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英国政府は去る2月3日に「全国認知症戦略」を発表しています。

英国保健省の当該サイトはこちら

認知症の定義に始まり、
今後5年間に実行する17の目標と、
この戦略によって認知症患者と家族介護者(以下、介護者)にどのような影響があるか
アウトカム予測までを述べたもの。

戦略が立てられた背景には、
現在、英国には認知症患者が70万人いるが、
30年後には140万人に急増すると予想され、
それにつれて認知症患者にかかるコストも
現在の170億ポンドから500億ポンドに急増するとの試算。

「今、認知症の人々や介護者のQOLを改善するためにお金を使えば、
すべての関係者の状況を改善できるだけでなく将来のお金を節約することにもなる」
との判断から

「英国政府は認知症を全国的な優先事項と決定した」と戦略には書かれています。

戦略が
①認知症の正しい理解とスティグマの解消、②早期診断、③サービスの整備
という3つのステップによって実現を目指すのは
以下の17の目標。

1.認知症についての意識を高め、早めに支援を求めるよう促す。
2.質の高い早期診断、支援、治療が認知症の人にも介護者にも保障され、配慮ある説明が行われる。
3.認知症の人と介護者に質の高い情報が提供される。
4.診断後にケア、支援、アドバイスが容易に得られる。
5.ピア・サポートと学習のネットワークを組織的に整備する。
6.在宅患者のために地域での個別支援を改善する。
7.「介護者のためのニューディール」(介護者支援戦略)を改善する。
8.総合病院での認知症ケアの質を高める。
9.認知症の人に対する中間ケアを改善する。
10.認知症の人と介護者の支援のため、住宅支援、住宅関連サービス、テクノロジーとテレケアの可能性を模索する。
11.ケアホームにおける認知症ケアの質を高める。
12.認知症の人の終末期ケアを改善する。
13.認知症の人のため専門職の知識と技能を向上させる。
14.認知症戦略のため医療と介護が連携してニーズを把握し、それに応える。
15.認知症の人が可能な限り最善のケアを受けられるよう、医療・介護サービスの評価と規制を改善する。
16.認知症の原因と将来の治療の可能性について研究の進行状況を明らかにする。
17.この戦略の実行に向け、政府は地方自治体にアドバイスと支援を提供する。


英国の認知症戦略を読んでみたのを機に
日本の「認知症の医療と生活の質を高める緊急プロジェクト」の概要を読んでみた。

私は認知症についても関連医療や支援体制についても
たいした知識を持っているわけではないので、
エラソーなことを言える立場ではないのは承知しているのだけれど、

うわぁぁ、厚労省って、ここまで医療目線なのかぁ……。

真っ先に感じたのは
タイトルに謳われているほどには「生活」が視野に入っていないこと。

いかに「治療してやるか」という視点が柱にあって、
「そのためにはどういう施策が必要か」という話がほとんどを占め、

本人と家族支援については
「認知症ケアの標準化・高度化」と「相談・カウンセリング・紹介・交流会など」。

いつも思うことだけど「相談窓口」をいくら作ったって、
現実に支援サービスが存在しなければ何の役にも立たないのに
相変わらず「その先」が具体的に見えない「相談支援」。

特に介護者支援については、
本人へのケアを提供し改善することが
介護者への支援だとする従来の発想のままで、
介護者自身を支援しない限り介護殺人の防止はできないのに……と、いつも思う。

(英国では介護者には介護者自身のニーズにアセスメントが行われて、
介護者自身のための支援を受ける権利が認められています)

「認知症ケアの標準化・高度化」にしても、
いったい誰がケアを標準化・高度化する、または、できるというんだろう……。
(まさかロボット介護でケアを“高度化”したら“生活の質”が上がるなんて……?)

結局、日本のプロジェクトはやっぱり医療の「上から目線」のパターナリズムであり、
医療主体で書かれたものなのかなぁ……と感じてしまう。

慢性病や障害のある患者と家族にとっては、
その病気や障害と付き合いながら、
いかに日々を工夫して暮らしていくかということこそが大問題なんであって、
病気や障害を治すことを目標に掲げて日々を生きているわけじゃないんだけどなぁ……。

これは娘がお世話になってきた医療に感謝しつつ、同時に
その「上から目線」の不動の「分からなさ」「感度の鈍さ」に対して感じてきた不満で、

患者や家族自身こそが病気や障害と付き合いながら暮らしていく主体であり、
その主体が主体として力をつけて、自ら生活の中であれこれと工夫し
自分の病気や障害のエキスパートとして暮らしていくことが必要・重要なんだという
いわばエンパワメントの視点が医療には薄い。

それは同時に主体である患者と家族の権利に対する意識も薄いということで、
そこの違いが英国の目標2を始め全体の視点の違いに象徴されている。

日本のプロジェクトだって内容としてはほぼ同じことが盛り込まれているとしても、
「医療はこれだけのことをやるぞ」というのと
「患者と家族にはこれだけのものが保障されるべきである」というのとでは
視点がまるで違う。

その視点の違いから出てくるのが
「配慮ある説明」への意識の有無であり、
患者自身が自ら力をつけていくエンパワメントの発想の有無であり
患者と介護者の権利への視点の有無なんじゃないのかなぁ。

だから例えば英国でいえば15のような
「相手の権利によって自分たちの方が照らされる」などということには
意識が及びにくいんじゃないんだろうか。

ただの素人がエラソーなことを言って申し訳ないけど。
2009.04.05 / Top↑
「我々はみんな人間です。
私も人間です。
だから私もパーフェクトではありません。

特定のフライトで私が誰かを悲しい目に合わせたのだったら、
アイムソーリー。謝ります。

誰だって過ちを犯します。皆さんの首相だって同じです」

と、超特急の切り口上ながら、記者会見で謝罪。

事前の連絡がうまくいっていなかったらしくて
機内で自分が予め希望していたはずの食事を出せないと言われて腹を立て
23歳のキャビン・アテンダントを泣かせたんだとか。

去年の6月にも
あったかい食事を食べたいのにサンドイッチしかないことに
大いに機嫌を損ねたことがあったそうで。

Rudd sorry for air hostess blast
The Canberra Times, March 3, 2009

どーでもいいといえば、どーでもいいニュースで、
記事のリンクにある記者会見ビデオを見たら
冒頭の謝罪の言葉は、いっぱい言い訳をした後に、
いかにも開き直った「はい、もう、これでいいでしょ」的早口ではあるのだけど、

Biederman医師が製薬会社にブイブイいわしていたり
Ashlely父がシアトル子ども病院で
独善的ワガママで医師らの倫理観を強引にねじ伏せてたり……とまでいかなくても、

いわゆる“エラい人”が「自分はエラいのだ!」と自覚してしまうと
人を人とも思わない言動をとるというのは
たぶん、どこの分野でも誰の身近でもゴロゴロしている話なのに、

一国の首相のワガママがこうしてマスコミに漏れて、
こうして取り上げられて首相が謝る
(謝罪しなければならないところへ追い込まれる?)というのが

ちょっとチャーミングな話に思えたもので。
2009.04.05 / Top↑
ベルギーはオランダに次いで安楽死を合法化した世界で2番目の国。
2002年の合法化以来、医師による幇助自殺を遂げた人は約2700人。

そのベルギーで 
尊厳死法の条件を満たしていないAmeilia Van Esbeenさん(93歳)が
ハンガーストライキをして医師による自殺幇助を要望。

ついに彼女の書面での要望を受け入れた医師がいて、
その幇助を受けてVan Esbeenさんは4月1日のお昼に自殺したとのこと。

Van Esbeenさんの自殺以来、
未成年、認知症患者やターミナルな病気でない人の自殺幇助が
論議を呼んでいる、と。

Belgian woman dead after fighting for assisted suicide
AFP(Expatica.com), April 3, 2009


自殺幇助合法化推進論者が言うように
オランダやベルギーやオレゴンでの先例は「すべり坂が起きない」ことの証拠……

……とはならないという証拠。
2009.04.04 / Top↑
Palliative Medicine誌に発表されたQueen Mary 大学の研究で
英国の3700人の医師に調査を行ったところ、

GPの3分の1が安楽死または医師による自殺幇助を支持。
緩和ケアの専門医では、支持したのは10人に1人以下だった。

今年すでに発表された別のGPへの調査では38%が、
もし許されるなら、慢性的な痛みのあるターミナルな病気の人が自殺する手伝いをする、
と答えた、とのこと。

2006年の英国医師会の議論では、安楽死には反対との立場だった。

GPs lead calls to allow euthanasia
The Healthcare Republic, April 3, 2009


GPと緩和ケア専門医の間の差を
先日のNZのサイトの指摘に基づいて考えてみれば、

GPには、
「あなたは痛みを伴うターミナルな患者への自殺幇助を支持しますか」と問うよりも前に
「あなたは自分が痛みのコントロールについて十分な知識と技術を持っていると思いますか」と
問うべきなのかも。

そういえば日本でも、ホスピスがまだ少ないころ山崎章夫さんが
「痛みはとってあげることができるのに、その知識と技術のない医師が多すぎる」と
しきりに力説しておられたような記憶がある。

今は、どうなのだろう。

安楽死の問題って、
実は医療現場の現実を丁寧に掘り下げていくと、
患者の痛みや苦しみに対して、医療の意識があまりにも低いままにきたことと
実は重なっているんじゃないのだろうか……。

スローガンのように繰り返される掛け声の割りに
「全人的医療」がちっとも実現されないままに
専門分化ばかりが進んでいくこととも──。

英国の医療オンブズマンの報告書の一件から
そんなことを考えている。
2009.04.04 / Top↑
前のエントリーを書いた時に目に付いて、
「げっ。ヤーな話だなぁ」と思ったので。

ここで問題となっているワクチンとはGardasil。

女性の子宮がんの原因とされるヒトパピローマウイルス(HPV)に対するワクチンで
このところ世界中で製薬会社が学齢の女児への義務化を働きかけているもの。

安全性がまだ完全に確認されていないとの指摘もあるのだけれど、
つい先日のWPの記事によると、米国では、
女児への普及が思うように伸びないことに業を煮やした製薬会社は
今度はパートナーに移さないために男児にも、と言い始めているらしい。

(女児の時には「フリーセックスになったらどうするんだ」と心配されたものが
男児にも接種という話になったとたんに「安全なのか」と心配する声が起きているというのも不思議)

さらに、HPVを発見した科学者のノーベル賞受賞の影にも
ワクチン製造元のアストラゼネカ社の関与の疑惑が取りざたされている。

なにしろ、そういう曰くつきのワクチンなのだけど、
以下の2つの記事によると、

NZのthe MidCentral Health の担当地区の保健師が
91校に対して8歳、12歳、13歳の女生徒の電話番号と住所を要求。
少なくとも3校が拒否したとのこと。



Stuff.co.nz の元記事はこちら
2009.04.03 / Top↑
Massey 大学のコミュニケーション、ジャーナリズム、マーケティング学部の
主としてNZ人の宗教観に関する調査で
1000人にアンケートを行った中に
安楽死について問う項目が含まれており、
その結果7割が「苦痛を伴う不治の病があって、医師による幇助があれば」
自殺幇助を支持すると答えた、と。



う~ん、その「苦痛を伴う不治の病」というのは、
設問そのものが、一体どうなのよ……と思っていたら、

Family Life International New Zealand というところがやっている以下のブログで
やはり設問のあり方が鋭く突っ込まれていた。


Family Life International New Zealand のこの調査に対するプレスリリースはこちら

こちらのブログとリリースに引用されている上記調査の当該項目の文言とは、

ある人が苦痛を伴う不治の病にかかっていると仮定します。その患者が求めた場合に、医師がその人の命を終わらせることが、法律によって許されるべきだと思いますか?

続いて同じ人を仮定した質問です。その患者が求めた場合に、誰か医師以外の人、例えば親しい親族が、その人の命を終わらせる手伝いをすることが、法律によって許されるべきだと思いますか?

で、前者に対する回答の7割がYES、
後者に対するYESの回答は5割だった、とのこと。

このエントリーの著者であるBrendan Malone氏は
医療スタッフが十分な知識と技術と方法を持ってさえいれば
患者の痛みの98%は適切に管理できると専門家が指摘していることを考えると、
この質問はいずれも最初の部分が間違っている、と主張。

これらの質問は本来、以下のように問われるべきである、と。

もしも医師が、怠慢から、または痛みの治療がちゃんとあることを知らないために、
または必要な情報を調べないままに、患者の耐え難い痛みを放置した場合に、
患者が求めれば、その医師には致死薬の注射をすることが許されるべきでしょうか。

先日、当ブログで読んだ英国のMarkのケースと合わせ考えると、
これは本当に底の深いリアルな問題なんじゃないだろうか。

spitzibaraとしては、さらに
質問の「苦痛を伴う不治の病」という表現の
「苦痛」が身体的な苦痛に限定されていないこと
余命の限られたターミナルな状態であるという条件が入っていないこと
「病」を拡大解釈して障害まで含められた場合には
もともと障害は不治なのだから「不治の病」に当てはめられてしまうこと。

それによって、例えば
去年、事故で寝たきりになってDignitasで自殺した23歳のラグビー青年のケース
十分含まれてしまう可能性があることを指摘しておきたい。

「本人が求めれば」というのでは
一時的な精神状態による自殺希望である可能性や、
自分で意思決定する能力のない人へのセーフガードが含まれていないことも。


Ashley療法論争の際にもネットに
「重症児を家でケアする唯一の方法だとしたら、ホルモンによる成長抑制は許されるべきでしょうか」
というアンケートが登場したことがありました。

成長抑制は、断じて、家庭でのケアを可能とする「唯一の方法」ではないというのに
こんな質問に YESーNO で回答させるというのは問題を捻じ曲げる行為以外のなんでもない。

総じて、アンケート調査というのは、非常に複雑な問題を無責任に単純化してしまい、
その単純化によって問題が既に変質してしまっているのだから、
それをもってShakespeareのようにマジョリティは支持しているとか
だから自殺幇助は合法化すべきだとか、云々するのは
それ自体が危険なことなのではなかろうか。
2009.04.03 / Top↑
自殺幇助ツーリズムのメッカ、スイスのDignitasクリニックの創設者 Ludwig Minelliが
BBC Radio4の The Reportという番組に登場。

放送メディアでのインタビューは5年ぶりだとか。

ついに出てきたか……という感じで以下の記事を読み始めて、
すぐに「なんてこと言うんだ! なんてこと、するんだよっ!」と頭に血が上った。

Dignitas defends assisted suicide
The BBC, April 1, 2009


記事に出ている彼の発言を、とりあえず以下に。

・自殺に失敗されると英国のNHSにとっても厄介だしコストも重い。

・「自殺に対する私の姿勢はまったく違って、自殺は人間に与えられたすばらしい可能性だと考える。自殺は、自分では変えることのできない状況から逃れるための大変すぐれた選択肢である」

・「ターミナルな病状は条件ではない。英国人が勝手にターミナルにこだわっているだけだ」

・「Dignitas はクリニックではない。人権問題の弁護士として、私はパターナリズムには反対の立場だ。他の人に代わって意思決定を行うことはしない」

・「カナダ在住の夫婦で、夫の方が病気というケースがある。妻の方は病気ではないが、私の家のこのリビングルームで彼女ははっきりと『夫が逝く時に自分も一緒に逝きたい』と言った。問題をはっきりさせておくために、たぶん裁判所に判断を仰ぐことになるだろう」と、この夫婦をテスト・ケースと考えていることを明らかに。

・また、これまでDignitasが自殺幇助を行ってきた100人を超える英国人の大半はターミナルな人たちだったが、中には精神病患者や、病状に差がある夫婦が含まれていたことも明かした。

記事には、Dignitasでアシスタントをしていたが
精神病者や夫婦に対するDignitasの姿勢に疑問を覚えて辞めたという女性
Soraya Wernliさんのコメントもあり、

「その人が病気でターミナルであれば自殺幇助そのものは問題ないと思うけれど、
私が疑問を感じるのはDignitasが自殺を幇助する、そのやり方」と。

先月、前保健相が提案した the Coroners and Justice Bill への修正法案は
時間切れで投票にいたらなかったものの、
Hewitt前保健相は、この発言に、
Dignitasでの自殺幇助では十分なセーフガードになっていないからこそ
英国の法律を改正する必要があるのだと。

(しかし、Hewitt氏が提案した改正案は
「自殺幇助のためにターミナルな人を海外へ連れていく家族や知人を
罪に問わないことにしよう」という別の話だったはずなのですが)

一方、スイス当局は自殺幇助法の見直しを行っているところ。

もっと時間をかけてアセスメントを行う、
自殺希望の精神病者や夫婦には判断基準を厳しくする、など
同国の医療倫理コミッションから勧告が出されている。

コミッションの委員長によると
スイスの法律は結局のところ、刑法にある
自分の勝手な動機で自殺を幇助したら、それは犯罪だとの1文でしかない。

「現在は、規制がないまま自殺幇助が行われているという妙な状態」と。

スイスの法務大臣はBBCに対して
2ヶ月以内に改正を提言する予定、と。


なお、このニュースはTimesも以下に。




自殺を試みて失敗されたら医療費がかかって迷惑だろうから
最初から医師が確実に死なせてあげる方がいいだろう……って
それは一体どういう屁理屈なんだよっ。

自分では変えることのできない状況から逃れるために自殺は優れた選択肢……って、
思い通りにならない、気に入らないからって、イチイチ死んで、どーすんだよっ。


【2009年7月17日追記】

この時にDignitasが検討していた夫婦はこちらのカナダの夫婦と思われます。
夫が思い心臓病。妻は健康で「娘たちも愛しているけど、夫の方をもっと愛している」と。

2009.04.02 / Top↑
知的障害者に対する医療過失をめぐる医療オンブズマンの報告書の中にあった、
4月から医療と社会ケアの質に新たに責任を負うのは「ケアの質コミッション」だという話が
気になっていたところ、以下の記事を発見。


4月1日をもって
社会ケア監査コミッション(CSCI)、医療コミッション、精神医療法コミッションの業務が
ケアの質コミッション(the Care Quality Commission)に一本化されたとのこと。

去年制定された
医療と社会ケア法2008(the Health and Society Care Act 2008)によるもの。

アルツハイマー病協会がコメントを出し、
アルツハイマー病患者が急増する中、ケアの質はいまだ低いままで、
新コミッションは早急に行動する必要がある、と。
2009.04.02 / Top↑
Pennsylvania州の議会にも
Oregon州をモデルにした尊厳死法案が提出されているとのこと。

とはいえ、今回すぐに議会を通過するとか
法律として成立するという勢いのある話ではないようで、

PA大学の倫理学者といえば当然この人、お馴染みArt Caplanが

「私の予測ではペンシルバニアではこの法案は通らないでしょう。
議論はするべきですが、今のところ、まだ議論の一段階というところです」

ただ、Caplanは
「本当に死にたい人はそれほど多いわけじゃない。
たいていは、死も選べるのだという安心がほしいだけです」とも言っていて、

この記事からだけでは、Caplan自身が自殺幇助の合法化に
どういうスタンスをとっているのか、よく分かりません。

Act could offer end-of-life option
The Daily Collegian Online, March 31, 2009
2009.04.02 / Top↑
またかいな……。

もうカラクリが見通せてしまうような気がして
こういうニュースは、いいよ、もう……と食傷気味なのですが、
目に付いたので、ともかく。

といっても、食傷しているので詳細まで読み込んでいません。
興味ある方は原文をどうぞ。

スタチンとアスピリンと、
そのほか血圧を下げる薬3種類
合わせて5種類の薬を1つの錠剤にミックスした複合薬を
健康そのものの人が飲めば、
将来心臓病にかかる確率が半減するんだと、

米国の心臓病学会で。

インドで45歳から80歳までの
リスクファクターが少なくとも1つあるという健康な成人
2000人に対する実験の結果報告。



ちょっと面白いのは、この記事に寄せられたコメントの1つで、

「政府認可の新ソーマの世界にようこそ。
 われらを国家のためにせっせと働く善良な国民たらしめるべく作られたソーマの世界に」

ソーマとは、
オルダス・ハスクリーの「すばらしき新世界」に出てきた薬で、

そこに描かれているのは
人間が社会で担う役割に応じて階層化され、
それぞれの階層ごとに人工的に工場で(人間が)大量生産され、
完全に管理されている社会。

そこでは問題意識を持ったり物事を深く考察してはならず、
与えられた労働をこなし、せっせとセックスをして
いつもハッピーでいることが求められる。

いつもハッピーで、頭を使わずにいるために、
ちょっとでも気分が塞ぎ始めると飲むように奨励されているのがソーマ。




ほか、「経済とテクノのネオリベラリズム」の書庫に多数。
2009.04.02 / Top↑
このところの一連の英国医療オンブズマンの報告書関連。
(これまでのエントリーへのリンクは文末に)

障害に対する偏見から通常よりも劣った医療しか提供されず、
もっとスタンダードなレベルの医療が行われていたら死が避け得た可能性があると認定され、
家族に金銭的な賠償が行われたMartin Ryanのケースについて。

オンブズマンの報告書に対する以下のMencapのレスポンスから。


事実関係。

Martin Ryanさん。享年43歳。

重度の知的障害、自閉症とダウン症候群で
言語による意思疎通はできなかった。

2005年11月26日に脳卒中を起こしてKingston Hospital に入院。
同病院には脳卒中の治療のための専門施設がない。

脳卒中の後遺症でMartinは嚥下ができず、通常の飲食はできなくなっていた。

何度もアセスメントが行われたにもかかわらず
病院スタッフがやっと嚥下不能を診断し代替の栄養摂取方法が必要だと判断したのは
12月12日になってからのことだった。

Martinは「絶食(経口摂取不可)」とされていたのに、その間、
経鼻チューブによる栄養補給も点滴も行われなかった。

やっと医師が胃ろう造設を決断し手術室の予約を取った時には
Martinは肺炎を起こして、手術に耐えられるだけの体力を失っていた。
この段階にいたって医師はMartinが助からないと判断、
治療は緩和ケアに切り替えられた。

2005年12月21日永眠。


家族は「Martinは餓死させられたのです」と。

障害に関係した理由によって通常よりも劣った扱いを受けたこと、
そうでなかったらMartinの死が避けられたはずであることを
オンブズマンが認定したことについては歓迎しているものの、

オンブズマンの報告書が医療職の名前を公表せず、
彼らの説明責任を問わなかったことには
激しい憤りを表現しています。


         ――――――


Martinのケースを読むこともまた、
私には娘の腸ねん転手術の追体験となりました。

全身麻酔で開腹手術をしたというのに、娘は
救急搬送の前から既に施設で入っていた腕の点滴だけで手術室から出てきたのです。

手術後に、その腕の点滴が漏れたあと、
外科医は重症児の細い血管に点滴を入れることができませんでした。

尿量はどんどん減り、口からは思うように飲食ができない。
傷口は化膿して開き、肺炎も危ぶまれているというのに
中心静脈から高カロリー輸液を入れる決断も、
経鼻でエンシュアを入れる決断もありませんでした。

手術はしてもらったけれど、娘の命を助けるためには
親がどうにかして口から食べさせる以外になかったのです。
骨折で2ヶ月も寝たきりの挙句に腸の手術をしたばかりの子どもだというのに。

少なくとも水分だけは摂らせなければ死んでしまう……と夫婦が必死になりました。
1日中つきっきりで、なんとか飲ませ食べさせることしか頭になかった。
ありとあらゆる手段で、食べたがらない娘に無理やり飲ませ、食べさせました。

疲れ果てて「なんで食べない! 食べないと死んでしまう!」と
娘を怒鳴りつけた晩があります。

そしたら看護師さんが「お母さん、もう少し肩の力を抜かないと」。
「やかましい」と、あやうく怒鳴りそうになった。「じゃぁ点滴を入れてみせなさいよッ」と。

最後には、しぶる医師に親が頼み込む形で、鼻からチューブを入れてもらいました。
傷口も褥そうも体力も、やっと、それから回復に向かいました。

でも、手術後の1ヶ月、病院と名のついた場所にいながら
「誰もこの子を助けてくれない。この子の命を救えるのは親だけだ」と私は日々思い詰めていたのです。

あの総合病院の外科病棟での体験をずっとトラウマのように抱えながら
他に競争相手もなく旧態依然とした田舎の公立病院だから起きたことだったのかもしれないと
私はずっと頭のどこかで考えていました。

しかし、Mark や Martin の身に起こったことを読むにつれ、
その体験がまったく同じであることに愕然とした。

そして、田舎だったからじゃない、これはきっと多くの障害児・者が
世界中の病院で経験していることなのだと、確信しました。

重い障害があって言葉がないというだけで
骨折の痛みや開腹手術の直後の痛みを、なぜ放置されなければならないのでしょうか。
なぜカロリーも水分も補給してもらえないのでしょうか。

いずれも、障害さえなければ当たり前にしてもらえることのはずなのに。
いずれも、オンブズマンが言う「ルーティーンの医療手順」のはずなのに。

障害児医療の専門家でなければ障害に対する理解が乏しいために、
障害のある人は成人した後にも小児科医にかかり続けるという話が
以前、取り上げられていました。

けれど、成人した人たちは(時には子どもでも)
小児科医の手を超える病気にもなります。

今でも英国のどこかの病院で知的障害のある人が
Mark や Martin や、ウチの娘と同じ目にあっているはずだ、と思う。

日本でも、そういう人が、本当はいっぱい、いるはずだ、と思う。


2009.04.01 / Top↑

以下のMencapが出しているオンブズマンのレポートに対するレスポンスを中心に
それだけでは事実関係が判然としない部分があるので
オンブズマンのレポートの当該部分も参照しながら。

Mencap briefing on Mark Cannon
Mencap’s response to the Health Ombudsman’s report on the death of Mark Cannon
March 2009

まず、事実関係を。

Mark Cannon さん。享年30歳。

いつも利用しているショートステイ先の地方自治体立の施設で脚を骨折。
2003年6月26日か27日の夜のことと思われ、その状況は不明。
27日に入院して手術を受け、7月4日に退院して家に帰る。

家に帰って数日間、痛みで睡眠も食事もとれず、
7月8日にGP受診を経て再入院。14日に退院。
(この間の医療の内容は、私が読んだ箇所からは不明)

8月6日にGPが往診し、気管支炎で抗生剤を処方。
その後、数日間で容態が悪化し、痙攣発作多発、高熱。

10日、脱水症状と栄養不良、腎不全で救急搬送、入院。
翌日、状態が改善せず集中治療室に移されるものの、
13日には安定して要介護者の病棟に移され、そこで容態が悪化、心臓発作を起こす。

再び集中治療室に運ばれるが、
状態があまりにも重篤なため、家族は長い相談の末、治療の中止を決断。
8月29日に死去。


……と、このように事実経過だけを並べると、
まるで本人も家族も黙々と物のように病院から家へ、家から病院へと移動させられ
唯々諾々と医療サイドの指示に従っていたかのように見えてしまうけれど、
決して現実はそうじゃない、と思う。

この一つ一つの事実と事実との間に
どれほど本人の激痛に満ちた時間があり、それを訴える言葉にならない声があり、
身の置き所のない苦痛にもだえ、暴れる体があったことか。

その傍で、やるせなく付き添い、心配に身を揉み、
本人に代わって必死で異常を訴えて、医療職に向けて声を張る家族にとっても、
この1ヶ月あまりがどんなに切迫した思いと、無力感、絶望感に塗りこめられた
息の詰まる消耗的な時間であったことか。

そして、そんな当人と家族を取り巻いて
「知的障害者がワケもなく暴れて迷惑」
「面倒な患者を診てやっているというのにウルサイ親だこと」
「どうせ何も分からない障害者……」という
医療職の目線が、どれほど冷たかったことか。

オンブズマンは次のように言っています。

Markはどうにも我慢できない激しい苦痛を感じて、パニックし、泣き叫び、自分の手を噛み、壁に頭を打ちつけ、平手で自分の顔をたたいていた。母親がなだめようと必死になったが、家族以外の誰一人として、Markのそのような行為が、痛みが治療されていないことからきている可能性を考えなかったように思われる。

オンブズマンの専門家アドバイザーの一人は、痛み止め治療が行われなかったなんて「おそろしいdreadful」といい、もう一人は「開いた口がふさがらないappalling」と称した。専門家アドバイザーは医療に関する事項をアセスメントする立場として、調査結果について、このような表現をあまり使わないものだが、この場合、そのような表現を使うこともまったく当然だとオンブズマンも考える。


この一連の展開について、家族が苦情を申し立てたのは

・まず第一に、Markのショートステイでの骨折が自治体によるケアの不備であること。
・病院がMarkの痛みを適切に管理しなかったこと。
・また退院計画を怠ったこと。
・GPが退院後に適切なケアと診断を怠ったこと。

それに対して、地方自治体に対するオンブズマンの調査結果は

・提供されたケアの重大な欠陥
・スタッフ配置の不備
・ケアの計画性の不備
・Markのケアプランを提供していない管理上の不備
・てんかん発作のアラームを使ってMarkの安全を図ることを怠ったこと
・不服の調査における管理上の不備
・Markの家族に対するきわめて不適切な対応(injustice)

医療に関して、オンブズマンはGPに対する苦情以外、以下のすべてを認めた。

・痛みの管理における過失
・てんかんの管理における過失
・アセスメントとモニタリングにおける過失
・支援サービスをアレンジ・提供しなかったこと。
・トラストと医療コミッションによる不服に対する対応の管理上の不備
・償いようがないほどのinjustice(対応の不備)


オンブズマンはMarkの死を「避けることのできたはずの死」と結論。

「そもそも骨折しなかったら避けられた」という点では福祉サービスの過失を認めて
家族に対して金銭的な賠償をさせているけれども、

上記のボックスに引用した発言からしても、
「骨折の痛みさえ適切にコントロールされていたら
Markは体調を崩すこともなく、死を避けることができた」との判断も。



            ―――――――――


ちょっと呆然として、しばし放心状態になった。

……というのも
私自身が未だにトラウマとして抱えている娘の腸ねん転手術・外科体験も、
元はといえば、施設での大たい骨の骨折から始まったから。

元気な子どもしか知らない人は「たかが脚の骨折くらい」と思うかもしれないけれど、
寝たきりの虚弱な重症児が骨折して身動きもままならなくなるということは
即、命の危険と隣り合わせるに等しい。

幸い、痛みはコントロールしてもらったし、手厚い看護で感染症も乗り切って、
ある程度落ち着くと、ベッド状の車椅子で養護学校にも通わせてもらった。
家に帰れなくなった分、毎週末には親子水入らずで過ごせるように
施設側が母子入園の部屋をあけて使わせてくださる配慮もあった。
家に帰れるようになった最初の週末には、
わざわざ施設の救急車で送り迎えまでしてもらった。

それでも動きが少なくなったことや、ストレスのためか
いよいよギプスをはずそうという直前になって突然、体調が悪化、
腸ねん転を起こしていることが分かって、外科のある総合病院に運ばれた。

運び込まれるや、そのままバタバタと深夜の緊急手術。

私も手術室の前でMarkの家族と同じように、
「あの骨折さえなかったら」と施設職員を責めた。

そして、手術の翌朝から、ここでもまたMarkの家族と同じく、
痛みと痙攣のコントロールを求めて連日の外科スタッフとの闘いが始まった。

なにしろ手術の翌朝だというのに、痛み止めの座薬を入れてくれないのだ。

「この子はこんなに痛がっているんです」と必死で訴え続けているのに
聞く耳を持ってもらえない、やるせなさ。

「痛みを止めるのは命に悪いんじゃ!」と非科学的な説明を乱暴に投げつけられ
蝿のように手で追い払われる悔しさ。

本当は「いつ何が起こるか分からない重症児。なるべく余計なことはしたくない」
「どうせ何も分からない重い障害児」と考えているだけのくせに。

なぜ、障害のない人なら当たり前にしてもらえることすら、
ただ障害があって言葉を持たないというだけで、してもらえないのか。

娘は「んーん、んーん」と力弱い声を振り絞り、
切迫した目の色で、必死に助けを求め続けていた。

おなかを15センチも切り開かれたばかりの娘の痛みを我が身に感じてジリジリしながら、
どうしても助けてやれない無力感に身もだえした。

夜中に「痙攣の発作がどんどんひどくなる。このままでは重積状態になってしまう」と
必死に訴えているのに、そのことの意味すら分からない総合病院の外科の看護師。
せっかく当直の小児科医に電話してくれても直接説明させてもらえない、もどかしさ。
結局、痙攣し続ける娘のところに医師は誰も来てくれなかった。

「素人の癖に」と親を突っぱねるなら、
当然持っているべき知識や技術を持っていない専門職こそが理不尽というものだろうに、
「なんでもないことで大騒ぎをする扱いにくい親」だと白眼視され、
「こんなに手のかかる子を診てやっているのに」といわんばかりの意地悪をされた。

幸いなことに娘は結果的に不幸な転機をたどらなかったけれど、
もしも、あの1月あまりの入院の途中経過が、どこか1つ悪い方に転がっていたら、
ウチの娘もMark Cannonさんと同じように、
苦痛にのたうちながら死ぬしかなかったに違いない。

目の色で、声で、全身の身もだえで「痛い」と必死で訴えているというのに
なぜ言葉で「痛い」と言えないというだけで
誰もが当たり前にしてもらっている医療すら
引っ込められてしまうのだろう。

誰よりも本人を知り、素人なりに学び、さまざまな経験を積んできた親の言うことを
なぜ「どうせ素人の言うことだから」と平然と切り捨てるのだろう。

オンブズマンの報告書が書いていたように

医療職がもっと積極的であったら、
患者を最もよく知っている家族や介護者からの情報やアドバイスに従っていたら、
患者個々のニーズにもっと応じる医療を行っていたら」

Markのように命を落とすことも
ウチの娘のように無用の苦しみを受けることもないのに。

医療現場に知的障害に対する偏見や差別意識があるために
落とさなくてもいいはずの命を落とし、
本来なら経験しなくていいはずの苦痛を放置されている障害者は
彼ら自身が訴える声を持っていないだけで、
家族だって同様に声を奪われているだけで、
本当はもっともっと沢山いるはずだ。


オンブズマンが知的障害者の医療において
特に注意すべきこととして挙げていたのは

・ コミュニケーション
・パートナーとしての協働・協調
・家族・介護者との関係
・ルーティーンの医療手順をきちんと踏むこと
・マネジメントの質
・アドボカシー



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2009.04.01 / Top↑