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(なぜか画面のプレイボタンは機能しないようですが、
 画面下の英文タイトルをクリックするとYouTubeが開きます)



昨日(一昨日だったか?)、英米のどの新聞の電子版を開いても、そこには不細工なオバサンの顔があった。
何があったのか分からないまま、あまり魅力を感じる絵ではなかったので、素通りした。
(正直言うと、この時には女装した男性コメディアンだとばかり……)

今日のニュースにも登場しているなと思ったら、
この不細工なオバサンが英国のオーディション番組での活躍で
世界中にセンセーションを巻き起こしているのだという。

そこで、軽い気持ちで覗いてみたのが、上の YouTube。
(現在の静止画像の男性は別人です)

いや~、ぶっとびましたぁ。

英語はほとんど関係ないので、ぜひ見てみてください。

本当に見事なすばらしい歌声。
露骨にバカにしていた審査員と聴衆の態度がコロッと変わるところが、実に見ものです。


世の中には不細工なオバサン差別というのが歴然とある。

きれいなオバサンがやったら許されることでも、
不細工なオバサンがやろうとすると、それだけで露骨にバカにされ、否定される。

世の中の男と若い連中は、不細工なオバサンはすべからくバカだと思っているし、
不細工なオバサンには何の能もないものだと固く信じて疑わない。

そんな不細工なオバサンの一人として、私も
この審査員や聴衆のような態度・反応を日常的に体験しては、不愉快な思いをしている。

だから、この人の起こしたセンセーションには、
胸がすうっと透いた。

感動して、ジンときた。


このオバサン、スコットランドの Susan Boyle さん。47歳。独身。無職。
教会のボランティアをしながら2年前に亡くなるまで母親をずっと介護していた。
今までキスされたこともない。(ご丁寧にもわざわざ処女だと書いた新聞も。)

出生時の無酸素脳症で軽い知的障害があるそうだ。

本人は障害があることを恥じていないし、
むしろ、もっと触れてほしいと言っているのだけど、
読んでみた5本の中では以下の記事しか障害については書いていない。

ちなみに審査員のうち2人は
「醜いのはあなたではなく我々の態度の方だった」と謝罪しているとか。



こんな素晴らしい驚きの瞬間を世界中にプレゼントしてくれた Boyle さんに 惜しみない拍手を。

メディアの皆さん、どうか、この人を面白がってオモチャにしないように。
2009.04.18 / Top↑
英国での事件。

慢性疲労症候群(ME:myalgic encephalopathy, 筋痛性脳症)で17年間寝たきりだった
31歳のLynn Gilderdaleさんが自室のベッドで死んでいるのが見つかった去年12月
母親で元看護師のKathleen Gilderdaleが逮捕されていましたが
このたび殺人未遂で起訴された、とのこと。

殺人未遂(attempted murder)といっても結果的に娘さんは死んでいるので、
直接それが死因となったことは立証できないものの「殺害しようとした」行為を罪に問う
ということではないかと思います。

Lynnさんの死因はモルヒネの過剰摂取。

母親は付きっきりで献身的に介護しており、
医療職にすら誤解の多いMEについて理解を広めるべく、
熱心に啓発活動を行っていた。

逮捕後に親族がその献身ぶりを訴える声明文を発表。

検察サービスの弁護士は
事件の証拠を検証する過程で検討した罪状を
殺人と、殺人未遂(企図?)と自殺幇助の3つだったと語り、

殺人で起訴してLynnさんの死が母親の行為によるものだと立証するには証拠が足りない、
自殺幇助も考えたが、母親の行動と意図から考えると、
それよりも殺害を試みた(attempted murder)と捉える方がより正確だと考えた、と。


去年12月の母親逮捕時の記事はこちら。



事件そのものは、さほど複雑とは思えないのですが、
母親の発言や意識、事件を伝えるメディアの論調に
ものすごく薄気味の悪いものを感じてしまう。

それは、この記事のあちこちで目に付く不可解な曖昧さ、矛盾。

しかも、それは、
自殺幇助の合法化議論で頻繁に目に付く“ぐずぐず状態”の曖昧さであり、
その中で相矛盾するダブルスタンダードが通用していく不可解。

不可解 その1

強引に話が自殺幇助にこじつけられていること。

母親の起訴を受けて、記事は
「Mrs Gilderdaleの起訴の決定は、
彼女がMEをもっと理解してほしいと活動していただけに、
“死ぬ権利”または(すなわち)“慈悲殺”論議を再燃させると見られている」と書いています。

しかし検察官が、事件の状況や母親の行動・意図は
「自殺幇助」と捉えるよりも「殺人未遂(殺害企図)」とする方がより正確だと言っているのに
どうして敢えて話を「死ぬ権利」にこじつけなければならないのか。


不可解 その2

Lynnさんの状態が、記事の場所によって矛盾していること。

例えば、Timeの記事のある場所では
「彼女はコンスタントな苦痛を耐えており、話をするのが非常に困難で、
人を見分けることができず、チューブ栄養で、24時間介護を必要とした」と
書かれています。

これだけでは、
「話をするのが非常に困難」だったとは
果たして意思疎通そのものが不可能だったのか、
それとも困難ながら意思の疎通はできたのか、不明。

また、「話をするのが非常に困難」だった原因が
あまりに苦痛が激しかったためなのか
それとも何らかの身体機能の障害があったのか、
それとも認知機能に問題があったのかも不明です。

しかし「人を見分けることができ」ないという部分だけは
認知機能が低下していたようにも思えます。

一方、別の場所には
Lynnさんが2度も「自殺を試みた」とも書かれているのです。

人を見分けることができないほど認知機能が低下している人は
自殺しようと考えることも、まして試みることもできないはずでしょう。

また、去年のTelegraphの記事には
「症状が改善するとは私は思わなかったし、Lynnも思わなかった」との母親の言葉があります。
意思表示が可能な人だったことになります。

検索でヒットした慢性疲労症候群の解説を読んでみたところ、
どちらかというと身体症状が中心と思われ、
うつ状態があるにしても、この病気の症状として
人が見分けられないほど認知機能が低下するとは思えません。

つまり、Lynnさんが具体的にどういう状態にあったのかが曖昧かつ矛盾しており、
この記事では、まったく客観的・具体的に説明されていないのです。

本人の状態が明確に説明されないまま、
なんとなく「寝たきりの全介助で何もできず何もわからなかったのだな」という印象と
「あまりに悲惨だから自分でも死のうとしたのだな」という印象を
同時に与える記事の書き方になっている。

その2つは、現実には両立しないものであるにもかかわらず。


不可解 その3

周囲の人間の主観によって決定付けられてしまう「悲惨な状態」。

上記の解説からすると、
この母親の言葉から受ける印象とは違ってMEは不治の病などではないし、
この病気でターミナルになることも、まずなさそうです。

記事の書き方は最初から「何も分からない重症者」という前提のようですが、
その点に気をつけて読み込んでみると、
実は本人の知的機能はしっかりとしていたのではないかと思われるのに、
「治るとは本人も思っていなかった」という以外に
本人の意思や気持ちというものが言及されることは一切ありません。

意識的なのか無意識的なのかは別にして母親とメディアは、
母親の頭の中だけにある主観的・観念的な「悲惨な状態」をもって
それが実際のLynnさんの状態であったかのように現実を置き換えてしまうという
とんでもない離れ業をやってのけているのではないでしょうか。

つまり、客観的な事実は問われず、
周囲が本人の状態をどのように捉えるかということだけによって
その人の「悲惨さ」が決定付けられているのでは?

2006年7月に母親のGilderdaleさんが新聞のインタビューで語っていることが
非常に象徴的と思われるのですが、

「誰かが死んだ時、人は悲しみに暮れますが、やがて
その人がいなくなったことを受け入れ、気持ちを切り替えて生きていきます。

しかし、Lynnはそのどちらでもないのです。
Lynnはあの部屋に閉じ込められて、死んでもいないけれど
まともに生きている(alive properly)わけでもないんです」

母親はLynnさんの状態を「永遠に“宙ぶらりん”の状態」とも呼んでおり
「死んでいないけど生きているともいえない」状態だと捉えていたわけですね。

本人が客観的にどういう状態であろうと
(知的機能は冒されていなくとも、困難があるなりに意思の疎通が可能であろうとも
自分で自殺を企てられるほどの身体・知的機能があろうとも、さらに不治の病でなかろうと)

誰か、周りの人の主観的な捉え方の中で
「この人は、まともに生きていると言えない状態」と受け止められてしまえば、
もはや実際の本人の状態など問題ではないかのように……。

この記事から感じる薄気味の悪さは、そこのところにあるような気がする。


すなわち、この母親や、この事件を描くメディアの意識・無意識から見えてくるのは

「慈悲殺」とは
耐え難い苦痛を感じて死にたいと望んでいるのに
自力で死ぬことができない本人の気持ちを周囲の人間が慮って、
その人が望んでいるはずの「自殺幇助」を代理決定してあげることだ―─という論理。

そして自殺幇助希望を代理決定した同じ人が、ついでに、そのまま幇助もしてしまいました、とね。

だから、これは本人の「死の権利」の代理行使なのです、とね。

こんな理屈が通るなら
重い病気や障害のある人の殺人が、いくらでも免罪されてしまう。

自殺幇助合法化の”すべり坂”は、既に始まっている――。
2009.04.18 / Top↑
まだ未整理で、あまり論理的に語れないし、
国ごとの違いを区別していないといわれればその通りなのだけれど、

Ashley事件からの2年余り、
ネットで英米の障害児・者をめぐる医療関連ニュースをかじってきて、
最近とても強く感じている違和感があって、

なんだか、なぁ、実はアベコベじゃないのかなぁ……と。

どういうものにアベコベを感じるかというと、

①「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」


そんなあたりで、いわゆる「死の自己決定権」論者たちの
「いつ、どのように死にたいかを決めるのは、家族や友人がなんと言おうと
その人本人だけに決めることのできる権利」という主張を
繰り返し読まされていると、

人が生きているのは、家族や友人など多くの人との関わりの中でのことなのだから、
周りの人の思いを無視して自分が勝手に死んでいい、
というものでもないのでは……という感じがしてくる。

その一方、現在、日本の臓器移植法の改正で議論されている眼目の1つ
「臓器が足りないから、本人の意思が不明な場合でも
家族が了解すれば臓器をとってもいいことにしよう」という主張には、

体の尊厳とか全体性を侵されない権利というものこそ、
その人本人に帰属するもので、むしろ、こっちのほうこそ、
家族がなんと言おうと、本人だけに決める権利があるんじゃないのかなぁ、と思う。

「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」のそれぞれで
いま声高に主張されていることは、そこはかとなく、アベコベでは……と。


②重い知的障害のある人の医療

Ashley事件では
重い知的障害があることを根拠に医療上の必要のない侵襲が正当化された。

「無益な治療」論は、
どうやらターミナルな状態の人すべてに適用されているのではなく
重い障害のある人であれば、必ずしもターミナルではなくとも
適用されつつあるように思われる。

いずれにしても、重い知的障害のある人に対して、
本来の医療の範疇からは外れた「すごく特別な医療上の判断」が
とても熱心に検討されている。

しかし、その一方で、
英国の医療オンブズマンが指摘したように、
知的障害のある人たちはルーティンの基本的医療すら受けることができていない

もしもスタンダードな「普通の医療」が受けられていないのであれば
本当は、まず、そっちの方が重大な問題なんじゃないのだろうか。

特別な医療を議論する必要があるのだとしても、
まずは「普通の医療」が普通に受けられるように保障した上で
次に「すごく特別な医療」が議論されるのが本来あるべき順番だと思うのだけど、

特殊な医療(切り捨てることも含めて)を行う議論にばかり熱心で、
普通の医療が受けられていない大問題の方には
どなたも、あまり興味がないらしいのは、
それって、アベコベじゃないの? と思う。


③「耐え難い苦痛」に対する姿勢

②のアベコベとも重なってくる話で、
自殺幇助合法化論者は「耐えがたい苦痛」を逃れることを正当化の理由としているのだけど、
その苦痛が本当に「耐え難い」ものなのかどうか。

英国の医療で(たぶん他の国でも)知的障害がある患者の痛みは放置されているように、
また、痛みのコントロールの技術を持つ医師が少ないとホスピス医が指摘しているように、

スタンダードな医療における痛みのコントロールに
まだまだ改善すべき点があるのだとしたら

「耐え難い苦痛」から逃れたい人に毒物を飲ませて殺すんじゃなくて、
その苦痛を耐えられるものにしてあげられる方策が十分にとられているのかどうか
もっと検証する方が先でしょう、と思うのだけど、

もはや治せない患者には興味を失ったり、
障害の有無や人種、もしかしたら階層による線引きで
本当はコントロールできる患者の痛みを放置しておいて、

今度はその痛みを理由に、患者を医療によって死なせてあげましょう、というのは
やっぱり、それは、アベコベでしょう……と思う。


④親の決定権

米国、カナダの医療において、子どもの場合は
「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。

もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には
親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、
特に障害のある子どもたちの体に社会的理由で手を加えることについては
親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、

Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは
子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても
「親の決定権で」と主張している。

カナダのKayleeのケースを見ても、
親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。
(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)

子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。

しかし、気をつけておきたいと思うのは
ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは
「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、
「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても
病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、
ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。

医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、
意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、
子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。

12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに
それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。

それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、
成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、
意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、

これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。


そして、これら、すべてのアベコベに共通しているのは、
結局、経済効率という強いものの都合と論理─―?
2009.04.18 / Top↑