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2007年は49人だったので、漸増。
その大半は白人で、大半は癌の末期患者だったとのこと。

ただし、医師から致死薬の処方を受けた人の人数は同じなので
2007年に処方されて実際に飲んだのが2008年だったという人も
60人の中に含まれているのだろう、と。


2009.03.04 / Top↑
Idaho州の州議会上院が全員一致で
発達障害者の治療が「無益である、または非人間的である」場合には
その治療を差し控えることを決めた。

医師らの団体が下書きしたもので、
この決定によって
医師または家族が病院倫理委員会に治療続行の妥当性を諮ることができることとなる。

倫理委が治療はもはや意味を成さないと決定した場合には
患者または患者の代理人には
ケアを引き受けてくれる人がいる他の場所を探して転院する猶予が与えられる。

採決はこれから下院へ。

Idaho Senate OKs treatment curtailment measure
AP, Talk Radio 950 KOZE – AM, March 3, 2009

気をつけておきたいと思うのは、
「無益であり、かつ非人間的」である場合というのではなく、
「無益である」か、または「非人間的である」かのいずれかを満たす場合でよい、という条件設定。

それにしても、
Ashley事件に関連して病院内倫理委員会の機能を調べてみた時には
たしか病院内の倫理コンサルテーションの一環として位置づけられている倫理委員会の役割は
あくまでも助言であり、決定権はなかったと思うし、

Ashleyケースにおいても
「倫理委員会は決定したのではなく、親に対して勧告を行っただけ」というのが
病院側の言い訳だったし、

更に言えば、
米国の病院内倫理委員会については
設置状況や活動状況や質にはばらつきがあって、
まだまだ倫理委がきちんと機能しているとは言いがたいとする報告だって出ていたはず。

もはや、委細かまわず滑り坂ずるずる……?
2009.03.04 / Top↑
いただきもののネタですが、

アラブ世界に向けて障害者への理解を広める目的で作られたラップ・ソングを
国連がリメイクしたものが YouTube に。

とても心地よいので、ぜひ。




視覚障害者。
元気に遊ぶ少女の姿と、大人になって戦争で脚を失った現在の彼女。
教師の無理解で抑うつ的になり引きこもりになる知的障害者。

だけど

“違う”は“普通”。
アンタの憐れみなんかいらない――。

同じように接してくれたら、それでいい。

心地よく繰り返されるリフレインは

Different is a natural thing.
Even in nature, it’s normal for things to be alike or different.


違うは普通。
自然だって、同じがあれば違うもあって、みんな、それで普通。

私はこれまで、
障害児を産むな、産んでも殺せ、障害者は社会のジャマだ、といわんばかりの施策の一方で、
最先端の生殖補助技術では障害児が生まれる確立が高くなるようなことが
わざわざ行われているではないか……と、その矛盾に苛立ちを感じてきたのですが、

このビデオを何度か繰り返して見ていたら、

それだけじゃない、戦争だってそうだ……と。
2009.03.03 / Top↑
BBCの幼児向け番組 CBeebiesのホスト Cerri Burnellさん(29歳)は
生まれつき右腕の肘から先がない。

それについて
「子どもたちが怖がる」
「子どもが悪夢を見てはいけないから番組を見ることを禁じている」などと
視聴者から抗議が届いている、とのこと。

以下のicadのエントリーにあるABCテレビのビデオには
番組の1シーンと、本人へのインタビューがあります。

Handicapping Cerrie Burnell
By Dick Sobsey,
icad, February 26, 2009


Burnellさんが話していることの要点は

かつて人工の腕をつけてみたこともあるが自分には不便なだけだったので、
それ以来、ありのままに姿で暮らすことを選択した。

このままの姿で番組のオーディションを受けて受け入れられたのだから、
番組スタッフとの間で片腕であることが特に問題になったこともない。

今回のようなことはこれまでもよく言われてきたが
それは私個人に向けられたものというよりも、
すべての障害者に対するスティグマであり、
すべての障害者が経験している差別がここに象徴的に現われている。

子どもたちは、この腕を見て、どうしたのかとまっすぐに聞くが
それは怖がっているのではなく単に興味を持ち、知りたがっているだけ。
ちゃんと説明すれば、それでいいこと。

私がテレビに出たことでこういう声が起こってくるというのは、
いかに一般の人々が障害に馴染んでいないか、
いかにテレビに障害のある人が登場することが少ないかを物語っている。

もっと様々な障害のある人がテレビに登場するべきだということ。


BBCでの平等と人権委員会のBert Massie卿の指摘が鋭くて、

障害者に対する偏見や差別意識のある大人はいるが、彼らはその偏見が自分のものだと認めないために、それを子どもたちに投影して、差別しているのが子どもたちであるかのような物言いをする。だから抗議はみんな匿名なのだ。


Sobsey氏 の指摘も鋭くて、

MSNBCのニュースタイトル
「片腕のテレビホストは子どもを怯えさせる、と親。
専門家はBBCテレビの番組ホストに対する親の不快は“時代遅れ”と」
の「時代遅れ」という表現こそ、
ことの本質を見誤っているし、

ABCテレビの番組タイトルに至っては
「片腕のTV番組ホスト、論争を引き起こす」

これでは
「ユダヤ人がホロコーストを引き起こす」
「黒人がリンチ事件を引き起こす」と題するに等しい、と。

論争を引き起こしたのはBurnellさんではなく、
視聴者の偏見であり、無知であり、ヘイトであり、
Burnellさんは差別を受けた被害者である、と。

また親が自分の差別意識を子どもに投影しているだけでなく、
そうした親の姿勢を子どもに受け継がせていくのだ、とも。


まったく、そのとおり──。

そして、”時代遅れ”というよりも、
むしろ今だからこそ、こんな声が出てくるのかも……?
2009.03.03 / Top↑
Iowa州の肉の加工工場で
Texas出身の21人の知的障害男性が劣悪な住居に押し込められて
賃金と州からの障害者手当てを搾取され働かされていたことが判明。

2月7日に住居となっていた建物は封鎖、
21人は州の保護下に置かれたものの、

郡の福祉部局から発見された文書によると、
70年代に1度、さらに97年にも1度、
ソーシャルワーカーが視察して実態を把握していながら
権限がない、十分な証拠がない、として介入していなかったことが判明。

21人が住まわされていたのは築106年の建物で、
ドアのいくつかには錠がかかり窓には板が打ち付けられて、
暖房設備は壊れたまま、小さなヒーターがいくつかのみ。

この一帯に食肉加工の派遣労働者を送っているTexasの会社
Henry’s Turkey Serviceのプログラムによる派遣で、
給与と州から支給される手当てのほとんどが生活費として搾取され
手取りは月に65ドルだったとのこと。

75年の視察の際には
知的障害者への社会経験と職業訓練プログラムだと説明されていた。

Iowaの州知事は同様の事件を防止するため
州法の改定を検討する委員会を立ち上げたとのこと。



そうでした。

貧困層は軍隊に、という話から
障害者・病者・高齢者は科学とテクノロジーの研究資源に……か……と
考えたのだったけど、

まだ奴隷労働というのがあった……。

日本でもぽつぽつと耳に入る話。
これもまた、大きく報道されることはない……。
2009.03.03 / Top↑
週末で読めないでいた間にも
Final Exitの自殺幇助疑惑に関する続報はわんさと出てきていました。

その中から以下のものを読んで、この間の動きを。


Don’t Confuse FEN Death And Investigation With Aid In Dying
The Medical News Today, February 28, 2009


Arrests open new front in assisted suicide fight
The Chicago Tributne, March 1, 2009/03/02



まず先週水曜日に逮捕された Final Exit の4人は仮釈放となり、
そのうちの1人、Lawrence Egbert医師がメディアに向けて発言しています。

他にも、Final Exitを創設した人物で
ヘリウムを使った自殺方法を指南した書 “Final Exit”の著者Derek Humphryと
(CA州の自殺幇助事件でJimmyさんが持っていたのがこの本)

代表の逮捕により急遽、代表となったJerry Dinicinもメディアに発言しています。

彼らの発言とその後の報道で明らかになったこととして、

・これまでの5年間に全米で200人以上の自殺に関与したとHumphry。

・4人の幇助で自殺したとされるCelmer氏の癌は、氏の主治医によると、頭と首の手術2回で完全に取り除かれて回復も目覚しく、Celmer氏が気に病んでいたのは癌ではなく手術によって外見が損なわれてしまったことだった。また自殺の2日前にCelmer氏はFinal Exitの援助によって主治医の診察を受けに来ており、主治医はその際に、3日後に精神科医の診察を受けるように予約を取った、とのこと。

・Celmer氏は腰の関節炎にも苦しんでいたが、ちゃんと痛み止めの薬を飲み、酒とタバコを控えれば痛みは軽減したはずだ、と、こちらは主治医ではなく供述書。

・Egbert医師は、ターミナルな患者の自殺に協力しただけで、厳しい審査をして実際にそういう病気だという確認を主治医にとった、と。「死ぬ時に苦しまなければならないのは神の意思だとして従う人はそれでいいが、無意味に苦しみたくないという人がいるなら私はその意思も尊重する」と。

・Egbert医師を始め、FENの幹部らは「苦しみの少ない自殺方法や、必要なものを手に入れる方法について教えてあげただけ。話をしただけで、直接手を貸したわけではない」ので違法行為ではない、最後まで闘う、と。

・APはこの点について、直接的な関与の有無によって法律的にも「幇助」の定義の線引きが明瞭になっていない問題を指摘しています。また同記事によると2006年の米国最高裁の判断により、自殺幇助を含む医療現場への規制については州に規制が任された、とのこと。

・現代表のDincinは退職した臨床心理士で、「こういう人たちは苦しんでいて、その苦しみは個人的な経験なのです」、「命は自分のもの。妻でもなく子どもでもなく牧師でもなく、自分の命について決められるのは自分以外にはいない」。また4人のうち2人の弁護士は「彼らがやっていることはホスピスでやっていることと違わない。ホスピスだって自殺であり、ただ時間をかけているだけだ」と。

(いや、「どうせ」と「せめて」は姿勢として真逆だと思いますが。)

・自殺幇助の合法化を目指す活動からの反応は2つに分かれており、終末期の患者に限ってOregon州などのように厳密な条件の下で合法化を目指す穏健派からは、Final Exitのやり方に批判が出ている。

・Medical News Todayの記事は同じく尊厳死アドボケイト団体のCompassion and Choicesのリリースで、自分たちの主張を一緒にされたくないとの懸念がありあり。

・このCompassion and Choicesのリリースによると、2008年に the American Medical Women’s Association, The American Medical Students’ Association, the American College of Legal Medicine, the American Public Health Associationの4団体が、精神的能力のあるターミナルな病状の患者に対して、医師が致死薬を処方して自殺を幇助することを支持する方針を出した、とのこと。Compassion and Choicesはこれをもって「ターミナルな患者に死に方についての説明と選択を認めるエンパワメントへのアメリカ社会の転換点」だ、と。

(しかし、よく見ると、医療職の職能団体とはいえ周辺的な団体のみ。)


ちなみに、
上記の Derek Humphry の著書は


日本でも翻訳が出ているようです。


Amazon.comの内容説明には
「苦痛なく死ぬ権利を求めて。
本書はまさに人間最後の「至福」のありかを探る問題作である」と。
2009.03.02 / Top↑
世界初の試験管ベビー誕生に関ったJeff Steinberg医師が経営する
ロサンジェルスの生殖補助医療のクリニック the LA Fertility Institutesで
出生前診断技術を利用して親が目の色や髪の毛の色などの特徴を選んだ
デザイナーベビーが来年誕生する、とのこと。

このクリニックでは性別の選択も行われており、
Steinberg医師は医療上の理由でも外見上の理由でも
出生前診断技術による選別はOKと。

「こういうことが危険な道を行くことだとは思いませんね。ただ未知の道だというだけで」

技術的にはずい分前から可能だったことなのに、
ただ医療現場が無視してきただけだ、とも。

もっとも目の色や髪の色については
完璧な予測は不可能だとHPには謳っているとか。

しかし英国の生殖補助医療の専門家らからは
科学技術をこういう目的で利用することには倫理的な問題があると、憤りの声。

どれが青い目金髪の遺伝子かが特定されれば
その他の胚は一体どうなるのか、

赤ん坊が店の棚から選んで買うのと同じ商品になってしまう、

好みの胚を選ぶために、わざわざ沢山の余剰胚を作ることが慣行化すれば
赤ん坊は選択できることが当たり前になってしまい、
滑り坂を避けることは出来ない……などの批判が。

一方、英国で4月6日に施行される新しい法律では
体外受精で母親になった人は出生証明の「父親」の欄に
誰の名前を書くのも、他の女性の名前を書くことも含めて、自由になるのだとか。

Designer baby row over US clinic
The BBC, March 2, 2009


あー、なんだか、よく分からないけど、
きっと人類は、核でも地球の温暖化でもなく
自らの愚かさによって滅びるんだろうな……。

科学とテクノロジーの世界の血迷よいごとニュースを見るたびに
そうつぶやくようになって久しい。
2009.03.02 / Top↑
雨宮処凛さんが朝日新聞に書いていた書評で気になって
堤未果さんの「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命」を読んでみた。

……といっても、実はこの本は
後に「ルポ貧困大陸アメリカ」に結実する著者のナマ体験がつづられた2006年の本で、
先に「ルポ」を読んでしまうと、ちょっとかったるい感じもあるのだけど
書かれていることは「ルポ」と基本的には同じで、

米国では2002年に作られた「おちこぼれゼロ法」によって
高校に生徒の個人情報を軍のリクルーターに渡すことが義務付けられ
格差を超えるためには大学進学しか手段のない貧困層が
奨学金の可能性で釣り上げられては兵士に仕立て上げられていく、
つまり貧困が徴兵装置として利用され、
社会的弱者がその弱みに付け込まれて
いいように使い棄てにされている、という現実。

ただ、サブプライム問題やリーマンショックを挟んで
「ルポ」を読んだ時とは状況が違っているために
ぎくりと思い至ることがあった。

米国型資本主義の暴走の限界や行き詰りを指摘したり、
新自由主義は失敗だったとか、この辺りでどうにか考えなければいかん……という話を
サブプライム問題を機に見聞きすることが増えているように感じて、

個人的にちょっと気になっているベーシックインカム構想などというのも
そういう行き詰まり感の中で「じゃぁ、どうすればいいのか」を考える1つの方策として
位置づければいいのかな……と考えたりしていたのですが、

この本を読んで初めて思いが至ったところというのは、

あ、でも、「行き詰っている」とも「どうにかしなければ」とも
全然考えていない人もいるんだよね……ということ。

弱肉強食の新自由主義で切り捨てられた人たちを
「どうにかしなければならない」という方向で考えると話は難しくなるけど、
そういう人間を兵士に仕立て上げれば「どうにかする必要」などないどころか
逆に、厳しい社会で生き残れない弱者の有効活用であり、

「社会に無駄なコストをかけるジャマな人間」がそれによって
「社会にとって利益となる人間」に逆転しコスト効率も格段に改善する──。

今のままの方向で突き進むことに、なんら問題はない──。

(日本の場合、報道から目につくのは派遣切りされた人たちを介護職に振り向けようとの動きですが、
雨宮さんは派遣切りにあった人たちに自衛隊の勧誘が行われていると書評で書いていました。)


そして、もちろん
堤さんが書いている
貧困が徴兵装置になるカラクリを
科学とテクノロジーでの国際競争に当てはめてみれば、
障害者・病者・高齢者というコスト高な医療弱者についても
”有効利用”の方法ならいくらでもある。

手っ取り早いところでは臓器の確保。
移植用だけでなく実験用の臓器も。

もちろんES細胞を作るのに必要な卵子も無尽蔵に供給できる。

植物状態の女性患者を代理母として利用することも可能。

様々な年齢や病歴を持つ、生きた人体を丸ごと実験利用できれば、
今は不治や難治とされる病気の治療研究だって飛躍的に進む。
老化のメカニズム研究やアンチ・エイジングの実験も思うままだ。

重症の知的障害者も脳死者や植物状態と大して変わらないし
どうせ抵抗・抗議する能力も言葉も持たないのだから、
知的障害者はもちろん、意思疎通が出来にくい人間もみんな含めてしまえば、
さらに、どうせ治療コストをかけたところで死が近い人間が自ら死を選んでくれれば、
社会的コストが大幅に削減されるだけでなく、
人類の進歩に結びつく利用資源が大量に確保できる一石二鳥──。


障害児・者にかかる「社会的コスト」がしきりにあげつらわれ、
高齢者への医療と介護が「金がかかるもの」の代名詞となり、
その一方で「死の自己決定権」が喧伝されていく。

テレビやワイドショーが取り上げる一つ一つの事件やニュースだけを
バラバラに見ていたら、なかなか感じられないけれど、
実はあまり報道されないところで起きている事件やニュースを介して
実はみんな繋がって、一つの大きなうねりの一部なのかもしれない……

Ashley事件との出会いをきっかけに
事件の背景や周辺を調べていくにつれて
それまで想像すらできなかったことが世界では現実に起こっているのだ……と
愕然とするような事件やニュースを目の当たりにして、
もうずっと、そんなことを懸念している。

だから
この本のプロローグの、こんな箇所にとても共感した。

政治家や大企業には勝てっこない。
どれだけ社会が変わるように願っても、一人ができることなんてたかが知れている。
みんなそう思ってあきらめちゃうんだ。
でも、俺たちみたいな普通の市民が力を手にする方法がたったひとつある。
それは真実を知ること。そしてそれをできるだけ多くの人に手渡すことだ。
ニュースからだけじゃわからないことがたくさんある。

(2004年に、抗議のハンスト行いながら大統領選の不正を訴えて歩いた男性の語り)
「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命」P.13


2009.03.02 / Top↑
Sunnyside Community Hospital に引き続いて
Posser Memorial Hospitalも
5日に施行となるWashington州の「尊厳死法」に参加せず、
派遣やボランティアを含む病院スタッフに
ターミナルな患者の自殺を幇助する行為を禁じると理事会で決定。

新法では
患者が前もって計画できるように
参加しない病院にはその旨を公示するように求めている。

Prosser hospital won’t help in assisted suicides
AP, (The Seattle Post-Intelligencer), February 28, 2009
2009.03.01 / Top↑
このところ各国で動きが急になっているので
それにつれて自殺幇助合法化論議をあれこれと読み齧っていると、

私が頭をひねってしまい、同時にコワイなぁ……とも感じるのは、

対象者の像が非常に曖昧なまま、
時により人によって全く別の状態像が想定されつつ
「自殺幇助の合法化」や「死の自己決定権」が議論されていること。

医師による自殺幇助を合法化した国や州の法律の大半は、対象を
余命6ヶ月程度のターミナルな状態で耐えがたい苦痛がある患者に限定しているのだから、
その範囲にきっちりと対象者像を想定して議論されているのなら、まだ話が分かるのですが、

例えば昨日続報を取り上げたカリフォルニアのケースで自殺した男性Jimmy Hartleyさんは
脳卒中の発作を繰り返していくつもの障害が重なり耐えがたい苦痛が続いていたとはいえ、
決してターミナルな状態だったわけではありません。

ところがJimmyさんの自殺を幇助したとして起訴された妹のJuneさんの弁護士は
Jimmyさんの余命は誰にも分からなかったにせよ
彼は「容赦のない苦痛という特異な牢獄にあった」のだとして
Juneさんの幇助行為は「犯罪ではなく慈悲」だと主張しています。

しかし、仮にこれがOregonやWashington州で起こった事件であったとしても、
Jimmyさんがターミナルな状態でなかった以上
医師であっても合法的に自殺を幇助できないはずであり、
Jimmy さんの状態が対象外である点と、
Juneさんが医師でないことの2点によって
Juneさんの行為が犯罪であることは違わないはずなのです。

Final Exitのサイトから読み取れる“支援活動”のリーズニングも、
この弁護士のリーズニングと同じように思われますし、

合法化を進めよと主張する人たちが言っていることも
これと同じように、要するに
「どうせ死が避けられなかったり、
本人にとって耐え難い状態があるのなら、
いつ、どこで自殺するかということは“自己決定権”」ということのようなのです。

それならば、彼らが求めているのは
決してOregon州やWashington州で合法化されているような自殺幇助ではなく、
はるかにその範囲を超えた「死の自由」に他なりません。

「OregonやWashington州のように合法化せよ」と求めながら、
実は彼らが求めているのは、もっと大きな死の自由──。

それが私には非常に気がかりなことに感じられます。

対象者の状態像が厳密に定義されず、
時により場合によって都合よく対象者像が摩り替えられながら
「死の自己決定権」がこうして広く議論されていることに、

意思を表現することができなくなったというだけで
脳死でも植物状態ですらない人が「無益な治療」論の対象となり、
「どうせ治ることはないから無益」だと栄養と水分供給が停止されたり、

功利主義生命倫理を説くシンガーやトランスヒューマニストらが
脳死も植物状態も重症の認知障害も知的障害もロクに区別することなく、
時により場合によって自分たちの都合で軽度の障害像を引き合いに出しつつ
それがあたかも最重度の状態と同じであるかのような摩り替えを巧妙に行っていることや、

Ashley事件で
Ashleyの知的レベルがきちんとアセスメントされたわけでもないのに
重症重複障害があるというだけで「どうせ赤ん坊と同じ」だと決め付けられ、
成長抑制の対象児の基準がいつのまにか
「重症の知的障害」から「意思疎通が出来ない」へと
摩り替わってしまっていること

……などなどと重なり合います。


このような議論に出てくる対象者像のギャップこそが
いったん一部を認めれば対象者が事実上は広げられていき
「滑り坂」が起こってしまうということの何よりの証拠ではないのか、

そして、実はこのような議論が行われることそのものが
広く世の中に「重い障害を負うことそのものが耐えがたい苦痛」との根拠のない通念を植えつけ、

「だから自ら死んだ方がマシ」
「だから自分で意思表示出来なければ死なせてあげるのが本人の利益」

といった価値判断をジワジワと定着させていくのではないのか……と背筋が冷える。



(日本の終末期医療議論においても
「末期」という対象者条件からすると対象外ではずの植物状態の人が
いつのまにか議論に含まれてしまっていることの不可解が指摘されています。)
2009.03.01 / Top↑