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(補遺に集めている記事は、ちゃんと読み込んだものではなく、
せいぜい斜め読みしたり、リード部分に目を通した程度のものです)


スコットランドの自殺幇助合法化法案に支持議員がそろった件で、Scotsmanに寄せられた読者からの賛否。ここでは賛7に対して否が4。賛は声も激しい感じ。
http://news.scotsman.com/opinion/-Readers39-Best-Questions.5207761.jp

Susan BoyleさんがYouTubeを通じてあっという間に世界的な有名人となった際に、映像をただで使われっぱなしてゼニを儲け損なったと考えたテレビ局が、なにやら工作を考えているという話? だから、言わんこっちゃないという感じなのだけど、当のBoyleさんはイメチェンして、かなりすっきりしている。本人も周りも一体どういうつもりなのか。
http://www.guardian.co.uk/media/2009/apr/26/susan-boyle-youtube-itv

前立腺がんの治療にビタミンDが有効だと。あれが効く、これが効くと、最近やたらと前立腺がんの話題が目に付くような……。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8017323.stm

米国の高齢化に向けてプライマリーケアを担う医師の不足解消に、オバマ政権はメディケアの報酬を増額してプライマリーケア増強を狙っているが、それではこっちの取り分が削られるではないか、と専門医らが抵抗してロビー活動が活発化している。
http://www.nytimes.com/2009/04/27/health/policy/27care.html?_r=1&th&emc=th

子どもの肥満エビデミック対策には、そろそろ学校でジャンクフードを売るのを禁じないと、とNY Timesの社説。
http://www.nytimes.com/2009/04/27/opinion/27mon2.html?th&emc=th

2009.04.27 / Top↑
認知症が進行した人への胃ろうは
果たして利益と害のいずれが大きいのか、
この問題について書かれた医学論文を広範に検証した
Cochrane レビューによると、

認知症の進行した患者への経管栄養の
延命効果についてもQOLの改善効果についても
研究エビデンスは見つからなかった。

それどころが、研究の中には
意図された効果の逆に死亡率を上げたり、
病状を悪化させ、QOLを低下させたと思われるものもある

その理由として挙げられているのは
体が食べ物を取り込み利用するメカニズムが複雑で
認知症の形態によっては、食べ物を取り込むメタボリズムが機能していない可能性もあるため。

また終末期の患者では、すでに消化系統が機能を停止しているため
経管栄養が却って本人の負担になっている場合もある。

ガンの末期などで飢餓感のある人には、ちょっと水分を取らせてあげたり
痛み止めの処方で楽になることもある。

私が個人的に「ああ、なるほど、いかにもな話だなぁ」と思ったのは、以下の指摘で、

胃ろう技術は1980年代に
重篤な病気の子どもが体力を回復するまでの一時的な処置として登場したのだが、
いったん使われるようになるや、コスト効率のよい手段として
食事介助の人手が足りないナーシング・ホームで急速に普及した。

しかし、たとえ進行した認知症であっても
その選択は決して「胃ろうか、または何もしないか」ではなく
太古の昔から使われてきた「介助による口からの食事(asssited oral feeding)」という方法がある。

アップルソースなどの柔らかい食べ物や、ちょっとした水分など、
その人が無理なく摂取できるものを、手伝って口から食べさせてあげる。
ナーシングホームにいる人にでも、家族がちょっと顔を出しては
ほんの30分程度の時間、そうして口から何かを食べさせてあげることが望ましい。

最も人道的なのは介助で口から食べさせてあげることである。
私の考えでは、そこには、ほとんど崇高といってもいいものがある」と
Stony Brook 大学の予防医学の教授 Stephen Post氏。

また、経管栄養となった認知症末期の患者の71%が拘束されている、など、
今回のCochraneレビューでは経管栄養と拘束の間に大きな相関があることも指摘されている。



コクラン共同計画の日本語サイトはhttp://cochrane.umin.ac.jp/publication/cc_leaflet.htmこちら
2009.04.27 / Top↑
シアトル子ども病院のBenjamin Wilfond医師は
Hastings Center Report, 1―2月号に発表した論文で
医療上の必要やメリットが明らかでない重症児への手術を
親が社会心理的な理由で、または自分たちへのメリットのために望んだ場合には
親の選択権を尊重して親に決めさせてあげよう、と主張しています。


もっとも、これまで上記エントリーで読んできたように
この論文でWilfond医師が取り上げているのは、いずれも
医療上の本人利益が明らかに「ある」にも関わらず
障害の重さによって著者が勝手に「ない」と決め付けている……という事例ばかりなのですが、

既に親の決定権にゆだねられている手術の例として
Wilfondが引っ張り出してくるのは、なんと、胃ろう。

Wilfond医師の実にトンデモな「胃ろう観」に話を進める前に
まず「胃ろう」について、一般的なところを簡単にまとめておくと、

「胃ろう」とは
口から食事が摂りにくかったり、口からの食事に危険が伴う場合に、
胃に小さな穴をあけてチューブを常設し、直接胃に栄養分を入れる、
その穴のことであり、また、その技術のことです。

詳細な日本語の解説はこちらに。

しかし、あまりに安易な胃ろう使用には様々な問題も指摘されており、
日本では、なるべくチューブに頼らず口から食べることを続ける取り組みが
行われ始めています。

そのあたりの考え方については、
田園調布学園大学のDCU Weekly Vol.23から
同大・人間福祉学科の遠藤慶子先生の記事の一部を以下に。

医学の目覚しい進歩で脳血管障害などで口から食べることが困難になっても、胃や腸に管を通して栄養を補給することが出来るようになりました。しかし"口"は単に栄養を補給するだけではなく、口から食べることで唾液や胃液を分泌し体内の消化器官を呼び起こし、脳も刺激され、「おいしい」、「うれしい」という人間らしい感情も沸いてきます。つまり"口から食べる"ことで五感が働き、体も脳も活性化されるのです。

食事の介護「口からおいしく食べるということ」

みずほ情報総研のコラムからも
経口摂取に障害をもつ高齢者が、無理に口から食べ物や水分を摂取しようとすれば誤嚥性(ごえんせい)肺炎になり、生命に関わる深刻な問題を抱えることにもなる。そのため医学的判断に基づいて、鼻や胃に挿管し栄養成分等を注入したり、中心静脈から高カロリー輸液を点滴する方法などの経管栄養法を用いるといった栄養・水分摂取の代替・併用手段を講じることも必要となる。しかしながら、食べる楽しみを失ったうえに、栄養摂取量の調整が難しいために低栄養状態となって、全身機能が低下し介護状態に陥るリスクが高くなることを考えると、経口摂取の障害については十分に配慮されなくてはならない。また、経管栄養法を長期間導入するとカテーテル感染症率が高まること、長期間絶食が続くことにより体の消化吸収機能が低下することといった問題も指摘されている。

口から食べる楽しみ ~介護予防の取り組み事例~
医療・福祉室 山本真理 2005年8月23日  


このような胃ろうをWilfond医師は
親が自分への社会的メリットで決めることを許されている重症児への手術の事例として
持ち出してきて、

その選択を、こともあろうに、
ただ単純に食事介助にかかる時間によってのみ説明するのです。

胃ろう造設とは親にとって
ゆっくりと一さじずつ口に運んで食べさせる長い時間のかかる食事介助からの解放であり、

胃ろうを決断できない親というのは、ただひとえに
周囲に、ラクをしたい愛情の薄い親だと思われるのを恐れて決断できないだけだ、と。

なんという浅薄な親の心理の捉え方でしょうか。

これはWilfond医師個人またはシアトル子ども病院特有の文化なのか、
それとも米国の医療ではこれが標準的な理解なのか、
非常に興味があるところですが、

現に今この選択に直面しつつ何ヶ月も答えを出せずにいるカナダ人の親を、
私は知っています。

その人の思春期の息子さんは重症重複障害があり、
ちょっと体調を崩すと、すぐに食べられなくなって寝込んでしまいます。

うちの娘もまったく同じ状態なので、よく分かるのですが、
こういう子どもたちは動きが少ないので、もともと血管が細い上に
脱水状態になると血管の状態も常より良くないために
点滴の針がなかなか入らなくて医師・看護師泣かせです。
何度も針を刺されて本人も辛い思いをします。

息子さんは最近そういうことを頻繁に繰り返すので
医師から胃ろうを薦められたのですが、両親とも迷い続けて答えが出せていません。

脱水になったり栄養状態が悪くなるのは体にとってよくないし、
点滴のたびに何度も針を刺されるのは本人にも辛い、
胃ろうで栄養状態が改善して体力もつくのなら、いっそ……と
息子さんが食べられなくなるたびに考えるのだそうです。

しかし、その一方で、
食べることは彼の生活の中で数少ない楽しみの一つであり、
お気に入りのレストランに家族で出かけるのも楽しみにしている、
そういう喜びを息子から奪ってしまっていいのか、と抵抗感がある、といいます。

他にも手術のリスク、障害に対するスティグマが増えることも気になるそうです。

医師は簡単に「いつでも取り外して元に戻せる」とは言うが
親だって生身の人間なのだから、チューブで簡単に栄養確保ができることになれば
親がその簡単さに慣れてしまって、また手のかかる介助に戻そうとは思えなかも……とまで
考えるといいます。

だから夫婦のどちらかが「もう胃ろうを」と決断するたびに
夫婦のもう一方がためらいを振り切れない……ということを
まるで交代のように繰り返しては決断ができないでいる、と。

私にとっても、食は娘が小さい頃からずっと大きな問題だったし、
娘の障害がこれから年齢とともに重度化していくにつれて
胃ろうも他人事ではなく、いずれ直面しなければならない問題であるだけに、
この夫婦の葛藤はとても切実に分かります。

それだけに、Wilfond医師は
なぜ、これほど複雑で繊細な胃ろう造設の選択を、ただ単純に
「食事介助の時間が短縮できる」vs「短縮したら世間から悪い親だとみなされる」
という選択として捉えられるのか、

小児科医であり、生命倫理学者であるWilfond医師のこのような感覚そのものが
私にはまったく理解できないのです。

ここでもWilfond医師は、
前に指摘した頭部外傷の男の子の手術の事例と同じく、
はじめから狙っている結論に向けて都合のいい論理展開を推し進めるために、
医療上の問題の複雑さをまったく無視し、強引な単純化を意図的に行っているのでしょうか。

それとも、Wilfond医師や
この論文の下書き段階でアドバイスを行ったというDiekema医師にとって
「どうせ何も分からない重症児」には「味覚すら分からない」はずだから
口から食事をしようが胃に直接栄養分を入れようが
本人にとっては何の違いもないとしか考えず、
したがって胃ろうは単純に親の手間の問題に過ぎないと
本気で考えているのでしょうか。

しかし、この感覚の一体どこにQOLへの配慮があるというのか。

重症児に大量のホルモンを投与して成長を抑制することは
家族との行動をたやすくしてQOLの維持向上に役立つ……というのが
一貫してシアトル子ども病院の成長抑制療法正当化の論理でした。

これは明らかにダブル・スタンダードでしょう。

Ashleyが病気をしない限り、実は口から食べられるにもかかわらず
父親の合理的な判断で不必要な胃ろうを造設されてしまったらしいことが思い返されます。

幼児期に早々に胃ろうにされてしまった結果、
今のAshleyは口からものを食べる機能がもはや低下したり
失われていたとしても決して不思議ではありませんが、
因果関係が逆なので、それは決してAshleyの胃ろう造設を正当化しません。

しかし Ashley療法論争では
Ashleyが経管栄養であることは障害の重さの論拠として利用されました。

科学とテクノロジーの簡単解決によって
重症児の体に侵襲することの正当化に利用できる時にはQOLが持ち出されるけれども、

その侵襲がQOLを低下させて、本人以外の利益を優先させる場合には
「どうせ何も分からない重症児だからQOLなど無意味」という論理に摩り替わります。

そうして、科学とテクノロジーによる侵襲でQOLを低下させておいて、
そのQOLの低さこそが障害の重症度を裏付ける材料として利用される。

こうしたご都合主義のダブルスタンダードの使い分けと詭弁によって
「重症児の医療については親の決定権で」という医療倫理スタンダードが広められていく──。

シアトル子ども病院は
Ashleyケースでの倫理上の大失態をカバーアップするために
「重症児の医療における親の決定権」のアドボケイトとなるつもりなのでしょうか。


2009.04.27 / Top↑
シアトル子ども病院が今年1月に行った成長抑制シンポジウムのWebcastから
まず冒頭のWilfond医師の概要説明のプレゼンを聞いてみた。

これは詐欺師の話と同じだなぁ……と思う。

おそらくは、しゃべっているのはWilfond医師であっても、
この原稿を書いたのは、あのペテンの天才Diekema医師。

Diekema医師が、シアトル子ども病院の失態を隠蔽し、
なおかつマイクロソフトの幹部と思われるAshleyの父親の意を汲むべく
ここでWilfond医師に語らせている物語とは

Ashleyケースについては当院では当初から public engagementを旨としてきました。

そもそもGunther, Diekema 両医師が2006年秋に論文を発表したのも、そのためでした。

ご存知のように、その直後にはご両親がブログを立ち上げて、
さらに一般に議論を広めてくださいました。

次いで、我々は2007年5月にシンポジウムを行いました。
このシンポでの議論が素晴らしく刺激的だったので、
シンポを企画・運営した担当者5人は、直後に論文を書こうと考えました。

ところが、シンポにおいてはもちろん、
その後にも、あまりにも多くのご意見をいただいたので、
何をどう書いていいのか分かりませんでした。

そこで我々は、より深く広くこの問題を議論し Public engagement を進めるために、
検討チームを立ち上げようと考えたのです。

我々がAshleyケースの乳房芽と子宮摘出ではなく、特に成長抑制に話を絞ったのは、
成長抑制がもっとも多くの人に関わる可能性が高く、
その一方で利益と害の関係を検証するにおいて
最も難しい問題を含んでいると思われたからです。

詐欺師の話というのは、本当は矛盾だらけ穴だらけで
事後に聞く人は、どうして、この程度の話にだまされる人がいるんだろうと
不思議に思うのが常なのだけど、

だまされている人は、相手の話についていってしまうので
相手の話に沿って自分の視点まで動いてしまうために、常に目の前しか見えず、

相手の話が進行するにつれて、矛盾を覆い隠すべく
巧妙に微調整・修正されていることに、なかなか気がつくことができない。

Wilfond医師が語るにつれて、その話の展開に付いていってしまったら、
これはこれで大して矛盾のない話のように思えてくるのは、きっと、そういうことだ。

詐欺師の話を聴いて、相手の話の矛盾に気づき、これは詐欺だと悟るためには
相手の語る道筋に釣り込まれず、不動の視点から
距離をもって相手の話を聞かなければならない。

その不動の視点とは、多分、最初から「これは詐欺だ」と知っている視点──。

Wilfond医師がここで語っているのは
病院が隠蔽工作のために創作し、これまでも事態の推移の要所要所で
微調整と訂正を繰り返してきた物語にすぎないという視点から動かずに眺めれば、
彼の話の矛盾点がいくらでも見えてくる。

最初からpublic engagement を旨とし
「公に皆さんと一緒に議論しよう」と考えていたのなら
そもそもの最初から、職員だけの閉鎖的な特別な倫理委で検討など、しないはずだ。

2年も秘密になどしておかず、すぐにも公表したはずだ。

広く一般に議論するために発表した論文なら
成長抑制だけでなく、乳房摘出や子宮摘出についても詳細に書いたはずだろう。
親の動機を別のものに摩り替えたり、ホルモン療法の期間をごまかしたりもしないだろう。

親がブログで何もかも暴いてしまう前に、
医師がきちんと説明したはずだ。

2007年のシンポのあとに、病院が、さらに成長抑制を正当化し
急ぎ一般化して、Ashley事件から早く public の目をそらせる必要を感じていた他には、
そもそもワーキンググループを作る必要などなかったはずだ。

利益と害の関係を検証するに当たって最も難しい倫理問題を含んでいるのは
成長抑制よりも乳房摘出であり、

最も多くの人に関係してくるのも
成長抑制よりも子宮摘出であるはずなのだから、

ワーキンググループの議論が成長抑制に焦点を絞ったのも、
当初の論文が成長抑制だけを書き、2007年のシンポも成長抑制を中心にしていたのと同じ、
そういうことにしておきたい病院側のニーズに過ぎないはずだ。


Ashley事件とは
力のある親に抗えなかった病院が政治的な配慮で内密裏にやったことが
病院の当初の目論見がはずれて、ひょんなことから表に出てしまった……という
特異な背景のある事件であり、

Diekema医師や病院から出てくる説明は
その隠蔽工作のために作られた物語に過ぎないという仮説に立って眺めれば、

ほころびや穴ぼこを塞ぐために
これまでの展開の要所、要所で病院が微調整と修正を行ってきたように、
今回もまた、public engagementなどという言葉を持ち出して
微妙な修正が加えられているだけで、

こんなの、ただの姑息な作り語──。

最初は隠そうとしていたことを親に明かされてしまって
明かさざるを得なくなってから、その時々に、どうにかこうにか話の辻褄を合わせてきたものを、
ここまできた今になって、public engagement なんて言葉を持ち出す──。

「最初から、我々はこれを旨としていました」などとヌケヌケと──。

「オレだよ、ほら、オレ」
「あら、タカシなの?」
「うん。そうそう。タカシだよ、タカシ」

シアトル子ども病院の言う public engagement は、このタカシと何も違わない。
2009.04.27 / Top↑