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英国で臓器移植めぐり、むちゃくちゃな動きが出てきている。「NHSの慢性的な臓器不足を解消するため」GPに対して、患者に臓器提供の意思を確認せよ、という方針が出されそうな気配で、医師らが「そんな話をそう簡単に無神経に持ち出せるか」と反発。しかし、General Medical Councilは「そんな悠長なことを言っていられるか。臓器不足を解消して移植手術を増やすことの方が重大じゃわい」と。:もしかして、臓器移植の件数とか成功率とかで、この領域の国際競争が特に最近、激化している、ということでもあるのでは? それにしても、慢性的な…って、臓器目的で殺さない限り不足するに決まってるだろ、んなもん、最初から。
http://www.guardian.co.uk/society/2009/aug/31/organ-donation-nhs

Hilary Listerさん、37歳。英国を単身ヨットで一周した初の四肢麻痺の女性に。:快挙。どこだ、四肢麻痺の人に栄養と水分を拒否して死ぬ権利を認めた国は? 
http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/more_sport/sailing/article6816329.ece?&EMC-Bltn=DCNCBB

そういえば、昨日、Not Dead Yetのブログを覗いたら、そのオーストラリアの四肢麻痺の男性Rossiterケースの議論で、どこかに「誰からも、その男性に生きる希望を持たせてあげられなかったことを残念だと感じる声が出てこないのが、信じられない」というコメントがあって、胸に痛かった。このエントリーのタイトルは「Rossiter、オーストラリア社会が彼に認めた唯一の権利を勝ち取る」。生きるための諸々の権利を先に──。
http://notdeadyetnewscommentary.blogspot.com/2009/08/australia-christian-rossiter-wins-only.html

こちらは時間があったら、まとめたいのだけど、Peter SingerがNY Timesに書いていた「QOL指標に配給医療を」という論説を、NDYブログが痛切に批判。そこに世界中の障害者コミュニティから多数の団体や個人が名前を連ねている。これを見ると、ちょっと元気になる。
http://notdeadyetnewscommentary.blogspot.com/2009/08/peter-singer-in-ny-times-magazine.html

児童買春ツーリズム摘発キャンペーンで、カンボジアで児童買春を行った米国人3人、連邦政府の裁判所で初の起訴へ。:昨日、エントリーに「闇の子供たち」サイトにリンクを張る時に、カンボジアの子供たちへの援助活動をしている、かものはしプロジェクトのサイトを見つけて、カンボジアの児童買春の実態について読んだところだった。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/08/31/AR2009083102291.html

州独自の医療制度改革をがんばっていたマサチューセッツ州が、グリーンカードとって5年未満の移民には歯科医療とホスピスを認めないことに。
http://www.nytimes.com/2009/09/01/health/policy/01mass.html?th&emc=th
2009.09.01 / Top↑
去年Montana州では
76歳の白血病の男性Robert Baxter氏が
医師が自分の自殺幇助を拒否したことは
州憲法で保障された権利を侵すものであると訴えて

12月に州の上級裁判所は
その訴えを認める判断を下したものの、
Baxter氏本人は、その当日に死亡。

州当局が上訴していました。

明日2日水曜日に
その最高裁の判断が出るらしいのですが、

NY Timesの以下の記事によると、
Montana州の州憲法はかなり個性的なもののようです。

プライバシー権運動の真っ盛りの1972年に書かれ、
個人の自己決定権(autonomy)と尊厳を非常に重視し、
政府の干渉を嫌っている、と。

The dignity of the human being is inviolable. と書かれているというのですが、

記事の文脈からすると、
この inviolable とは、当局の介入に対して「侵すな」というニュアンスのようでもあり。

州当局側は、州憲法は人の命を絶つ幇助の権利など認めていない、と主張していますが、

Montanaの裁判所の判断には、
このような憲法の背景を受けて個人のプライバシー権と自由を
他の問題よりも優先させる伝統があるらしく、

医師による自殺幇助も州憲法で認められたプライバシー権として
水曜日に最終的に認められることがもはや、ほぼ確実であるかのように
この記事は書いています。

そうすると、OregonとWashingtonとは、また違った位置づけで、
米国で初めてプライバシー権として自殺幇助が認められてしまうことになります。

しかし、その一方で、
Montana州は人口比での自殺者が最多の州であり、
その背景には過疎のため基本的な医療すら受けにくい土地柄がある。

また医療を受けられず自殺率が高いアメリカ・インディアンという
マイノリティの問題もあり、果たして、それがフェアな判決なのかどうか、

まずは誰もが平等に医療を受けられるようにすることの方が先だという議論もあるし、
プライバシー権の文脈のみでなく、
もっと生命倫理や哲学・道徳の議論も必要だという声も。



Ashley事件で擁護する人たちが当初もっぱら主張していたのも、
子どもの医療についての判断は親のプライバシー権だ、ということだった。

体罰を法律で禁止することへの反発
どうやら、子どもの体罰は親のプライバシー権だという発想のようだし。

乱射事件の犠牲者が何度出ても銃規制が進まないことや
医療の国民皆保険が実現しにくいことなどの背景にも、
個人の自由に国家権力が介入することへの警戒感なのだと考えると、
共通した文化的な土壌なのかもしれません。

しかし、ここで自殺幇助を受けることがプライバシー権だと認められてしまったら、
自殺幇助合法化に向けた議論が進む他の州や国への影響は多大……。

(Oregon州とWashington州では「尊厳死法」という新たな法律を作って対応しています)

懸念されます。


ちなみに、以下の関連エントリーにあるように、
MT州の医師会は、会員に対して自殺幇助を認めない方針を出しています。

2009.09.01 / Top↑
健康保険証カードが更新になったといって、
夫が新しくなった青色のカードを持って帰った。

家族3人分。

ウラ面ひっくり返して、びっくり。
なんとドナーカードになっている。

真っ先に感じたのは「無理やり選択を迫られている」感。

先の参議院の参考人意見陳述で
森岡正博氏が上げておられた「迷うことができるという自由」という言葉を思い出す。

意思表示そのものにコミットしたくない、という選択だってあるのに。

もちろん、書かずに放っておくという手はあるのかもしれないけど
今回の法改正議論でかなり警戒感が強くなっているから
私たち夫婦はそれぞれ「提供しません」にチェックし
個人情報保護シールを貼った。

これだって、こんな形で選択を迫られなかったら、
「しません!」とわざわざコミットすることなく、
曖昧なところに距離を置いて居座り続けたかもしれないのだけど、
こんな形で迫ってくることへの抗議を形にしたくなる、というか。

このシールは一度はがしたら、二度と貼れないと書いてある。

緊急搬送された患者の提供意思の有無が
救命治療に影響しないよう、ズルして覗き込めないように?

じゃぁ、もし万一、「やっぱり提供しようかな」と気持ちが変わった時には
新しい保険証カードを発行してもらって裏を書き直し、
改めてシールで隠す段取りになるんだろうか。

でも、逆に、いったん「提供します」にチェックして封印した人が
その後「提供しません」に気持ちを変えて、
煩雑な手続きをとるのを先延ばししている間に
思いがけなく脳死になってしまうことだって、ないわけじゃないだろうに。

ここでもやっぱり
「迷うことの自由」をこのドナーカードは侵していないか? と考える。

でも、そんなことをあれこれ考えつつ、
実は困惑のうちに、ずっと横目で睨んでいたのが娘のぶん。

重症重複障害のある娘は既に成人していますが、
自分の意思を自分で表明することができません。

この場合は、意思以前に、臓器を云々と説明しても、その内容が理解できません。
(これは彼女が一切何も理解できないということを意味するわけではありません)

誰かに「臓器を提供しますか」と質問されたら
気分によっては「ハ!」と答えてしまいかねません。
(これは彼女が日常的にYES-NOの問いにまったく答えられないことを意味するわけではありません)

親としては、
こんなに重い障害を持ち、
生れ落ちた瞬間から医療によって散々痛い目に合わされてきた、この子に、
これ以上の侵襲は受けさせたくない。

Ashley事件の時に、
やはり重症障害のある息子を持つカナダAlberta大のSobsey教授が
「金額が同じであっても、貧しい人から盗めば、
それは全財産を盗むことになるのだ」という言葉で
障害によって既に多くを奪われている子どもから
これ以上、人為的に奪っていくのはやめてくれ、と痛切な批判をしていましたが、

私たちにとって娘の臓器提供は、それと同じ痛みの感覚が強すぎて論外です。

そんな親の思いだけで考えれば、
いっそ親が、ちょん、と娘のカードの「提供しません」に代筆して
封印してしまおうかと、まず思った。

でも、Ashley事件以来、医療における親の決定権の危うさや
特に重症児にとって親は必ずしも最善の代弁者ではないことを
ずっと考えてきたのだから、それをするのは、やはり抵抗がある。

それに、この場合、親の代筆が果たして法的に有効なのかどうかも分からない。

(何人かが指摘しているのを読んだけど、このとき、
ドナーカードの筆跡鑑定の問題が本当にリアルな問題として感じられた)

父親が成年後見人になってはいるけど、
日本の成年後見人には医療における代理決定権は認められていないという話を
ずいぶん前に専門家の先生から聞いたような記憶もある。

小児の終末期医療の意思決定ガイドラインだと、
最終的には親の決断だとしても、「決定権」という確固としたものというよりも
もう少し日本らしく、

医療職と親とその他関係者のコンセンサスに向かうプロセス重視の感じがあるのだけど、
そのプロセスの中に、臓器提供の意思決定はどう織り込まれていく、またはいかないのだろうか。

親が生きていれば、その間は、まぁ、いい。
ドナーカードを白紙のままにしておいたって、
万が一の時には「ご家族のご意思」は明確にNOだと声を大にしてやれる。

でも親だって、その身にはいつ何があるか分からない。
親亡き後に、娘のドナーカードが白紙のまま、
万が一、この子が脳死状態になったとしたら、
いったい、それは、どういうことになるんだろう?

ちなみに現行法のガイドラインでは以下のようになっていました。

知的障害者等の意思表示については、一律にその意思表示を有効と取り扱わない運用は適当ではないが、これらの者の意思表示の取扱いについては、今後さらに検討すべきものであることから、主治医等が家族等に対して病状や治療方針の説明を行う中で、患者が知的障害者等であることが判明した場合においては、当面、法に基づく脳死判定は見合わせること。

今回の法改正で、この点がどうなるのか……。

自分で意思表示できない人から臓器を取ってはいけないことにするべきだと、
障害当事者は声を上げています。

それも、こんな形でドナーカードを持たせるのであれば、
知的障害者等であることのチェック項目を入れておいてくれなければ、と思う。

現行法の精神そのものと今後はまるで逆方向に向かうであろうことが
今回の改正議論でありありと感じられただけに
親としてもガードを上げ、固めざるを得ない。

何でもかんでも一緒くたにするなと言われればそうかもしれないのだけれど、
このブログで英語圏の医療における障害児・者への手ひどい扱いを見ていると、
日本の移植医療だけが、それらとかけ離れた感覚を貫き通すとも思えない。

娘が住む場所として世の中はどんどん信頼するに足りない、
警戒しなければならないものになっていくように感じられて、

どう扱っていいか分からない娘の健康保険証兼ドナーカードを眺めながら
森岡先生の「まるごと成長し、まるごと死んでいく権利」という言葉を思い返す。 

こんなにも我が身を守るすべを持ちあわせない娘が
そんな当たり前の権利をこんなふうに脅かされなければならない世の中──。

それって、一体どういう世の中なんだよっ。


           ――――――――――

実は、今回A案が通ったから保険証がこうなったのかと
疑心暗鬼になっていたのだけど、

どうも違っていたみたいで、

その辺りをきちんと健保連に問い合わせられた方のブログがあったので、
以下にリンク。(TBできなかったので)

2009.09.01 / Top↑
テス・ジェリッツェンのミステリー「僕の心臓を盗まないで」(角川文庫)を読んだ。

原題は“Harvest”。
刈り取り──。

臓器を取る行為に、英語では農作物の“収穫”と同じ単語があてがわれる。

日本語のタイトルが既にネタバレしているように
この小説のテーマは「闇の子供たち」と同じく(リンクは映画のネタバレ含みます)

リストの順番をすっ飛ばすためなら高額の代金を支払う用意がある富裕層向けに
孤児や貧しい子どもたちの臓器を生きたまま刈り取る闇ルートで
移植臓器のドナーが“生産”されている、という話。

米国の臓器割り当てシステムがどういうふうに機能する“はず”なのか、について
作品中からボストンの総合病院の移植コーディネーターの説明を引いてみると、

システムそのものはかなり単純です。臓器を必要としている患者の順番待ちリストがあるんですが、地域単位と全国単位の二種類あって、全国版のほうは、臓器提供統一ネットワーク、略してUNOSと呼ばれています。地域リストを管理しているのはニュー・イングランド臓器銀行。どっちのシステムも、患者の必要度順になっています。資産や人種、社会的地位は一切関係ありません。関係があるのは、患者の状態がどれほど危機的かだけなんです。

(P.217)

ところが、現実には予定されていた患者の移植手術直前になって、
リストのトップの2人がすっとばされて、3番目の人に臓器が提供されてしまう。

この3番目だったはずの患者が大金持ちの夫ヴィクター・ヴォスに深く愛されている奥さん。

スタッフは次のような会話を交わします。

「私の考えだが、ヴィクター・ヴォスが手配して、ドナーを登録させなかったんだろう。
心臓が直接、奥さんに渡るように」
「そんなことできるのか?」
「金さえあれば──たぶん」

(P.216)


しかも、臓器にくっついてきたはずの医師もドナーのカルテも、いつの間にか消えてしまう。

ドナー情報はもともと極秘なので、
そちらは最初あまり重要視されない。なぜなら

ドナーのカルテは極秘。レシピエントのカルテとは、必ず別に保管される。さもないと患者の家族同士、連絡取り合ってしまうじゃないか。ドナー側は一生感謝されることを期待し、移植された側はそれを負担に思うか、罪の意識に苦しめられることになる。双方の気持ちが入り乱れてどろどろになってしまうんだよ。

(P.158)

ここ、臓器移植という医療の本質について、とても示唆的な箇所。

この移植の後から、病院の医師が不可解な自殺を遂げたり、
事件が次々に起こっていく。

なかなか楽しめるミステリーなのですが、
文学作品というのは、さすがに、いろいろと象徴的で

そのヴィクター・ヴォスという人物の設定が、まず興味深い。

化学薬品からロボットまで何でも作っている会社の経営者で
経済誌の米国富豪ランキングで14位。

つまり“科学とテクノ”で稼いでいる大金持ちで
弁護士だって相手がヴォスだと聞くと「顔色が何段階か蒼くなった」。
これほどのお金持ちは、そのまま権力者でもある。

なんだか、なぁ……読んでいると、この辺り、
シアトル子ども病院の医師らをAshley父が無理難題で振り回している図に
どうしても重なってしまう。

仮にAshley父に関する当ブログの仮説に立って、重ねてみるとしたら、

彼自身は富豪ランキング14位というわけではなくて、
“ヴォス”の会社の幹部役員といった立場なのでしょうが、
それでも幹部となれば、背後に“ヴォス”が控えていることを病院は意識する。

なにしろ背後に控える“ヴォス”は、A事件の場合、富豪ランキングのトップ。
病院にも巨額の資金を提供し共にグローバル・ヘルスのリーダーたらんと手を携えているとしたら、
そりゃ、トラの威でも十分。

相談された弁護士だって、相手の意を汲んで、
Ashleyは自分の意思で子どもを産むことはないのだから
子宮をとっちゃっても不妊手術には当たりませんよ……と
お望みの回答を出してあげるというものでしょう。

さらに、この作品には、次のような注目発言だって出てくる。

ジェレマイア・パー(spitzibara注:院長)の首だって危ないのよ。
きっと今もヴォスに食いつかれてる。考えてもみて。
病院の理事会はヴォスの金持ちの友達で一杯なの。
パーを馘にするくらい簡単。

(P.291)

シアトル子ども病院の理事会にも、
おそらくシアトルのお金持ちがずらりと並んでいることでしょう。
ランキング1位のシアトルの“ヴォス”さんとオトモダチで、
(その後この人は2位に転落したけど、A事件の時点では1位だった)
したがって、きっとAshley父ともオトモダチ……という人たちが。

そして作品全体を通して最も象徴的だと思ったのは
最後のところで犯人の一人が臓器を買う人の心理を代弁する、以下のせりふ。

想像してみることだ。我が子が死んでいくのを見ているのがどんなものか。
ありあまるほどの金を持ちながら、それでも順番を待つしかないと
思い知らされるのがどんなものか。
しかも、その子よりも前にいるのはアル中や麻薬患者だ。知能障害者だ。
生まれてこのかた一日も働いたことのない、福祉にたかる連中だ。

知能障害者……。
初めて見た、この表現。

厳密に言えば、これは、たぶん、知的障害者と訳すべきところ、
翻訳者の方が障害者の分類にあまり詳しくなかったということなのでしょうが、

でも、とても皮肉なことに、
知的障害者というよりも知能障害者というほうが、
トランスヒューマニストや“科学とテクノ万歳文化”の人たちの感覚を、より的確に表わしている。

       ―――――――――

病院だって人間の社会や経済のシステムの中にある以上、
こんなふうに“政治的な配慮”というやつから、ひとり逃れられるわけではないし、

そのことは医療や科学研究の世界に明るい人こそ、
この世界にも”ウラ”というものがあることを、身に沁みて、よく知っているはずだと思うのに、

生命倫理・医療倫理の議論が拠って立つ揺ぎない前提では、

医師個々人や病院の職業倫理とそれに基づく判断は決して
医療界や病院の政治・経済上の事情に影響されることなどなく、
また医師間や病院間の熾烈な競争をめぐる事情によっても左右されることなどない……“はず”だ
ということになっているのが不思議。

臓器が売買されていることを多くの人が事実として知っていながら、
臓器は売買などされていない“はず”だという前提で
「子どもの命を救うために、セーフガードさえあれば大丈夫」と
政治的な理由でもって、いとも簡単に法律が改変されていく不思議と同じように。

倫理学者が「セーフガードさえあれば大丈夫」と太鼓判を押し、推し進めてきた最先端医療で
そのセーフガードがきちんと機能しているという領域は本当にあるのだろうか。

なんで、そこのところを検証する生命倫理学者は、いないんだろう?
私が無知なだけで、本当はいるのかもしれない。
圧倒的に少数だと思うけど。

でも、自分たちが「セーフガードさえあれば」と正当化し、実現させてきた医療で
実際にはセーフガードが機能せず、犯罪が起こり、弱者が食い物にされているのだとしたら、

生命倫理という学問には、
自分たちが提唱したセーフガードの効果を検証し
自分たちがGOサインのお墨付きを与えたという事実について
とるべき責任があると思うのだけど──?
2009.09.01 / Top↑