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以下は2007年6月号の「介護保険情報」誌に書いた
「英国の介護者支援」に関する文章です。

★イタリア
QOLの低下――ALS患者本人より介護者で

 3月19日付のYahoo! News Health Dayの記事によると、イタリアの研究者らがALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者31名とその介護者である家族を調査したところ、QOLが低下し抑うつ状 態に陥る割合は患者本人よりも介護者の方で高いという結果が出た。

   ALSは40歳以降に発病する神経難病で、運動ニューロンが侵されるため診断から2~4年で呼吸困難によって死に至る場合が多い。調査では患者と介護者 それぞれに対して別個に2度の面接を行った。初回面接と2度目の面接の間は9ヶ月。それぞれの結果を比較したところ、患者では診断当初の衝撃と動揺を乗り 越えた後は、むしろ介護者への感謝から幸福を感じるなど、比較的精神状態が安定していた。また症状が悪化していく一方で介護者も介護に慣れてくるなど、 QOLも低下していなかった。

 ところが介護者の方は、患者の病状の進行に伴って介護負担が増し、疲れ、ストレス、負担感からQOLを維持することが難しい。ウツ状態にあった介護者は 初回面接時の3人から、9ヶ月をはさんで6人に倍増した。精神状態悪化の主な理由は、無力感、孤立感、孤独、悲哀のほかにも、自由になる時間がない、家を 出られない、友人に会えないことなど。

 「多くの介護者は愛する者が苦しんでいる時に自分のことを言うのは利己的だと感じて、自分自身のニーズや気がかりを口にしないのです」と分析するのは、 カリフォルニア大ALSセンターのキャサリン・ロメンホース医師。介護者支援の必要を説くイタリアの調査報告を歓迎する。

★英国
介護者の権利――介護者ニーズのアセスメント

 充分に眠れていますか? ストレス、不安、落ち込みは? あなた自身の健康状態は? 一週間のうち介護に使う時間は? 緊急時に頼れる人は? もう続け られないと感じていますか? 仕事と介護の両立は大変ですか? 朝から晩まで自分の好きなように過ごせた日は、いつが最後でした?

   日々自分のことは後回しにして家族を介護している人の心に沁みる、こんな問いが並んでいるのは、英国の介護者支援団体Carers UK -the voice of carers のHPである。英国では2000年のCarers Actにより、各地方自治体に対して、介護者の希望があれば、介護者自身のニーズ評価アセスメントを行うことが義務付けられた。先の質問は、Carers UKの情報提供ページで、アセスメントを受ける介護者が予め整理しておくとよいと勧められるポイントの一部。

 Carers UKの解説によると、介護者が16歳以上であれば、介護される人がソーシャルサービスの利用を望んでいなくても介護者アセスメントを受けることができる。 患者の退院に備えた「介護するつもり」でも可。ソーシャルサービスに直接電話で申し込むか、GP(かかりつけ医)または保健師に連絡を依頼する。目的は、 介護と自分自身の生活のバランスをとり、介護者自身のニーズに対して支援を受けられるようにすること。例えば掃除や洗濯の手伝いがあれば、または通院や通 勤にタクシーが使えれば、または安心のための携帯電話があれば介護が続けられるのであれば、それらも介護者サービスの具体例だ。アセスメントを行う人は介 護者が介護役割を望んでいるとか、続けたがっているとの予見に立って話を聞いてはならない。地方自治体には介護者サービス提供の認否基準を明らかにするこ とが求められており、ソーシャルサービスは財源や資源の不足のみを理由に介護者サービス提供を拒むことはできない。

 日本の介護者からすると夢のような話だが、これはあくまで制度の理念を介護者の立場でCarers UKが解説したもの。現実には「アセスメントの質にもばらつきがある」。また「悲しいことに介護者がアセスメントを受ける権利は専門家の間でも周知されて いない」ので、実際にアセスメントを受けた介護者は3分の1程度。こうした現状を受けて、04年に改定されたCarers Actでは、介護者アセスメントに関する情報の周知が地方自治体に義務付けられた。

 また、同じくCarers UKのHPによると、昨年のthe Work and Families Act では、柔軟な働き方を求める権利が介護者に認められた。今年4月から施行。雇用者側にも拒む権利があるが、2年前から認められていた6歳までの子どもと 18歳までの障害児の親での実績によると、要求の8割が認められているという。

★英国
ケア財政の逼迫受け――介護者支援に新たな予算

 その一方、一連の報道によると、英国では去年から高齢者ケアそのものが破綻寸前だとの指摘が相次いでいる。去年3月にはチャリティ団体キングズ・ファン ドによる大規模な調査で、障害者の寿命が延びたことに加えて人口の高齢化によるケア財政の逼迫が報告され、今後20年間に高齢者ケアの予算は3倍に増額さ れる必要があると試算。この試算は政治家には「しょせん無理な話」と棚上げされたようだが、12月初頭には45の地方自治体の首長が連名で高齢者ケアの危 機を訴える公開書簡を発表。「政府は“問題の本当の大きさ”を認識するべきだ」と予算の増額を求めた。また中旬にはキングズ・ファンドを含む8団体が連名 で蔵相に書簡を送り、「ソーシャルケア予算の増額がなければ、多くの虚弱高齢者は孤立と依存を免れない」と訴えた。

 近年英国で介護者支援が重視されているのは、このようなケア財政の逼迫を背景に、経費のかさむ施設介護から在宅介護への移行を促進する狙いがあると思われる。

 しかし今年1月のソーシャルケア監査委員会の報告書では、在宅介護を支援するケア・サービスまでが危機的状況に陥っている現状が浮き彫りになった。英国 の3分の2の地方自治体が、高齢者ケア財政の逼迫から在宅ケア・サービスの利用を重度者に制限しており、現在比較的軽度とされる37万人に提供されている サービスは2009年までにはなくなる見込み。委員長のデイム・デニス・プラット氏は、介護支援サービスの利用を可能にし、介護者をより強力に支援するイ ンフラなしに、介護責任が移されてはならないと警告した(BBCニュース06年12月7日、The Guardian1月10日など)。

 こうした動きを受け、2月に財務大臣が今後広く介護者支援を検討するとの見解を発表したのに続いて、ケア・サービス大臣が介護者支援のための施策パッケージ「介護者のためのニュー・ディール」の詳細を発表した(Medical News Today2月24日)。

 主な内容は①介護者が危機に陥った際のレスパイトと緊急時対応のための短期在宅ケアに、地方自治体ごとに2500万ポンド。②介護者のための全国的な相 談電話整備に300万ポンド。③1999年の全国介護者戦略の広範な見直し。④介護者支援・教育プログラムの開発支援に500万ポンド。

 Carers UKでは、「介護者の抱える問題に対処する好機。仕事と介護の両立、必要なサービスにたどり着くための支援、介護者の健康と福祉といった難しい問題に対処するには、次の10年に向けて目に見える戦略が必要」とコメントしている。

Carers Act が保障する介護者の権利が、英国で本当の意味で形になっていくのは、これからなのかもしれない。しかし日本では、「介護者の権利」という言葉すら、まだ耳に新しい。

2010.10.15 / Top↑
NHKの「クローズアップ現代」が介護者支援の必要を取り上げた。

特に介護者法を制定して、介護者アセスメントを地方自治体に義務付け、
具体的な支援を行っている英国の介護者支援の実態を紹介してくれたのは、

私にとっては、胸が熱くなるほど嬉しい出来事だった。

これを機に、当ブログで紹介してきた海外の介護者支援情報エントリーと
私自身の体験やAshley事件から、介護支援の必要を訴えるべく
書いてきたエントリーを以下に。

「介護保険情報」の連載「世界の介護と医療の情報を読む」にこれまで書いた
介護支援関連の内容についても、「介護者支援シリーズ」として
次のエントリーから順次アップしようと思います。


【英国の介護者支援について書いたエントリー】
フレックス勤務を求める権利という子育て支援(2008/6/12)
英国の介護者週間から介護についてあれこれ(2008/6/12)
英国の新しい介護者戦略(2008/6/12)
「介護者としての私を支えて」キャンペーン(2008/7/4)
英国の介護者支援について思うこと(2008/7/4)
英国の介護者支援について(2009/3/10)
7月に英国リーズで、第5回国際介護者会議(2010/5/31)

【その他の国の介護者支援について】
「介護者の権利章典」訳を改定しました(2008/12/12/)
今日から豪介護者週間……because I care(2008/10/19)
You are only human: 介護者だって生身の人間なのだから(2008/10/30)
介護者も自分を大切にしましょう(2008/10/31)
自分の気持ちを理解して受け入れる(介護者のために)(2008/10/31)
自己主張をしましょう(介護者のために)(2008/11/1)

日本でも、ついに、
介護者の権利を守るための「ケアラーズ連盟」、6月7日に発足へ(2010/5/18)

【障害のある子どもの子育てや介護一般について考えたこと】
重症児ケアの負担と親の意識について(2008/1/6)
重症児ケアの負担と親の意識について 2(2008/1/6)
「障害児の母親」というステレオタイプも(2008/3/4)
「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)
子どものケア、何歳から「子育て」ではなく「介護」?(2008/10/18)
障害のある子の子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)

【こうあってほしい支援の在り方について考えてみたこと】
“溜め”から家族介護を考えてみる(2008/6/5)
支援サイドから「迎えに行く支援」(2008/9/5)
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 1(2008/10/1)
上手に「小さなギブアップ」ができる支援 2(2008/10/1)
子育て支援=母親支援・・・という国?(2008/6/12)
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)
「介護療養病床と新型老健で一人当たりの医療費の差が8万円」からボヤいてみる(2009/6/17)

【障害のある子どもの親のナラティブ(語り)として書いたこと】
親の知らない娘の知り合い(2008/8/6)
天保山のマジックアワーに(2008/8/29)
「私だけが鬼みたいな母なのだとばかり……」(2008/12/12)
ポニョ(2009/7/23)

【私が考えさせられた他の親・介護者のナラティブについて書いたこと】
介護を語るのは難しい(2008/4/14)
「自閉症の息子ケア、もうこれ以上耐えられないと思った日」(2008/4/30)
Cameron党首「これ以上話したくない……」(2009/2/26)
「どうぞ安心して先に行ってください(2009/3/17)

【Ashley事件との関連で介護について考えたこと】
Caplanの「希望」について 1(2007/7/21)
Caplanの「希望」について 2(2007/7/21)
Katie事件に見る「障害児の母親」のステレオタイプ(2008/3/4)
「介護者であるより母でありたい」と言い続けていたAlison Thorpe(2008/4/30)
もしもAshley父が「親の負担軽減」を言ってたら?(2008/3/9)
“A療法”には「親が抱え込め」とのメッセージ(2008/10/3)
親にはしてやれないこと(2008/4/28)
成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
親の立場から、障害学や障害者運の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)
2010.10.15 / Top↑

(前のエントリーから続く)

I think there is an argument for including all humans as persons, but I don’t necessarily think that all nonhuman animals should be excluded. My reasons for including all humans is not very philosophical, it is social and psychological. Humans are social beings. We are not that impressive as single organisms, but we can do a lot as families, organizations, nations etc. We need some set of rules for dealing with each other. I believe that a set of universal human rights is a good place to start. Whether we want to include other nonhuman animals in this is an open question for me. I would extend at least some rights to nonhuman animals, and I would not be offended if we could work out a way to treat them as equals or at least more like equals. However, treating them better or more fairly does not require sacrificing the rights of others. So, Mark, I think we are pretty close on that part. I agree that there is no argument for including all humans and thereby excluding all nonhumans. However, I do say that human rights has progressed by including more and more humans as equals, with equal moral status) and that has been a good thing. If we can extend it further to other animals that will probably be good, too, but there is no reason to turn the clock back on universal human rights in order to widen the sphere.
I fact, I think that the exclusion of people with profound intellectual disabilities will hurt the cause of animal rights for a simple but important reason. People with severe and profound disabilities differ from other groups who have previously been included in one big way, they have not been able to advocate articulately for their inclusion or negotiate their own way into the social contract. Neither can apes or other mammals. If we draw the line between humans who can negotiate their own way and those who can’t, the same line will exist for nonhuman animals. The inclusion of people with severe and profound disabilities sets a precedent that individuals can be included just because it is right and not because they can negotiate their own way in. Their exclusion sets the precedent that if human or nonhuman animals can’t articulate their arguments for inclusion, they will be excluded.

私が人間をみんな包摂しようというのは、哲学的な理由からじゃない。
社会的な理由、心理的な理由からだ。だって人は個体として何が出来るという存在じゃない。
人は家族として、社会として、国民として、関係性の中にある。

そのためのルールが必要なら、
万人に等しくあるべき人権から始めるのは良いことではないのだろうか。
より多くの人間を平等な存在として包摂する努力によって人権概念は進化してきた。
それは良いことだったのではないのだろうか。

それなら、そこにさらにnonhumanな動物(大型類人猿のこと?)を包摂すればいいのであって、
これまでの努力の時計を戻して、人を排除しなければ彼らを包摂できないわけではあるまい。



なお、Sobsey氏はここで書いたことをさらに掘り下げて、
後日、What Sorts ブログにこの問題に関して以下のエントリーを立てました。

What Sorts のSinger 批判第2弾(2008/12/22)
Sobsey氏、「知的障害者に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)


これらの内容のまとめ方についても
今こうして読み返してみると忸怩たるものはあるのですが、
2年前の私にとってはこれが精いっぱいだったのでした。

ご寛容ください。
2010.10.15 / Top↑
Kittay氏の来日を機に、What Sorts of Peopleブログでのシンガー批判をここ数日とりあげています。

哲学者エヴァ・キティ氏、11月に来日(2010/10/12)
Eva KittayとMichael Berube:障害のある子どもを持つ学者からのSigner批判(2010/10/13)

Wilson氏のポストへのコメントでの議論の論点は、
当時の私の理解では明らかに不十分ですが、一応こちらのエントリーに。

このやりとりから、Dick Sobsey氏のコメントを以下に。(ゴシックは特に個人的「そうだ!」部分)

文字数の関係で、後半部分は次のエントリーに分かれます。
読みづらくて、申し訳ありません。

December 19, 2008 at 10:50 am
I agree that rights are socially constructed and not fundamental to nature, but they are no more socially constructed than moral status.
Maybe it would be better to say nonpersons can have no personal interests. Than no interests. Some people might say that my car, which I definitely consider a nonperson, has an interest in having its oil changed, so in that sense nonpersons can be said to have interests, but I wouldn’t say it wants its oil changed.
I know that Singer would prefer to talk about moral status than rights, but the two are inseparable. Part of the problem in this issue is that Singer uses profound mental retardation as a kind of philosophical notion rather than a clear notion of what it actually is. I want to assure you, him and everyone else that lots of people with profound mental retardation do have plans and desires. They may not be plans to design a cathedral or plans to swindle billions of dollars from investors, they may only be plans for a warm bath, or eating a piece of cake. But maybe these plans are just as important to them. The notion that these things aren’t important is like saying it is okay to rob poor people because they don’t have much to lose.
Singer’s imprecision in describing people with disabilities seems to be uniformly in the direction of underestimating their lives. In the clip used here, for example, he informs people that Ashley X cannot swallow any food, but the picture on her parents website show her eating watermelon and strawberries. For Singer, not having his facts straight about whether Ashley could swallow or whether people with profound intellectual disabilities have plans is unimportant because he is only using them as abstract philosophical devices. When shown why his reasoning may not apply to one case, he just imagines another one and says, no matter where the line is drawn it will have to be drawn someplace. The philosophical concepts are more important than the individuals. For me, I know a lot about people with severe and profound disabilities, but very little about philosophy. So, we are coming from very different places.
I disagree with the notion that abortion and weighing the mother’s rights or interest against that of the fetus is relevant here. I agree that this is a situation where the rights and interests of one may have to be given priority over another. There are many other situations where these kinds of choices need to be made and I have no problem with recognizing that reality. My concern is that trying to resolve the issue by pretending that someone is a nonperson without moral status is a dishonest rationalization. If Singer wants to argue that children with profound mental retardation should be deprived of life or subjected to treatments because we don’t have the resources to meet their needs or parents have a right to do other stuff besides take care of their kids, we can have that argument… but it is a totally different argument. 


知的障害のある人たちにも、見ようともしないキミらには分からん形かもしれないが、
ちゃんと計画や望みというものがあり、

それはキミや私の計画や望みとは違うかもしれないけれど、
本人にとっては大切な計画であり望みなのだよ。

そんな人の計画や望みなど、どうせなんてことないと切って捨てるのは、
どうせ失うものが少ない人からは全部盗んでいったって構わないと言うようなものだ。

そのことが理解できないのも、Ashleyのありのままの姿が見えないのも、
キミたちが哲学の概念としての障害の方を現実の障害者よりも重要視しているからなのだよ。

(次のエントリーに続く)

2010.10.15 / Top↑
Sarah Palinはもはやティ・パーティの大統領候補一番手ではなくなった。
http://www.guardian.co.uk/world/blog/2010/oct/12/sarah-palin-tea-party-2012?CMP=EMCGT_131010&

同性愛者が堂々と従軍できるよう、米軍は「問わず語らず」の方針を廃止せよ、と連邦裁判所。
ttp://www.guardian.co.uk/world/2010/oct/12/us-judge-dont-ask-dont-tell-gay-army?CMP=EMCGT_131010&

NY州、今後の退職者の医療費に2千万ドルが必要となる見込み。
http://www.nytimes.com/2010/10/13/business/13retire.html?_r=1&th&emc=th

オーストラリア・クイーンズランド州で養子を引き受ける人が不足している。虐待を受けて親から保護される子どもが増えているため?
http://www.abc.net.au/news/stories/2010/10/13/3036833.htm

英国の大学の授業料に関する改革案の記事。英国では、大学を卒業して、年収が15000ポンドを超えると、その時点から学費を返済することになっているらしい。知らなかった。改革案は、その額を21000ポンドに引き上げると同時に、学費そのものを大学ごとに決められることにし、現在の上限額を撤廃することを提案。貧困層への学費助成策の増強も。
http://www.guardian.co.uk/education/2010/oct/12/browne-review-universities-set-fees?CMP=EMCGT_131010&
2010.10.13 / Top↑
今回、ここに引っ張ってきたKittay氏とBerube氏の発言3点は、いずれも哲学的な議論であり、
私には取りまとめるだけの背景知識がないため(しかも、正直いずれも長すぎる……)、
日本語にすることを控え、英文のまま紹介するに留めます。ご了解ください。


Eva Kittay 氏の来日講演について知ったのを機に、昨日のエントリーで紹介した、
08年9月のStony Brook大学の「認知障害:道徳哲学へのチャレンジ」カンファにおける
Singerのプレゼンに対するWhat Sorts of People におけるWilson氏の批判ポストへの
Eva Kittay氏のコメントの全文を以下に。

(ややこしくて、すみません。なんのこっちゃ?という方は
 上記昨日のエントリーをご参照ください)


December 16, 2008 at 5:55 pm

I first of all want to thank everyone at What Sorts of People for expanding the discussion of the issues raised at the Conference I and Licia Carlson organized. We organized the conference precisely to give an airing to philosophical questions that concern cognitive disabilities of different sorts and to demonstrate the deep philosophical challenges posed by the issue of cognitive disability. Creating this space allows a public engagement of these issues in a still larger forum than a conference. I expect I will frequently be tempted to join in on the discussion.

Now for a comment on Bob’s response to the Singer clip. I have long had a disagreement with Singer on many points concerning people with cognitive disabilities, but two of the points that Bob makes have been especially disturbing to me. The first is the easy slide between the kinds and levels of cognitive disability he (and others who take similar positions) make. The threshold of functioning is somewhere below “normal” ― defined sometimes by IQ, sometimes by functioning that is considered as typically human, sometimes by reference to nonhuman animals (which can run the gammet from primates to pigs to rats). Where the arguments seem to require it, we are to be thinking of human beings who are barely conscious. Yet without changing the terms of the argument, we are given examples of people whose cognitive disabilities are rather mild.

I think that two things lie behind these elisions: The first is the unstated view that anything below normal cognitive functioning is a sufficiently severe disability to make that life questionable. The second is a thick layer of ignorance about the lives and functioning of people with cognitive disabilities of any sort. In short it is never quite clear who is being talked about, in large part because Singer and others keep their philosophy insulated from these particular empirical matters.

Which leads me directly to the second point that so disturbs me. In a recent interchange with Michael Berube, Singer expressed his delight to hear about all the things that Jaime is capable of, yet he wonders if Jaime is not an anomaly. There is now so much literature out there attesting to the sorts of things people with Down’s are capable of, one has to wonder why Singer expresses any surprise about the abilities Jamie manifests. After all, cognitive disability is something Singer writes about regularly. One would assume that he keeps up with the changing understandings. At the conference I invited Singer to pay a visit to a wonderful community where my daughter (who is among the more significantly cognitively impaired individuals that Singer frequently targets) resides. (Indeed I had brought a majority of the speakers there on the morning of the first day of the conference, but Singer declined that first invitation.) He wanted to know what he might (given his argurment) learn from visiting such a place. [would it be possible to show that clip--it comes at the very beginning of the Singer Q&A.] Perhaps that is a fair enough question, but I would think that the responsible thing to do would be to jump at the opportunity to become better acquainted with the subject of one’s perennial teaching and research interest. I don’t understand the willingness to remain insulated from such knowledge, and I don’t understand why we (philosophers) tolerate this willful ignorance. We do not tolerate philosophers of science who know very little about the science they write about. Why do we tolerate ethicists talking about people they know so little about?

Eva Kittay



この中で触れられているMichael Berube氏というのは上記カンファのスピーカーの一人で、
Penn State大学の米文学の教授。本人のブログのプロフィールでは障害学も。

カンファにはダウン症の息子Jamieさんを含む一家総出で出かけ、
Singer氏のプレゼンは、Jamieさんと一緒に聞いたという。
「質問があるなら、してきたら?」とJamieさんに促されたけど
Singer氏へのQ&Aでは多くの人が殺到して発言の機会がなかった。

しかし、
重症の認知障害のある人にも道徳的地位を認めるべきだと考えるに足る
説得力ある議論は未だかつて出てきていないと主張したMcMahan氏のプレゼンでは、Q&Aで反論もした。

そして、2人のプレゼンについて、自身のブログ American Airspaceで批判を展開した。
その時のポストが以下。

Wandering back in
American Airspace, September 29, 2008
(ずいぶん長いです。当該部分は後半3分の2)


すると、思いがけないことに、数日後に彼のところにSinger自身からメールが届いた。
そして何度かメールのやり取りをしたというもの。

それについてBerube氏が書いた続報ポストが以下。
Singerへの最初の返信が掲載されています。

More on Peter Singer and Jamie Berube
American Airspace, December 1, 2008
2010.10.13 / Top↑
今日から始まる米最高裁の裁判の焦点はワクチンの安全性。Hannah Bruesewitzさんの神経障害は幼児期のワクチンによるものだとして両親が訴えているもの。1986年にできたNational Childhood Vaccine Injury Actにより、公的に認められているワクチンの副作用が起きた場合に保障を受けられる代わりに、製薬会社を相手取って訴訟を起こしにくい制約が敷かれた。この訴訟自体は自閉症とは関係がないが、現在、自閉症とワクチンとの因果関係は否定されているため、同法の補償の対象となっておらず、多くの訴訟が起こされており、影響は必至。
http://www.nytimes.com/2010/10/12/health/12vaccine.html?_r=1&th&emc=th

俳優のMichael Caineが告白した55年も前の、しかも実際に行われたかどうかも分からない父親の安楽死が、なぜ、緩和ケアがこれだけ普及した今の時代の安楽死容認論のブースとに使われるのか、とWesley Smith。10日の補遺で拾った記事の続報。
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/10/11/michael-caine-euthanasia-memory-actually-tells-hard-truths-against-prescribed-death/

豪の入所施設で知的障害のある女性3人を介護職員がレイプ。
http://www.abc.net.au/news/stories/2010/10/11/3034482.htm?site=melbourne

昨日、上のニュースにイヤ~な気分になっていたところ、今日はプロの介護者が外出に付き添った障害男性を帰りに道端に“捨てて”いった、と男性の父親が保健福祉当局に調査を要求。
http://www.abc.net.au/news/stories/2010/10/12/3036116.htm?section=justin

07年に児童保護サービスが児童虐待の疑いで調査した件数は300万件。しかし、同サービスが調査に入ること自体は、事態の改善に役立っていないことが明らかに。
http://www.nytimes.com/2010/10/12/science/12child.html?th&emc=th

2人の経済学者による米英その他ヨーロッパの11カ国での調査で、早く退職するとそれだけ早く記憶も鈍くなる、と。その結果が論議を呼んでいる。
http://www.nytimes.com/2010/10/12/science/12retire.html?th&emc=th

インターネットを介して繁盛している消費者直結(DTC)の遺伝子診断に、監督責任者や規制の問題。:これは私がインターネットで英語ニュースをチェックし始めた06年辺りから既に言われていたことなのだけど、今だに同じことが言われている。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/204141.php

オーストラリアのメンタル・ヘルス・ウィーク2010。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/204175.php

ブーマーズの高齢化は国家予算を崩壊させる、とWSJのレポート。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/204123.php

WA州Olymia郡の保健福祉局、予算のバランスとるため高齢者サービスを4千万ドルカット。
http://www.kxly.com/news/25360379/detail.html

中年女性が国家の介護要因として扱われ、収入も仕事の展望も健康も失って苦しんでいる。(英)
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1319423/Plight-middle-aged-women-act-carers.html?ito=feeds-newsxml

比率から言うと、米国の黒人よりもイングランドとウェールズの黒人の方がより多く収監されている。英国は果たして公正な国なのか?
http://www.guardian.co.uk/society/2010/oct/11/black-prison-population-increase-england?CMP=EMCGT_121010&

地球温暖化で、資源を求め、アフリカを舞台に新たな冷戦の危険性。
http://www.guardian.co.uk/environment/2010/oct/11/nato-conflict-arctic-resources?CMP=EMCGT_121010&

男女平等度、日本は94位。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101012-00000059-jij-int
2010.10.12 / Top↑
哲学者のEva Kittay氏が来日するそうだ。
11月10日に京都で、12,13日に東京で講演が予定されているとのこと。

詳細はこちら

著書は以下。私はつい最近知って読まなければと思いつつ、まだ読めていません。

愛の労働あるいは依存とケアの正義論
エヴァ・フェダー・キティ著 岡野八大、牟田和恵訳 白澤社 2010


当ブログでは、Kittay氏については、
08年にStony Brook 大学(Kittay所属先)で開催されたカンファ
「認知障害:独特哲学へのチャレンジ」を企画し、
敢えてピーター・シンガーを招いた人として知りました。

以下のエントリーで触れています。

認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判(2008/12/17)

なお、Kittay氏自身、知的障害のある娘さんがあります。

このカンファでのSingerの発言に対する、
アルベルタ大のWilson氏によるWhat Sorts of Peopleでの批判を
上記エントリーで紹介していますが、
そのWilson氏のエントリーに
Kittay氏がコメントを寄せています。

その中で
「Singerに限らず、
現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して
知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは
現実の障害に関して呆れるほど無知である」と指摘し、

無知だからこそ、こういう場に来て学んでほしかったのだと
わざわざ招いた意図を説明しています。

あくまでも抽象的な議論で「重症障害児・者」や安楽死を云々する学者さんたちの
実際の障害についての無知・認識不足については私も同じことを何度も書いていますが、
特に先日の安楽死シンポの後でも、また全く同じ印象を受け、
先日こちらのエントリーを書きました。

もう1つ、特筆すべきこととして、Kittay氏は
シアトルこども病院Truman Katz生命倫理センターが組織した
成長抑制ワーキング・グループのメンバーでした。
2010.10.12 / Top↑
アルツハイマー病の実験的なワクチンが出来た。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/204078.php

英国の財政改革で障害者福祉予算を2015年までに90億ポンド削減。350万人もの障害者が手当てを受給できなくなる見込み。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-11500161
http://www.google.com/hostednews/ukpress/article/ALeqM5haDHEJJ_LtG3AgI9xYQa-eC7RiSw?docId=N0165031286538459288A

オスカー俳優のMichael Caine卿が医師に頼んで父親を安楽死してもらったことを告白。新作映画The Elephantのプロモ中のハリウッドで。
http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1318946/Sir-Michael-Caine-reveals-asked-doctors-help-cancer-stricken-father-die.html?ito=feeds-newsxml

バチカンの幹部がIVF技術でのEdwards博士のノーベル賞を批判。
http://www.bbc.co.uk/news/health-11472753

筋ジスの遺伝子治療で初の治験開始。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203792.php
2010.10.10 / Top↑
オーストラリアのノーザンテリトリーで1996年7月に安楽死法
The Rights of the Terminally Ill Actが施行され、その1年後に
連邦政府によって無効となったことは、良く知られていますが、

その1年間の同法の影響を研究した緩和ケアの専門医 Mark Boughey医師が
現在、合法化の審議が進行中のカナダ、ケベック州の医師らに向け、
やめておいた方がいい、と呼びかけた。

その1年間に、ノーザンテリトリーから緩和ケア医が大量に去り、

また文化的価値観から安楽死を信じないアボリジニーの多くが医療への不信を募らせたことで
子どものワクチン接種率が落ちこんだとのこと。

Oregon州では、患者に対して安楽死を選択するように誘導が行われている、とも。

Doctor warns against legalizing euthanasia – Experiment failed in Australia
The Gazette, October 8, 2010


そのノーザンテリトリーの安楽死法で
世界で初めて致死薬の注射で患者を死なせたのが、あのDr. Nitschke。

最近は世界中で合法化アドボケイトとして活躍していて、
先頃も米国版Dignitasを作ると息巻いた。
批判ごうごう浴びたら、すぐ引っ込めたけれど。


ケベックの議論では、この前もWA州の弁護士さんが
WA州の尊厳死法でセーフガードが機能していないから、やめておけと
呼びかけていました。

このところセーフガードが機能していないとか、合法化で緩和ケアが崩壊するという話が
先行国や地域から、ゆるゆると出はじめていますね。



【ケベック州関連エントリー】
カナダ・ケベック州医師会が自殺幇助合法化を提言(2009/7/17)
カナダ議会、自殺幇助合法化法案を否決(2010/4/22)
スコットランド、加・ケベック州で自殺幇助について意見聴取(2010/9/8)
2010.10.08 / Top↑
重症障害を持って生まれた娘を養子に出した母親の語り。(英)

子どもが号泣を続けるのに疲れ果て、苦しみ続ける娘にもどうして良いか分からず、夫婦関係も悪化して、ウツ病になった女性が、夜中にこのまま窒息させて殺してしまおうかと何度も考えたと告白。ソーシャル・サービスに訴えても介護支援は受けられず、もう育てていく自信がないとすがりついたら(勇気がある! えらい!)、ソーシャルワーカーがクリスチャンで養母になってくれるという女性を連れてきたという。夫婦で悩んだあげく、その女性の元に養子に出すことに。その後、親としての責任(親権とは書いてないのが?)を回復し、娘は今もその女性に育てられているものの、娘の洋服や日用品を買ったり受診や幼稚園の参観日などには一緒に行くなど、「母親が2人」状態で暮らしている。娘の養育費は養子制度(foster care)つまり行政から。夫婦仲を修復し、荒んでいたもう一人の子どものケアもしているところ。

これを告白したら、子どもを手放したことに非難ごうごうだったらしい。でも、抱え込んだあげくに殺したり一緒に死ぬより、はるかにいいと思う。在宅での支援が受けられないというのがサイテ―だし、できれば中間の解決策があってほしいけど、反面、「もうダメ、育てられない」とすがっていったら、foster careにつなげられるというのも、すごいと言えばすごい(良し悪しはともかく)。それでも親子関係が柔軟に続けられるのも、いい。それでお母さんが立ち直って、そのうちに引き取れるなら、それもまたいいと思うし。「これでないとダメ」というんじゃなしに、ゆるゆると様子を見ながら、でいいじゃない、と思う。どうにも苦しい、もうダメという時って、本当にある。そういう時の緊急避難的なレスパイトが、いろいろ長短形態とも柔軟にあるのが一番いいのだけど。

この人の体験は、ウチの娘の幼児期とそっくりで、身につまされた。けいれんの治療が始まって、やっと人間の生活らしいものが始まるまで、1年かかった。私の人生で最も苦しかった1年間の一つ。あの最中に「自己決定で死んでもいいよ」と言われたら、「殺してください」と即答していたと思う。あの当時、置いていけるとも思えないから、娘の慈悲殺も望んだだろうな。でも、治療が始まったら、家族みんな気持ちが違って、過剰なくらい前向きになれた。状況も人も気持ちも変る。この英国の一家も、時間と共に変る。子どもの幸せな暮らしを守りつつ、ゆっくり待ってあげられるといいですね。

http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1318389/I-nearly-smothered-disabled-daughter.html


英国NHSで処方対象となっていなかったアリセプトなどアルツハイマー病の進行を遅らせる薬が3年間のバトルを経て、やっと認められることになった。:以前、「介護保険情報」の連載で、このバトルを取り上げたことがある。よかった。ケアホームの認知症患者には抗精神病薬の過剰投与が問題になっている一方で、こういうことが起こっていることの不思議をつくづく思う。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/oct/06/alzheimers-drugs-nhs-government?CMP=EMCGT_071010&

高齢期ウツはなぜ医師にみのがされやすいのか。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203606.php

英国の移民制限は、科学の国際競争力を減退させる、と英国のこれまでのノーベル賞受賞者らが警告。:日本の受賞者の先生方が、公費での研究、労働力は学生だったのだし……などとおっしゃって、特許を取っておられなかったこと、それをまた力むことなく語られることで、あることを静かにきちっと訴えておられる姿に、高い倫理観と人間としての品性を感じました。聞いたか、ヴェンター?
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/oct/07/nobel-laureates-immigration-cap?CMP=EMCGT_071010&

米国で高額所得の女性が増えている。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/06/AR2010100607229.html?wpisrc=nl_cuzhead


どこかで誰かが触れていたのが気になって井上靖の「化石」を読んだ。昭和40年から41年の約1年間朝日新聞で連載されていた古い作品。告知しないのが常識だった時代に、ひょんなことから自分が癌で余命1年だと知ってしまった壮年男性が、そこから約半年間、自分の死と向き合う心のありようを克明に描こうとする力作。なかなか良かった。

「ほお~」と思ったのは、「100年後には癌は完全制圧されて、世界から癌患者は1人もいなくなっている」と、それが確定した未来像として皆に共有されていること。100年後に開けるタイムカプセルみたいなところに、現在の癌に関する統計資料を入れるエピソードが出てくるのだけど、癌の専門医も世の中一般の人も「100年後には癌患者という存在は消え失せているから、癌から解放された未来の幸福な人たちが、昔の日本人は癌という病気にこんなに苦しんでいたのだと知るよすがに」としゃべりあっている。ざっと60年前には、そんなふうに信じられていたんだなぁ……と思うと、THな人たちが今いろいろ描いているハッピーな未来像と重なって、いろいろ考えるところがあった。THな人たちが癌で余命1年の宣告を受けた場合に、「化石」の主人公のような苦悩の仕方をするだろうか、ということとか。
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/inoue_yasu-kaseki.html
2010.10.08 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)

② 食べ物として誰かのために誰も死ななくても良い世界は

これも、誰も動物を食べないことにしましょう、と決めることで実現できる。
人間がいっさい動物を食べてはいけない世界を作って種差別を解消しようと
主張することは可能なはず。

皆で合意して、種差別をしないために
世界中みんな納豆や豆腐を食べましょう、というなら、
私は、まぁ、それでもいいよ。

でも、それはできんわ、ということで
食べ物として誰かのために誰かが死ななければならない世界を前提に
その世界において、人間は特別ではないとしたら、どうなるのだろう?

上の実験動物での論理を、この問いにそっくり当てはめて、
予測されているように人類の将来に深刻な食糧不足が訪れた時には、
人間と動物が生きるために、一部の人間は人間にも動物にも食べられてもよい、と
主張しなければならないことになるのでは?

じゃぁ、シンガーは
「中絶胎児や障害新生児や脳死者を食べましょう」と
その場合には言うのだろうか? 

「ゴリラにも食べてもらいましょう」って?

そう言わないと一貫性がないことになると思うんだけど
ただ、そうすると、イワシはイワシを食べない、
ライオンはライオンを食べない、けど、
人間は人間を食べることになって、やっぱり人間が特別になってしまう?

……てなことを考えて

「われわれはこうして豚を殺して食べているが、
なぜ人間にはそれが許されているのか、なぜ人間は特別なのか」という問いに対して、
「特別でないとすると、人間の角煮を食べなければならないことになるから。
それは、私は嫌だから」と答えるのは?  ダメダメ?

まぁ、誰も私に問うたわけではないし、
立岩先生が「よい読み手ではないから」というなら
私は「もともと何も知らない、ただの素人だから」と言うしかないから、
最初から無知なオバサンのザレ言なんだけど。


ザレ言ついでに、もう1つ、ここまで書きながら考えたこと。

我々が素ッ裸の未開の人間として、動物と一緒にサバンナのど真ん中で(関東平野でもいいけど)
これから何らかのシステムを1から作り上げようとしているのならともかく、

既に複雑・高度に出来上がってしまった社会システムの中に、
人間も動物も囚われてしまっていて、我々がその中で生きている現実は変えられないのに、

我々を取り囲むそういう世界とか社会システムとは無縁に、その問いが
ただ抽象的な種としての人間と抽象的な種としての動物について問えるものなんだろうか。

種差別を解消するために我々にできることがあるとしたら、それは、せいぜい
我々の社会システムが人間だけに都合のよいように出来上がっているのは事実だから、
人間だけに都合よくできているそのシステムを、
動物にも都合のよいシステムへと修正することくらいじゃないんだろうか。

人間を特別だとする前提で出来上がっている社会システムから
誰も逃れることなどできないのに、あたかも、そこから逃れ出ることができたり、
人間と動物がそういう環境とは無縁に存在できるかのようなフリをして
人間は特別ではないと主張することで、

そこから導き出される結論が、
だからシステムを見直して、動物にも生きやすい社会システムに、という方向に向かうのではなく
だから一部の人間だけをそのシステムから(特にその一部である医療から)弾き出そうという方向に
向かっていくというのは、やっぱり、どこかが、おかしくない?

それ、ゲイツ財団の私設WHOと言われるIHMEが
「健康で5年生きる」のと「重症障害を負って15年生きる」のとどっちがいい?って、
本当は誰にも選べないことを、あたかも選べるかのようなフリをして問うて、
その答えを何らかの施策を正当化する論拠に使おうとするのと
どこか似通ったマヤカシがあるような気がする。

ちがうかなぁ。
これ、けっこう、健全なフツー人の感覚だと思うんだけどなぁ。
2010.10.07 / Top↑
(前のエントリーの続き)

① 実験動物として誰も殺されなくてもよい世界なら、

実験をやめることでできる。
そのかわり科学とテクノの進歩も止まる。
でも、それはそれでいい、そういう世界にしよう、それで種差別を回避しようと
主張することは論理的には可能。

(コンピューター上にマウスや人間のDNAを再現して、
それで動物実験を減らすという話も聞くけど、
それが実際に生体での実験と同じであるという保証もない。)

一方、誰かがどうしても実験のために死ななければならない世界を前提にして、
人間はなんら特別ではなく動物と違わないと決め種差別を禁じるとしたら、
マウスやチンパンジーの代わりに人間が実験に供されてもよいと認めることになる。

実際、植物状態の人を人間のブリーディング・タンクとして使おうと提案した倫理学者はいるし、
胚や中絶胎児は既に実験に供されている。

種差別を否定して人間も動物も一緒だとしたうえで、
知的機能や意識のあり方による序列を設けるという
シンガーやトランスヒューマニストの考え方でいけば、

(無知でスミマセン。私の知識はほとんどA事件つながりなので、
クーゼなんて人は名前すら知らず、センティエントがどうだこうだと言うのが大好きな
TH二ストさんたちの方がSingerに近い感じになってしまうので。)

頭の良いチンパンジーの“パンくん”や、その仲間を実験に使うよりも
脳死者、中絶胎児(なるべく生かして?)、障害新生児、
植物状態や最小意識状態の人、重症障害児・者、認知症患者の方を使いましょう、と
主張されることになる。

もともと人間のための研究を行うには人間で実験できるのが理想的なわけだし。
それだけ殺される動物も減る。

(で、すべての研究が人間のために行われるのは種差別ではない?)

シンガーは「脳死者を実験利用しよう」と、なぜ言わないんだろう?

(私はモノを知らないので、もし言っていたら、スミマセンが教えてください。)

この問題に限らないけど、
ある主張をもっともらしく見せるために
都合の悪いことは見えないままに止め置いて
都合のよいことだけを引っ張ってきてみせるという芸当を
たいていの人間よりもはるかに頭が切れて弁の立つ人間がやってみせれば、

たいていの人は、その人のペースに飲まれ、
ただ、相手がいうことについていってしまう。

すると、ないものは、それがないこと自体が見えにくくなって、

そこには、ないものがあるということも、
なぜ、それがないのか、ということも、気付かれないスル―状態になる。

(これは、Ashley事件で Diekema が散々使ったヤリクチ)

よく知りもしないことでも、権威をカサに着て堂々と語れば
世の中の人はたいてい、その人は知って言っているのだと思いこむのと同じように。

(長くてスミマセン。さらに次のエントリーに続きます。次で終わり)
2010.10.07 / Top↑
以下、立命館大学の立岩真也氏のつい最近の文章。

http://www.arsvi.com/ts2000/20100038.htm

実は、たまたま、この場に居合わせて、このやりとりを聞いてしまった。

江口氏が目の前の豚の角煮を指差して、
「人間はホラ、こうして豚を食べる。では、なぜ人間は豚を殺して食べてもいいのか。
人間を動物とは違う特別な存在にする根拠は何か?」と迫り、

Singerの考えは部分的には支持できるという立場の堀田義太郎氏が
基本的にシンガーが考えていることというのは、
(動物・人間含めて)殺されるものを総体としては減らし
生きられるものを増やそうと意図したものだと補足解説をし、

立岩氏が、どこかで既に書いた答えとして
とりあえず「人間は人間から生まれるから」としておこうと回答し、
トートロジーにならない答えはあるのだろうか……などと
いろいろ、やり取りが続く中で、

じゃぁ、黒人は黒人から生まれ白人は白人から生まれるんだから
黒人と白人の違いは、人間と豚の違いと同じなのか違うのか、と江口氏が畳みかけ、

そこで有馬斉という若手の研究者氏が、
ちょっとすごい(と私は思った)ことを思いつき、
黒人と白人は性交してハーフが生まれるが、
人間と豚は性交してもハーフは生まれないから
黒人と白人の違いは、人間と豚の違いとは違うんではないか、とか

あ、でも今ならキメラ胚とかできるけど(これは堀田氏)とかなんとか

正直、なにそれワケわかんないからどーでもいいわアタシ状態だったけど、
そんなものを、よく分からないままであれなんであれ、ともかく聞いてしまった。
その場でもその後にも自分で考えるつもりは毛頭なかったのだけれど、
なぜだろう、なぜか、今日ふと、頭に浮かんでしまった。

人間は人間を食べないから……?

でも、それを言ったらサルだってサルを食べない。
イワシもイワシ同士は食べない。たぶん
ライオンもライオン同士、食べないんじゃないかな。たぶん。

それなら、ライオンから見れば、
ライオン以外の動物は人間も含めて食べ物だけど、
ライオンだけは食べ物ではないという意味で
ライオンにとっては人間なんか特別でも何でもなくてライオンだけが特別なわけだから、

人間は人間を食べないから、
人間にとっては人間が特別だ、というのでは……?

これは、ただ、江口先生が何度も豚の角煮を指差した手つきからの
単純な連想にすぎないのだけど、いったん頭に浮かんでしまったら、
そこから、あれこれ金魚のウンチ的に連想が働いて、

人間は特別で動物とは違うのか、と問う時は、
それは誰かのために誰も死ななくてもよい世界も認める前提に立って問うのと、
どうしても誰かのために誰かが殺されなければならない世界を前提に問うのとでは
話が違うんでは……?

だって、人間は特別じゃない、動物と違わないと主張することで
殺されるものを総体としてより少なく、生きられるものをより多くしようというなら、
いっそ人間も動物も誰も殺されないでいいことにすればいいだけでは……?
(これは、実はあの酒の席で、ちょろっと頭に浮かんだこと。すぐ消えたけど)

で、誰かが誰かのために殺されなければならない理由を、
「実験動物として」と「食物として」と2つ考えてみた。

(次のエントリーに続く)
2010.10.07 / Top↑
介護施設入所者の権利週間。入所者は食事を選べる権利がある。自分たちの生活に関する意思決定プロセスに参加する権利がある。:いいなぁ、これ。
http://www.chicagotribune.com/news/chi-ap-il-residentrights,0,7036678.story
http://www.semissourian.com/story/1669449.html

また。Ashley事件の怪現象。10月6日付で、今度は癌治療サイト。やっぱり科学とテクノ系。いつものAP記事。コメントまで、いつかの使いまわし。一体だれがやらせてるんだ……? って、あの人しか、いないか。
http://acancercure.net/how-will-the-following-hender-the-normal-development-of-ashley.html

スコットランドの自殺幇助合法化審議に、いよいよ法案提出者のMargo MacDonald議員が登場。とりあえずは、合法化された場合に死者がどれだけ出るか人数の見積もりで論議に。米国OR週のデータに基づいて年間50人くらいと主張するM議員に、反対派のMathson議員が「あなたの法案はオランダ式だから、年間1000人くらい出るはず」と。そしたら「最近は緩和ケアが充実しているから、それほどにならない」とM議員。:オランダでは合法化で緩和ケアが崩壊したって話もあるけど。
http://www.thesun.co.uk/scotsol/homepage/news/3167077/Suicide-Bill-death-toll-clash.html
http://www.heraldscotland.com/news/politics/assisted-suicide-numbers-disputed-1.1059625

Mayorクリニックが終末期医療の倫理的意思決定ガイドラインを出した。医療の差し控えと中止と、安楽ケアとの区別を明瞭にするなど。以下から原文へのリンクあり。読んでいませんが、セデーションは、手の施しようがない、耐え難い苦痛がある時にはOKとしているみたい。:耐え難い苦痛がある時にはOKというのは、多くの人が一致するところだと思うけど、その「手の施しようがない」と「耐え難い」の中身とか背景が、あれこれなんだろうとも思うし。
http://www.sciencecodex.com/mayo_clinic_review_of_ethical_decision_making_with_endoflife_care

カナダの終末期医療を改善するには、心理的サポート、スピリチュアル・ケアがもっと必要。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203460.php

ES細胞研究への公的助成が裁判沙汰になって、職が危うくなっている科学者が沢山。
http://www.nytimes.com/2010/10/06/science/06stem.html?th&emc=th

上記の問題で、NYTはこの前も、判決出るまで助成続行を認めた裁判官に「よくやった」と拍手を送ったけど、「世論誘導しているNYTの記事は事実誤認だらけだ、何も分かっとらん!」と怒っているWesley Smith.
http://www.firstthings.com/blogs/secondhandsmoke/2010/10/06/new-york-times-clueless-about-embryonic-stem-cell-state-of-play/

医療マリファナが解禁されたコロラド、カリフォルニア、モンタナなどで、さっそく新聞に広告バンバン打たれて、ビジネスが隆盛。:モンタナ、カリフォルニアといえば、自殺幇助合法化に熱心な州が並んでるなぁ……。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/business/media/05pot.html?th&emc=th

数か月ごとに「夢の新薬」が華々しく登場するけど、実際にその名の通りになる薬は滅多にない。でも創薬は、美味しいビジネス。:この前、本屋でこの問題を取り上げている新書をざっと立ち読みしたら、この分野も、この先は新薬開発もそうそう望めないところまで成熟してしまったので、今後は「頭のよくなる薬」「不老長寿」てな方向(つまりトンデモヒューマンの方向ですね)に向かわざるを得ないだろう、と書いてあった。私たちの健康や夢の未来の話の顔つきしていることの中には、やっぱ単なるビジネスの話が沢山紛れ込んでいるんだろうな……と、改めて。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/health/05insulin.html?th&emc=th

見たことのある名前だと思ったら、ノーベル賞をとったのは、あのルイーズちゃんの体外受精を可能にしたドクターだったのね。いかにして体外受精技術がメインストリームとなったか、というNYTのOp-Ed。読んでませんが、冒頭のところに「この受賞で、体外受精技術だって登場した時には倫理にもとる恐ろしい技術だと、散々叩かれたんだぞ」という声が勢いづくんだろうなぁ……と感じる一文があった。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/opinion/05Henig.html?th&emc=th

理学療法の守備範囲に、子供の肥満予防が入ってきたみたい。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203382.php

妊娠中の女性がインフルエンザの予防接種を受けると、生まれてくる子どもがかかる確率が下がる。特に最初の半年。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203575.php

アンゴラでポリオが流行。WHOが世界への広がりを懸念。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203330.php

10月15日は「世界手洗いディ」。みんなで病気予防のため、手を洗いましょう。:これ、なんか、いいな。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203495.php

アフガニスタンで手慰みに民間人を殺した米兵の裁判。
http://www.nytimes.com/2010/10/05/world/asia/05afghan.html?_r=1&th&emc=th

英国議会で子ども手当削減を巡っての攻防。:障害者手当20%カットには、それほどの攻防はなかったような気がしたんだけど、まぁ、その頃の記事を見逃して読んでいないから分からないけど。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/oct/05/child-benefit-cuts-cameron-osborne?CMP=EMCGT_051010&

上記問題でキャメロン首相「マニフェストに書いてなくて、ごめん」。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/oct/05/david-cameron-child-benefit-cut?CMP=EMCGT_061010&

米国の調査で、10代の子どもたちの方が大人よりも、よほど責任感を持ってコンドームを使っているらしい。
http://www.nytimes.com/2010/10/04/health/04sex.html
2010.10.06 / Top↑
双極性障害や統合失調症の治療でも
子どもへの抗精神病薬はリスクが大きいというのに、
米国のいくつかの州では、青少年拘留施設で
単なる気分障害や攻撃的な行動の抑制に使われていることが
YouthTodayの調査で明らかに。

Connecticut, Louisiana, NY, Texas, West Virginia州の青少年収監施設での
処方の7割は、FDAが認可している双極性障害でも統合失調症でもなかった。

(医師の判断による適用外処方そのものが認められていないわけではありません)

YouthTodayの調査に対して、
きちんと監督していることを示すことが出来ない州がほとんどで、
問い合わせに答えなかった34州の内16州は回答を拒否。

In Some States, Incarcerated Kids Get Drugged to Alter Behavior, Despite Risks
The ProPublica Blog, October 5, 2010


上記の内容の後、記事は、いわゆる第二世代の抗精神病薬の副作用と
製薬会社の違法マーケッティング問題に触れ、

その後、
当ブログでも去年取り上げた
民間保険の患者に比べて低所得家庭の子どもたちは
カウンセリングよりも安上がりな薬をあてがわれる確率が4倍も高い
という話で締めくくられているので、

後半部分は、
そこに製薬会社のマーケッティング戦略が
関与しているとでも匂わせているのかも。

が、この記事の大問題は、やっぱり、冒頭部分でしょう。
要するに、管理目的の投薬の可能性が示唆されているということでは?

しかも行政も見て見ぬフリで――?

それとも、
処方のうち7割がFDA認可の適用疾病治療ではなかったというのはともかく、
もともと自分では対処しきれない環境で生きていた子どもたちも多いだろうから、
それをカウントしても処方数が子どもの総数に対して異様に多いとか、
そういうこともあるのかどうか、そういうことまで、分からないと何とも言えない――?

そこのところ、ちょっと保留にしつつも、
かなり気になるニュース。
2010.10.06 / Top↑
安楽死に関する某シンポについて4日のエントリーで、
病院での医療という限定された議論になることへの懸念について書き、
その中で、当日会場からあった、緩和ケアと在宅医療の医師の方の発言に触れました。

その後、エントリーを読んでくださった、その方からご連絡をいただき、
胃ろうやセデーションを巡って、余りにも多くの事実が知られないまま
安楽死が議論されているのではないかと、いろいろ教えていただきました。

大変貴重な情報なので、お願いして、以下に紹介させていただくことにしました。

快く掲載を了解してくださったばかりでなく、
わざわざ書き直してくださったY先生、ありがとうございました。


① 少なくとも自分の目に触れる範囲では、誤嚥で肺炎を繰り返す人などその時点ではやむを得ない理由があることがほとんど。経口摂取できない人に安易に造設されている、という前提に基づいて胃瘻について否定的に語られることがある。その前提には誇張があると思う。

② 認知症の人が最終的に食べられなくなった(嚥下反射が消失する段階)ときの胃瘻造設については議論がある。胃瘻にはリスクを伴うし胃瘻を行わないで皮下輸液という選択肢もある。胃瘻の場合は半年程度の「延命」になると考えられている。それは無意味な延命と言えるのか?「現場」にいる者としては必ずしもそうとは言えないと感じている。

物も言わず「何も分からない」ように見える認知症の最終ステージでも喜怒哀楽のような表出がない訳ではない。もしかしたら勝手な思いこみかと思いつつも介護者(ときに我々)はそれを感じている。その人の生を無意味だなどとは私にはとても言えない。(もちろんこれは、何の表出もない人の生は無意味と言っているのではない。)

③「胃瘻でいつまでも生きる」と取れる発言が複数のシンポジストからあったがそれは誤解である。ALSやパーキンソン病のような特に嚥下が障害される場合は確かに相当長く生きることができる。その場合の議論はALSの人工呼吸器の場合と同じ。おそらく胃瘻のネガティブなイメージはそこではなく認知症の場合だろう。だとすると(残念ながら?)「いつまでも生きる」ということはない。

④耐え難い苦痛に対するセデーションについて、緩和医療学会ガイドライン作成に携わったS氏などが論じていた。しかし、次の点はどうだろう。

病棟(緩和ケア病棟も含めて)では確かに無視できない問題ではあるものの、実は在宅ではそれが必要なことはめったにない。せん妄のコントロールに難渋することもめったにない。在宅医療に携わる者はたいてい知っているが、病院の医師やスタッフには不思議と知られていない。

セデーションについて、特にその尊厳死との異同を論じるのはそれはそれでよい。しかし、そもそもそれはなくすことのできるものかもしれない。その方向での努力が何より必要なのではないか。

⑤ 尊厳死協会の人たちが終末期について言うとき、「6ヶ月」という区切りがよく持ち出される。そもそも終末期が「6ヶ月」というのは、アメリカでホスピスケアの対象になる、という制度的な線引きの側面がある。改めて「6ヶ月」が特権的である理由を問い返したい。

そもそも「予後が6ヶ月」の予測ができるか、という疑問もある。「予後N(年、月)」と言われる場合は通常は中央値であるが、6ヶ月の場合は分散が大きい。2年以上の長期生存者までを含むことはあるが、それを終末期と言えるだろうか。

しかもがんの場合は最後の1ヶ月までは自立して日常生活を送れる人が多い。仕事を続けている人も珍しくない。世間の終末期のイメージとは異なるのではないだろうか。

ほぼ正確に予後予測ができ、世間の終末期のイメージに近いことをもって終末期と言うとすれば、「予後数日」特に「予後48時間以内」。(手足のチアノーゼや「死前喘鳴」と言われる症状が現れる)である。

⑥ 仮に「死ぬのを止められない」すなわち自殺をやむを得ないことと認めざるを得ない場合が仮にあるとしよう。しかしそのことと積極的に安楽死させることとは全然違うことだ。にもかかわらず、混同されて議論されることに危惧を覚える。特に医師は、自らが関与する可能性がある以上そこを区別せずに語ってはならない。

2010.10.06 / Top↑
注:こちらはミラーブログなので、現時点で、この書庫は出来ていません。そのうちに作業をしようとは思いますが、それまでは恐れ入りますが元ブログの方にお越しいただけると幸いです。


“Ashley療法”論争の始まりから4年になろうとしています。
(Gunther&Diekema論文が発表されたのは06年秋のことでした)

この度、
これまで「ステレオタイプという壁」という書庫に入れてきた記事の中から
特にAshleyとほぼ同じ障害像を持つウチの娘について書いたエントリーを抜き出し、
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫を新設しました。(上から二番目です)

ウチの娘(このブログではミュウと呼んでいます)が
いったいどういう人として、そこに生きて在るのか、
その姿をなるべくありのままに描き伝えたいと願いつつ書いたエントリーです。

重症重複障害児・者は数も少なく、
また外に出かけることも大変なために
なかなか世間一般の人の目に触れることが少なく、

また触れる機会があったとしても、外見からくるイメージが先行して
ありのままの姿を理解するには相当な時間をかけて直接ケアし付き合うしかないこともあって、

彼らが本当はどういう人たちなのか、
直接体験をお持ちでない方が大半だと思います。

Ashley事件について考えてくださる方に、
Ashleyのような重症重複障害児って、本当はどんな子? という
なるべく生き生きとしたイメージを持っていただけるように、
これからもウチの娘や、これまで私が接してきた重症児・者の
ただ「自己意識」とか「知能」とか「発達」という言葉では捉えきれない姿を
できるかぎり描いて行きたいと思っています。

あらかじめお断りしておきますが、ウチの娘は言葉という表現手段を持ちません。
この書庫でのやり取りは、すべて非常にカラフルな音声のバリエーションと
アバウトな指差し、目つき、顔全体の表情、全身の表現力を通して行われるコミュニケーションです。

筆力・表現力の未熟から
娘のキャラや、その微妙なニュアンスをうまく描き伝えることがなかなか難しいのですが、
重症児の親の両義的・重層的な思いと共に(こちらは「子育て・介護・医療の書庫」に)、
私なりに伝える努力を続けていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

(なお、宣伝めいて恐縮ですが、ゲストブックに挙げている拙著にも
娘の姿を描いていますので、読んでいただければ幸いです)

                ――――――

Ashley事件について考えてくださる方、特に学者の方に
これを機にお願いしたいことがあります。

1つは、
少なくとも最低限の基本的な資料を読み、
基本的な事実関係だけは把握したうえで
この事件を語っていただけないでしょうか、ということです。

私が「最低限の基本的な資料」と考えるのは
上記の主治医らの論文(2006)とAshleyの親のブログ。

できればWPASの調査報告書と批判的な論考・論文のいくつかも。
(トップページに、不十分ですが関連リンク一覧を作ってあります)

私が「基本的な事実関係」と考えるのは以下の3点です。

・何が行われたのか
・どういう理由・目的で行われたのか
・どういう障害像の子どもに行われたのか

当ブログにも「事実関係の整理」という書庫があり、
そこに一定の整理はしていますが、
それらはあくまでも07年当初に書いた時点での私の理解です。
細部には、現在の私の考えとは違っているものも含まれています。

ご自身で実際にこの2つの作業をされてみると、
この事件では、たったこれだけの事実関係を把握することが
いかに困難かがよく分かります。

その困難さに、
この事件の本質が隠されていますが、
それはまた別の問題かもしれません。

もしも、さらりと疑問も矛盾も感じずに資料が読め、
簡単に事実関係が把握できたと感じられる方は
もう一度、資料を熟読されることをお勧めします。

2つ目は、
上記の事実関係の内「どういう障害像の子どもに行われたのか」という点について、
「自分はAshleyのような重症心身障害児を(について)知っているか」と
まず自問してみていただけないでしょうか。

Ashleyの障害に対するGunther、Diekema、Ashley父の捉え方は
後に登場するFostと共、極端に偏向したものです。

しかし、重症心身障害児と関わったことはおろか見たことすらない方には
それを相対化して判断するだけの情報がないのだと思います。

また彼らの捉え方が世間の多くの人の重症児ステレオタイプと合致してもいるだけに
彼らの偏向した捉え方を疑うことなく受け入れ、観念としての「重症児」について
「重症児のQOL」「重症児の利益」「重症児の幸福」を云々しつつ
「Ashley療法は是か非か」を議論される方が多いのでしょう。

これは、A事件について批判的に論じられる方でも同じです。
「たとえAshleyに意識がないとしても倫理的ではない」と論じることも可能ですし、
実際にそう言われた方もあります。

私はAshleyに意識がないならやってもいいと論じるつもりはありませんが
Ashley事件の事実認識としては、それはあくまで誤認なのです。

07年の論争時から今に至るまで、国籍を問わず、アシュリーの障害像については
一般人の中にも単なる思い込みやステレオタイプでこの事件を語る人は多いですが、
そういう人と違って、学者の方の場合、発言には影響力があります。

Ashley事件を語ろうとする方、
少なくとも学者として発言しようとされる方は、その前に、
重症重複障害児について自分はどこまで直接的に知っているか、と
それぞれに自問していただけないでしょうか。

もしも「まったく知らない」「良く知らない」という答えであれば、知る努力を、
なるべくなら「情報として知る」のではなく「ご自身の直接体験として知る」努力を、
払っていただけると嬉しいです。

もちろん、それは、時間と労力のかかる、大変なことです。

ウチの娘はAshleyとほぼ同じ障害像の持ち主です。
親である私は、そんな娘の障害に対して、
Ashleyの父親とは全く違う捉え方をしてきました。

(あちら超リッチ。こちらビンボーという意味でも全く違います)

せめて、そんな親の目に映った娘の姿を
「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫で読んでいただけると
私にはとても嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。



ここから先は、分かる人にだけ分かる余分です。

Peter Singerは障害と障害児・者の現実について、あまりにも無知過ぎると思います。
一般に、自分が知らないことについて人は語ることを控えるものですが
一部の学者さんたちには、自分が知的に他より優越していることをもって
よく知らないことについても自分には語る資格が付与されていると
勝手に思い込んでいる人があるのではないでしょうか。

(また、それが何故か通ってしまう世の中というものも
非常におかしなことですが、実際にあります。)

障害について知るにつれて発言を修正しているのが事実だとすれば
Singerには、自身のこれまでの発言の影響力を自覚して、
自分は修正したのだということを明示する責任があるはずです。

そして、もしも発言を修正するほどに自分の無知・認識不足を自覚するならば
少なくとも障害新生児の安楽死や“Ashley療法”については
当面は口を閉じるのが学者としての良心というものではないでしょうか。

私たち障害当事者や家族の立場にあり、
そうでなくとも弱者に向けた社会の空気の冷え込みに脅かされている者にとっては
私たち自身や愛する者の命や身体への直接的でリアルな危険の問題なのです。
2010.10.06 / Top↑
週末、安楽死を巡る某シンポを聞きに行ってきました。

まだ頭がちゃんと整理できていないのですが、
聞きながら考えたことを未整理のまま以下に。

・痛み・苦痛があることは安楽死の必要条件だとすることに同意か、という点について
かなり時間を割いて議論されていたのだけど、

(問題提起そのものの不毛さはパネリストの方々も言っておられたのですが、それはともかく)

ターミナルに至る前段階の医療一般において、
患者の痛み・肉体的精神的苦痛に対する医療職の人たちの感度は、
そんなに高いわけではないように個人的には感じてきたので、
そこのところは置き去りにしたまま終末期の痛みだけが、
あるとかないとか熱心に議論されることに違和感があった。

ターミナルな患者さんの中には、
長い医療との付き合いを経てそこに至る人も多いのだから、
その時点で患者が「死にたい」と口にする言葉の背景には、
その人がそれまでの医療との付き合いの中で重ねてきた
諸々の体験やそれにまつわる多くの思いが積み重ねられている。

特に口で「痛い」と言えない障害児・者の痛みに対しては、
障害への無知・無理解・偏見から十分な対応がされていない可能性は
英国Mencapが医療オンブズマンに訴えた事例からも、
私の個人的な体験や身近な障害児・者の発言からも想像される。

あのシンポの場におられた医師の方々も会場から発言された医師の方々も
意識も倫理観も高くて、そんなことはありえないだろうけれど、必ずしも
現場にはそういう医師ばかりではないので、

様々な体験を重ねながら医療と長く付き合ってくる過程で
どれほどの信頼関係がそこに築かれてきたかということが
終末期にその患者が医療に何をどこまで期待するかということにも
実はとても大きく関わっているんじゃないだろうか。

ターミナル以前の闘病からそのずっと後の「良い死に方」まで
患者にとっての時間は切れ目なく連続している。

患者にとって、どのような死に方をしたいか、という問題は
「病気や障害と付き合いながらどのように生きたいか」の問題と連続して
あくまでも、その先に考えられるもの。

病み、闘病し、やがて不幸な転機をたどらざるをえなくなる過程で、
病むこと、衰えていくこと、能力を失っていくことを巡る患者の肉体的・精神的苦痛を
その人の暮らしや人生の一回性の中で医療(社会かも?)がどう受け止め、どう支えていくのか、ということと、
終末期に「QOLを保って良い死に方を」ということとは、
本当は地続きの話なんじゃないのかぁ……という気がするのだけど
そこのところが断絶して”自発的”積極的安楽死が議論されていく感じ、
そこのところが、そこはかとなくアベコベになっている感じがする。

・病み、病と付き合いながら生きて、やがて死んでいく……という
患者にとっては繋がっている、そのプロセスを医療だけで支えることはできない。

それなら、介護を含めて、もっと広く地域の様々な資源の連携の中で考えると、
安楽死を巡る諸々にも、また全然違う可能性が広がってくる……ということは
案外にあるんじゃないだろうか。

でも、アカデミックな人たちは一般に介護の話には興味が薄いような気がする。
あれは、何故なんだろう。

・例えば何人かのパネリストが「やるべきこと、できることを
ちゃんと手順を踏んですべてやった上で、それでもなお」という言い方をされて、
「安楽死は、あくまでも最後の最後の手段として」という慎重姿勢そのものは
英米のメディアでの苛烈な議論を読んでいる身には全くありがたく温かく聞こえたのだけど、

「やるべきこと、できること」の質と量とが医療の中で一定水準を担保されることと同時に
「やるべきこと、できること」が「病院で医療にできること」だけではなく
「地域の介護と医療が連携して出来ること」にまで広がってもらえると、
患者の「それでもなお死にたい」という言葉にも、その周辺の心理にも
今よりも違ってくる可能性が、まだまだあるのでは?

・これは、会場の、緩和ケアと地域医療をやっておられるドクターの
「最近、反胃ろうキャンペーンが行われているような気がするけど、
実際には胃ろうによってQOLが改善するケースだってあるし、
延命効果があるケースもあり、一律にダメだとはいえない」という発言にも
たぶん通じていくことで、

介護と医療の多職種の連携が十分にある地域を想定して
これまでの生活とその人の人生の一回性の中で支え切り看取る覚悟の中で
「口から食べられなくなったら死」ということと、
病院という場だけを想定してそう言うこととでは、話がまるで違う。

意図が通じず誤解されがちだったけど、この話は、以下の2つなどで書きました。

「老人は口から食べることができなくなったら死」……について(2009/11/4)
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)

なお、この発言は
富山型ディサービス「このゆびと~まれ」の創設者、惣万佳代子さんでした。

Ashleyも含め、まだ食べられるのに胃ろうにされる障害児・者・高齢者を知っているから、
私は、「口から食べられなくなったら死」については、
ぎりぎりまで食べられるためのあらゆる手を尽くし看取りをしてきた惣万さんのような人が
こういう前提と覚悟で言う場合に、という留保つきでのみ
議論の余地はあると考えておくことにしたい。

・それから、これはついでに。

ある倫理学者の方のプレゼン資料で
安楽死・自殺幇助で死んだ人の一覧の中に
Kay Gilderdaleが入っているのが目を引いた。

あれぇ? と思ったので、帰ってきて確認したら、やっぱり思った通りだった。
Kayさんは殺した母親の方だから、まだ生きています。
死んだのは娘のLynn Gilderdaleさんの方です。

まぁ、こんな些細な間違いはどうでもいい話なのだけど、
Gilderdale事件は、本質的には、自殺幇助というよりも
母親による慈悲殺の方に近い事件じゃないかと私は思うし、
メディアや世論だけでなく、裁判官の論理までが慈悲殺擁護だったので、
(というより実際はほとんど介護者の献身賛美による情緒的殺人擁護でしかなかった)
これを自殺幇助に入れてあったのが、ちょっと、ひっかかった。

【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)


・あと、すごく単純に、頭に浮かんだこととして、
多くの人が「もし自分がそうなったら……」と想像してみるときに、
寝たきりやTSLになったら……と自分が「介護される側」になることを想定し、
自分がそういう家族を「介護する立場」になったら……という想定をしないように思われるのだけど、
それは一体何故なのだろう、ということ。

自分は一人で、家族は一人以上であるとしたら
確率としては後者の方を想定してみてもいいと思うのだけど、

それは自分の人生においては誰もが主役だから
介護者という脇役に回ることよりも介護される主役になる方を想定するのが
心理として自然だということなんだろうか。

私のように既に家族に要介護者がいるという人間と、
まだそういう状況を個人的に経験したことがない人の違いなんだろうか。

それとも男性と女性とで意識に差があるということなんだろうか。

アカデミックな人が介護には興味が薄いと感じることと
どこかつながっているんだろうか。

これは考えてみたら面白いかも……と思った。
2010.10.06 / Top↑
法改正に反対している英国医学会その他の組織に働きかけ
合法化を目的に、医師をはじめとする医療職のグループが立ち上げられた。

名称は Healthcare Professionals for Change。

率いるのは7月にもこの話題でメディアに登場したAnn McPherson氏。
元GPでベストセラー作家。現在すい臓がんと闘病中。


Doctors and nurses launch campaign for right to help terminally ill to end their lives
The Guardian, October 3, 2010


【関連エントリー】
英国医師会、自殺幇助に関する法改正支持動議を否決(2009/7/2)
英国看護学会が自殺幇助について反対から中立へスタンスを転換(2009/7/25)
2010.10.03 / Top↑
白人と黒人の患者では、受けられる終末期のケアとカウンセリングに差がある、という調査結果。:「死の自己決定権」なんてものは、こういう格差や差別が全くなくなってからにしてもらいたい。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202998.php
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202966.php

高齢者虐待の被害者になるのも黒人が白人よりも2倍の高率。:確か日本の統計では、女性が男性よりもはるかに高いという結果が出ていたような記憶がある。息子から母親へ、夫から妻へ。:虐待されている被介護者なら「死にたい」と望んだり、いうように操作されたっておかしくない。それでも「自己決定による自殺幇助」になるとしたら、閉鎖空間である家庭というものが恐ろしくてならない。ここでも上と同じく、そういう力の不均衡が社会の中かなくならない限り「死の自己決定」なんて絵空事だと思うのだけど。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202869.php

GlaxoSmithKline社が治験の結果が思わしくないため、ヘルペス・ワクチンの開発をあきらめた。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203110.php

製薬会社には株主に対する責任や義務を超えて、人権を尊重する責任があることをもっと自覚させ、もっと説明責任を問うべき、と主張する論文。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202950.php

今年末までに予定されているメディケアの給付30%カットを止めるべく早急に行動しないと高齢者の医療アクセスが保証できない、と米国医師会その他の医療関連団体が米国下院に訴え。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/203002.php

子ども手当など、一律に給付される社会福祉の16%はそんなものを必要としない層に渡っている、とする調査を受け、各省平均25%の支出カットの方針が出ている英国で、社会保障のあり方を巡る議論に。:障害者手当は20%カットだというのだけど。
http://www.nytimes.com/2010/10/01/business/global/01welfare.html?_r=1&th&emc=th

NJ州の大学生Tyler Clementさん(18)、男性との性行為のビデオをルームメイトら2人にインターネットで流され、翌日George Washington橋から身を投げて自殺。:ざっと記事の前半を読んだ感じでは、完全に遊び半分でやったことのよう。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/sep/30/tyler-clementi-gay-student-suicide?CMP=EMCGT_011010&
2010.10.01 / Top↑
英国のColchesterで
介護職の女性がサービス利用者のケアをしている間に路上駐車の違反切符を切られたとして、
その女性の母親がカンカンになって地元メディアに登場。

他に停めるところが全然なかったんだし、
ウチの娘はちゃんと介護職の制服を着ていたのに、
警官はそのくらいの“常識”を働かせられんのかい、
それくらい現場の警官に裁量を認めんかい、と訴えている。

取材を受け、
地元警察の担当者は不服を申し立ててくれたら対応する、と。

‘Don’t fine our carers’
The Daily Gazette, September 30, 2010


なんで本人ではなく母親が出てくるんだろう……というところが不思議で、
もしかしたら、自分の娘の個別ケースさえチャラにしてもらえば
この人はそれで引き下がるのかもしれないけど、

でも、地元警察が個別対応で済ませようとしているのは
この女性によって提起された問題を読み誤っている、
これは一般化して対応を検討すべき、もっと大きな問題ではないかと思う。


上記の問題、日本ではどうなっているんだろうと思って、検索してみたら
医療ガバナンス学会の9月23日のブログ(vol. 258)で問題になっていた。

「緑虫との闘い」-「がん対策基本法」施策と矛盾する在宅車両の取り締まりへの提言―
長尾クリニック・院長(尼崎市)
阪神ホームホスピスを考える会・世話人
長尾和宏

長尾医師が語る、24時間対応を義務付けられている在宅療養支援診療所の実情は、

私自身も毎日が、路上駐車取締員との追いかけっこです。緑色の制服を着て2人ひと組みで町中をウロウロしている彼らは通称「緑のおじさん」、な いし誰が名づけたのか「緑虫」と呼ばれています。路上で「緑虫」と口論になったり、取り締まりが気になって患者さんと十分に話せなかったり、運悪くたった 5分で捕まって落ち込んだり、ショックで辞表を出す職員の対応に追われたり・・・。もはや「緑虫」抜きで日常が語れなくなってきました。

当院は複数医師で外来診療と並行して在宅医療を行う、いわゆるミックス型診療所です。
この2年半を振り返ってみて、当院の在宅医療車両の駐車違反摘発件数は恥ずかしながら

2007年 1件、2008年 5件、2009年 7件の、計13件、でした。

職種別では医師4件、訪問看護師7件、訪問リハビリ2件でした。違反事由としては、右側駐車3件 横断歩道付近1件 駐車場出入付近2件 消火栓付近1件、 歩道乗り上げ2件 左側0.75m違反1件 その他3件でした。一番よく使う中古の軽車両は07年1件、08年2件、09年1件とすでに4回捕まり、地元 警察署からリーチを宣告されています。



こういう実態は、
在宅医療・介護を充実させ地域包括支援体制を形作ろうとの国の掛け声に応えて、
情熱を持ち地域医療・介護に携わろうとする専門職のモチベーションを下げる。


警察関係者と相談した結果、見えてきたものは、「警察と厚労省の横の連携が悪いこと」「現場の緑虫には裁量権が一切ないこと」などです。大げさに言えば、「縦割り行政」や「地方分権問題」にも行きつきます。現在、なぜか医師の駐車禁止除外票は、緊急往診に限られていて定期的な訪問診療には適応されません。 緊急往診に限るのは現実的ではありません。さらに訪問看護や介護業者への駐禁除外票発行は、医師とはまた別の複雑怪奇な規則が定められ、またかなりの地域差があるようです。多職種連携を大前提とする在宅医療の現場を考えると、職種間格差を早急に是正する必要があります。「駐禁除外票」発行の基盤となる国の 認識を、在宅医療の現状に呼応した形に再検討する必要があります。

09年4月、栃木県の在宅ホスピス医の署名活動により「在宅医療車両の緊急車両扱い」が法的に認められました。しかし阪神間の私たちが望むのは 道交法優先の緩和措置です。駐禁問題は地域性が大きく関係するので、道路交通法44条、45条、47条の改定は難しいかもしれません。

しかし政治主導での、駐禁除外票の発行基準の職種によらない一元化と地域の実情と業務の公共性を勘案した「在宅関係車両の柔軟な取り扱い」の通達くらいは可 能だと思います。例えば患家周辺の状況を勘案して30分~1時間は道交法優先を免除して頂ければ大変助かります。このように市町村単位で地元警察と地元医師会との話し合いの場を持ち「地域の実情に応じた道交法優先の緩和措置」を是非、施行していただきたいと希望します。




最近、英国の介護者チャリティが介護者の経済状況を調査した報告の中に、
神経難病の夫を介護する女性が、夫が病気になって、介護のために仕事も将来も失い、
あっという間に貧困に陥り、今では食べるのにも困る、電気代を払うためにサラ金を頼る始末だと語り、

「夫を介護していることに対して、まるで政府からペナルティを課せられているみたいな気分」と
言っていた言葉が印象的だったのだけど、

これでは、
「地域で在宅患者をしっかり診ろ、支えろ」と国から言われて
しんどい思いをしながら町に出ていく日本の医療・介護職の人たちにも、
その努力に対して、文字通りのペナルティが課せられていることになる。

高齢者や障害者にとっても、
地域に医療と介護の連携による包括的な支援システムができていることが
何より有り難く大事なことなのに――。
2010.10.01 / Top↑
07年論争時のAP通信記事(「この問題を議論しよう。親のブログを読もう」と書かれているもの)のコピペがどこかのサイトにアップされる……というAshley事件の怪現象ふたたび。今度は薬物中毒リハビリ施設のサイトというから驚く。この現象が起こるサイトは、なんとなく薬臭いところが多い。
http://www.drugrehabilitationspa.com/how-will-the-following-hender-the-normal-development-of-ashley

'''米国で数種類の麻酔薬が不足し、いくつかの州で死刑の延期という事態まで招いている。バルビツール系の薬物。「一時的な不足はたまにあることだけど、ここまで深刻なのは初めて」。で、ORとWAで自殺幇助に使われているフェノバルビタールで代用しようかという話も出ている。:そういえば、米国に限らないけど、たまに、この人、どこで手に入れたの?というような致死薬で自殺する人のニュースがある。その毒物の入手経路が、また問題にならなかったりするのが私には前から不思議でならない。ベルギーでは、本人の明示的な要望なしに死なされている人が結構いるし……。なんだか、かなり不気味なニュース。(この項目は10月1日に大幅に訂正しました)
http://www.nytimes.com/2010/09/30/us/30drug.html?_r=1&th&emc=th

オーストラリアの介護者週間、10月の第3週(たぶん)。
http://www.dircsa.org.au/blog/carers-week-and-more/

著名な経済学者 George Magnusが英国で65歳以上を今後ケアしていく費用は英国GDPの3倍にも達すると試算し、多職種が垣根を越えて労働、介護、年金などの問題に包括的に協働して取り組む必要を説いた。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202864.php

ADHDは遺伝性の神経発達障害、と。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/202997.php
http://www.guardian.co.uk/society/2010/sep/30/hyperactive-children-genetic-disorder-study?CMP=EMCGT_300910&

ES細胞研究への政府の助成を巡る裁判で、連邦上訴裁判所は判決が出るまでの間、とりあえずObama政権にES細胞研究への資金提供を認めた。良くやった、と拍手を送るNYT社説。原告の成人幹細胞研究者が、ES細胞研究にカネが回ると自分たちの研究助成が細ると考えること自体が愚かしいのだ、と。
http://www.nytimes.com/2010/09/30/opinion/30thu2.html?th&emc=th

人工ミルクの子育ては必要以上の量を与えられる赤ちゃんが食欲を肥大させて、将来の肥満につながっているという説。:でも、それなら、もっと前から肥満が増えていたはずのような気もするし……。文化圏による肥満度の違いとか、所得層による違いとかも。
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2010/sep/30/bottle-feeding-babies-adult-obesity?CMP=EMCGT_300910&

テキサスのHart Ford基地で、イラクとアフガニスタンで従軍した兵士が1週間で4人も自殺。これで同基地の今年の兵士の自殺は14人になり、これまでの最多記録(08年)に並んだ。
http://www.nytimes.com/2010/09/30/us/30hood.html?th&emc=th
2010.10.01 / Top↑