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標題の通りのニュース。

もう、あっちでもこっちでも議会に法案が提出されて
どこの州で議論になっているんだかワケが分からなくなっていたのですが、
(漏れはあるかもしれませんが個別情報は「尊厳死」の書庫に)

とりあえず、Connecticutでは、法案は出たものの棚上げ、と。

他にもいろいろ棚上げされたうちの1つだったようですが、
もともと提案した人自身が

この問題を考えている人が増えているので提案したけれど、
法制化の議論がそれほど簡単でないことは分かってるし、
一回の議会の審議で片がつくような問題でないことも分かっている
自分としても議論を始めることが目的であり、
議論を終えることを目的としていたわけではない、と。




この問題とは全く無関係な話で恐縮ですが、

昨日から日本のテレビでもやっている「AIG役員の巨額ボーナスがけしからん」という米国ニュースに
去年から製薬会社と研究者・医師との癒着がらみで
当ブログで何度もお名前を取り上げているGrassley上院議員が出てきたものだから、

「ああ、この人かぁ……」と
それなりの敬意と感慨をもって拝顔していたら
この人、ものすごいことを言った。

「金を返すか、日本人のように自殺するか、どっちかにしろ」って……。

「死んでお詫び」ということ──?

まさか、ハラキリのことをおっしゃっているので?
「日本人みたい」にって?

うへぇ。

私の感覚では、最近では「自殺」というと
欧米の方がはるか先を突っ走っておられる……という感じがしていたのだけどな。
2009.03.18 / Top↑
ニュースのタイトルを見た瞬間、嫌な予感で胸がドキドキした。
読んでみたら、やっぱりウチの娘が生まれた時の状況とそっくりの話だった。


カナダ、ケベック州の事件。

2007年11月
難産で生まれたPhebe LaurendeauちゃんがMontreal 子ども病院に搬送される。
重態のため生命維持装置を装着。

両親は
助かる見込みは少ないので人工呼吸器も経管栄養も中止するほうがよいと医師に勧められて、
それに同意した。

ところが、呼吸器を取り外した後に、
Phobeちゃんは自力呼吸ができることが判明。
病院の倫理委員会は両親の決定を覆して生命維持を再開した。
(ただし、この部分の事実関係は裁判でもまた確認されていないとのこと)

両親が350万ドルを求めて病院を提訴。

両親の弁護士は、
病院倫理委はケベック州法に違反しており、両親の決定を上回る力を持つのは裁判所のみのはずだ、と。

記者会見での両親側弁護士の発言

「絶対に許せません。
あの人たちは自分たちの治療についての意見を両親に押し付けただけです。
栄養を与えるたびに本人を苦しめることになるから諦めたほうがいい、
苦痛や不快を抑える緩和ケアに切り替えたほうがいいと勧めたのです。

人生最悪の決断だったと両親は言っていますが、
その時にはPhebeが生きたとしても、どういう生活を送るかなんて分からなかった。

もしも本人がその時に同意できたとしたら
きっと命を終わらせてほしいと同意しただろうと両親は考えています」

Phebeちゃんは2ヵ月半の後に退院し、
医師が出るといっていた聴力・視力の障害はないものの、
脳性まひなど重い障害があって常時介護が必要。

退院時に両親は
親権を行政に引き渡して保護してもらうこと(protective custody)も選べるし、
家につれて帰ってもいいと説明され、後者を選んだ。

現在1歳半で、両親を見たら笑顔になる(笑顔の写真が記事に)。
母親はPhebeのケアのため仕事を辞めなければならずダブル・インカムではなくなった。

The Euthanasia Prevention CoalitionのAlex Schadenbergは病院倫理委の決定を支持。
裁判所は両親の訴えを却下すべきだ、と。



……ったく、どこをとっても私にとっては22年前の追体験みたいな事件で
いろんな思いや感想が群がり起こってはいるのですが、
それはまた、ある程度整理してから、ということにして、
まずここでは、心ではなく頭に浮かんだことを。

①医療における判断というのは
患者の容態が常に移り変わっていたり、
急変(良い方向も含めて)の可能性を常にはらんだ中で行われるのだということ。

② それを前提に考えれば、この事件の本質は
実は最初の段階で医師の判断にミスがあったということに過ぎない、
つまり、両親に決断を求めた医師の判断が早すぎた、という問題なのではないか。

③ 当初は消極的安楽死として提案され決断されたはずのことが、
一度覆されてしまった事実をはさんで
まるでロングフル・バース訴訟と同じ
生命ではなく生命の質を問題にする論理に変質してしまっている。

④両親の下した選択は
「もはや死は避けがたいので苦痛を和らげて死なせてあげる」だったのだから、
「死が避けがたい」という前提で安楽死を選ぶかどうかの選択だったわけで、
それは「死が避けがたい」という前提がなければ
そもそも存在しなかったはずの選択だったのに、
今、両親が訴訟で主張していることは事実上は
「死が避けがたいものでなくなった場合にも
重い障害が残る可能性を前提に改めて選択をさせてくれるべきところ、
その選択をさせてもらえなかった」ということでは?

⑤ 当初の決定が覆っていることが話をややこしくしているので
そこの事実関係とか法的解釈が裁判では問題になるのでしょうが、
「死に瀕していなくても重症障害が残るのだったら死なせてほしかった」という主張は
当初の選択とは実は別の選択なのだから、
そうした事実関係と実は無関係なのでは?

⑥ 自殺幇助合法化議論で行われているのとまったく同じ、
問題の混同がここでも起こっているのではないか。

つまりターミナルな状態を前提にしているはずの議論が
一定の障害像(“生命の質の低さ”として捉えられる)は生きるに値しないという前提へと
いつのまにか拡大・変質していることの不思議。


だからこそ、最初の問題に戻って
「ターミナル」だとか「植物状態」だとか「最少意識状態」などという「診断」は
時間をかけてゆっくりと慎重の上にも慎重を期して行うべきなんじゃないのか、と思うし、

医療職も患者も昨今の倫理学者も我々一般人も、
医療における判断は患者の容態が常に移り変わっている中で行われる危ういものだという事実を
もう一度しっかり思い返し確認して、

なんにせよ、後戻りできないような決断は急がない方がいいんじゃないかなぁ……。


それにしても、記事にあるPhebeちゃんの笑顔を見ながら
彼女が愛していて、何の疑いもなく笑顔を向けている、その両親は
「本人だって、あの時にもし同意できていたら
死なせてくれと同意したはず」
と考えている……ということを思うと、なんとも暗澹とします。

ともあれ、今後の推移を注目したい裁判。

          ---

ちなみに、カナダ医師会からこんなのが出ていました。

2009.03.18 / Top↑
町山智浩氏の「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか:超大国の悪夢と夢」で取り上げられていた
米国で行われた恐るべき人体実験2つと、

そこにあったわけではないのだけれど、
前から一度整理しておきたいと考えていた「タスキギの梅毒人体実験」について、ついでに
Black Markets:The Supply and Demand of Body Parts(Michele Goodwin、2006)から。


MK ウルトラ計画


町山氏によるとMKウルトラ計画とは
朝鮮戦争で共産主義者が行った「洗脳」に対抗するために米国政府が行った洗脳実験で、

125人のアメリカ人を生体実験のモルモットにしてLSDを投与、
脳に電気ショックを与えながら、スキナーの「条件付け」実験を行った。

ジョナサン・デミ監督、デンゼルワシントン主演の映画「クライシス・オブ・アメリカ」(2005)は
この話を基に作られた1962年の「影なき狙撃者」のリメイクだったとか。

そのデミ監督が作成に当たって参考にしたのが以下の本。


検索してみたら、
この本の多くの部分を著者自身がこちらのサイトで公開しているようで、

著者は情報公開法に基づいてCIAから関連資料を得て、この本を書いたものの
資料の多くは既にCIAによって処分されていたとのこと。

CIAが洗脳実験を行った目的は
アメリカ政府が自由に操れる暗殺者を作り出すこと。

日本語でもMKウルトラ計画の詳細を明らかにしようとする有志の方々のブログがありました。



「生まれか育ちか」で双子を引き裂いた実験


人間の能力や性格を決めるのは遺伝子か環境・体験かを実験する目的で
1968年、児童心理学者ピーター・ニューバウアー博士と
博士に協力した養子縁組の紹介所は、
生まれてすぐの双子を別々の家庭に斡旋。
養父母は「ある調査の対象」とだけ説明され、
双子であることすら知らされなかった。

子どもをモルモット扱いするこの実験は80年に法律で禁じられたが
それまでに双子と三つ子計13人が実験台にされた。
そのうち4人は、まだ自分たちが双子であることも知らずに暮らしている。


タスキギの梅毒実験(Tuskegee Study )


The US Public Health Service(PHS)がTuskegee大学と共同で
1932年から1972年までの40年間行った実験。

梅毒が進行した黒人男性399人を被験者に選んだのは、
彼らの大半がアラバマ州の最も貧しい郡の小作農夫で、
教育を受けておらず文字も読めない人たちだったため。

被験者は病気についても症状や治療についても説明されることはなく、
ただ「血が悪い」とだけ言われていた。

被験者を集めるにあたっては
「無料で治療を受けられる」
「無料で受けられる最後のチャンス」などの誘い文句が使われたが
その「無料治療」の内容は脊髄液採取とピンク色の錠剤(ただのアスピリンだった)のみ。

実際には治療は行われず、
研究者らは無治療の梅毒の進行状態を経過観察していただけ。

なぜなら研究の目的は
治療しないまま梅毒で死んだ人の遺骸からのデータ採取だったから。

被験者にはあたかも治療が行われているように見せかけた、この実験は、
実は被験者が死んだ時が本当の実験の始まりだった、という卑劣な話で、

この実験への政府の関与についてクリントン大統領が1997年に謝罪したが
その時には8人を残して、他の被験者は全員が死亡していた。

28人は梅毒が直接的な原因となって死亡。
100人が梅毒関連の合併症で死亡。
被験者の妻40人が梅毒に感染。
彼らの子ども19人に梅毒の影響による先天性の障害。

死後の研究や解剖から得られたデータは公開されなかった。

さらに驚くのは、
世界中がナチスの人体実験を知り糾弾していた間も
ニュールンベルク裁判の後にも
ペニシリンが発見された後にも
この実験が継続されていたこと。

PHSはこの実験を正当化して、
白人と黒人とで病気や治療への反応が違う、その違いを研究する必要がある、と。

タスキギ実験は世界で最も長期に行われた非治療人体実験であり、
その他にも黒人奴隷が初期の医学実験の素材として使われてきた歴史からも、
黒人の間には医療への不信感が今なお根強く植え付けられている。
2009.03.17 / Top↑
それ自体は、とてもプライベートな物思いなのだけど、
こんなにも重い障害を持って自分で自分の身を守ることのできない非力な子を
この世に残して死んでいく勇気が自分にはあるだろうか……と
ずっと胸に抱えている自問と、その裏にある思いとを
何度か思い切って人に語ってみようとしたことがある。

そのたびに返ってくるのは、こちらの言葉途中からの否定、叱責、非難。

「それは間違っている」と言われれば、それは確かに言われるとおりで、
こっちだって「正しいか間違っているか」というところで煩悶しているわけじゃない。

間違っていると頭で十分に分かっていても、
なおかつ「残していく自信が自分にはないかもしれない」と
誰かに語らないではいられないのは、
伝えたいのが言葉ではなく、言葉の後ろにある気持ちだからなのだけど、

それが相手に届かないうちに言葉だけに反応されて
「あなたは間違っている」と私はいつも指を差されてきたような気がする。

ところが、数日前に見ず知らずの人から、初めて
まったく思いがけない言葉をもらった。

安心して先に行ってください──。

それは半年前に書いたエントリーに数日前にいただいた、
お兄さんが障害をお持ちだという方からのコメントでした。

今の社会状況から不安だと思うけれども
両親には安心して先に行ってもらいたいと思う、
そして、それは同じ境遇にあるすべての親御さんへの気持ちでもある、
すべての親たちに安心して先に行ってくださいといえるようにしたい、と。

もちろん、それがたやすいことでないことくらい、この方は十分に分かっているし、
もちろん、障害のある人の兄弟のあり方を押し付けておられるわけでもない。

ただ自分のありのままに素直な気持ちとして
自分の両親に安心して先に行ってもらいたいと思うように
世の中のすべての親に安心して先に行ってくださいと言ってあげたい
そのためにできることを、していきたい、と言葉にしてくださったのだと思う。

初めて贈られた思いがけない言葉から、
それまで味わったことのない大きな安らぎをいただきました。

そして気づかせてもらいました。

ああ、私がずっとずっと言ってもらいたかったのは、この言葉だったんだ、

私だって、きっと他の障害のある子どもの親御さんだって、本当は
できることなら子をこの世に託し、安心して先に行きたいと願っているんだ……と。


いただいたコメントにこめられているのは
すべての障害のある子どもの親に贈っていただいた言葉であり気持ち。

それが一人でも多くの親御さんに届けば、とお願いしたところ、
コメントを下さった方が快く再掲を承諾してくださったので、
以下に、その時のエントリーと、そこにいただいたコメントを。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

障害のある子どもの親になるということは、
生涯、目の前にこの究極的な問いを突きつけられているということなんじゃないか……と考えることがある。

私たち親子は、それなりに幸運な専門家との出会いにも恵まれて、
今の私は一定のところまで娘を他人に託すことができる。
その程度にまでは人間を総体として信頼できているのだと思う。
そして、そのことは娘にもプラスに働いていると思う。

「お母さん、ミュウはもう1人で生きていけるだけ成長しているよ」と
長い付き合いの看護師さんが言ってくれたのは、もう何年も前のことだ。

親が親として、ここにこうして存在していてやれて
定期的に娘の愛情タンクをいっぱいにしてやれる限りにおいて、
私たち夫婦も娘はそこまで成長してくれたと考えている。

でも、そこに「でも……」がくっつかないわけではない。

もちろん、今の信頼はある長いプロセスを経て少しずつ築かれてきたものなのだけれど、
それでもなお時に大きく揺らいでしまうこともあれば、
裏切られた思いで親も子も傷つかなければならない経験だってないわけじゃない。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

自分の老いを意識するようになってから
この問いを切実なものとして自問してみることが増えてきた。

それは畢竟、

自分はこの人間の世の中に娘を託して死んでいくことが出来るか。
総体としての人間を信頼して、娘を残して死んでいく勇気が自分にあるか──

という問いなのだと思う。

自分が直接世話をできる能力を失ったとしても、せめて何かがあった時に駆けつけたり、
最後の砦として、親として、ただそこに存在してやることすら出来なくなる時に、
それでもこんなにも非力な我が子を「よろしく」と託すことができるだけ
自分は人間というものを総体として信じられるのかどうか──。

障害のある子どもを持った親が問題意識を持ってものを考えたり、
社会に向けてメッセージを発したり、さまざまな社会活動をしたり、
なんらかの行動をしないではいられないのは、
もしかしたら、この問いへの答えを自分自身の人生を通して
探し続けているんじゃないだろうか。

そして自分自身の人生が終わりに近づいてきたことを実感する時に、
この問いにYESと答えることができる人だけが
子どもを残して死んでいくことが出来る。

YESと答えられない人が子どもを連れていくんじゃないだろうか。

今の私には、まだ答えが出せていません。

ただ、今のところ、
心のどこかに信じたいと願っている自分がいるんだろうな、とおぼろに感じています。

だから自分はいつもこうして言葉を探しているのだと思うし
私に何が出来るというわけでもないのに
Ashley事件に見られる重症児への誤解や無理解を見過ごしておけないのも、
それをきっかけに英米のニュースを読んでは心に点滅する危機感の赤ランプを
こうしてブログで発信しないではいられないのも、
基本的には人間というものを信じていて、
娘のためにもこの先も信じたいと願っているからじゃないかなぁ、という気がするから。

障害のある子どもの親たちは、きっと
自分の生涯を通じて、それぞれ自分にできるやりかたで答えを探している。

みんな、NO と答えたくて探しているわけじゃない。

1人でも多くの親がYESと答えて、子どもを托し、安んじて死んでいける世の中であって欲しい。

「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)

はじめまして。半年前の記事にコメントすることの是非を考えましたが、一言だけ。

私は親ではなく、障害を持つ人の兄弟です。4歳上の兄がそうです。
彼はすでに親元を離れ、受け入れてもらえる環境を持っています。
しかし、現在の社会状況を見るといつまでそこにいられるかわかりません。

両親は不安なことと思います。ただ、兄には私と弟がいます。
私たちは彼より長く生きることが可能だと思います。
両親には安心して先に行ってもらいたいと思います。
そのためにできることを、していきたいと思います。

そしてそれは、両親だけではなくて同じ境遇の親御さんたちへの気持ちでもあります。
全ての親たちに安心して先に行ってくださいと言える様にしたいです。兄弟の世代として。

不破さん

このエントリーには掲載当初にもJayhawkerさんから、

「障害がある人間にとって本当に心地よい、やさしい社会なら、
万民にとっても信頼できる社会となりえませんか?
そんな社会の実現はむずかしいのだけれども。
そうした社会をつくっていきましょう」

というコメントをいただきました。

こうした出会いの一つ一つ励まされながら、
障害のある子どもの親の自問に少しずつ答えが形作られていくといいな、と思います。
もしかしたら信頼できるかもしれない……きっと信頼できる……という方向へと。
2009.03.17 / Top↑
前に
Ashleyのような重症心身障害児・者には本当の意味でアドボケイトがいないのではないか、と
問題提起してみたことがありますが、

重症心身障害児・者と同じく
世の中からも障害学や障害者運動からも見えにくい存在になってしまったまま
今回の障害者自立支援法の見直しで切り捨てられようとしている人たちがいます。

「動く重症児」と呼ばれる人たち──。

成人しても「児」とされるのは「重症心身障害児」と同様で
医療と介護の一貫性を守るため、いわゆる「児者一貫」の方針によって
便宜的に重症心身障害児施設に入所が認められてきたため
児童福祉法の対象となって成人でも「障害児」に分類される、という事情があります。

自立支援法以前の資料になりますが、
「重症心身障害療育マニュアル 第2版」から「動く重症児」について
以下に簡単にまとめてみます。


・「動く重症児」とは、重症心身障害児施設(旧国立療養所を含む)に入所している歩行可能な重度、最重度精神遅滞児(者)。ただし、明確な法的定義は存在していない。大島の分類1~4に当たる狭義の重症心身障害児に対して、IQは同じく35以下だが運動機能が「歩行障害」「歩ける」「走れる」に当たる者を「動く重症児」として区別する。

・重介護を要する重症知的障害児・者への対応の遅れから、手厚い職員配置が可能な重心施設に便宜上(経過措置的に)入所を認めてきたものと推測される。

・公法人立、国立あわせて、重心施設入所者の5分の1に当たる3000人以上が、動く重症児。

・公法人立の重症児施設のうち、動く重症児病棟を設けているのは15施設。968床。旧国立療養所80箇所のうち、動く重症児病棟が設置されているのは10ヶ所、840床。残りは通常の重症児病棟に入所している。

・旧国立療養所には、移動能力が高く強度行動障害をもった最重度知的障害児が多い傾向がある。精神科、内科、小児科的な医療の問題を合併している場合も多く、現行の知的障害施設では対応困難なケースと思われるもの。

・平成5年より強度行動障害特別処遇事業。1施設につき定員4。3年間を限度の特別処遇により改善を図り、他施設や在宅への移行を狙うもの。対象者の8割で改善が見られるが、多くは事業終了後に知的障害者施設の重度棟へ措置されている。

・「動く重症児」は重心施設への例外的措置の経緯の中で生まれ使用されてきた概念であり、在宅者の実態は全く把握されておらず、在宅対策は皆無に等しい。

「重症心身障害療育マニュアル 第2版」(2005、医歯薬出版株式会社)
「第2章重症心身障害児の実態、3.動く重症心身障害児」(p39~48)


この「重症心身障害児施設」が今回の障害者自立支援法の改正で
児のみを対象とする施設となろうとしています。

これまでの「児者一貫」の方針が覆され、
重症重複障害を持つ成人については児童福祉法から外れて
障害者自立支援法で対応することになろうとしているのです。

重症者だからといって何歳になっても子どもの扱いをされるということには親としても抵抗を感じてきたので、
成人として処遇されるのは一面では良いことではあるのですが、

そのためには、
現在、障害者法できちんと定義されている知的障害者、身体障害者、精神障害者、発達障害者の
いずれのとも異なって、重い障害が重複しているがゆえの独自の障害特性とニーズを持つ重症重複障害者も
法律的にきちんと定義されることが必要なのでは、と思うのです。

それなしに、ただ成人だから
一般の障害者施設で医療型か福祉型かを選択せよといわれても、

成人した後も
その障害特性から、発達小児科の専門医による医療が不可欠であるという点、
医療と介護どちらも必要とする彼らのニーズに応えられるのかという点、
この2つの点について非常に大きな不安を感じます。

配慮についての付記は
「改正法附則に入所者が継続して入所できるようにするための措置を図る」
「特に重症心身障害者については障害児施設で受けていた支援の継続性を図る」
といったあたりでとどまりそうで、

ちょうど介護保険における療養病床廃止と同じ動きが
障害者福祉でも起ころうとしているのだな、と私は解釈しています。

重症重複障害者の安全な居場所がなくなるようなことはないのか、
我が子の問題としても心配なのですが、

同時に、重症重複障害児・者以上に、
世の中の人から隠されてきたかのような「動く重症児」の居場所が
今の社会の動きの中で、どうなっていくのかということも、とても気になっています。

不適切な例えかもしれませんが、
介護の困難さという点だけで、ちょっと乱暴に重ねさせてもらうと、
介護保険における認知症の方々にあたるのが
障害者自立支援法の対象者の中では「動く重症児」ではないでしょうか。

ところが
認知症は患者数も多くて、
自分や家族がかかる確率からすれば「みんなの問題」と捉えられ、
介護保険でも重要課題の1つとして対策が広く講じられている反面、

「動く重症児」は人数も少なく、存在すら、ほとんど知られていません。
上記の資料でも「在宅対策は皆無に等しい」とされています。

しかも、ちょっと小耳に挟んだところでは、厚労省は既に
「動く重症児」という定義は存在しない、
したがって「動く重症児」という存在は日本にはいない、と
切り捨てとも聞こえるスタンスを取り始めているらしいのです。

これでは、今後も実態を把握されることもなく、在宅支援も整備されないまま
彼らは、これまでの居場所を奪われてしまうのではないでしょうか。

最も手のかかる、最も重度な人たちは、世の中から最も見えにくいところにいます。

その人たちのことを知らず知らず置き去りにしてしまわないために、
せめて存在だけでも1人でも多くの人に知ってもらえれば、と願いつつ。


2009.03.16 / Top↑
BBCの障害者問題サイトOuch!で障害当事者で障害学研究者のTom Shakespeare
英国でもターミナルな状態の人には自殺幇助を認めるべきだと主張しています。

Shakespeareはこの文章で3つのナンセンスを指摘したいと述べていて、
その3つとは、

①現在、英国議会で審議されている the Coroners and Justice 法案は
ネットの安全性から殺人まで多様な条項を含み、
こんなに雑多なものを1つの法案にまとめて議論することはナンセンス。

②あれもこれも寄せ集めたこの法案に、
ターミナルな人への自殺幇助の合法化が含まれていないのはナンセンス。

国民の8割は賛成しているとの調査もあり、
反対しているのは主に自分たちの少数意見を押し付けたい宗教団体と
一部の緩和ケアの専門家である。

Oregon州の尊厳死法をモデルにすれば十分なセーフガードもあり、
人が苦痛を避けて、自分が選んだときに尊厳のある良い死を望むのは合理的な希望なのだから、
自殺幇助は合法化すべきである。

③障害者団体が自殺幇助の合法化に反対するのは
障害者のマジョリティが合法化に賛成していることを無視しておりナンセンス。

The Disability Rights Commissionの調査では回答者の6割が法改正に賛成したし
2004年のYouGov 調査でも障害のある回答者の8割は賛成した。
障害者が自殺幇助に反対しているわけではない。

自殺幇助が合法化されたら障害者には死ぬことを選べとプレッシャーがかかると
案じる人がいるが、セーフガードは十分だと思うし、
障害者だって自分で決める能力はあると思う。

もちろん障害者団体や障害者運動の活動家が
障害が死よりもひどい状態であるわけではないと主張するのは正しいし
Daniel Jamesのような人は生きるべく支援されなければならないから
自殺幇助はあくまで終末期の患者だけに限らなければならない。

しかし自殺幇助について多様な意見を持つ障害者の中でも
マジョリティは慎重に規制された上での終末期の自殺幇助には賛成している。
障害者団体は一般の障害者の民主的な意思を代表していないし、
これまでバランスの取れた議論を推進してこなかった。

自殺幇助合法化が議会で審議される機会には賛成すべきである。

Death by nonsense
By Tom Shakespeare
Ouch! , March 9, 2009


まず感じたことは、
Shakespeareが②の部分で使っている論理は皮肉にも、
彼自身が痛切に批判した“Ashley療法”問題で
父親やDiekema医師が"Ashley療法”を正当化し、
障害者団体からの批判を別問題に摩り替える口調そのものだということ。

「社会のマジョリティはAshley療法に賛成している。
反対しているのはこの問題を政治利用したい障害者団体だけだ」と。

そもそも
マイノリティの立場から社会に対して異議申し立てをしてきた障害学の学者が
国民のマジョリティが賛成していることや、
障害者もマジョリティが賛成していることを
自分の主張の論拠に引っ張り出すこと自体いかがなものかと思うし、

その文脈で「民主的」という言葉が使われていることにも
強い違和感を感じるのですが、

同時に
「障害者は自分で決める能力を持っている」という発言や
(disabled people are competent to decide for themselves)

世論調査でも障害者のマジョリティは自殺幇助の合法化に賛成だとする自分の主張が
調査に回答できない障害像の障害者を排除していることにまったく無自覚であることに

Ashley事件の時からずっと頭にくすぶっている疑問が重なってしまう。

障害学や障害者運動の活動家の人たちにとって「障害者」というのは、
知的障害を伴わない(または知的障害は軽度の)身体障害者のことに過ぎないのでしょうか。

障害があることは「いっそ死んだほうがマシ」な状態ではないのだと
強く主張しなければならない事態が出来しているのは
こんな文章を書けるShakespeareや軽度・中等度の身体障害者の身の上ではありません。

最重度の身体障害と非常に重い知的障害または認知障害
(または身障の重さからくるコミュニケーション障害)のある人の身の上に起きているのです。

そういう意味で、自殺幇助合法化の問題は
「無益な治療」法ヒト受精・胚法改正に見られる新たな優生思想
決して切り離された問題ではないと私は考えているので、

死の自己決定権が云々される一方で、
無益な治療論や新らたな優生思想も広がっている中、
影響力の大きな障害学の専門家に
そのことへの想像力がまったく欠落していることが
ものすごく悲しいし、腹立たしい。

自分で主張したり抵抗することのできない
重症知的障害者、重症重複障害者、認知症患者への想像力を欠いたまま
「障害者は自分で決めることができる」と言ってしまうのは

Diekema医師が言ったのと同じように
「Ashleyのような重症の障害児・者は
障害者運動ができるような障害者とは違う」と
障害者の間に線引きをすることではないのでしょうか。


ちなみに、この記事への最初のコメントは
「自殺幇助の合法化に賛成だという80%の人たちの何人が
ターミナルではない障害者のアドボケイトになってくれるというのだろう。
これまでだって健常者からは、自分がこういう身になったら……という勝手な想像で
障害者のQOLについて見当違いな決め付けがされて、我々は被害をこうむってきた」と。

また2番目のコメントは
全体として自殺幇助の合法化に賛成の論旨なのですが、
最後のところで「そもそも終末期にしか適用されないことが間違い。
どうせ死ぬなら、いつ死ぬかは大した違いじゃないはずなのに」

それぞれ別方向からですが、
いずれも、「すべり坂」の危険を考えさせるに十分なコメントだと思うし、

この直前のエントリーでも紹介したように、
現実に医療費削減と終末期医療での選択とはセットで語られていることも
忘れてはならないと思うのですが。


2009.03.15 / Top↑
Medical News Todayで終末期医療関連で
興味深い調査結果が相次いで報告されています。


その他5本について、簡単に以下に。



これは実は上の「先取り不安」の論文についての記事と同時に読んでいたもので、
終末期の患者と家族は医療や医師との関係の一貫性に不安を抱き、
医師から見捨てられたと感じている」という調査結果の報告。

ただ、それが具体的にどういうことか良く分からずにいたところ、
続いて次の②が出てきました。



こちらの調査結果は、
一般の病院または病棟の医師は
終末期の患者をホスピスに紹介した後に
その患者との連絡を断っている、と。

確かに、仮に連絡を断ってしまわれないとしても
それまで苦しい闘病を通じて信頼関係を築いてきた医師や関係スタッフと離れて、
まったく新しい環境で初対面の医療スタッフに身をゆだねなければならないというのは
大きな不安に違いないし、

残された時間をなるべく安らかにすごすために赴くホスピスなのに、
環境が変わること自体だけでも大きなストレスであり
患者のQOLは脅かされそうです。



死の自己決定権アドボケイト団体Compassion & Choiceの会員で
Oregon州で尊厳死法を利用して自殺した人を対象にした調査で、
自殺したいと考えた理由は

・家で死にたい。
・人の手を借りずに自立生活を送りたい。
・将来の苦痛をコントロールしたい。

この調査からC&Cの代表は
「Oregon州の尊厳死法の安全と利益が確認された」と。

どうして、上記の結果からそういう分析が導き出されるのか

また内科の学会誌に発表された元論文で、
どういう分析がされているのかも分からないのですが、
MNTの記事はC&Cのコメントのみ。

(このところMNTでは自殺幇助関連ではC&Cからの情報が目に付きます。)



同じく内科の学会誌に報告されたDana-Farber Cancer Instituteによる調査で、
患者と積極的に終末期医療を話題にしようとする医師は少ないが、
医師が患者と終末期医療について話し合うことによって
患者のQOLは向上し、同時に
全国的にも癌治療にかかる医療費を毎年1,041万ドル(36%)も減らすことができる。

論文著者の一人は
我々は終末期についての話し合いのことを
multi-million conversation (百万ドルの会話)と呼んでいるんです。
だって、その会話によって、
ICUで呼吸器をつけるような高価で負担が大きな(burdensome)割りに治療効果のないケアから
たいていの患者と家族が望む家庭やホスピスでの、それほど費用のかからない暖かいケアへと
コストが削減されるのですから」

(そりゃ、そうでしょうが、それを「百万ドルの会話」と平気で呼称する感覚に、怖気が走る……。)

これは、
The National Cancer Institute とThe National Institute of Mental Health から
資金を得て行われた Coping with Cancer という
複数の医療機関にわたる研究の一部とのこと。



もう1つ、同じ内科学会誌に報告されているNIHの調査結果で、
黒人とヒスパニック系の患者のほうが白人より終末期の医療費を多く使っている、と。

ただし調査対象は過去6ヶ月間のメディケア患者16万人。

論文は
マイノリティでは、もはや症状の改善も延命も不可能な時になって過激な治療を受ける傾向があり、
生涯に使われる医療費がうまく配分されていない(misallocated)のではないか、
と問題提起。

なぜ黒人とヒスパニック系で終末期の医療費が白人よりも多いのかについて
論文は理由には触れていないとのこと。


患者の一生の間の医療費の配分が偏っているのが
まるで黒人とヒスパニック系の患者自身の無知や不見識のせいだといわんばかりですが、
それは貧困層や無保険の人たちが気軽に医療を受けることができずに、
重度化してから病院にかかるからなのでは?


それぞれ別の研究の結果報告6本をこうやって概観すると、
自殺幇助を合法化するよりも前に、まだまだできることが見えてくるような気がするし、

同時に終末期医療が問題になることそのものの背景に蠢いているものの正体が
見え隠れしているような気がしないでもない。
2009.03.15 / Top↑
前に英国医療改革のポピュリズムのエントリーで紹介した動きが
対象をもっと拡大していよいよ具体化するようです。

GPも警察も児童福祉も地方自治も
み~んなオンラインで国民から評価を受けることになるんだそうで。
(rating という言葉からすると「採点」も視野に入っているのかも?)

Brown首相が言うのには
公共サービスよりもネットのamazonとか eBayの方が
「透明性のスタンダードが高い」のはおかしいから、
上記のような公共サービスの質についても、
旅行者が利用したプランや宿泊施設についてネットに書き込んだ評価を
消費者が参考にできるような形を実現する、と。

医療においては患者に
教育と福祉については親に
政府はもっと権限を委譲して、
住民の声に沿った公共サービスを目指すべきだ、とも語っており、

医療での患者評価は夏から
児童福祉の親からの評価は来年からスタートの予定。



EBay-style feedback for services
The BBC, March 10, 2009


この記事の最後のほうに、教員の質を上げるための改革の話もちょっとだけ出てきていて、
その、ものすごく単純な能力至上主義がひっかかる。

たとえば非常に優秀な数学者というのは教師にならずに金融業界に入っていく、
そういう人を教育会に引っ張りこんで教師になってもらおう、という発想。

もちろん数学の才能が図抜けていて、なおかつ教師としての資質もある人が
そういう意欲を持っているのであれば、
ぜひとも教師になってもらえればと私も思うけれども、

特定の分野で秀でた才能があることは
必ずしもその分野の科目を教える教師として才能や資質があることと同じではないと思う。

この話、私には、この前日本で出てきた、
高校の英語の授業は英語でやれという話と重なってしまった。

あの話が出てきた時に、
英語教師のくせにろくにしゃべれない日本人教師を揶揄するような声が
出ていたけれど、

必ずしも流暢な英語を話せなくても、
わかりやすく英語を教える技量に優れた日本人教師はいっぱいいる。

英語の教師は「英語を使って仕事をする」ことのプロではなくて、
「英語を教える」ことのプロのはずだと私は思うし、

(あ、もちろん、使えないよりは使えた方が良いというのは否定しません。
 ただ、ネイティブ並みにしゃべれたりプロの通訳や翻訳者並みに駆使できることよりも
 日本語でわかりやすく教える能力のほうが教師には大事だし本筋だと思う、という話です。)

数学の才能が図抜けている人が
必ずしも数学を教える才能に恵まれているかどうか
教師としてふさわしいかどうかは別問題だと思うのだけど、

なにか、こう、
能力の上下だけではなく種類まで直線上のヒエラルキーとして並べられて、
上部のヒエラルキーの能力があれば
下部のヒエラルキーの能力は無条件に前提されてしまうような……。


だけどポピュリズムによる競争原理と直線的な能力至上主義による効率化で
本当に人は幸せになるんだろうか。
2009.03.13 / Top↑
このケースのことが今朝、朝日新聞のi-PS細胞の安全性に関する記事で触れられていましたが
詳細はなかったので、2月18日のエントリーを以下に再掲。


少年は現在17歳。

どうもイスラエル人らしいのですが、
運動と言語機能に影響するAtaxia Telangiectasiaという遺伝病の治療として
2001年にモスクワの病院で胎性ES細胞を脳と脊髄に3回注射。

最初の注射から4年後に
テルアビブの病院の医師が脳と脊髄にそれぞれ1つずつ腫瘍を見つけた。

いずれも、ちょうどES細胞を注射した場所に出来ていた。

胚や胎児の細胞を利用することの倫理問題とはまた別に
ES細胞治療の安全性に対する懸念も高まること必至。

ちなみに、この治療で少年の遺伝病が改善したかどうかについては「さだかではない」。

Stem cell ‘cure’ boy gets tumour
The BBC, February 18, 2009


2001年の段階で既にそんな治療が実施されていた……ということ自体、衝撃。

それは治療というよりも人体実験だったのでは……?
しかも子どもに……?
2009.03.13 / Top↑
去年、全英に大きな衝撃を与えたBaby P 事件を始め、
このところ地方自治体のソーシャルワーカーが問題を把握していながら
子どもたちを救えないケースが増え、
児童虐待防止体制の総点検が進んでいた英国で4ヶ月の調査が終わり
子ども大臣に対して100ページの報告書が提出された。

報告書の大筋としては、
方針は間違っていないが地方自治体ごとの対応が効果的に機能していない、と。
(詳細は以下のGuardianのほうに)

ただ、Timesの方の記事によると、
だから地方自治体が怠慢だとか無能だとばかりはいえない事情も見えてくる。

なんとソーシャルワーカーのポストの7人に1人は欠員になっているのだとか。

対策として来年度から地方自治体の児童福祉責任者向けに
The National College for School Leadershipが現場担当者への指導に関する講座を開く、と。

Action urged on child protection
The Guardian, March 12, 2009

Child services to be retained in hidden family risks after Baby P review
Ed Balls promises intensive courses after shortcomings revealed by deaths of children under care of social workers
The Times, March 11, 2009

【追記】
報告書の内容と提言については
1日遅れで出てきた以下のTimeの記事に詳しいです。



              -------


深刻な人手不足に悩む日本の介護現場で、事業者が講習会などに集められては
「介護職の離職理由は待遇の悪さだけじゃない、労務管理にも問題があるからだ」と責任転嫁され、
「求人の方法にもっと工夫をしろ。やめさせない労務管理を考えろ」と叱咤されていることと
もしかしたら、おんなじなのかなぁ……。


まず医療職の不足が欧米で深刻になり(ちょっと遅れで日本でも深刻になり)
次いで介護職の不足が欧米で深刻化し(ちょっと遅れで日本でも深刻化し)

このニュースを読むと、
次は日本でもソーシャルワーカーがいなくなるのか……。

いや、まだいるにしても児童相談所はずいぶん前から悲鳴を上げているんだった……。


いずれの職種でも、きっと本当は
現場はとっくの昔から「これ以上どうしろというんだ!」という極限状態で回っているのに
問題視も対処もされずに綱渡りを強いられてきていて、

やがて綱渡りの限界を超えるとショッキングな形で犠牲者が出るから、
(実はそれほどショッキングでない形の犠牲者は既にわんさと出ているのだけど)
メディアを中心に社会がわっと現場をたたく。

しばらく現場がこっぴどく叩かれているうちに
犯人探しはだんだんと下から上へと問題をたどっていって、
やっと少しずつ問題の全貌に目が向けられてみると、

個々の職員の怠慢とか能力不足といった問題じゃないかも……ということが分かってくる。
(もちろん個々の問題という場合だってあるとは思うのですが、
 それは別問題としてきちんと考えるべきこととして)

で、遅まきながら炙り出されてくるのは
制度そのものが崩壊しつつあるという、もっと深刻な事態──。


医療崩壊が云々され始めた頃に誰かが「立ち去り型サボタージュ」とか呼んでいたのは
結局は、それなりに技能も知識も志もあって努力もし誠意を持って働いてきた人が
「こんなの、やってられねーよ」と立ち去っていくしかないところに追い詰められる状況への
警告だったのだと思うのですが、

これはきっと同じことが介護でも児童福祉でも起こっているということで
たぶん教育現場でも同じことが起こっていると思うし、
医療の次に崩壊するのは司法という予兆?(豪)というのもあった。

なんだか、社会を成り立たせているあれこれの仕組みが
あちこちから綻び、崩壊していっているように思えて、本当に怖い──。

もはや、崩壊せずに何が残るのだろう……という話?
あ、もしかして、それ、軍隊?


          ―――――――

ただ、英国の医療では
ベッドあたりの医師や看護師の数がもともと日本に比べてはるかに高かったと思うし、
ブレア首相の時からNHSの改革にも予算を思い切って投入しているし、
(今のブラウン首相は、その当時の財務大臣)

介護でも児童福祉でも教育でも、
我と彼との人員配置とかサービスの手厚さの差
ショッキングなほど大きいのだとしたら、

タイムラグを経て日本で起こっているからといって、
同じ問題として考えていいのか、という疑問は残る。
2009.03.13 / Top↑

5月8日:病院とWPASの合同記者会見


病院側のプレスリリース
Growth Attenuation Press Conference

WPAS調査報告書フルテキスト
Investigative Report Regarding the “Ashley Treatment”
May 8, 2007





WPASホームページ http://www.wpas-rights.org/


関連報道











http://www.thestar.com/article/212230
(Toronto Star, Helen Henderson)



5月16日:子ども病院による成長抑制に関するシンポジウム



シンポに出席・発言された小山エミさんの詳細報告
http://eminism.org/blog/entry/16(英文)
http://macska.org/article/1861 (日本語前編)
http://macska.org/article/188 (日本語後編)



         -------

なお、この段階までのネットにおける日本語での関連情報は
以下の児童精神科医afcpさんのブログに詳細なリンクが集められています。


afcpさんの他、筑波大学大学院の名川勝先生、
米国在住でトランスジェンダーの問題などに取り組んでおられる小山エミさんが
この問題については継続的に強い関心を持って考察しておられます。
お2人のブログ記事へも上記から入れます。
2009.03.12 / Top↑
Texas州の入所施設で2年も前から
重複障害のある若い男性たちが介護職員らによって
“ファイト・クラブ”形式の格闘技試合をやらされていたことが判明。

警察署長は
「この30年間に見た中でも最悪の児童虐待だ。
個別の虐待は時として起こるが
この事件のひどさは組織的に行われていたことだ」と。

発覚したのは道端に落ちていた携帯電話の動画から。

そのビデオでは
職員らが入所者の男性らを煽って肉体的に激昂させ
対戦相手と戦わないと、相手に向かって押したり、ぶつけ合っては戦わせていた。

知的にも身体的にも重複した障害のある入所者たちは互いに
押したり、なぐったり、蹴ったり、
勝利者を宣言されると腕を挙げてガッツポーズをとっていた。

怪我は小さなものだったとのこと。

Texas州では法務省から
州立の障害者入所施設で虐待と市民権侵害が起こっていることを指摘され、
改善案を審議しているところ。

月曜日に、入所者を虐待から守る緊急動議が出されたとのこと。

入所者の年齢は記事からは不明。

入所施設となっていますが施設名は the Corpus Christ State Schoolで、
緊急動議でも「州の教育制度」や「キャンパス」が云々されているので、
学齢期の障害児の入所による養護学校なのかもしれません。


Disabled men forced into ‘fight club’ battles
AFP, the Canberra Times, March 11, 2009


つい昨日
町山智浩氏の「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか」を読んで
くっきり目に焼きついた感じになっていたものだから、
「バイブルベルトの南部」では「今も女は男の奴隷であって、離婚や中絶などという選択肢はない」
という一行を、この記事で思い出した。

町山氏は南部のルイジアナ州のジェナ高校で
生徒たちが日除けにする2本の樹のうち大きい方が白人専用になっていたことに端を発した
生徒間での衝突が町中の大人の人種抗争へと激化し、
全米でのネオナチによる嫌がらせに繋がっていった2006年の事件についても書いている。

そういえば医療において
最も弱い者を切り捨てる「無益な治療法」を真っ先に導入したのもTexas州だった。

続報がこちらに。
2009.03.12 / Top↑
FENの幹部4人がGeorgia州の男性の自殺幇助などの容疑で逮捕された事件で、
4人の逮捕は囮捜査によるものだったのですが、
供述書で明らかになったところによると、

がん患者を装ってFENに自殺幇助を希望した捜査官は
まずヘリウムタンクと頭にかぶる Exit Mask というポリ袋を買うように指示され、
その後、自殺のやり方を予行演習した際には
FENのガイドが捜査官の上にのしかかって
ヘリウムガスが注入される間、マスクを脱がないように腕を押さえつけた、と。

しかし、もちろんFENでは
自殺の行為そのものにはガイドは手を出していない、
ヘリウムで意識がなくなるまでの間ガイドが手を握っているが
それはサポートのためであってマスクを脱がないように抑えるわけではない、と。

そのほか、この記事に出ている新情報は、
当初の逮捕容疑であるCelmer氏の奥さんが
捜査に大変感謝していると発表していることくらい。




2009.03.12 / Top↑
Idahoの州議会上院が
テキサスの無益な治療法とほぼ同じ内容の法案を可決。


この記事は多くをWesley Smithのブログ記事に負っているようなので、
そちらも読んでみました。

(つまりは主流メディアが記事にしていないということですね。
法整備のプロセスが複雑なために専門のロビーグループでも雇わない限り追跡は不可能で、
そのため、あまり表に出ないうちにこういうことが決まっていく怖さがある、と
Smithは以下の記事の冒頭で指摘しています。これは日本でも同じかも))


患者に対する治療が医学的に不適切である、または無益であると
医師または病院の倫理委が認めた場合には
仮にその患者が事前意思指示書によって望んでいた治療であったとしても、
病院は患者に転院先を探す15日間の猶予を与えた後に
治療を拒否することができる。

Smithは「医学的に不適切または無益」という表現が曖昧であると批判。

また不可逆的な昏睡状態に関連して
これまでは「生命を引き伸ばす」という意味で使われてきた「延命」が
ここでは「ただ死を引き伸ばすに過ぎない治療」という表現に置き換わっていることを鋭く指摘。

さらにSmithは唖然とするような法文を見つけているのですが、

いったん倫理委で治療を拒否された患者が
またその病院に再入院してきた場合には
最初の判断から6ヶ月以内であれば
当初の倫理委の決定を適用することができる、というのです。

治療を無益とされた患者が他の施設で生き延びて戻ってきたとしたら、
それは治療が無益ではなかった、当初の判断が間違いだったということなのに!

さらに、倫理委の判断で行われるように書かれている一方で、
「倫理委の協議は純粋にボランタリーなものである」との追記もあって、
これは要するに、医師がそれぞれ自分が持っている患者の命の質への偏見に基づいて
決められるということではないかとSmithは批判しています。


to Die in Idaho! Legislature Close to Passing Futile Care Bill
Wesley Smith, Secondhand Smoke, March 9, 2009




「治療の無益」と「患者の命の無益」とは別の話だから
医師だって、そこらへんはきちんと区別してくれるものだと
当初は私も考えていました。

しかし、シアトル子ども病院の生命倫理カンファにおいて
Norman Fost医師が説いた「無益な治療」論
医療における無益という概念を「量的無益」と「質的無益」に分けており、
後者は「この患者の命は助けるに値するか」と患者の命の質を秤にかけるものでした。

医療倫理の功利主義でも同じように、
全体のコストパフォーマンスから治療の有益・無益を測ろうとしています。

Smithがいうように、
このような無益な治療法が広がっていけば、
それぞれの医療現場でそれぞれの医師がそれぞれの価値観によって
治療の無益を判断することになり、そこには自ずと
患者の命の質を治療のコストと天秤にかけて
「この患者はこれ以上の治療には値しない」との判断が生じてくると思われます。

左側からは自殺幇助の合法化議論が
右側からは無益な治療論がジワジワと推し進められてきて、
その両方がだんだんと高齢者・障害者・病者の居場所を狭めていく……
……という気がしてなりません。



【注】
Idaho州上院、発達障害者の治療「無益または非人道的なら差し控え」と全員一致でというニュースが
3月3日のAP電にあったのですが、
これがSmithが取り上げている法案の一部に発達障害者に限定した項目があるのか、
それとも別に発達障害者に限定した法律が議論されているのかは、いずれの記事からもよく分かりません。


【3月18日追記】
その後、Idahoの無益な治療法は反対の声が多く、成立が難渋している模様です。


【10月19日追記】
3月の こちらの Wesley Smith の情報で、法案は流れたようです。よかった。



【テキサスの無益な治療法を巡る裁判、Gonzales事件関連エントリー】
Emilio Gonzales事件
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
2009.03.11 / Top↑
興味はあるのだけど今ちょっと読む余裕がないので、とりあえず自分のメモとして。


Obama Aims to Shield Science From Politics
The Washington Post, March 9, 2009


Science and Stem Cells
The NY Times, Editorial, March 9, 2009

opens up stem cell work, science inquiries
The AP, March 10, 2009/03/11

Stem cell decision exposes religious divides
The Washington Post, March 10, 2009
2009.03.11 / Top↑
自殺幇助の問題を考えるに当たって、
非常に参考になりそうな記事を見つけました。

Oregon州の医療センターと医療大学の共同研究で、
Oregon州で医師による自殺幇助を希望している人の動機は
現在の症状ではなく、むしろ将来の苦痛や
これから先に自律性を失ってしまうことへの心配である、と。

初めて医師による自殺幇助を求める人は
現在の症状に苦しんでいるわけではなく、
また現在の自分のQOLが低いと感じているわけでも
現在生きていることを無意味だとか価値がないと感じているわけでもない。

むしろ
将来経験することを予想すると、
それが自分には耐えられないとしか思えないので、
そのリスクから自分を守ろうとしているのだ、と。

従って、研究の著者らは
患者が自殺幇助を希望してきた場合には
医師はまず患者の「自分ではどうにもできない」という感じをなくす努力をし、
教育して、将来出てくる症状の管理について患者に安心感を持たせることが必要、と。



ターミナルであっても、
痛みさえ十分にとってあげることができたら
患者さんは死にたいとは言わなくなると
ホスピス医が書いていたのを読んだことがあります。

だとしたら、はやり
死にたいと望む人に、まず必要なのは
緩和ケアで体と心が十分にケアされて、
最後まで自分は大切にケアしてもらえると安心できることなのではないでしょうか。

そして、終末期ではない状態で死にたいと望む人にも

病気や障害によって、それまで持っていた機能を失ってしまっても、
それで人間としての価値や尊厳が変わるわけではないし

人の手を借りながら生きていくあなたも、
それまでのあなたと何も変わらない、

堂々と人の手を借りてあなたらしく生きていけばいい……

……というメッセージを送ってあげられる社会であれたら、と思う。



この自殺幇助希望者の先取り不安、
ふっと障害のある子を連れて死んでいく親の先取り不安と重なってしまった……。
2009.03.11 / Top↑
このところ当ブログでは米国FENの幹部が自殺幇助容疑で逮捕された事件を追いかけていますが、
(関連サイトはこちらの末尾に)

英国にもFriends at the End(FATE)という「死の自己決定権」のアドボカシー団体があり、

そのFATEのメディカル・アドバイザーで元GP(家庭医)のDr. Libby Wilsonが
スコットランドの女性が餓死によって自殺した際に
彼女に助言していたことをテレビのインタビューで告白。
(インタビューのビデオが以下のリンクにあります)

女性は75歳で運動神経系の病気による重い障害がある。言葉も不自由。
このまま生きて、やがて自分の唾も飲み込めなって窒息するのは嫌だと考えるようになった。

しかし安楽死は英国では違法であるため、
Wilson医師が助言し、女性は食べ物と水分を断ち25日間かけて自殺した。

The General Medical Councilでは、
このような選択肢を患者と協議しただけでも医師には除名の可能性もある、と。

Wilson医師は
「列車に飛び込んだり、高いビルから飛び降りたい人はいません。
そんなことをせずに、我が家で家族に囲まれて静かに安らかに死にたいのです」と。



著名なワイン長者夫妻がそろってスイスのDignitasクリニックで自殺した件が
英国で自殺幇助合法化の議論を再燃させていますが、

警察も検察もこの事件について捜査はしない、とのこと。

また夫妻をよく知る近所の人は
「お2人とも地域で積極的に活動されるエネルギーに満ちた方でした。
とてもプロ・アクティブな方々だったので、
癌によって、これまで関ってこられた芸術や様々な活動が断たれてしまうのは辛いことだったと思います。
ああいう方々にとっては自分がエネルギッシュだっただけに、
その自分が体力も活力も失ってしまうことが辛いのでしょう。
子どもや孫に長くストレスの多い死を看取らせなければならないと考えたら
黙ってそういうことをやるようなご夫婦でした。
ただ座して死を待ち、自分にも周りの人にも長く苦しみを引き伸ばすよりもね」



夫妻は末期がんでしたが、

近所の人の言葉には微妙に「自分はそうは感じないだろうけど、
ああいうご夫妻だったら、そういうふうに感じるのも分かる」というトーンが感じられます。

ここで「わかる」と言われているのは、
「尊厳」が「誇り」と微妙に重なり合って、
「能力があった自分がその能力をなくしていくことの耐え難さ」であり、
「一定の状態になることには誇りをもてず、だからその状態で生きることには尊厳がないと考える」ことでは?

また、周囲に介護負担を負わせることを避けたい気持ちも
幇助自殺を許容する理由に挙げられていることが気になります。

「ただ座して死を待つ」などという表現が家族の介護負担との関連で使われる……。

ここに滲んでいるのは
「死の自己決定権」がOregonやWashington州の尊厳死法の対象範囲を越えて
「滑り坂」になる可能性なのでは???

なお、スコットランドで餓死した女性は
ターミナルな状態だったわけでもなければ
耐え難い苦痛があったわけでもありません。
2009.03.11 / Top↑
3月1日に連合会長 Juan Mendoza-Vega氏の名前で出されたもの。

the World Federation of Right-to Die Society の理事会は
FENの幹部4人の逮捕を強く懸念している。
その一人FEN副会長のTed Goodwinを我々の多くは何年も知っており、
彼のことは非常に思いやりのある人間だと考えてきた。

Tedの逮捕の理由に関して強調しておきたいのは
絶望的にターミナルな状態にある人や不治の慢性病で非常に苦しんでいる人は
その苦しみが耐えられる範囲を超えた時には
静かな死を求めることが多いという事実である。
これは合衆国ではOregonとWashington州で、
欧州ではベルギー、スイスで合法的に可能であり、
まもなくルクセンブルクでも可能となる。
合理的な法律がないために、FENのような組織が時として
選択権を推奨する者が考えるギリギリまで法律に迫ろうとして、
ラインに近づいてしまうことがある。

死ぬ権利協会世界連盟の理事会は
終末期の病気の人または不治の慢性病で非常に苦しんでいる人が
合法的に尊厳のある人間的な死を獲得することができるよう法律改正を支持する。

FENに関する声明と題されてはいますが、
内容としてはFENが今回摘発された非合法の自殺幇助の可能性について
世界連合の理事会としてのスタンスが明確にされているわけではなく、

どちらかというと、
FENがこういう行為を選択するのも
自殺幇助が合法化されていないことが原因なのだから、
ターミナルな人と不治の慢性病で苦しんでいる人については
自殺幇助を合法化せよ、というメッセージ。


ちなみに、この連合には日本の尊厳死協会も加盟しています。
(リンクの記事では世界連盟と訳していますが、
 さきほど日本尊厳死協会のサイトを確認したら「連合」となっていました。)

ということは、
日本尊厳死協会もこの声明にも賛同しているのでしょうか。

協会サイトでは尊厳死の対象者は傷病で「不治かつ末期」となった人とされていますが、
不治の慢性病に非常に苦しんでいる人にも「死ぬ権利」を認めよう……と?

確かに日本尊厳死協会のリビング・ウィルには
「不治であルカ脳性はあっても末期ではない」植物状態での延命治療を拒む項目が含まれていますが。



Statement Regarding Final Exit Network
The World Federation of Right to Die Societies, March 1, 2009


2009.03.10 / Top↑
以前から一度英国の介護者支援について書きたいと思っていたので、
昨日のエントリー「イギリスではなぜ散歩が楽しいのか」という本からを機に、

以下は「介護保険情報」2007年6月号の
「世界の介護と医療の情報を読む」という連載で書いた文章の一部です。


充分に眠れていますか? ストレス、不安、落ち込みは? あなた自身の健康状態は? 一週間のうち介護に使う時間は? 緊急時に頼れる人は? もう続けられないと感じていますか? 仕事と介護の両立は大変ですか? 朝から晩まで自分の好きなように過ごせた日は、いつが最後でした? 

日々自分のことは後回しにして家族を介護している人の心に沁みる、こんな問いが並んでいるのは、英国の介護者支援団体Carers UK -the voice of carers のHPである。英国では2000年のCarers Actにより、各地方自治体に対して、介護者の希望があれば、介護者自身のニーズ評価アセスメントを行うことが義務付けられた。先の質問は、Carers UKの情報提供ページで、アセスメントを受ける介護者が予め整理しておくとよいと勧められるポイントの一部。

Carers UKの解説によると、介護者が16歳以上であれば、介護される人がソーシャルサービスの利用を望んでいなくても介護者アセスメントを受けることができる。患者の退院に備えた「介護するつもり」でも可。ソーシャルサービスに直接電話で申し込むか、GP(かかりつけ医)または保健師に連絡を依頼する。目的は、介護と自分自身の生活のバランスをとり、介護者自身のニーズに対して支援を受けられるようにすること。例えば掃除や洗濯の手伝いがあれば、または通院や通勤にタクシーが使えれば、または安心のための携帯電話があれば介護が続けられるのであれば、それらも介護者サービスの具体例だ。アセスメントを行う人は介護者が介護役割を望んでいるとか、続けたがっているとの予見に立って話を聞いてはならない。地方自治体には介護者サービス提供の認否基準を明らかにすることが求められており、ソーシャルサービスは財源や資源の不足のみを理由に介護者サービス提供を拒むことはできない。

日本の介護者からすると夢のような話だが、これはあくまで制度の理念を介護者の立場でCarers UKが解説したもの。現実には「アセスメントの質にもばらつきがある」。また「悲しいことに介護者がアセスメントを受ける権利は専門家の間でも周知されていない」ので、実際にアセスメントを受けた介護者は3分の1程度。こうした現状を受けて、04年に改定されたCarers Actでは、介護者アセスメントに関する情報の周知が地方自治体に義務付けられた。

また、同じくCarers UKのHPによると、昨年のthe Work and Families Act では、柔軟な働き方を求める権利が介護者に認められた。今年4月から施行。雇用者側にも拒む権利があるが、2年前から認められていた6歳までの子どもと18歳までの障害児の親での実績によると、要求の8割が認められているという。

なお、英国政府は2007年2月に
「介護者のためのニュー・ディール」政策を発表しています。

主な内容は

①介護者が危機に陥った際のレスパイトと緊急時対応のための短期在宅ケアに、地方自治体ごとに2500万ポンド。
②介護者のための全国的な相談電話整備に300万ポンド。
③1999年の全国介護者戦略の広範な見直し。
④介護者支援・教育プログラムの開発支援に500万ポンド。

これに対してCarers UKでは、
「介護者の抱える問題に対処する好機。
仕事と介護の両立、
必要なサービスにたどり着くための支援、
介護者の健康と福祉といった難しい問題に対処するには、
次の10年に向けて目に見える戦略が必要」とコメントしています。

ちなみに、この年の英国の「介護者週間」では
バーバラ・キーリー下院議員が特に介護者支援の呼びかけに力を入れていたのですが、
そのキーリー議員は
「ケア制度の一部をなしている介護者を
目に見える存在に変える必要がある。
介護者の労力を当たり前にしてはならない」と。

なかなか果たせずにいますが、
英国を中心に介護者支援についてはもう少し調べてみたいと思っています。
2009.03.10 / Top↑
NewsweekのMy Turn「私にも言わせて」コラムで
自閉症の男の子と優秀児(gifted child)の女の子がいる母親が
先にたいした見込みのない障害児にかけているお金を
娘のような能力の優れた子どもに能力に応じた教育を施すための資金に回してもらった方が
有効なお金の使い方だ、といった主張を展開しています。

IDEAによって保障された個別教育計画によって
弟の方には学校で手厚く人員配置をしてもらっているが
そんなにお金をかけてもらったところで
この子が身につけられるのはせいぜい最低レベルの学力であり、
将来的にも自分で入浴できるようになって何らかの仕事につけるとかの話、
どうせ完全な自立すらおぼつかない。

自閉症児の弟の方は能力を伸ばすためのありとあらゆる機会を与えてもらっている一方で、
娘の方は全国統一学力テストで上位5%に入る優秀児(gifted child)で、
12歳であれもできる、これもできると、高い能力に恵まれているというのに
週に3時間のgifted children向けの教室ですら個別指導を受けることができていない。

娘にこそ一対一の個別指導をしてもらえたら、
社会に大いに貢献できる能力と可能性があるのだから
障害児教育の予算は優秀児の個別指導に回してもらいたい、と。

Autism and Education
Who should we focus on – my disabled son or my gifted girl?
The Newsweek, February 28, 2009


冒頭から、
この人が息子のことを語るトーンの冷たさと
娘の能力を手放しで自慢する親バカ意識ゆるゆるとの落差に
まず衝撃を受けるのですが、

(弟ときたら、言葉は3歳児レベルだし、
いま読んだことを言ってごらんと聞いたって答えられない、
大好きなのは幼児番組で、トイレだってまだ完全に自立してない……
それに比べてお姉ちゃんの方はまだ12歳だというのに複雑な情報も論理も
またたくまに分解・再構築、独自の考えを生み出す素晴らしさで、
日曜には小説を1冊読みあげるし、新聞のスドクだってお手の物、
学校の劇の台本なんて他の子のセリフまで覚えていたんですから)

こういうものが書かれて、
それがNewsweekのようなメインストリームのメディアに掲載されるという事実にも衝撃を受ける。

能力の差し引き計算でしか人を捉えられない意識というのは
米国社会で、もうここまできてしまったのかぁ……。

改めて考えてみれば、
科学とテクノを信仰するトランスニューマニストらの能力至上主義
医療の現場でジワジワ広がっている「無益な治療」論の功利主義や
はたまたIHMEやGates財団が主張している医療資源のコスト効率基準による分配原理などを
教育現場にそっくりそのまま持ってくれば、
確かにこういう理屈になるわけで、

そういう意味では、これはここでは1人の母親の声だとしても、
これから米国社会の声がこの人の声に重なってくるということかも……。

それにしても、この文章を読んでいると、
なんか、この母親がどういう態度と物言いで子どもたちと接しているが見えるようで、
この人に育てられる子どもたちが、自閉症児のほうも優秀児のほうも、かわいそうだ。

この子たちがどちらもあまり幸せとは思えないように、
こんな能力至上主義価値観を親から植え付けられて育った頭がいいだけのエリートたちが
世の中をより良くしようと頑張ってくれるのでは、
その世の中では誰も幸せになれない……という気がするのだけどな。
2009.03.10 / Top↑
Ashley事件を機に英米の障害児・者関連のニュースを追いかけながら
ずっと気になっているのは
実際の支援がどの程度行われているのかが
断片的にしかうかがえず、全貌がなかなか掴めないこと。

いずれの国でも
福祉サービスを求める声に日本とはまるで違う権利意識の強さがにじむために
ニュースでは「ない」ことばかりが強く印象付けられてしまうのですが、

時々ニュースから断片的に見える具体的なサービス像からすると、
英米の障害当事者や家族にとっては大いに不足であっても、
彼らにとって利用可能なサービスは案外
日本では考えられないくらいに充実していると想像されたりも。

例えば2年前に
娘Katie Thorpeの子宮摘出を求めた母親Alisonが
介護負担をしきりにメディアに訴えていた際にも、

Katieは福祉サービスとして自宅から養護学校へタクシーで送迎されていたし、
週に1度は「ティーンズクラブ」に通って、
そこでは定期的にお出かけに連れて行ってもらい、
Alisonも時々レスパイトのためにKatieを預かってもらっていたことには驚いた。

日本の在宅の重症児なら、
親が毎日、養護学校まで、または通学バスのバス停まで親が送迎していて
そのために親は午前と午後の一定時間を拘束されて暮らしています。

また養護学校以外に親と離れて過ごせる子どものための場所があって、
しかも親の付き添いなしに“お出かけ”までさせてくれるというのは
日本では考えられないし、

レスパイトは最近やっと整備されてはきましたが、
受け皿がまだまだ少ないのと
親が休息のために子どもを手放すことへの罪悪感からも
まだ定期的といえるほど利用していない家族も多いのではないでしょうか。


先日、そんなこととは知らず軽い気持ちで
イギリスではなぜ散歩が楽しいのか?」という本を読んでいたら
英国在住の金融アナリストである日本人の著者は思いがけず自閉症児の父親でした。

副題に「人にやさしい社会の叡智」とあるように、
社会的弱者を支える多様できめ細かなネットワークが何重にも張り巡らされた
英国社会のあり方を紹介している中で、


イギリスでは、障害児への対応だけでなく、障害児を持つ親への対応にも気を配っている。そのひとつが、レスパイト・ハウスの制度である。……中略……日本では、「自分の子供なのだから、親が面倒を見るのは当たり前」という風潮があり、障害児をもつ親の心身まで誰も配慮してくれない。そのための疲労と将来への悲観から、親子無理心中というような悲惨な出来事が起きている。
イギリス社会には、「障害児も、その親も独立した一人の人間であり、個人として生活を楽しむ権利がある」との考え方が浸透しており、障害を持つ子どもだけでなく、その親も休息の時間が取れるよう配慮している。そのため、レスパイト・ハウスは学校と協力して、子供たちがレスパイト・ハウスに親しみがもてるように、ふだんから子供とハウスのスタッフが交流する機会を設けている。そうすることで子供たちは、自然にレスパイト・ハウスに滞在できるようになる。こうした配慮が障害児を持つ親たちを支援している。なお、これとは別に、障害児と暮らしているために就業ができない母親には、国から手当が支給される。(p59-60)


例えば、レスパイトが整備されてきたとしても、
著者がいう「自分の子なのだから親が面倒を見るのは当たり前」という規範意識とか
「愛情があれば介護などものともしない美しい親の姿」といった美意識が
いつのまにか親自身にも根深く内在化されていて、
思い切って利用に踏み出せないブレーキとなっていたりする。

去年の福岡の事件の時に、
「支援が必要なら、待っていないで自分から求めなさい」といった支援の専門家がいたけれど、
日本人のメンタリティはそこまで権威意識で強固に固められていない上に
少なくとも子どもが一定の年齢になるまでは
「親なんだから頑張れ」「愛さえあれば」と無意識のメッセージを送られていれば、
子どもが一定の年齢になったからといって、
そこでスパッと頭を切り替えられるというものでもなく、

また介護に手がかかればかかるほど、そうして暮らしてきた年月は
親と子をどうしても密接に結び付けてしまうものでもあるのだから、
年齢が高くなるまで抱え込んでいればいるだけ、
手のかかる子であればあるだけ、手を離すのは心配にもなろうし、

だからといって子どもの介護を苦しいと感じれば感じるほど
自分に親として十分なことをしてやれないハンディや事情があれば、また余計に
親は自分を責めて気持ちが内向していくのだから、

そういうダブルバインドで身動きできずに苦しんでいる心理を
せめて支援の専門家くらいには理解してもらえないものか……。

周りから親をまず縛っておいて、
自分でその縄を抜けてくる力を持たないのは親がいけないと責めるのではなく、

親が社会規範や美意識で縛られて子どもを抱え込まなくてもいいように
「いくら親だって生身の人間なのだから、できることには限界がある」
「子どもに対するケアと同時に親を直接支援することも必要」という認識をこそ
社会に拡げていくこともまた、必要な支援なんじゃないんだろうか。

どういう支援が整備されているかということと同時に、その支援が
「障害児の子育てには親が支援を受けて当たり前」
「介護者にだって人間らしい生活を送る権利がある」という
社会全体の了解の中にあるかどうかの違いも大きい。


障害者や老人は、どの国でも社会的弱者だ。しかし、イギリスの弱者たちは、社会の片隅でひっそりと暮らしてはいない。彼らは「人間としての誇りをもって生きる権利」を主張し、そのために必要な公的な制度や資金を堂々と要求する。イギリスの社会は、彼らの声に真剣に耳を傾け、その実現に力を貸す。彼らを支える全国的な民間組織が存在する事実に、弱者に対するイギリス人の姿勢が表れている。(P.83-84)


著者が挙げている「彼らを支える全国的な民間組織」とは
高齢者チャリティAge Concern と 知的障害者チャリティーのMencap。

私も仕事の関係でAge Concern その他のチャリティの活動についてはよく目にするのですが、
高齢者チャリティだけでなく介護者支援チャリティも1つや2つではなく、
アン王女が始めたステータスの高い介護者支援チャリティもある。

いつも面白いと思って眺めているのが
「全英約600万人(成人10人に1人)の介護者が
自分を犠牲にして介護を担っているおかげで、
英国政府は年間570億ポンドの予算を削減させてもらっている」などという試算が
しょっちゅう出されてくること。

もともと医療が無料で当たり前の国だから、
その中に介護も含まれていて無料でやってもらって当たり前なのに、
家族介護者がその負担を不当に引き受けさせられている、という感覚が
英国人にはあるんだろうなぁ……とは思うのですが、

それにしても、これ、
日本では、いまのところ、まずありえない発想で、

むしろ厚労省から
「今後高齢者人口はこんなに急増するんだぞ、
それに伴って介護に必要な金額はこんなにうなぎのぼりなのだぞ」と
そういうグラフや統計で脅されて、なんだか
生きていては申し訳ないような気分にさせられたり、
「やっぱり家族で頑張るしか……」と肩を落としてしまいそうになる。

ここでも、大きいのはやっぱり
社会全体の中に弱者が権利を求めることを当たり前と了解する文化があるかないか……ということ?
2009.03.09 / Top↑
Quebec州のAndre Dionさん(67歳)は
もはや手術できない前立腺がんが全身に転移している。

毎朝40錠もの薬を飲んでいるが特に骨の痛みが耐えがたく、
尊厳のある死をさせてほしいとQuebec州の保健相にあてた手紙を
Quebec州内の新聞数社に送った。

スイスに行って死ぬよりも
ここQuebecで愛する者たちに囲まれて
死をできるだけ人間的なものにしてくれる医師の助けを借りて死にたい、

心は既に決まって平静であり、
むしろ、これは正しいことだとのキリスト教徒としての信念に慰めを得ている、と。

手紙は
尊厳死合法化活動団体のソーシャルワーカーの支援で書かれたもの。

Quebec州のBolduc保健相は政治家になる前は25年も医師をしていた人物で、
現役時代には「尊厳のある死」という共著がある。

保健相のスポークスマンは
この問題は連邦政府の管轄なので州として法律を変えることはできないが
議論の必要については他州にも働きかけていく、と。



キリスト教では自殺は罪だったと思うので、
「これは正しいことだというキリスト教徒としての信念」というところは
ちょっと理解不能……。

それから、もう1つ、この人の言葉、
特に「尊厳と誇りを持って死にたい」という言葉を
このところFENなどの「死の自由」文化から出てくる理屈と重ねて読むと、
ちょっと気になってきたのは、

「尊厳」の意味がこれまでとは違ってきているのではないか、と思われること。 

「人間にはどんな状態になっても尊厳を侵されない権利がある」というふうに
尊厳とは主に「他者から侵されない」という形で守られるべきものとして
考えられ云々されていたし、

尊厳自体はその人の状態とは無関係にすべからく人に内在しているものとして
捉えられていたと思うのだけど、

自殺幇助の合法化を求めている人たちに共通しているのは
いつのまにか「一定の状態になることには誇りがもてない、
だからその状態には尊厳がない」という捉え方で、

この捉え方は私にはAshley事件での
「Ashleyはどうせ重症の知的障害で何も分からないのだから
成長する権利を奪っても、臓器をとっても構わないし、
それが尊厳や体の全体性を侵すことにはならない」
という正当化の論理と重なって感じられます。

すなわち、ここにあるのは、
英語で helpless と形容される状態であることは
尊厳に値しない状態なのであり、

だからこそ、そうでなかった自分がそういう状態になることは
誇りを傷つけられ耐え難い……という感覚ではないでしょうか。

この男性が「尊厳」だけでなく「尊厳と誇り」という言葉を使っていることが
私にはとても象徴的だと感じられるのですが、

人間が自分に誇りをもてるのは
自分で自分をコントロールできる能力を有しているからであり、
自分で自分をどうるすこともできないhelplessな状態になることは
誇りを傷つけられ、尊厳を失うことであり、
自分がそんな存在でしかなくなることは耐え難く、許しがたいこと……。

無意識にせよ、いや、無意識だからこそ、
幇助自殺を希望し、また合法化を求める人たちの使う言葉に
どこかPeter Singerやトランスヒューマニストたちの
一定の知的能力・認知能力を持たない人間は動物と変わらないか、それ以下の存在であるとする
パーソン論的価値判断が匂っていることに、ものすごく恐ろしいものを感じてしまう。

人間の能力は限りなく伸びて可能性は無限に広がると夢を見る科学とテクノロジー万能信仰が
総じて人間の自己イメージを非常に高いところに据えてしまって、

それに伴って、
自分が自分で思うようにならない状態や、
能力の低い状態に対する許容度が低くなってきている……ということはないのでしょうか。


例えば去年の英国でのこちらの事件などは象徴的かも。

ラグビーの選手だった23才の青年は事故で障害を負った時に
そんな自分をsecond-class citizen としか感じられず、
そんな劣った存在として生きるくらいなら死にたいと望み、
両親の手を借りてスイスのDignitasで自殺したのですが、

運動能力が高いことが誇りであった彼のような人にとっては
一定の身体機能を失うことが、それだけで、もはや誇りをもてない事態であり、
そんな自分はもはや尊厳のない存在としか感じられないのだとしたら、

それはその人の誇りのもち方や尊厳の考え方に問題があるのであって
実は尊厳の問題とは違うのではないでしょうか。

誇りは、人により勝手にその対象や誇りの持ちようが違っても仕方がないかもしれないけれど、
(間違った誇りの持ちようというものがあるとしても)

しかし、尊厳はその人の状態によって「ある」とか「ない」とか判断するものではなく、
どんな状態になろうと最後まで守られるべきものが尊厳ではないのでしょうか。
2009.03.09 / Top↑
現代医学における予防医学重視と医療費節減インセンティブによって
75歳以上の健康な高齢者に対して予防的投薬が行われているが、
一人ひとりへの利益が実際にどの程度あるかということはきちんと検証されておらず、
高齢者への予防医学はむしろ有害、と

BMJに発表された論文でEdinburgh大学の名誉教授(心臓病の専門医)が指摘。

例えば脳卒中を予防する治療とは
軽い高血圧の症状のある成人75人に1人の確率で起こる脳卒中を予防するものなのだから、
統計上74人は予防の必要がないのに死ぬまで治療を受けることになる。

政府のガイドラインは
医療経済上の必要と製薬会社からの執拗な圧力とから出ているのだから
あまり鵜呑みにしてマジメに守ろうとしない方がいい、

そういうことをするから患者は簡単に診断をつけられて治療されてしまう。

それよりも大事なのは症状の原因をきちんと分析研究して突き止めることであり、
本当に75歳以上の高齢者で危険因子に対する予防治療を行うことが
それぞれの高齢者にとって利益となるのかどうか
慎重にエビデンスを出すべきだ、と。

また患者には、
治療に伴う利益とリスクと、治療しなかった場合の利益とリスクの両方を
十分に説明する必要がある、とも。


元論文はこちらに全文があります。


著者は若い人の予防医学はそれなりに意味があるとして
高齢者についてのみ疑問を呈しているのですが、

最近、立て続けに目に付いた記事で、例えば、

米国泌尿器科学会が、
前立腺がんの兆候が全くない中高年の男性でも
この薬を飲めば予防できますよ、と新たなガイドラインを出したとか



小児のⅠ型糖尿病を引き起こすウィルスが分かったから
これでワクチンが作れるようになるという話だとか



妊娠中に胎児のために飲むマルチ・ビタミン「出生前ビタミン」には
脳の発達に不可欠なビタミンiodine が十分に入っていない商品があるから気をつけろとか、

(たかがサプリメントなのだから、飲まなければ欠乏するというわけでもないのに
これを読むと、iodineがちゃんと入った製品でないと
おなかの赤ちゃんの脳の発達に悪影響がある……と解釈されかねないような)



この記事からたどったら、
米国の超有名で権威あるMayo Clinicのサイトの健康情報に
出生前ビタミン:あなたの赤ちゃんにベストなスタートを」と題したページがあったりとか。


予防医学が行き過ぎているのは
高齢者についてだけではないのでは?

研究者は1つの病気の予防さえ考えていればいいかもしれないけど、
あの病気もこの病気も予防できるからとワクチンやら薬やらを飲まされる方は
それぞれ1人の人間が複数のワクチンやら薬を体内に取り込むことになるわけで、

そこの相互の影響や総合的な安全性は検証されるのか……
……という素朴な疑問を私は無知な素人なりにずっと引きずっていて、

たしか米国では乳幼児期に義務付けられたり推奨されているワクチンが
既に11種類もあって、その中には
子宮がんの原因とされているヒトパピローマウイルスのワクチンも含まれているのですが、
このまま「この病気の原因になるのはこのウィルス」という新たな知見が出てきて、
そのウィルスに対するワクチンが開発されるたびに
この11種類にひたすら追加していくつもりなんだろうか。

そこまでどの病気も予防してしまわなければ気がすまないなら、
いっそ人体をクリーンルームみたいにしてしまうしかないんじゃないかと思うのだけど、

そんなことをしたら人間はもちろん免疫もなくして
生きてなんかいけなくなってしまうのだろうし、

それなら際限なくワクチンを追加していけば人間が健康になるというのも
大いに疑問なのではないかと、素人ながら考えてしまう。
2009.03.08 / Top↑
FENの逮捕者4人のうち2人の弁護士のこの発言には
私も月曜日に別の記事で読んだ時に、
一体なんということを言うのだ!……と、頭に血が上った。

以下の記事は、これにホスピス関係者が猛反発している、というもの。
こちらの記事に引用された弁護士の発言をそのまま引っ張ると、

この事件で起こったことはホスピスで起こったこととなんら変わらない。
実際にはホスピスは自殺だ。ただ、ちょっと時間をかけているだけで」

the National Hospice and Palliative Care OrganizationのECOは
「ホスピスは命の終わりに近づいている人たちを共感的にケアします。
しかしホスピスが考えるのは死ぬことではなく生きることなのです。
ホスピスと緩和ケアは死に行く人とその人を愛する人たちが一日一日をいかに生きるか
それを安楽とガイダンスを通じて支えようとするもの。

ニュース記事にあったあの発言は、
全国のホスピスでケアを受ける人や家族介護者に対して敬意を欠いて無神経です」

またHospice of the Western Reserveのディレクターは
「ホスピスと自殺幇助を結びつけるなんて、ありえない。
親切に解釈してあげたとしてもホスピス・ケアを皮相的にしか理解していないし、
悪く解釈すれば、法廷闘争にそなえてカムフラージュにホスピスを使っているだけ」



Wesley Smith もブログでこの問題を取り上げています。
http://www.wesleyjsmith.com/blog/labels/Hospice.%20Assisted%20Suicide.%20Final%20Exit%20Network..html


              ----



私も月曜日のエントリー
「どうせ」と「せめて」とでは姿勢が真逆だと書いたけど、

あの発言を読んだ時に、なんであんなに頭に血が上ったのか
この記事を読んで、ちょっと分かったような気がする。


娘の脚をマッサージしてやりながら
硬く冷たく固まった脚が少しずつこわばりを解いていくのを感じる時の、あの嬉しさを
アンタらは知らない。

ねじれて空洞になった背中にタオルを一枚、詰め沿わせてやることで
寝たきりの娘の体が自分で支える緊張をふっと解く時に、
こちらの身体も一緒にちょっと軽くなる、あの小さな安堵と喜びを
アンタらは知らない。

だんだんと食事時にむせることが多くなってきた娘に、
一日でも長く、親と一緒に同じものを口から食べさせてやりたいと、
小鉢と調理スプーンを手に父親が丁寧に刻んでやる
あのおかずのミリ単位の細かさをアンタらは知らない。

そうして刻んだ好物を食べてニンマリする娘と
「おいしいね」と目を見合わせる瞬間の豊かさを
アンタらは知らない。

ホスピス・ケアであれ、それ以外のケアであれ、
ケアするというのは私にとって、
「どうせ」と放っておけないことだから、

なにもかも出来ないことだらけ、
してやれないことだらけの中でも、
小さくても「せめて」を1つずつ見つけては重ねていくことだから、

そして、その積み重ねと繰り返しの中から生まれてくる
喜びや発見や驚きや達成や、通い合いや繋がり合いがあることも身をもって知っているから、

そういう繊細で丁寧で豊かなものであるケアを
粗雑な手つきで「どうせ無意味」と切って捨てるに等しいアンタらの、

その発言はどうにも許せない。


どうせ死ぬ、
どうせ治らない
どうせ分からない
どうせ重症者だから……と
投げ出したり、切り捨てたりする姿勢と、

「せめて」と相手のありのままを受け入れて寄り添うケアの姿勢とは

全く正反対です。
2009.03.07 / Top↑
Washington州の尊厳死法が5日に施行されたのに伴って、
ここ数日間、関連ニュースが続々と出ています。

いずれも、だいたい似通った内容ですが、その中で特に目を引くのは、
このたびの新法に「参加しない」とオプト・アウトする病院が続々と出ていること。

このところの報道を見る限りでは
医療職の間には合法化を懸念する声はいまだに大きいようで、
ちょっとほっとします。

そんな中から以下の記事で目に付いた
合法化運動の先端に立ってきたCompassion & Choices のWashington支部長の発言を。

彼は今回の新法で認められたのは幇助自殺でも安楽死でもなく
「支援を受けて死ぬこと」なのだと語っています。

支援を受けて死ぬことは、安楽死でも自殺でもありません。
安楽死とは医師が患者の命を止める行為のことですから、これは安楽死ではないし、
死の援助を求める人たちは命を終えることを求めるわけではないので、自殺でもありません。

この人たちは死にたいわけじゃないんです。
死よりも酷い苦しみを経験しているから、
軽減することの出来ないその苦しみを終えたいと求めているのです。

厳しいチェックが定められているのだから、
患者らの中で死のうと考える人が増えるとの批判は当たらない、とも。

で、その厳しいチェックとは(一部、他の記事も参考に)、

・18歳以上でWashington州に永住している人。

・15日間を置いて2回口頭で致死薬を要望したうえで、書面で要望する。その際には本人と無関係な人物2人の証人が必要。

・2人の医師によって余命が半年以内であると確認されていること。

・思想信条により拒否する権利が医師には認められる。患者が選択できるように予めその旨を表明することが必要。

・医師が処方した致死薬は患者が自分で服用しなければならない。医師が飲ませることは不可。


(この記事の末尾に関連記事数本へのリンクあり)


私がものすごく単純に疑問に感じているのは、

医師が処方した致死薬が、
患者本人が飲むまで、その患者によって安全に保管されることが
どうして担保できるんだろう……? ということ。

この記事によるとOregon州の尊厳死法で
医師から致死薬を受け取った人のうち3分の1はそれを飲まないまま
もともとの病気で死んでいるというのですが、

じゃぁ、その3分の1の人が処方された致死薬というのは
いったいどうなったのでしょうか。

その場合、一体誰の責任で回収・破棄されるのか。

医師が処方した後の致死薬のトラッキングについて
これまで私がニュースで読んだ限りではどこにも触れられていないのですが、

悪用される可能性は本当にないのでしょうか?

これ、人を殺せる薬が一般人の家に転がっているという話で、
それって、ものすごくアブナイ状況だと思うのですけど。
2009.03.06 / Top↑
イタリアの医師が9年前にクローニング技術で3人の子どもを誕生させた、と発表。

2人が男児、1人が女児で
3人とも元気で東欧で暮らしている、と。

この医師は94年に64歳の女性を体外受精で妊娠させて物議をかもした人物で、

脳腫瘍でこん睡状態に陥ったままの男性の妻を
生殖補助医療で妊娠させると2週間前にも発表したばかり。


2009.03.06 / Top↑
Peter Duff さん(80)と妻のPennyさん(70)は英国の裕福な夫婦。
共に末期がん患者である2人は金曜日にスイスのDignitasクリニックで
バルビツール系毒物を飲み自殺。

娘は両親の行為を「美しくすばらしいこと」と讃えるが
法律上の問題があるため詳細は語っていない。

MSの女性が将来Dignitasに行く場合の夫の介助をめぐって
法律の明確化を求めた裁判で
英国の最高裁は事実上罪に問わないとの判断を示したばかり。

英国の夫婦がそろってDignitasで自殺したのは2例目で
1例目は2003年のStokes夫妻。
Stokes夫妻は夫がてんかん患者で妻がMS。
いずれも末期の病気ではなかったが、
スイスの法律では自殺幇助に末期であることを条件付けていない。

なお、Times紙の取材によると、
英国の医療委員会(GMC)は近く全国の医師らに対して
終末期医療においては患者の意思を尊重することとしてガイドラインを出すとのこと。

延命治療拒否や中止を望む患者の意思が明確であるのに
それに反して治療を行った医師には資格剥奪の可能性も。



もう本当に「滑り坂」ずるずる……と思えてならないし、

ここでもまた、厳密に線引きした上で議論されるべきことが
なにもかもゴチャマゼで同じ土俵に上げられて、
それが「滑り坂」をさらに急傾斜させていると思えてならない。

GMCのガイドラインは
英国内での消極的安楽死の自己決定の話であり、
Dignitasで行われているのは積極的安楽死、または安楽死ですらない自殺幇助。

本人がDignitasに出かけて自殺する行為についての判断と
それを家族が手伝う行為についての判断も、また別問題のはずで

しかも、こちらは外国での幇助自殺なのだから、
話が錯綜しているのに、

余命が限られて耐えがたい苦痛がある人の自己決定と
そうではない人の「死の自己決定」も並べられて

こんなにも、なにもかもを一緒くたに持ち出して記事にして、

そこに「夫婦がそろってスイスで契約自殺」というタイトルと
「医師らへのガイドラインとタイミング重なる」という副題をくっつけるというのは、
報道する側の意識のあり方として、いかがなものか──。
2009.03.06 / Top↑
去年4月に製薬会社とブッシュ政権が訴訟つぶしを画策中のエントリーで
紹介したように、

製薬会社を規制することのできる専門知識を持っている唯一の機関がFDAである以上、
FDAの認可した医薬品の安全性については州法の判断範囲を超える、とする
Pre-emptiveという先制主義の論理で

FDAが認可した薬品による被害で製薬会社を訴えることはできないとする訴訟つぶしを
Bush 政権と製薬会社が画策しているという話があったのですが、

今日のこの記事によると2006年に実際にFDAはそういう方針を打ち出していたようです。

しかし、吐き気止めの注射で右腕切断に至ったとして
去年製薬会社を訴えていた子ども向けの女性ギタリストの裁判で
裁判所はFDAの監督は完全とは言い切れないとして女性が勝訴。

認可を楯に訴訟から免れようとする製薬会社とFDAの思惑に
ストップがかかった模様。

もっとも、これ以外のケースでの判断も出ているようで、
医療器具ではpre-emptiveが認められていたり、

製薬会社の弁護士は
専門知識のない陪審員にちゃんとした判断ができるはずもなく
裁判になると感情論になるだけだと反論しているなど、
この問題にはまだ紆余曲折がありそうですが、

それにしても現在米国で起こされている製造者責任訴訟の3分の一が
製薬会社に対するものだとか。

Justices Rule Against Drug Company in Injury Case
The Washington Post, March 5, 2009


NY Times もこの問題を社説で取り上げていました。

A Win for Injured Patients
The NY Times, March 4, 2009
2009.03.05 / Top↑
23歳で癌で死んだMark Speranzaさんが生前に冷凍保存していた精子を使って
代理母に産んでもらって孫がほしいと、
Speranzaさんの両親がニューヨーク州の裁判所に判断を求めていたケースで

裁判所は両親の要望を却下。

Speranzaさんは癌から生還したら子どもを持ちたいと精子を冷凍保存したものだが、
その際に自分が死んだら破棄してもらうよう同意書にサインしている。

州法では保存精子の利用は、
持ち主と現在性的関係があるパートナー以外、特定のレシピエントには認められていない。

精子の提供者が血液検査を受ければ例外となるが、
本人が死んでいるので検査が出来ないため。

この検査は病気の有無を確認して
代理母や社会の人々一般を病気から守るためだとのこと。


Parents lose frozen sperm case
The Canberra Times, March 5, 2009
2009.03.05 / Top↑
著名児童精神科医Biederman医師らの製薬会社との癒着スキャンダルに揺れるHarvard大学で
医学生たちが倫理改革の先頭に立とうとしている。

記事冒頭に“いかにも”なエピソード。

現在医学部4年生のMatt Zerden君は1年生の時の薬学の授業で
教授がコレステロール薬の効果をもちあげて
学生が副作用を質問してもバカにして相手にしない態度にムカついて
講義の後でインターネットで調べてみたら
その教授は製薬会社10社の有給コンサルタントで
そのうち5社がコレステロール治療薬のメーカーだということを発見。

「裏切られた、という気がしましたね。
だって、そうでしょう。160人ものやる気に満ちた学生が
温室状態で基礎を学ぼうとしているんですよ。
そこに教授が出してくる情報がこんなに汚染されているなんて
あっていいことだとは思わない」

彼が仲間にこの話をしたことが
その後200人のHarvard医学生と共感した教職員の大きな運動へと成長する。
学生たちが医学部の講義室や研究室からも17の関連教育病院、その他施設からも
製薬会社の影響を排除する運動を始めている。

なにしろHarvard大学は米国医学生協会から
製薬業界からの資金の監視とコントロールについて
不名誉なF(落第)という成績をつけられたのだとか。

Harvardの名誉と威信を取り戻すために
学生たちは講義において教官らに
製薬会社との関係についてディスクロージャーを求めている。

学部長も学内の利益の衝突に関する方針を見直すに当たって
19人からなる委員会を立ち上げたが、そのうちの3人は学生である。

しかし、教師ら個々の製薬会社との関係は深く、
また製薬会社からの莫大な資金なしには大学の講義も研究も
もはや成り立たないところまできているのも事実。

(学生の動きに興味があって読んだので、後半は適当にしか読んでいませんが
上記「しかし」以降の詳細は以下の記事後半に多くの数字が挙げられています。)



日本のかつての大学紛争を髣髴とさせる話。

今、日本で地道に地域医療や僻地医療をやっているお医者さんたちの中には
当時、角棒や旗を振っていたという人が結構いたりして、
そういう人を見つけると、私はちょっと感動する。

そうかと思うと、そういう人たちと一緒に旗を振っていた人が
どこぞの大学病院で教授としてふんぞり返っていると聞いたりもするのだけど、

(あー、でも、そういう方々も皆さん、そろそろ引退されるのでしょうか……)

でも、今どきの海の向こうの学生さんたちも
ゼニで薄汚れた教育も情報も要らないと
「講義するなら、フル・ディスクロージャーしろ」と要求を突きつけるなんて、

――すがすがしく頼もしいじゃないか。


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2009.03.04 / Top↑