For Hispanics In Nursing Homes
The Medical News Today, April 13, 2009
2009.04.15 / Top↑