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我々が自己選択・自己決定によって臓器を提供しようと考えるのは
死のラインが不動だという前提があってのことなのだけれど、
なんと医学においては、そのラインが動くのだよ、と
William SaletanはWashington Post に書いています。

なにしろNew England Journal of Medicineでの報告によると
Denver子ども病院では
心臓の機能不全による死を宣告された乳幼児から
停止して75秒後に心臓を摘出するのをプロトコルとしているのだ、と。

しかも、機能不全とされた、その心臓は、
別の子どもの体内に移植すれば即、正常に動き始める心臓であるわけで……。

昨今、脳死を待たずに心臓死からの臓器摘出が行われるようになってきて、

心臓死の「死」は心臓が不可逆的に止まることだったはずなのに、
そしてまた、以前はともかく今日では2分以上、中には5分以上経っても
外部刺激で拍動が再開するケースだってあるというのに、

最後の拍動から5分待つ移植医もいれば
2分待つという医師もいる。

そしてDenver子ども病院は
60秒以上たつと心臓は自力では拍動を再開しないことが分かっているとして
75秒しか待たない、と。

Denver子ども病院チームを率いるDr. Boucekの言い分は
1.別の子どもの体内で動いたからといって、元の患者の体内で動いたとは限らない。
2.赤ん坊の両親が蘇生を許可しないと決めたのだから、その子の心臓は死んだのである。

上記NEJM誌の報告の最後に倫理学者が提案しているのは
蘇生するかしないかだけでなく、どの時点で臓器をとってもいいかまで
それぞれの家族に決めさせればよいだろう、と。

脳死にしますか?
心臓死?
それとも永続的植物状態でも?
あなたが死んだと決める時がその子の死になります、
お好みのままに──。

The Doctors Who Are Redefining Life and Death
By William Saletan
The Washington Post, October 5, 2008


ここにまた「死亡提供者ルール」の廃止を説くRobert Truogが登場して
Denver子ども病院のプロトコルを支持しています。

Truogの言い分は

我々は既に生きた人間から臓器を摘出しているし、
それによって死なせているのだ、それを認めようではないか。
その患者が「壊滅的な神経の損傷」を負っていて
事前意思や代理決定者によってインフォームドコンセントを与えているのならば
倫理的になんら問題はない。
終末期医療の延命停止と同じことに過ぎない。
脳死からの摘出と同じセーフガードがあれば濫用は防げる。
世論調査によればドナーが死んでいようがいまいが世間だって気にしていないし。

しかし、「壊滅的な」損傷についても
Denverチームがドナーの選別に使っている「無益futility」という基準も
これもまた定義がいかようにでも動くのではないか、とSaletanは疑問を投げかけます。

人の生死にかかわる決定をそんなふうに移り変わる世論に基づいて行っていいのか、
臓器の不足を補いたいために基準が緩められていくことはないのか、

死や心臓停止、個人による臓器の所有の概念が不動だからこそ
我々は自分の意思で臓器提供を決めるのではないのか、とも。

      ――――――

この記事を読んで、とても単純に疑問なのだけれど、
心停止から75秒で心臓を「摘出」するという
「摘出」とは具体的にどの段階の行為を指すのだろう。

まさか血管や神経を切り離して心臓本体を取り出すまでが75秒なのか
それともその赤ん坊の胸にメスを入れるまでが75秒なのか、
それとも75秒待ってみてから臓器摘出の決断をするのか、
いったい75秒後の「摘出」というのはどういう行為を指しているのだろう。

私はつい
ドナーとなる赤ん坊もレシピアントとなる赤ん坊も既にそれぞれ手術室に運ばれて、
ドナーには臓器を保存するための薬剤の投与などの処置が既に行われ
いつでもメスが入れられる待機状態でスタッフが取り囲んで
(または既に胸を開いた状態で拍動する心臓をむき出しに)
心臓のモニターをみんなで固唾を呑んで見守りながら
止まるのは今か今かと待っている……という、恐ろしい図を頭に描いてしまった。

心停止の75秒後に起こることが上記のいずれであるにしても
両親の腕の中で亡くなるという形での家族とのお別れなど
「死」の瞬間にはできないことになりそうだから、
(それとも心停止後75秒間だけ抱いていさせてくれるというのか?)
前もってまだ心臓が動いている段階で
家族はお別れをすることになるのでしょうか。

         ――――――

ちなみにWilliam Saletanは
“Ashley療法”論争の際にも興味深い記事をWPに書いています。
現在はこちらのSlateのサイトで読めます。
2008.10.14 / Top↑
2004年にアフガニスタンで自殺した米兵がいます。
彼には婚約者がいて、ハネムーンを計画している最中でした。
数週間後には帰国することにもなっていました。
そんな時に自殺するのはおかしいと思った家族が調査をしたところ、
どうやら抗マラリア薬 mefloquine (商品名Lariam)の副作用だったらしい、と。

Lariam には
不安、幻覚その他、神経、身体に深刻な副作用があることが
これまでにも問題になっており、
ペンタゴンも2004年に調査を行っているし
FDAのウェブサイトにも警告が出されていて、
「Larinmを服用している患者の中には自殺を考える人もいます。
 まれですが実際に自殺した報告もあります。
 これらの自殺がLariamを原因とするものかどうかは分かりません」

匿名で語った従軍医師の一人は
ほとんど全ての兵士がLariamの服用を中止した方が良いほどの副作用を訴えている、と。

また、
もともと精神的な問題のある人にLariamを処方すると副作用が起こりやすいのがわかっているのに
兵士らに抗ウツ剤が同時に処方されていることを指摘する人も。

軍の関係者は
Lariamに副作用があることは承知しているが、
兵士がアフガニスタンのような地域でマラリアにかかるリスクと比較すると
その副作用は冒す価値のあるリスクだと判断した、と。

Family Blames Soldier's Suicide on Anti-Malaria Drug
Lariam Known to Have Side Effects
The Washington Post, October 12, 2008


Lariam そのものは米軍の兵士だけではなく、
一定地域への旅行者に広く使われている薬のようです。

記事の中で触れられていたLariamへの反対運動をしている団体
Lariam Action USAのサイトを覗いてみたら、
仕事の出張時に飲んだLariamによって激しい神経障害が続いて、
その後の検査で脳幹の障害が明らかになったというケースまでありました。


Lariamの副作用が一時的なものに留まっていないのに、
「冒す価値のあるリスク」だと判断したからといって
慎重なモニターも副作用を防ぐ配慮も行われていないとしたら
やはり兵士はいくらでも補充可能な使い捨て資源でしかないのでしょうか。

NBICレポートなど、
トランスヒューマニスティックな研究の中にチラチラする
「何日も寝ずに精力的に戦い続けられる兵士を作る」といった話を思い出します。
こういう研究を本気で発注する機関や研究を行っている科学者にとって
兵士の人権というのはアリがほざくタワゴトみたいなものなのかな?

            ――――――

「マラリア撲滅」という大義名分には
考えなければならない他の様々な問題を瑣末な事柄として脇に押しやってしまうほど
大きな政治的力動のようなものがヒモ付きのお金の動きと共に働いている……

──なんてことは?


2008.10.14 / Top↑
オンラインでthe British Medical Journalに発表された研究によると、
Oregon州の尊厳死法によって医師の幇助を受けて自殺した終末期の患者の
4人に1人は鬱病や不安症だった可能性があるとのこと。

同法にはセーフガードとして、
自殺幇助を希望する患者に精神疾患が疑われる場合には
精神科医や心理学者に紹介しなければならないとの規定が設けられているものの、

この研究によると
2007年に幇助自殺を利用した患者46人の誰一人として
精神科医や心理学者の評価を受けていない。

Oregon’s Assisted Suicide Law May Overlook Depressed Patients
Study finds 1 in 4 terminally ill not getting treatment that could influence decision
U.S. News, October 8, 2008


このニュース、
現在Oregonに続いて自殺幇助の合法化が検討されているWashington州で
大きく報じてもらいたいものです。
2008.10.11 / Top↑
【追記】
こちらの訳文はその後12月12日に大幅に改定しています。
また「介護保険情報」12月号に掲載し、
コピーライトが発生していると思いますので、
こちらのエントリーの章典に引用・転載・リンクをお考えくださる方は
12月の改訂版をお使いくいただきますようお願いいたします。


------ -------

お年寄りや病気の家族や障害のある子どものケアをしている人に読んでもらえたら
きっと勇気になるんじゃないかと思うので。

そして支援をする側の人たちにも、
大きな示唆を含んでいるのではないかと思うので。


介護者の権利章典

私には次の権利があります。

・自分を大切にすること。これは決して自分本位な行いではありません。
 そうするほうが、家族に良いケアができるのだから。

・周囲から反対されたとしても他の人に助けを求めること。
 自分の忍耐と力r限界は自分で分かっていますから。

・介護とはまた別の自分自身の生活、その人が健康であったら送っていたはずの私自身の生活を守ること。
 私はこの人のために無理のない範囲で自分にできることは全てやります。
 同時に私自身のために何かをする権利も私にはあります。

・時に怒りを感じたり、落ち込んだり、他にも様々なやっかいな感情を口にすること。

・罪悪感を感じさせたり気持ちを落ち込ませたりして(時にはその両方を通じて)
 身内の人間が私を操作しようとする(意識的であれ無意識であれ)のを拒むこと。

・ 私が思いやりと愛情と許しと受容を差し出している限り、
 愛する人に私が私がしてあげていることに対して、
 私もまた思いやりと愛情と許しと受容を与えられること。
  
・自分が成し遂げていることに誇りを持つこと。そして家族のニーズに応えるために
 時として奮い起こしている勇気に自ら拍手を送ること。

・一人の人間としての自分を守り、自分自身のための人生を作っていく権利を守ること。
 それをして初めて、家族が私のフルタイムの介護を必要としなくなった時にも
 私は私のままでいられるのだから。

・この国の身体的・精神的に傷を受けた人たちを助けるため資源の開発が新たに歩みを進めていくように、
 介護者を助け支えるための歩みもまた進められていくよう望み、求めること。


英語の原文はこちら

出典には諸説あるようですが、
巻末にこの介護者の権利章典を掲げている
CARE-GIVING :Helping An Aging Loved One(Jo Horne, AARP Book, 1985)の
解説によると、多くの団体によって時間をかけて作り上げられてきたもののようです。

去年、これはボロボロの古本を買って読みましたが
米国では85年に既にこんな本が出ていたことに驚き、
著者が介護者に向ける眼差しの暖かさといたわりが、じんと心に沁みました。

折に触れ、その一部をまたご紹介できれば、と思います。

【追記】
上記のHorneの本はPBになっていました。去年、もっと丁寧に検索すればよかった。

          ------

原文では介護を受ける人は relativeとなっていますが、
ここでは「家族」と訳してみました。

訳語については今後改定する可能性があります。
2008.10.10 / Top↑
ずいぶん前のことですが、

母親仲間の1人が家で
とりたてて深くも考えずに
「私もこの子の介護で疲れがたまっているんだから……」と口にしたら
「おいっ、“介護”という言い方はないだろう」と夫が気色ばんだ、と。

その時、重症心身障害があって寝たきりの彼女の息子は
確か中学生だった。


未成年だから、「子育て」であって「介護」ではないのだろうか。

愛情がある親なら「子育て」と捉えるはずで、
「介護」と捉えるのは愛情がないのだろうか。

寝たきりの子どものケアは一体何歳までが「子育て」で
何歳から「介護」になるのだろうか。

それとも子どもが30になっても40になっても
親と子である限り、子どもがどういう状態でも、
それは「子どもの世話」であって「介護」ではないのだろうか。

……と、
その話を聞いた時に、いろんなことが頭を駆け巡った。


英国では
アン王女の肝いりで1991年に創設されたthe Princess Royal Trust for Carersのほか、
介護者支援団体がいくつかあって、
それらの共催で14年前から毎年6月に介護者週間(Carers Week)が開催されるなど
介護者支援の活動が活発に行われているのですが、

その際、介護者(Carer)の中には障害児の親も含まれています。

Princess Royal Trust for Carersのサイトにある
介護者(Carer)の定義を以下に。

A carer is someone, who, without payment, provides help and support to a partner, child, relative, friend or neighbour, who could not manage without their help. This could be due to age, physical or mental illness, addiction or disability. The term carer should not be confused with a care worker, or care assistant, who receives payment for looking after someone.

介護者とは、金銭の支払いを受けずに、パートナー、子ども、親戚、友人または近所の人など、その人の支援なしには暮らせない人に手助けやサポートを提供している人のことである。年齢、身体的または精神的な病気、中毒や障害によるもの。介護者(carer)という言葉を、誰かの世話をすることで金銭の支払いを受ける介護労働者(care worker)や介護助手(care assistant)と混同してはならない。


子育て期の只中にある障害児の親も
子育て期が過ぎた障害者の親も
「介護者」として捉えてみれば、
「親」としてのみ考えているよりも
ずいぶんいろんなことが整理されるんじゃないでしょうか。
2008.10.10 / Top↑
the Screen Actors Guildを始め米国の映画、テレビ、ラジオ関連の労働組合などが共同で
Inclusoin in the Art & Media of People with Disabilitis(I AM PWD)と銘打った
障害者の人権キャンペーンに乗り出すことを発表しています。

メディアで働く人の中に障害のある人が少なすぎて、
障害者の姿が見えなくなってしまっている、

その結果、これまでメディアに描かれてきた障害者像も
限定的なステレオタイプにのっとったものが多い、として、

オーディションへのアクセスの検討など
障害者の就労に対策を講じるというもの。

Hollywood performers unveils disability rights initiative
PatriciaE Bauer NEWS & COMMENTARY ON DISABILITY ISSUES
October 6, 2008


ハリウッド映画 Tropic Thunderの知的障害者差別問題では
映画製作・配給側が障害者団体からの抗議を
態度を硬化させて撥ね付けているような印象があったし、
監督のStillerの発言は障害者への無理解を余計に暴露していたり、
出演した俳優の中には開き直って暴言を吐く人までいたりと、
心を痛めることが多かったのですが、

多くの人が憤り、抗議し、差別される側の傷みを語り、問題点を指摘し続けたことが
決して無駄にならなかった、
こうして1つの動きを産んだのだと思うと嬉しい。

声が跳ね返されずに相手に届く、受け止められる、ということが
また声を上げてみよう、自分も小さな声を出してみようという勇気に繋がる。

この問題で果敢な抗議を続けた米国の多くの障害者や家族にねぎらいと拍手を。
抗議の声を受け止めて、前向きな行動につなげたハリウッドの関係者にも。

ちなみにTropic Thunderの日本公開は11月15日だそうです。


【関連エントリー】
「障害者いじめてもいい」とメッセージ送るとThunder批判
批判の火付け役BauerさんのThunder批判
その他「切り捨てられていく障害児・者」の書庫に。
2008.10.09 / Top↑
ちょっと前から何度か眼にするニュースですが、

現在、羊水穿刺によって行われ、
流産と胎児を傷つけるリスクが指摘されているダウン症の出生前診断が
数年のうちには採取した妊婦の血液のDNAを調べることによって
より安全、より正確に行えるようになると、

Stanford大学が侵襲度の低い診断技術を開発中であることを発表。

2008.10.08 / Top↑
米国では医師の診察室で薬の無料サンプルが手渡されることがあるらしくて、
CDCが2004年に行った調査で特に子どもへの弊害の可能性が指摘されています。

6日にPediatrics誌に発表されたもの。

Study Says Drug Samples May Endanger Children
The New York Times, October 6, 2008


2004年の1年間に、後に問題が指摘された
Advair(ぜんそく)、Adderrallと Strattera(ADHD)、Elidel(湿疹)の無料サンプルを
もらっていた子どもは50万人に上ったとのこと。

例えばElidelは2歳以下の子ども38000人の親に手渡されたが、
その後皮膚がんの報告が出てきて、
FDAは因果関係を確認していないものの、
薬のラベルには警告と2歳以下は認可の対象外であることが明記された。

もともと製薬会社のマーケッティングの一環である無料サンプルは
新薬である場合が多く、安全性が完全に確認されているとはいえないこともある。

調査では
貧困層の子どもたちと富裕層の子どもたちの間で
サンプルを受け取る確率に差は見当たらなかったが、
これは貧困層の子どもたちの方が受診する確率が低いためで、
いったん受診したら無保険の子どもたちがこうしたサンプルをもらう確率は高い。

「無料サンプルの廃止も視野に、
これらサンプルのリスクと利益について更なる研究が必要」とこのたびの主任研究者。

というのも、どうやら
無料サンプルの受領時には医師のサインが必要となることから、
医師と面会のきっかけを作るプロパーさんたちの口実に使われているらしく、
無料サンプルがなかったら会ってももらえないのでは、と
廃止を不安視する声がある一方、

医師らからは
無料サンプルがマーケッティング戦略として使われて
医師の判断に悪影響を及ぼしている……

無料サンプルは医師が危険な薬を過剰に使うことに繋がっている……

無料サンプルなどでプロモされる薬は一般的に処方料(?)が高い……
(co-payment for prescriptions)

……などの批判が起きている。

       ――――――

Norman Fostが小児科の臨床実験について、
リスクを背負う人にはそれなりの報酬すら出せばいいことだと放言していたのを
つい思い出してしまったのですが、

もしもFostのような考えが「暗黙の了解」として働けば、
無保険の貧困層に無料のサンプル薬を提供することを
“報酬”であり彼らの“利益”だと都合よく解釈して
無料サンプルが貧困層の子どもたちへの体のいい「実験」に……てことは?
2008.10.08 / Top↑
1994年から医師による自殺幇助が合法化されているOregon州に続き、
Washington州でも医師による積極的安楽死の法制化が検討されており、
その住民投票が11月の選挙に合わせて行われることに。

自殺を治療と位置づけて
ただ単にウツ状態だというだけでも医師に致死量の薬物の処方を認めるもの。

合法化を推進する力は州外からも入ってきていて
以前、ちょっとこの問題を当たってみた時にも相当な資金がWA州に流入していました。

OregonにWashington州が続くと、それによって
安楽死合法化のドミノ現象が起こり一気に全米に広がることを期待する人たちが多いようです。

そうした豊かな資金を背景に、
合法化容認を説くメッセージがTVコマーシャルで流されて、
多くの人々を洗脳しているとして、

俳優で左翼的活動家のMartin Sheenが対抗策のラジオCMを作ったとのこと。

Sheenは、
自殺幇助が合法化されれば
保険者には自殺という格安な選択肢が与えられることになり、
貧しい人や障害のある人たちに質の高い医療を提供しようとの努力に水を指すことになる、と。

医療費削減が大きな課題となっているなか
ターミナルな患者は医療全体のトリアージでは一番最初に切り捨てられて
治療は「無益」とされ、その代わりに自殺は合法ですよ、という話になるだろうし、
現にOregonでは一部高額な抗がん剤をメディケアが認めず
その代わりのように自殺幇助なら認めますよ、という通知を受け取る患者が出てきている。



ここ暫くの間に目に付いた記事を追いかけるだけでも、
少なくとも米国では、

治らない重病になったり、重い障害を負った人には
「無益」だとして治療のみならず栄養と水分まで引き上げるのが当たり前となりつつあり、
表に出てくるのは、医療サイドと患者の家族との間で争議が起こった場合のみ。
その他の患者さんたちは家族と医師の相談によって
粛々と死なされているのではないでしょうか。

そこへ「死の自己決定権」という概念が登場して
自らの死に方と死に時を自己選択するのは個人の権利である、と主張する。

しかし、今、急速に作られていこうとしている社会では
その「自己選択」「自己決定」とは「それでも生きる」という選択が許されない、
つまり「死ぬ」という方向でのみ認められる「自己決定」に過ぎないのでは?

「それでも生きる」と患者自身が望んだところで、
病院が「その治療は無益」と判断すれば治療も栄養の供給すら受けられないし、
高額な治療は確実に治癒できる人や自分で支払う富裕な人だけのものになっていく。
自分で支払えなくてもメディケアで自殺は可能ですよ、と耳元でささやかれるのだから、
重い障害を負い、生きるために常に医療や福祉を必要とする身となった瞬間から、
「それでも生きる」という選択肢は現実問題としてどんどん難しいものとなっていく。

「それでも生きる」を選択肢として許さない状況で着実に包囲しながら
「死の自己決定権」をいうのはやっぱり欺瞞だと思うし、

そこに働いているのが実は
先日、英国で哲学者が発言したように
「家族や社会の負担になる人は自らの選択によって死んでください」という
社会の都合であり、強い者たちの利益でしかないのに、

あたかも個人の自己選択の尊重であるかのように喧伝されていくことも
欺瞞だと思う。
2008.10.07 / Top↑
10月1日のエントリーNE州で「こうのとりのゆりかご」ジレンマで紹介しましたが、

日本で言えば「赤ちゃんポスト」に当たる制度を利用して
10代の子どもを“棄て”に来る人たちがNebraska州で多発している問題を
The NY Timesが取り上げていました。

もともとは赤ちゃんが殺される事件の防止策として始まった制度が
これでは「無責任な親」に「悪用」「濫用」されているとして
Nebraska議会には法律改正を求める声が上がっていますが、

Nebraskaで起きている養育放棄から見えてくる問題を
様々な分野の専門家が分析しているあたりが
日本でも同じことは起こっているし当てはまるんじゃないかという気がするので、
そうした点について、以下に。

・最近の経済状況の悪化で、それ以前からぎりぎりのところで踏ん張っていた家庭の頑張りが利かなくなっているのではないか。(ただ、NE州で子どもの養育を放棄した人の理由の大半は、少なくとも表向きは経済的なものではなかったということですが)

・困難な育児をしている家族への支援に途切れ目が生じている。虐待やネグレクトがあれば児童福祉が介入するし、犯罪を犯した子どもは青少年向け司法制度が対応し、親も子もカウンセリングや支援につなげられるが、そのいずれにも当てはまらない子どもたちへの手当てが抜けている。

・無保険ではないにせよ中流家庭の保険では精神科医療が充分にカバーされていないことが多く、集中的な治療や入院ができない。メディケイドの対象になる貧困家庭では、そんな低いレートで見てくれるセラピストが見つからなかったり、受診そのものに抵抗があるのではないか。

・いきなり子どもを棄てるところまで行かずとも家族支援の福祉サービスもあるのに、利用することにに思いが至らない家族もあるのではないか。

・NE州では、そうした支援サービスにたどり着きながら結果的に支援できずに終わり、子どもを“棄て”にきた養育者もあった。

・いきなり「もうこれ以上できないから、子どもを病院に棄てます」というのではなく、まずは家族や友人、近所の人やサービスに対して助けを求めて欲しい。

・子どもたちに向けて本当に強力な精神医療を行うにはNE州の予算では不足だが、所得に応じた料金設定の精神科医カウンセリングなどのサービスもある。ただ、多くの親がその存在を知らない。

Older Children Abandoned Under Law for Babies
The New York Times, October 3, 2008


この記事に紹介されているJim Jenkinsという父親のエピソードがとても印象的です。

息子が8才の時に妻が死去。
息子は13歳の時には別人のように荒れて、
「何年も地獄のような年月を過ごしました。
 誰に助けを求めたらいいか分からなかったし、
私のせいだと自分を責め続けていました」と父親。

最終的にこの父親を救ったのは警察だった。

まず息子を病院に入院させ、
同時に施設にあるレスパイト制度を父親に紹介。
数日間の入院の後、息子はこの制度で1週間施設へ。
父親も娘も再婚した妻もやっと一息つくことができて
息子のセラピーを開始することができた、と。

「しばらく経ってやっと、すぐに解決できる問題ではないと分かってくるんです」とJenkins氏。
数年間のセラピーを経て、息子は高校卒業資格を取り、大学を目指している、と。


「困っているのなら親がセラピーに連れて行けばよいではないか」
「親が行動さえ起こせばいいじゃないか」
「誰かに相談すればよかったじゃないか」という問題に見えるけれど、
それは端から見ている傍観者だから思えること。

この人が「自分を責めた」というように
子どものことは自分の責任だと考えたり自責があったりするだけでも
親の考えは内向きになりがちだし、

また、荒れたり病弱だったり障害がある子どもに振り回される暮らしというのは
目の前に次々に起こる予想外の事態に対応していくのが精一杯で
吹き荒れる嵐の中を日々刻々生き延びることだけで過ぎていく「その日暮らし」。
落ち着いてものを考える余裕すらないことが多い。

要するに毎日が緊急事態モード、
頭に血が上がりっぱなしで暮らしている状態なのだから
(ここを書いた瞬間に、あの英国のAlison Thorpeを思い出した)

警察でも医療職でも教育関係でも福祉関係でも誰でもいいから、とりあえず
親を短期間でいいから子どもから引き離してあげることが必要なんじゃないだろうか。

そうして身体的にも精神的にも緊急事態モードを解除し、
我が身が常に脅かされている緊張状態から解放されることで初めて
親も本来の自分を取り戻すことができるし思考力も判断力も戻ってくる。
本来持っている子どもへの愛情も確認し、
子どものためにどうするべきかを前向きに考え始めることができるようになる。

Jenkinsさんは、
支援する側からうまく迎えに来てもらえた幸運なケースだったんじゃないだろうか。

まずは子どもからしばらく離れる。
ほっと一息ついて本来の自分を取り戻す――。

追い詰められている親にとって、
これは案外とても大切なことだったりする。

だけど、一番できにくいことだったりもする。
2008.10.06 / Top↑
製薬会社から医師への500ドルを超える金銭授受の公開を義務付ける法案
The Physician Payment Sunshine Act の提案者であるGrassley上院議員が行っている調査で

世界的に尊敬を集めるカリスマ的な科学者であるEmory大のDr. Charles B. Nemeroffが
2000年から2007年の間に製薬会社からコンサルタント料として支払われていた
280万ドルを超える金額のうち120万ドルを大学に申告していなかったことが判明。

すでに決定していた次期学部長就任を自主的に辞退することになると大学側が発表しています。

現在の法律では年間1万ドルを超える金銭授受について報告が義務付けられており、
国立衛生研究所(NIH)の資金による研究においては
利益の衝突を避ける厳格なルールが敷かれているものの
実際のチェックは大学に托されているのが現状。

Grassley上院議員の調査ではこれまでにも
Cincinnati大のDr. DelBello、Harvard大のDr. Biederman, Dr. Wilensの隠蔽が明らかになり、
次期米国精神医学会会長に選出されているStanford 大のDr. Alan F. Schatzbergにも
疑惑が出てきています。

Grassley議員は大学のチェックが機能していない、と。

Top Psychiatrist Didn’t Report Drug Makes’ Pay
The New York Times, October 3, 2008


それにしても記事に見られる Dr. Nemeroffのヤリクチは相当に悪辣で、
隠蔽を把握して調査した大学側に対して、
自分と製薬会社との関係によっていかに大学が利益を得てきたかを説いて正当化・抗弁、
見方によっては大学側を脅すような手紙まで書いている。

疑惑を指摘してDr. Nemeroffと対立までしながら
結局は同医師の名声とその名声がもたらしてくれる富に追及を緩め
結果的に隠蔽に加担した大学も同罪という印象。

それというのも1980年に出来た法律で
連邦政府の資金による研究のパテントは大学のものとなることになった、という背景があり、

その法律がインセンティブになって
数多くの医薬品が開発されて多くの命を救うことになった一方、
大学医学部では製薬会社とのコンサルタント契約が繁盛し、
一時は21の製薬会社や医療機器会社のコンサルタントであったDr. Nemeroffは
全国的なモデルともなっていた、とのこと。

      ―――――       ―――――

記事の中で、特にイヤ~な感じがしたのは、

2006年にCyberonicsという会社の製品が問題となった際には、
Dr. Nemeroffらが利益の衝突を隠したまま
自分が編集しているジャーナルでその製品を持ち上げていた、という話。

その際に調査を行った大学側が
「この論文は金で買われた販促行為だa piece of paid marketing」とまで言っているのに、
上院議員の調査まで、そういう記録も表ざたにならなかったという事実。

記事では妙なことに
その「製品」の詳細が触れられていないので、
CybernicsのHPを覗いてみたら、

薬だけでは治らないてんかん患者やうつ病患者向けの外科的療法として
胸部へのインプラントによって、てんかん発作をコントロールするVNS療法を
ウリにしている会社のようです。

そのメカニズムを簡単に説明したページがこちら。
VNS Therapy Basics


米国の親たちがワクチンを拒否していることも
最初はAshley療法のDiekema医師があちこちでワクチン関連の発言をしていることから偶然知っただけで
最初はどういう問題なのか、よく分からなかったのですが、

その後あれこれ目に付いた関連記事を読んでいると、
こういうニュースと実は無縁ではないんだろうな、と最近思えてきました。

そして、もしかしたら
Gates財団とのつながりの深いワシントン大学・シアトル子ども病院が
ワクチン問題に特に大きな関心を示していることも?


2008.10.06 / Top↑
Florida Tech’s College of Psychology and Liberal Arts が
ランダムに抽出した1000人の成人を対象に行った意識調査によると、

これほど科学的根拠が否定されていながら、
回答者の24%が自閉症の原因はかつてのワクチンに含まれた防腐剤だと考えており、
ワクチンが原因かどうか分からないと答えた人が19%
ワクチンと自閉症には関連がないと答えた人は38%のみだった、とのこと。

他にも様々な結果が報告されていますが、
興味深いところでは、

回答者の39%が自閉症の人を知っていると答えており、
自閉症の人を知っている人は自閉症についての理解度が高いものの、
知っている人の方が自閉症の人を知らない人よりも
ワクチン犯人説を信じている割合が高い(21% vs17%)。

こうした混乱の原因は
自閉症が増えているにも関らず原因が分かっていないためと思われ、
83%の人が原因と治療法の確立を国民的優先課題とすべきだと考えている。

一方、
早期介入により子どもの可能性を引き出せるとの認識のある人も80%以上に。


Florida Tech poll takes pulse on autism
Many believe vaccine a cause
Florida Today, October 3, 2008


調査に関するFlorida Tachのニュースリリースはこちら

Survey Confirms Parents’ Fears, Confusion Over Autism
Florida Tech Newsroom News Release, October 3, 2008


先日のABCの番組でも、
「ワクチンは多くの命を救う優れた発明です。
 インフルエンザで死ぬことだってあります。
 お願いですからワクチンを受けさせてください」と
米国小児科学会が出した声明が紹介されていましたが、

さんざんワクチン犯人説は根拠がないと否定されていながら
未だに4人に1人がワクチン犯人説を信じているというのも
米国の医療への不信の根深さ……?
2008.10.05 / Top↑
前のエントリーを書いて思い出したニュース。

そういえば英国でも
一部の抗がん剤など高価な治療については
NHSで受けられる地方と認められない地方ができ
地域間格差の拡大がこのところ問題視されていましたが、

そうした高価な抗がん剤治療の一部を自由診療として有料化する案が浮上し、
富裕層の命だけを救うのかと批判が出ています。

Top-up fees for drugs herald two-tier NHS
The Times, September 23, 2008

一方、
1986年から1999年のEngland とWalesの乳がん患者の生存率を追跡調査した研究で
生存率そのものは向上しているものの
富裕層と比べて貧困層の死亡率が高いことが判明。



こうした格差は今後さらに広がっていくということでしょうか。
2008.10.05 / Top↑
米国で唯一、医師による自殺幇助が合法化されているオレゴン州で
メディケアによる抗がん剤治療の支払いを不可とし、
医師による自殺幇助は支払いを可とする
通知を受け取るがん患者が増えているようです。




上記の記事によると、Oregon州には
メディケアでカバーされる延命治療には
5年以上の生存率が5%を超えるもののみとの制約があるとのこと。

抗がん剤治療を拒否される患者の続出に専門医などから
「かなり末期でも劇的な改善を見せる患者や、死を先に延ばせる患者もいるのに
 州にはそういう現場の実態が見えていない」との批判が起こっているとのこと。

通知を受け取った患者が不服申し立てをすることは可能ですが、
何度も却下される患者も。
 
抗がん剤によっては月に4000ドルもかかるのに対して、
自殺幇助に使われる薬物は100ドルもしない。

州の医療計画を策定する委員会の委員長は
「生きるための治療を拒み、死ねと言われた」というのは患者の「不幸な解釈」だと主張しつつも、
「州の予算にも限界がある以上、
1人の患者に何週間、何ヶ月と巨額の医療費をかければ
その分、他の患者の治療費を奪っていることになる」とも。

同州の直近の Prioritized List of Health Services(医療における優先順位)では
新たに予防医療とコスト効率が強調されているとのこと。


やっぱり「死ぬ権利」と「死ぬ義務」との距離は非常に近い……という気がします。
2008.10.04 / Top↑
久々に、Ashley療法を取り上げたブログ記事が出てきました。

相変わらず、事実誤認に満ちているのですが、
いろいろな雑音が収まった中で読ませてもらうと、
その事実誤認からこそ、また様々なことが見えてくるようでもあり。

書いたのは「60歳になっても若々しくセクシーでありたい」と望む学生さん。
大学の授業で発表された内容に基づいたエントリーと思われます。

Pillow Angels
Looking through the Eyes of an Angel, October 2, 2008

その事実誤認のいくつかを。

Pillow Angel とは医師らが「原因不明の脳損傷」と呼ぶ状態を指して通常使われている名称です。

「通常」使われているのではなく、
“Ashley療法”を考案、我が子に実施し、さらに広めようと提唱している父親と
彼に賛同して我が子にも同じことを望んでいる親たちが使っている
重症重複障害のある子どもたちへの”愛称”です。

こうした両親の姿勢に
障害があるという理由で子どもを不当に赤ちゃん扱いしているとの批判が出ており、
Pillow Angelという呼称そのものが
障害者のステレオタイプや親の決定権の問題という
この事件の本質を象徴しているので
それを広く通常受け入れられている名称だと誤解してしまうと
まったく根本的なところを見誤ってしまいます。


自分が寝たきりになることを想像してみてください。それはもはや夢ではなく最悪の悪夢です。

これは自分では何も出来ない子どもたちが置かれている、とても悲惨な状態で、それでも彼ら天使たちには苦痛や悲惨という概念すらありません。もちろん苦しみも悲しみもなく、彼らにあるのは、ただ終わりのない夢だけなのです。

重症児・者の現実を知らずにAshley事件を議論する人たちに
頻繁に見られる重大な誤解の1つがこれですが、
重症障害があっても好みのオペラを聴くとはしゃいだり、
不快を泣いて訴えることができ、
家族の声かけに大きな笑顔を返すAshleyが
ここでも植物状態と混同されています。

この人は父親のブログをかなり詳細に読んでいるのですが、
そのブログに掲載されたAshleyの大きな笑顔と豊かな目の表情を見てなお、
どうしてその同じ子どもが「終わりのない夢を見ているだけ」だと考えられるのか
私には不思議でならない。

しかし、
60歳になっても若々しくセクシーでいたいという自分の「夢」を語るところから話を始め、
その対極として「自分では何も出来ず何もわからない寝たきり」状態を「最悪の悪夢」と捉えてしまうのは、
とても今日的な社会の価値観をそのまま写し取っているのかもしれません。


Ashleyの両親はギブアップしたかった。もう、これ以上、我が子が苦しむのを見ていることに耐えられなかったのです。そこで彼女がこの先直面する可能性のある他の様々な合併症(complications)を避けるために手術を行いました。

これもまた非常に良く見られる過度に情緒的な「理解」という「誤解」です。

こうしたウェットな目で「理解」されてしまうことに父親自身がイラだって
「この決断は決して、思われているような困難なものではなかった」
「むしろ、たやすい決断だった」と繰り返し強調しているのは
彼にとっては、冷静かつ合理的なコストと利益の差し引き計算に基づく決断であり、
そういう合理的な思考に彼は価値を置く人だからです。

世界的なIT企業の幹部の「合理的な思考」は、
60歳でもセクシーでいることを無邪気に夢見るこの女性よりもさらに
科学とテクノロジーの人体への利用に対して抵抗が少ないものだろうと
私は想像しています。

また、いわゆる“Ashley療法”によって回避が試みられた
「大きな乳房の不快」、「生理に伴う不快」や「成長に伴うQOLの低下」が
どうして重い障害に伴う「合併症」なのかという点も理解に苦しむのですが、

Gunther, Diekema両医師が2006年に発表した論文で
ホルモンによる成長抑制が行われた理由と目的について
「親は思春期のcomplication、特にメンスの始まりを心配していた」
「一般的な思春期の長期的complicationの軽減」と書かれており
Complicationという表現をさりげなくもぐりこませることによって
生理があたかも思春期に起こる医学的異常であるかのようなイメージ操作が行われています。

Ashleyに行われた一連の医療処置には医学上の必要があったかのような
この人やその他多くの人の誤った受け止めは、
医師らの隠蔽の努力が案外に実を結んだということなのかもしれません。

Ashleyが受けた治療には多くの反対がありました。
1.その治療にはリスクが大きすぎる。
2.Ashley自身が選択していない。
3.両親が自分たちで担うべき責任を逃れている

「親が自分たちで担うべき責任を逃れている」というこの人の理解は
とても興味深いと思う。

出ているのは
「Ashley本人の利益のみが倫理判断の対象とされるべきところで
親の利益が本人の利益と混同されてしまっている」という批判なのですが、

この人はそこに自分自身がもともと持っている
「障害児のケアは親が担うべき責任である、そこから逃れることは悪」という思い込みを投影してしまった。
そのために批判の論点が誤って理解されてしまったのではないでしょうか

Ashleyの父親はブログで
極端な話、Ashleyの体重が150キロになることがあったとしても
自分たちは絶対に娘を他人の手に托すようなことはしなかった」と書いています。

Ashleyの父親を、こんな、できずはずのない非現実的なことを決意しないでいられない、
また、それを世の中に向かってわざわざ言挙げしないでいられない気持ちにするものこそ、
社会の中に様々な形で存在する、このブロガー女性の無意識と同じ規範意識であり、
「無限の愛と献身で障害のある子どもをケアする親の美しい姿」という幻想であり、
いわば社会の”美意識”なのではないでしょうか。

そして本当は助けを求めたいのに声を上げることができないところへと
多くの親たちを追い詰めているのもまた、
「障害児のケアは親が担うべき責任で、そこから逃れるのは悪」との社会からのプレッシャーであり、
Ashleyの親の決断に「そこまでしてでも親がケアしようとする深い愛」を見て
感動・賞賛するのと同じ世間の“美意識”なのではないでしょうか。

障害のある子どもの親に必要なのは
世間の無責任な美意識で賞賛されることではなく、
現実の支援の手が差し伸べられることです。

いわゆる“Ashley療法”を批判する人の多くが主張しているのは
そういうことのはず。

“Ashley療法”は
子どもの尊厳や人権を踏みにじってでも
親がさらに子どもを抱え込むための方策として考案されたのだから。

”Ashley療法”の理念とは、世の多くの重症児の親に向かって
「親はどんな手段を使っても、生涯子どもを自分で抱え込め」というメッセージを送り、
「美しい障害児の親の献身」幻想をさらに強化するものなのではないでしょうか。
2008.10.03 / Top↑
以前のエントリーMS女性、自殺幇助に法の明確化求める(英)で紹介したケースに関連して
外国人を対象に自殺幇助を行っているスイスのDignitasクリニックの最新情報が
明らかになっています。

・現在Dignitasのメンバーとなっている英国人は650人。
・これまでに同クリニックで幇助を受けて死んだ人は870人。
・そのうち100人が英国人。
・Dignitasでの自殺幇助について問い合わせてきた人の70%は2度と連絡してこない。

Dignitas は1998年にスイス人弁護士 Ludwig Minelliによって創設されたNPO。
スイスの法律では自分の利益のための行動でない限り自殺幇助は犯罪とみなされません。



Purdyさんが法律の明確化を求めている一件では特に進展はないようですが、
上記の記事で気になるのは

Purdyさんの代理人を勤める弁護士が
ヨーロッパ人権条約の生命の権利、プライベートで家族的な生活の権利を拡大すれば
QOLの権利をそこに含むこともできる、
そうすればQOLがもはや良くない場合に死を決定する権利も含められる、
そうあるべきだ、と主張していること。

なお、英国で自殺幇助を禁じる法が問題となったこれまでの事件としては
2001年に運動神経の病気があったDianne Prettyさん
が夫に自殺を幇助してもらいたいとして法律の変更を求めたのが初めて。

要望は上院で否決され、
Prettyさんは2002年5月にその病気が原因で死去。
享年43歳。
2008.10.03 / Top↑
ずっと前に
現代思想でロボット工学の山海嘉之氏と生命倫理学者の松原洋子氏が対談しているよと、
人から教えてもらった時に、

読んでみる前に思ったのは
「なんで、そこに介護の現場の人を加えないのかなぁ」ということで、
「三好春樹とかが加わったら面白そうなのになぁ」
と具体的な名前まで頭に浮かんだ。

ただ三好春樹氏の書き物を集中的に読んだ時期は
もうずいぶん前のことになってしまって、
「身体だけをみる医療はじいさんばあさんをあっという間に寝たきりにする、
じいさんばあさんを元気にするのは関係性をみる介護の力だ」
ということをいろんな角度から強烈に主張している人だという程度の
漠然とした理解しか残っていないのが情けなかった。

そしたら先週読んだ本の中に
たまたま三好春樹氏が書いた「ブリコラージュとしてのケア」という文章が入っていて、

その中にはやっぱり
ロボットで介護現場が助かるはずだという発想に覚える違和感に
ぴったり来る文章があった。

かつて施設で「寮母さん」と呼ばれていたのは
専門的な教育を受けてもいないし意識が高くもない無資格の近所の主婦で
でも、彼女たちは差別用語同然の言葉を使いながら優れた介護をしていたと三好氏は言う。
言葉が意味ではなく、その人が向き合う姿勢を口調のうちに伝える介護現場の関係性と
そういう優れた介護者の1人Wさんの姿を描いた後で、

医療やリハビリのような人体を相手にする世界なら私のようなタイプが求められ、Wさんは資格すらもらえないだろう。しかし介護は違う。人体ではなく人間を相手にする。人生を相手にする。そこにはWさんのような資質は不可欠だ。

……現場は老人を研究対象として観察しているわけではないし、老人も客観的に存在しているのでもない。関わる人によって言うことも精神状態も多様に変わる関係的な存在なのだ。なにしろ、今夜の夜勤は誰かによって老人が変わるのだから。

ブリコラージュというのは
工業化社会の画一的な大量生産の方法に対して
未開や原始社会の生産方法としてレヴィ・ストロースが提出した「手づくり」仕事。

ブリコラージュはサイエンスにはなりえない。しかし、アートにはなりうる(大橋保夫訳、『野生の思想』、1976、みすず書房)」ということばは、介護のあり方の方向性を示している。

        ―――――――

うちの娘も、例えば
食事を食べさせてくれる相手によって露骨に態度を変える。

「業務」として「食事介助」に入って機械的に口に詰め込んでくる人と、
「食事」を食べさせてくれる人とを彼女は見事にはっきり見極めて
前者の相手には何も期待せず、
余計なことはせず、言わず、相手のペースに合わせて黙々と飲み込みを続ける。
(相手は娘が自分のペースに合わせてくれているとは夢にも気付かないけれども)

相手が声をかけ自分と関わりながら「食事」をさせてくれる人であれば、
やれ「そのおかずはイヤだ」の「もう一回ゴハンがいい」だのとワガママを言う。
お茶を飲む時にボコボコ吹いてふざけては
「こら、またミウちゃんがっ」とわざと叱られてみたりもする。
自分には相当に甘い相手だと読むと、
言葉もないくせに「おむすびが食べたい」と我を張って、
ついにおむすびを作らせたというエピソードもある。

一生懸命に食べさせてくれている相手のエプロンに
こっそり手を伸ばして紐の結び目をほどき、
いたずらを仕掛けてニマニマしていることもある。

栄養とカロリーが確実に摂取されるのは
せっせと口に詰め込んでは機械的に飲み込ませる前者の人の介助かもしれないけれども
どちらが娘の身体と心をより元気にするか、どちらがより養分となるかといえば
もちろん後者の人の介助による食事に決まっている。

そんな食事介助をするのが“介護現場に革命を起こす便利な”ロボットだったら、
娘の方があっという間にロボットのような無表情になってしまうに違いない。
2008.10.02 / Top↑
米国で親によるワクチン接種拒否が問題になっていると知ってはいたけど、
まさか、ここまでの“闘争”になっているとは。

ABCニュースのサイトに
Mighty Moms in the Face of Autism(9月29日)というビデオがあり、

女優のJenny McCarthyが上梓したばかりの新刊書
“Mother Warriors: A Nation of Parents Healing Autism Against All Odds”
(母親戦士:治らないといわれる自閉症を治す親たちの国)
について語っています。

何も知らずに最初にこのビデオを見た時には
あまり女優として高い評価のある人でもなさそうだから
話題づくりということもあるのかな……などと暢気なことを考えていたのですが、

Amazonで検索してみたら
McCarthyはこれまでにも4冊の本を書いていて、
最初の3冊は妊娠中のものや息子の乳児期の子育てについてのものですが、
直前のものは今年春に刊行された“Louder Than Words: A Mother’s Journey in Healing Autism”
やはり息子の自閉症を“治した”体験を書いたもの。

ウィキペディアの記述を見ても、
どうやらワクチン拒否運動のカリスマ的存在の様子。
昨今のはしかの流行は彼女の活動のせいだという医師もいるほどだとか。

そういえば上記番組の中で流れるビデオには
大規模な集会で演説をし、そろいの緑のTシャツを着た聴衆を熱狂させたり、
デモ行進を行うMcCarthyの姿があって
ワクチン拒否がここまで過激な闘争になっていることが衝撃的だった。

ABCのビデオで彼女が言っていることのポイントとしては

・息子はMMRワクチンを受けるまでは普通に発達していた。

・あのワクチンから行動がおかしくなった。

・息子は自閉症というレッテルを貼られて、その中に閉じ込められているだけなのだから、私はこの子をそこから引っ張り出してみせます、と医者に言った。

・2005年から食事療法を始めて、息子の自閉症は治った。
   (最初から誤診だったのでは、と指摘する医師もあるとのこと)

・デトックス、サプリ、食事療法、いろいろやっている。

・映画の「ファインディング・ニモ」を見た時に、息子が「ママ、ボクは昔ドリーみたいだったんだね」と言った。何を言ったかをすぐに忘れてしまっていた自分のことを息子は当時から自覚していたということ。そういう子どもたちが沢山いる。分かっているのに外に出てこられないだけ。それが医師にはわかっていない。

・自閉症に伴う身体症状まで「自閉症だから」で済まされてしまう。小児科医には自閉症の治し方が分からないからだ。自分たちも自閉症を治しているわけじゃない、ワクチン害を治しているだけ。

・ワクチンの成分はきっちり調べなおす必要がある。

・ワクチンが病気を防ぐ優れた発明だということは認めている。ただ、あまりにも短期間にあまりにも多くのワクチンをやりすぎる。スケジュールが過密すぎるということ。一つ一つのワクチンの調査はあっても、複数摂取についての調査はない。

・CDCのみの出資で、製薬会社からお金が出ていない調査でなければ。

・自閉症の子どものいる夫婦の8割が離婚している今、親の体験に耳を傾けて欲しい。これは本当に起こっていることなのだから。

本を読めば理解できるのかもしれないけれど、
それぞれの主張の間の繋がりがいまいち分からなくて、
どうしてもトンデモな印象を受けてしまう。

一番気になったのは彼女の最後の言葉で
「私たちは“ロレンツォのオイル”世代。親が我が子を救うんです」

うわぁ、いかにもアブナイ感じ。

子どもが自閉症だと診断されて不安でいっぱいで、
何かにすがりつきたい気分の親だって多いんだから……。


ただ、何でもかんでもゴチャマゼでまくし立てられる中で1つだけ
単独ワクチンの副作用研究はあっても、複数の複合的な長期的影響の研究がない、
短期間に多くのワクチンを打ちすぎるのでは、という点については、

新しく開発されたから、新たな病気の予防が可能になったからといって、
安易に子どもたちに摂取すべきワクチンのリストに加えていいのだろうか
という点については、私もずっと感じていた疑問。

こういうトンデモな人の言動に扇動される親が多いというのも、
案外、その根っこにあるのは、もっと漠然とした
科学とテクノロジーで何でも簡単解決してしまおうという文化への不信だったり、
そうした文化が生む莫大な利権(その分かりやすい“象徴”がとりあえず製薬会社)や
製薬会社との癒着が取りざたされる政府や医療者への不信の方なのかもしれない。


それにしても米国で自閉症の子どものいる家庭の離婚率が80%というのも衝撃。
たいていは母親が育てることになるんだろうな。

【追記】
米国で子育てをされている方の記事に
生後2ヶ月めに5種類のワクチンが推奨されているという話が出ていたので、
以下にトラックバックさせてもらいました。
2008.10.02 / Top↑
重い障害があって病気がちな娘を育てていると、
正直、ギブアップしたい時は、あった。

瞬間的に娘を憎悪してしまう瞬間だって、あった。

(いま振り返ると、充分助けてくれない誰かへの怒りを
 思うようにならない娘に投影していたような気がするけれど)

幸い、私には
「お母さん、苦しいんじゃない?」
「もう1人で頑張り続けなくてもいいんだよ」と
向こうから迎えに来てくれる人がいた。

あの時の迎えがなかったら、私だって殺していたかもしれない。

だからこそ、本当は助けを必要としている人が「助けて」という声を上げられないまま
今もどこかで苦しんでいるんじゃないかと想像すると、
その頃のことが思い出されて、息が苦しくなってしまう。

そして、誰かその人に伝えてあげてほしい、と思う。

もうダメ、これ以上頑張れない、投げ出したい、と感じることがあるからといって、
決してあなたが冷たく酷い親だというわけではないのだと。

親だって生身の人間なのだから、
頑張れること、耐えられることには限界があるのが当たり前。

限界があるからといって決してあなたに愛情がないわけでもなければ
一時的にもうイヤだと考えることがあるからといって、
あなたが本当に子を憎んでいるわけでもない。

そんな思いになるのは、あなただけじゃない。
そんな思いになるほど頑張り続けたのなら、今はあなた自身に休息が必要な時。

小さなギブアップをして、また親が元気を取り戻せるのなら
子どもにとっても、その方がいいかもしれない。

親子の繋がりは、そんなに簡単に切れるものじゃない。

あなたがそんなにも苦しんでいることが、
あなたが愛情を失っていない何よりの証。
それほどの愛は、必ず子どもに伝わっている。

だから、ちょっとだけ勇気を出して、
ちょっとだけ我が子の持つ力を信じて、
ちょっとだけプロの技量を信じて
ほんの小さなギブアップをしてみない?

そういうメッセージを伝えていくこと、

「助けてほしい」という気持ちにすら自分で気付くことができない親を見つけ出して、
その複雑な思いに寄り添いながら
上手に支援への最初の一歩を踏み出させてあげること、

その受け皿を作ることも支援なんじゃないだろうか。
2008.10.01 / Top↑

福岡で母親が発達障害のある息子を殺した事件について
ネット上で「殺すぐらいならギブアップしろ」という意見をいくつか見て違和感を覚え、
それがどこから来るのかをずっと考えています。

「殺すぐらいならギブアップしろ」という人は、
たぶん「親の愛情が最初からないから殺す」または「親が愛情を失ったから殺す」と
考えているのではないでしょうか。

もちろん、そういう親もいるかもしれないのだけれど、
私はむしろ、愛情があるからこそ抱え込んでしまって
どうしていいかわからないところに追い詰められたり、
逃げ場がないまま、しんどさに擦り切れ、燃え尽きて殺してしまう親のことを考えてしまう。

そういう場合、
「虐待したり殺すよりは」と考えてギブアップできるような親なら
最初から殺さずに済むんじゃないか、

簡単にギブアップできないからこそ
殺すところまで追い詰められてしまうんじゃないか、

なぜならギブアップして我が子を完全に他人に託してしまうためには
どこかで「他人に託してもこの子は大丈夫だ」と思えなければならないのだけど、
「この子は自分が」「私でなければ」と思い込んでいるからこそ抱え込むのだし、

また抱え込んでいる腕をわずかに緩めて、ちょっと他人に托してみる体験がないかぎり
「自分でなくても大丈夫」ということも知りようがないのだから、
腕を緩めてみる人はどんどん支援サービスを利用するのに抵抗がなくなる一方で
抱え込んでいる人ほど、より深く抱え込むしかないところへ追い込まれるジレンマもある。

そもそも
ギブアップするためには「ギブアップ」という声を上げなければならないわけだけど
それ自体が「助けて」と意思表示をすることでもあって、
それができる人なら大抵は、もっと以前の段階で
もっと身近なところで「助けて」という声を上げられるんじゃないだろうか。

産んだ以上は愛情さえあればどんなことでも耐えられるはず、
それが出来ないなら、いっそ完全にギブアップして棄てろ、と
全部かゼロかの2者択一しか許さない狭量な社会よりも、

むしろ、その2つの間にある無数の種類の負担や痛みをきめ細かく支え柔軟な支援体制で
様々な形の「小さなギブアップ」が許される懐の深い社会の方が
親も肩の力を抜いて長く頑張ることができるだろうし、
親と子の関係も風通しのよいものとなり、
子どもの幸せにも繋がるんじゃないだろうか。

自分の辛さや限界と子どもへの想いの板ばさみの中にいる親は
完全にギブアップして子どもを棄てるなんて恐ろしいことができないからこそ、
殺すほどに思いつめるのだから、

むしろ
時にギブアップしたいと感じるのは誰にでもある自然なことであり、
早めに支援を求めて「小さなギブアップ」をしてかまわないこと、

それで逆に親と子の関係が大切に守られることだってあること、

頑張りすぎてしまって限界が来そうな時には
親と子の関係を大切にするためにこそ「小さなギブアップ」を許容する社会の懐の深さと

それでOKなんだよというメッセージが
苦しくなる前の段階から親に充分に送られることが必要なんじゃないだろうか。

そうして上手に他人の手を借りて、
いわば「小さなギブアップ」をいろんな形で繰り返しながら
親が子どもを育て続けることができるなら
最後の最後の大きなギブアップを避けられる人はもっといるんじゃないだろうか。

いつでも「小さなギブアップ」が許される
きめ細かい柔軟な支援が整っている社会の方が
親も安心してゆったりと子どものケアを続けられるし
(なにより安心して産めるし)
結局は社会のコストもかからないのではないだろうか。

2008.10.01 / Top↑
米国Nebraska州で
子育てが困難な親に子どもを州に託すことを認める法律によって
子どもを“棄てる”人が相次ぎ、問題になっています。

問題のSafe Haven Law(安全な隠れ家法?)とは、
日本で言えば「こうのとりのゆりかご」と同じ制度と思われますが
米国では実際のポストを設置するのではなく、
所定の病院で受け入れることを法律で明示してあるようです。

親が子どもを連れて指定病院へ行き、
文書にサインして子どもを州の福祉局に託すという仕組み。
この法律の下では理由を求められることはなく、
罪に問われることもありません。

Safe Haven Lawそのものは全50州にあるのですが、
もともと乳児殺しの予防という意味合いの法律なので
他の州では1歳未満としているのに対し
Nebraska州だけは年齢制限を設けずに7月に同法を施行。
(福祉局の担当権限により事実上は17歳まで)

すると、9月1日以降、15人もの子どもが連れてこられた。
特に9月24日(水)には午後5時からの4時間に
3人の父親が子どもを連れてきて、
そのうちの1人は1歳から17歳までの9人の子どもを置いていった、と。

また、年齢から同法の適応とはならず情報提供で帰されたようですが、
親も後見人もいない18歳の男性がこの法律の元での保護を求めて
自らやってきたというケースも。

大まかな事件の概要は以下のUSA Todayの記事に。



地元紙the Omaha World-Herald紙のサイトでSafe Haven Lawで検索してみたところ
9月23日から30日までの間にこの問題で14本の記事がありました。

とても全てを読むことは出来ないので
それらの内容をまとめてあるChicago Tribuneのブログ記事も参考に
いくつか気になる詳細を拾っておくと、

・子どもに精神障害や問題行動が見られるケースがかなりある。

・親が子どもを“棄て”にきた理由も、貧困よりも子どもの問題行動に悩んでの場合が多いと説明されている。

・ある母親は「私にはこの子をコントロールできません。やろうとしたら、この子を酷い眼にあわせてしまいます」。

・問題行動のある子どもの親は、これまでに相談機関や病院に助けを求めた経験はあるものの、
有効な支援に結びついていなかった。

・何らかの事情で親ではなく叔父叔母が養育しているケースも複数ある。
(父親に虐待と薬物中毒があり叔母が養育しているが
本人も粗暴で精神科を受診させたが薬を飲もうとしない、
警察に相談したが犯罪を犯すまでは手が出せないと言われた、など)

・ この法律の下で保護された子どもたちの処遇については
施設に入れるか里親を見つけるか裁判所が判断することに。

・ 一度に9人が棄てられたケースでは
母親は2007年2月に急性脳出血で死亡、後に10人の子どもが残された。
34歳の父親には失業、立ち退き命令、公共料金未払いの前歴があり、
また心理士から常識を欠いていると判断されている。
18際の娘をのぞく9人を連れてきた父親は
これ以上育てられないと警察に話した、と。
子どもたちについては州議会が特別な予算を組んだが
親族から協力の申し出も出ている。



The Omaha World-Heraldの14本の記事のタイトルからは
こうした”濫用”の多発を受けて州議会が同法の見直しを検討しているようですが、

むしろ親や養育者または本人の困窮がここに炙り出されているのだから、
法律を改正して機会をシャットダウンするだけでは解決したことにはならないのでは?

親や養育者がそれぞれにそれなりの相談機関や病院に相談しているのに、
それが「役に立たなかった」り、実際の支援に結びついていなかったことが
私にはとても気にかかります。

いくら相談窓口があっても、
そこから繋げることのできる実際の支援が用意されていなければ
その窓口は行政が仕事をしているというアリバイに過ぎないのに……といつも思う。


Children left at Nebraska hospitals: more details
Triage (Chicago Tribune health care blog) by Judith Graham, September 28, 2008

who left 9 kids had series of woes
The Omaha World-Herald, September 26, 2008

Profiles of the families that have used the safe haven law
The Omaha World-Herald, September 28, 2008
(Safe Haven Lawの適用を受けた家族のプロフィールがまとめられています)
2008.10.01 / Top↑