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古くからの友人が癌になった。
仲間内では一番の苦労知らずが初めて大病をして、精神的に大丈夫かと心配もしたけど、
1年間の闘病のすえ、めでたく克服して、このたび職場復帰を果たした。

本人なりには、さぞいろいろあったのだろうけど、それでも、いつからか
「なるようになるわ」とゆったり構えて淡々と治療を受けていて、
その姿には、我が友人ながら、あっぱれなヤツよ、と敬服した。

なんとか癌を克服できそうだと思えるようになった数ヶ月前から、
彼女が口癖のように言い始めたことがある。

「何が起ころうと人は前向きに生きていかなくちゃいけないものなのよ。
すべて人の幸・不幸は、心の中にあるもの。
人生に起こることに無駄なことは何一つありません。
すべては大事なことに気づかせてくれるために起こっていることなのだから」

初めてこれを聞いた時にも、ちょっと「うん……?」とは感じたのだけど、
あまり深く考えずに聞き流した。その時は、
いくらかは自分に向かって言い聞かせているのだろうな、と思ったし。

それから後、会うたびに、彼女は必ず同じ事を繰り返した。
たぶん、私以外の人にも同じことを言っているらしかった。
そして、たぶん、ほめてくれる人もあったのだろう。
聞くたびに、ちょっとずつ説教口調になった。

私は、だんだん癇に障ってきて、聞かされるたびに
ずっと昔読んだ、ある新聞の読者投稿を思い出すようになった。

長年お姑さんを介護して見送って、しっかり尽くしたので悔いはない、という女性の投書。
昔は意地悪もされたお姑さんの大便を、その人は手で受けていたという。

そして、
そんなふうに姑の大便を手で受けてまで介護する自分の姿を見て育ったから
ウチの息子たちは2人とも心優しい、いい青年に育ってくれた、
介護とは、そういうふうに心をこめて尽くすものだ……という投書──。


最後の放射線治療が終わったお祝いで
何人かの友人が集まってご飯を食べた時にも、
私の親友は闘病を語った後で、全く同じことを言った。

「人生に起こることに無駄なことは、何一つ、ありません」

今度は相手が私一人でなかったためか、小学校の先生らしく、
噛んで含めるように”上から言って聞かせる”口調になった。

う~ん……。それ、そういう口調で人に向けて言っちゃっていいかなぁ……?

あんた自身の気持ちとしては、分かる。
いったんは死を覚悟もし、辛い治療にも黙って耐えて、
そこまでの心境にたどり着いた、あんたはえらい、とも思う。

私も重い障害のある子どもの親としての人生で、そっくり同じように感じたことはある。
だから、あんたが言っていることが、たぶん人が生きるということにおいて、
1つの真理だろうというのは、私も否定しないよ。

もう1つ、人が生きるということにおいては、
いつもカタルシスの直後の、その心境に留まっていられるわけではないというのも真実だけどね。

だけど、それを自分の個人的な体験や心境として語るのと、
他人に向かって訓を垂れてみせるのとでは、話が違う。

あんた、それを、例えば、たった今、癌の再発を知らされて、
その事実をまだ受け入れかねている人に向かって、言える?

例えば、まだ小さい時に事故で親を亡くした子どもに向かって、言える?
人生で起きることには何一つ無駄なことはないのよ、
あなたが気づかないといけないことに気づかせてくれるために起こったのだから、って?

そして、その同じ言葉を
自分の責任など何もないのに重い障害を負ったまま生きていくことになった、
うちの娘に向かって、あんた、そのまま言えるの──?

相手の状況によっては、自分の言葉がどんなに無神経で残酷なものになりうるか、
自分が他者の置かれた状況に対する想像力をいかに欠いているか、
あんた、ぜんぜん分かってないよ──。


……と、私はとうとう厳しい批判の言葉を吐いた。

多くの人への見舞い返しに添えた挨拶状に、彼女が全く同じ言葉を書き入れているのを読んだ時。
その挨拶状を受け取る人の中に、癌の再発におびえている人が含まれている事実を思った時。

でも、激しく批判したことで、私もまた、彼女と同じことをしたのだと思う。

友人もまた、再発の可能性におびえながら
たぶん自分自身に向かって言い聞かせるために繰り返さないではいられなかったのだろうことに、

「自分だけが苦しんでいると思うんじゃないわよ」という私自身の鬱憤を吐き出した後になってから、
やっと私も気づいたから。

あれから、とても苦い気持ちを引きずっている。

       ――――――

人は自分の経験の内側からしか、ものを見ることが出来ない。

他者には、もしかしたら、自分には想像もできない境遇や苦しみというものがあるのかもしれない、
もしかしたら、自分にできること、自分にできたことは、自分がえらかったりすごかったからではなくて、
たまたま、それができる境遇に恵まれていたからなのかもしれない……。

そんなふうに考えてみることは、誰にとっても、とても難しい。

だからこそ……という本を、読んだ。
森岡正博氏の「33個めの石」

33個めの石が、一体なんなのかは、
ミステリーのネタバレみたいなことになるので書かないけど、

33個めの石の話とは別のところで書かれている死刑廃止論の部分が、
たぶん、それと同じことを語っている。

自分は殺人被害者の遺族の憤りや処罰感情が理解できる、
自分の手で殺してやりたい、復讐してやりたいという気持ちは
ありありと想像できる、

そんなふうに自分は死刑を肯定する感情を自分の中に持ち合わせている。
その上で、理性の力でもって死刑は廃止すべきだと考える、と
森岡氏は書いている。

ぎくっとした。

私にも死刑を肯定する気持ちがあって、私は
「でも自分だったら、やっぱり殺してやりたいよね。難しい問題だけど」で止まっていたから。

「33個めの石」が象徴しているものは
その、ぎりぎりのところまで考えたつもりの自分が自分で引いた境界線から、
理性の力で、もう一歩を踏み出し、自分ではない他者の側へと視線を転じ、広げてみること。

それは、たぶん、スタノヴィッチ氏が書いていた
遺伝子に組み込まれた認知の系を理性や知性の系で超える、ということと、
きっと同じことなんだろうな、と思った。
(詳細は文末のリンクに)

世の中が自己責任や自助の論理に傾斜していく今、必要なのは、
これ以上はもういいだろう、と自分なりに考えたところから、もう一歩、
理性と知性の力によって、他者の側へと想像力の視点を踏み出し、
くいっと視点をそちら側に転じてみる……ということなのかも。

私にとっても、それができたら、
癌の闘病で1年間、自分の死と向かい合い続けた友人の言葉を
もっと余裕を持って許容することが出来たのかもしれないのだけど。


2009.09.13 / Top↑