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18日に知的障害ある”不細工なオバサン歌姫”が世界中にセンセーションで紹介した
Susan Boyleさんが17日にLarry King Liveに自宅から出演していました。

ロンドンから審査員の1人 Piers Morgan氏も出演し、
まず「あなたが舞台に登場した時に、本来払うべき敬意を払わなくて、ごめんなさい」と。



Larryに「レコーディングするんですか?」と問われて、
思わず「ぶっ」と自分で吹いてしまったBoyleさん。

2人の問答のごく一部を。

「キスされたこともないという人に今やファンレターが殺到していますが、どんな気分?」
「もう今からは寂しいことはなくなると思います」

「外見を変えようとは? 化粧やファッションや趣味とかを変えようとは?」
「なんで変えないといけないんですか? これが私なのに?」

「舞台に出て行った時に、みんなの失礼な反応に傷つきましたか?」
「いえ。ちっとも気になりませんでした」

そこで Piers 氏が
「彼女は自分の声や歌に自信があるから
他の人にどう見られようと気にならないのですよ」

ここのところがね。なんというか、ね。

今とても多くの人が、
ありのままの自分を受け入れることができなくて
人から受ける評価にビリビリ神経を尖らせ、

常に誰に対しても相手よりちょっとでも優位に立とうと突っ張って
いつも自分が人にバカにされやしないかとバリアを張り巡らせ
ほんのわずかなことに度外れて傷ついたりブチ切れたりしているというのに、

ここのところの
「ありのままの自分を丸ごと受け入れて自然体でいることができる」という
人間の根っこみたいなところを

おそらくは47年の人生の間
多くの人にバカにされたり笑われたり失礼な態度をとられてきたはずの
この人が、こんなにも不動でさらりとやってしまえているというのが、ね。

なによりも、やっぱり、すごいし、
これは一体なんなんだろう……と。

自尊感情に裏打ちされない空っぽのプライドではなく、

ちっぽけなプライドなんて問題にならない、
自分の根っことしての、どっしりした自尊心……というか……。

別の番組で、誰かが言っていた。
「この人の美しさは、彼女の authenticity (ほんもの性)にある」と。

――共感。

きっと家族から、障害があるままを、まるごと受け入れられて、
ほんものの愛情をたくさん注がれて育った人なんだろうな……という気がする。

だから、そんな人をよってたかってオモチャにしたり、
ズタズタに傷つけるような真似をしてはいけませんよ。マスコミの皆さん。
2009.04.20 / Top↑
英国の同様のデータベースを巡っては
去年12月に欧州人権裁判所が人権侵害であるとの判断を下し、
逮捕時にサンプルを採取されたものの、その後無罪になった人など
1600万人分のデータ削除を命じていますが、

米国の15州とFBIが
有罪・無罪を問わず逮捕時採取のサンプルを保管する方向で
データベースの拡充を検討している、とのこと。



Denverの検事が
「レイプ被害にあった女性が、自分を襲った犯人を捜して
犯罪者の写真集を何冊もめくっている姿を何度も見てきました。
DNAサンプルのデータベースが拡充されると、
女性の命を救うことができるんです」と。

ったく、都合のいいところだけ、いかにも弱者のためだといわんばかりに。

英国で起こり米国で起こることは、いずれ日本でも起こるのかも?


2009.04.20 / Top↑

番組に協力して病院での高齢者介護の実態を隠し撮りした看護師Margaret Haywoodさんが
英国看護師・助産師協会(NMC)から資格登録を抹消されたのだとか。

英国最大の労働組合UNITEがそれについて、
患者のプライバシーと守秘義務と、もっと大きな問題の間のバランスというものがあり、
同協会の対応はやりすぎである、

NHSの不備を告発する職員が身分を保証される方策が必要、と。



う~ん、もともとのPanoramaの快挙のニュースを読んだ時に、
具体的にどこまでが潜入ルポで、どういう隠し撮りがあったのかがはっきりせず、
患者さんのプライバシーは、私もちょっと気になったところ。

しかし、看護師資格の剥奪という話にまでなると、
守秘義務違反によるというよりも、
内部告発に対する懲罰とか「見せしめ」という感じがするのも確か。


【続報】

The Nursing & Midwifery Council(NMC)の資格取り消し処分に対して
当初からHaywoodさんに法的アドバイスをするなど支持してきた
The Royal College of Nursing (英国看護学会 RCN)が
患者へのケアの質を懸念して、その実態を暴いたHaywoodさんは間違っていないし、
彼女の登録を抹消したNMCはやりすぎだ、として、

RCNのサイトでHaywoodさん支持の署名をスタートさせたようです。

2009.04.20 / Top↑
4月11日のエントリー
BBCの潜入ルポが在宅介護の実態を暴いてスキャンダルにの続報。というか、反響が2つ。

英国高齢者虐待防止チャリティ Action on Elder Abuse(AEA)から、

ドキュメンタリー番組Panoramaが暴いた在宅ケアのあまりにもひどい実態は
いまさら驚くことではない。

もともと業界ではもちろんのこと、
地方自治体でも政府でも周知の事実だったのだし、
知っていて放置してきた人が沢山いるのだから。

在宅介護サービスの現状がお粗末なのは
現場のヘルパーの責任でも、彼らを雇っている事業者の責任でもない。
年々、予算が縮小されていく一方で
サービス給付の基準がどんどん厳しくなる制度の責任であり、
それをやっている地方と中央の政府の責任なのだ。

高齢者は地域で暮らすことを望んでいると政府は繰り返し強調するが
今のような不十分な支援で家から出ることもかなわず
社会から隔絶して暮らしたいと望んでいるわけではない。

銀行を救済するために多額の税金を投入するのなら、
高齢者のために予算を使うことも検討してはどうか、と。


英国看護学会からは

介護の現場で十分な研修を受けないまま介護者が働いているのは事実であり、
その危険性を国民に知らしめたのはBBCのお手柄である。

介護職員が十分な研修を受けられるように
監督制度が整えられるべきである、と。

2009.04.19 / Top↑

(なぜか画面のプレイボタンは機能しないようですが、
 画面下の英文タイトルをクリックするとYouTubeが開きます)



昨日(一昨日だったか?)、英米のどの新聞の電子版を開いても、そこには不細工なオバサンの顔があった。
何があったのか分からないまま、あまり魅力を感じる絵ではなかったので、素通りした。
(正直言うと、この時には女装した男性コメディアンだとばかり……)

今日のニュースにも登場しているなと思ったら、
この不細工なオバサンが英国のオーディション番組での活躍で
世界中にセンセーションを巻き起こしているのだという。

そこで、軽い気持ちで覗いてみたのが、上の YouTube。
(現在の静止画像の男性は別人です)

いや~、ぶっとびましたぁ。

英語はほとんど関係ないので、ぜひ見てみてください。

本当に見事なすばらしい歌声。
露骨にバカにしていた審査員と聴衆の態度がコロッと変わるところが、実に見ものです。


世の中には不細工なオバサン差別というのが歴然とある。

きれいなオバサンがやったら許されることでも、
不細工なオバサンがやろうとすると、それだけで露骨にバカにされ、否定される。

世の中の男と若い連中は、不細工なオバサンはすべからくバカだと思っているし、
不細工なオバサンには何の能もないものだと固く信じて疑わない。

そんな不細工なオバサンの一人として、私も
この審査員や聴衆のような態度・反応を日常的に体験しては、不愉快な思いをしている。

だから、この人の起こしたセンセーションには、
胸がすうっと透いた。

感動して、ジンときた。


このオバサン、スコットランドの Susan Boyle さん。47歳。独身。無職。
教会のボランティアをしながら2年前に亡くなるまで母親をずっと介護していた。
今までキスされたこともない。(ご丁寧にもわざわざ処女だと書いた新聞も。)

出生時の無酸素脳症で軽い知的障害があるそうだ。

本人は障害があることを恥じていないし、
むしろ、もっと触れてほしいと言っているのだけど、
読んでみた5本の中では以下の記事しか障害については書いていない。

ちなみに審査員のうち2人は
「醜いのはあなたではなく我々の態度の方だった」と謝罪しているとか。



こんな素晴らしい驚きの瞬間を世界中にプレゼントしてくれた Boyle さんに 惜しみない拍手を。

メディアの皆さん、どうか、この人を面白がってオモチャにしないように。
2009.04.18 / Top↑
英国での事件。

慢性疲労症候群(ME:myalgic encephalopathy, 筋痛性脳症)で17年間寝たきりだった
31歳のLynn Gilderdaleさんが自室のベッドで死んでいるのが見つかった去年12月
母親で元看護師のKathleen Gilderdaleが逮捕されていましたが
このたび殺人未遂で起訴された、とのこと。

殺人未遂(attempted murder)といっても結果的に娘さんは死んでいるので、
直接それが死因となったことは立証できないものの「殺害しようとした」行為を罪に問う
ということではないかと思います。

Lynnさんの死因はモルヒネの過剰摂取。

母親は付きっきりで献身的に介護しており、
医療職にすら誤解の多いMEについて理解を広めるべく、
熱心に啓発活動を行っていた。

逮捕後に親族がその献身ぶりを訴える声明文を発表。

検察サービスの弁護士は
事件の証拠を検証する過程で検討した罪状を
殺人と、殺人未遂(企図?)と自殺幇助の3つだったと語り、

殺人で起訴してLynnさんの死が母親の行為によるものだと立証するには証拠が足りない、
自殺幇助も考えたが、母親の行動と意図から考えると、
それよりも殺害を試みた(attempted murder)と捉える方がより正確だと考えた、と。


去年12月の母親逮捕時の記事はこちら。



事件そのものは、さほど複雑とは思えないのですが、
母親の発言や意識、事件を伝えるメディアの論調に
ものすごく薄気味の悪いものを感じてしまう。

それは、この記事のあちこちで目に付く不可解な曖昧さ、矛盾。

しかも、それは、
自殺幇助の合法化議論で頻繁に目に付く“ぐずぐず状態”の曖昧さであり、
その中で相矛盾するダブルスタンダードが通用していく不可解。

不可解 その1

強引に話が自殺幇助にこじつけられていること。

母親の起訴を受けて、記事は
「Mrs Gilderdaleの起訴の決定は、
彼女がMEをもっと理解してほしいと活動していただけに、
“死ぬ権利”または(すなわち)“慈悲殺”論議を再燃させると見られている」と書いています。

しかし検察官が、事件の状況や母親の行動・意図は
「自殺幇助」と捉えるよりも「殺人未遂(殺害企図)」とする方がより正確だと言っているのに
どうして敢えて話を「死ぬ権利」にこじつけなければならないのか。


不可解 その2

Lynnさんの状態が、記事の場所によって矛盾していること。

例えば、Timeの記事のある場所では
「彼女はコンスタントな苦痛を耐えており、話をするのが非常に困難で、
人を見分けることができず、チューブ栄養で、24時間介護を必要とした」と
書かれています。

これだけでは、
「話をするのが非常に困難」だったとは
果たして意思疎通そのものが不可能だったのか、
それとも困難ながら意思の疎通はできたのか、不明。

また、「話をするのが非常に困難」だった原因が
あまりに苦痛が激しかったためなのか
それとも何らかの身体機能の障害があったのか、
それとも認知機能に問題があったのかも不明です。

しかし「人を見分けることができ」ないという部分だけは
認知機能が低下していたようにも思えます。

一方、別の場所には
Lynnさんが2度も「自殺を試みた」とも書かれているのです。

人を見分けることができないほど認知機能が低下している人は
自殺しようと考えることも、まして試みることもできないはずでしょう。

また、去年のTelegraphの記事には
「症状が改善するとは私は思わなかったし、Lynnも思わなかった」との母親の言葉があります。
意思表示が可能な人だったことになります。

検索でヒットした慢性疲労症候群の解説を読んでみたところ、
どちらかというと身体症状が中心と思われ、
うつ状態があるにしても、この病気の症状として
人が見分けられないほど認知機能が低下するとは思えません。

つまり、Lynnさんが具体的にどういう状態にあったのかが曖昧かつ矛盾しており、
この記事では、まったく客観的・具体的に説明されていないのです。

本人の状態が明確に説明されないまま、
なんとなく「寝たきりの全介助で何もできず何もわからなかったのだな」という印象と
「あまりに悲惨だから自分でも死のうとしたのだな」という印象を
同時に与える記事の書き方になっている。

その2つは、現実には両立しないものであるにもかかわらず。


不可解 その3

周囲の人間の主観によって決定付けられてしまう「悲惨な状態」。

上記の解説からすると、
この母親の言葉から受ける印象とは違ってMEは不治の病などではないし、
この病気でターミナルになることも、まずなさそうです。

記事の書き方は最初から「何も分からない重症者」という前提のようですが、
その点に気をつけて読み込んでみると、
実は本人の知的機能はしっかりとしていたのではないかと思われるのに、
「治るとは本人も思っていなかった」という以外に
本人の意思や気持ちというものが言及されることは一切ありません。

意識的なのか無意識的なのかは別にして母親とメディアは、
母親の頭の中だけにある主観的・観念的な「悲惨な状態」をもって
それが実際のLynnさんの状態であったかのように現実を置き換えてしまうという
とんでもない離れ業をやってのけているのではないでしょうか。

つまり、客観的な事実は問われず、
周囲が本人の状態をどのように捉えるかということだけによって
その人の「悲惨さ」が決定付けられているのでは?

2006年7月に母親のGilderdaleさんが新聞のインタビューで語っていることが
非常に象徴的と思われるのですが、

「誰かが死んだ時、人は悲しみに暮れますが、やがて
その人がいなくなったことを受け入れ、気持ちを切り替えて生きていきます。

しかし、Lynnはそのどちらでもないのです。
Lynnはあの部屋に閉じ込められて、死んでもいないけれど
まともに生きている(alive properly)わけでもないんです」

母親はLynnさんの状態を「永遠に“宙ぶらりん”の状態」とも呼んでおり
「死んでいないけど生きているともいえない」状態だと捉えていたわけですね。

本人が客観的にどういう状態であろうと
(知的機能は冒されていなくとも、困難があるなりに意思の疎通が可能であろうとも
自分で自殺を企てられるほどの身体・知的機能があろうとも、さらに不治の病でなかろうと)

誰か、周りの人の主観的な捉え方の中で
「この人は、まともに生きていると言えない状態」と受け止められてしまえば、
もはや実際の本人の状態など問題ではないかのように……。

この記事から感じる薄気味の悪さは、そこのところにあるような気がする。


すなわち、この母親や、この事件を描くメディアの意識・無意識から見えてくるのは

「慈悲殺」とは
耐え難い苦痛を感じて死にたいと望んでいるのに
自力で死ぬことができない本人の気持ちを周囲の人間が慮って、
その人が望んでいるはずの「自殺幇助」を代理決定してあげることだ―─という論理。

そして自殺幇助希望を代理決定した同じ人が、ついでに、そのまま幇助もしてしまいました、とね。

だから、これは本人の「死の権利」の代理行使なのです、とね。

こんな理屈が通るなら
重い病気や障害のある人の殺人が、いくらでも免罪されてしまう。

自殺幇助合法化の”すべり坂”は、既に始まっている――。
2009.04.18 / Top↑
まだ未整理で、あまり論理的に語れないし、
国ごとの違いを区別していないといわれればその通りなのだけれど、

Ashley事件からの2年余り、
ネットで英米の障害児・者をめぐる医療関連ニュースをかじってきて、
最近とても強く感じている違和感があって、

なんだか、なぁ、実はアベコベじゃないのかなぁ……と。

どういうものにアベコベを感じるかというと、

①「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」


そんなあたりで、いわゆる「死の自己決定権」論者たちの
「いつ、どのように死にたいかを決めるのは、家族や友人がなんと言おうと
その人本人だけに決めることのできる権利」という主張を
繰り返し読まされていると、

人が生きているのは、家族や友人など多くの人との関わりの中でのことなのだから、
周りの人の思いを無視して自分が勝手に死んでいい、
というものでもないのでは……という感じがしてくる。

その一方、現在、日本の臓器移植法の改正で議論されている眼目の1つ
「臓器が足りないから、本人の意思が不明な場合でも
家族が了解すれば臓器をとってもいいことにしよう」という主張には、

体の尊厳とか全体性を侵されない権利というものこそ、
その人本人に帰属するもので、むしろ、こっちのほうこそ、
家族がなんと言おうと、本人だけに決める権利があるんじゃないのかなぁ、と思う。

「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」のそれぞれで
いま声高に主張されていることは、そこはかとなく、アベコベでは……と。


②重い知的障害のある人の医療

Ashley事件では
重い知的障害があることを根拠に医療上の必要のない侵襲が正当化された。

「無益な治療」論は、
どうやらターミナルな状態の人すべてに適用されているのではなく
重い障害のある人であれば、必ずしもターミナルではなくとも
適用されつつあるように思われる。

いずれにしても、重い知的障害のある人に対して、
本来の医療の範疇からは外れた「すごく特別な医療上の判断」が
とても熱心に検討されている。

しかし、その一方で、
英国の医療オンブズマンが指摘したように、
知的障害のある人たちはルーティンの基本的医療すら受けることができていない

もしもスタンダードな「普通の医療」が受けられていないのであれば
本当は、まず、そっちの方が重大な問題なんじゃないのだろうか。

特別な医療を議論する必要があるのだとしても、
まずは「普通の医療」が普通に受けられるように保障した上で
次に「すごく特別な医療」が議論されるのが本来あるべき順番だと思うのだけど、

特殊な医療(切り捨てることも含めて)を行う議論にばかり熱心で、
普通の医療が受けられていない大問題の方には
どなたも、あまり興味がないらしいのは、
それって、アベコベじゃないの? と思う。


③「耐え難い苦痛」に対する姿勢

②のアベコベとも重なってくる話で、
自殺幇助合法化論者は「耐えがたい苦痛」を逃れることを正当化の理由としているのだけど、
その苦痛が本当に「耐え難い」ものなのかどうか。

英国の医療で(たぶん他の国でも)知的障害がある患者の痛みは放置されているように、
また、痛みのコントロールの技術を持つ医師が少ないとホスピス医が指摘しているように、

スタンダードな医療における痛みのコントロールに
まだまだ改善すべき点があるのだとしたら

「耐え難い苦痛」から逃れたい人に毒物を飲ませて殺すんじゃなくて、
その苦痛を耐えられるものにしてあげられる方策が十分にとられているのかどうか
もっと検証する方が先でしょう、と思うのだけど、

もはや治せない患者には興味を失ったり、
障害の有無や人種、もしかしたら階層による線引きで
本当はコントロールできる患者の痛みを放置しておいて、

今度はその痛みを理由に、患者を医療によって死なせてあげましょう、というのは
やっぱり、それは、アベコベでしょう……と思う。


④親の決定権

米国、カナダの医療において、子どもの場合は
「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。

もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には
親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、
特に障害のある子どもたちの体に社会的理由で手を加えることについては
親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、

Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは
子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても
「親の決定権で」と主張している。

カナダのKayleeのケースを見ても、
親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。
(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)

子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。

しかし、気をつけておきたいと思うのは
ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは
「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、
「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても
病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、
ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。

医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、
意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、
子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。

12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに
それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。

それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、
成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、
意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、

これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。


そして、これら、すべてのアベコベに共通しているのは、
結局、経済効率という強いものの都合と論理─―?
2009.04.18 / Top↑
英国最大の医療と介護サービス企業Bupaの
高齢者ケア部門のメディカル・ディレクター Dr. Clive Bowmanが
英国医師会のジャーナル3月号で

医師の訓練不足とケアホーム管理者の意識の低さにより、
認知症患者に不適切な抗精神病薬の投与が続いている、と指摘。

医師らは研修医時代に病院の外科病棟などで
認知症患者の安全のための抑制を目的とした鎮静剤の使用事例を目にして、

それ以上の知識も研修もないままに
やがて自分たちが現場で実践し、さらに指導的な立場についても
研修医時代の体験の通りに投与し続けている。

また、ケアホームを管理監督する立場にある人たちも
これまで正面切って認知症患者への抗精神病薬の使用状況を把握する努力をしてこなかった。

抗精神病薬の処方は医学教育の中にきちんと位置づけられる必要があるし、
エビデンスに基づいた投与が行われなければならない。

病院にもGPにも
抗精神病薬の投与理由と治療の予定期間を明確に記録するよう求める必要がある、と。



Bupaについては、
HPを日本語訳したものがこちらに。


案外こういうことは日本でも行われているのではないかと、
ふと疑ってみたことがありました。
佐野洋子「シズコさん」(2008/7/12)
2009.04.17 / Top↑
米国テキサス州の女性 Missy Evansさんは
21歳の息子Nikolasさんを喧嘩による暴行で亡くした。

将来は男の子が3人ほしい、名前ももう考えてある、と
息子が生前、語っていたといい、

「息子は大学も卒業したかったし、子どももほしかったんです。
それなのに、人のせいで、もうできなくなってしまった」

遺体から精子を採取して代理母を頼み、孫を産んで育てるのは
息子の遺志を継ぐことだ、と。

Travis郡の検認判事は14日、Evansさんの希望を認め、
専門家による採取が行えるように警察に遺体の冷凍保存を命じた、とのこと。



しかし、ここでかなえようとされているのは息子の遺志や望みではなく、
息子を取り戻したい母親自身の見果てぬ夢なのでは?

彼女が本当にほしいのは息子のクローンで、
それが許されないから、せめて息子の血を継いだ孫を、と望んでいるのだと思う。


これは、ペットセマタリーだ、と思う。
こんな夢は、かなえてはいけないのでは?


去年イスラエルでも同様の判例が出ているようなので、
その記事を紹介しておられる方のブログ記事にトラックバックさせていただきました。
2009.04.17 / Top↑
意思決定能力を欠いている人の医療における代理決定の判例として
名前だけは聞きかじっていたサイケヴィッチ裁判(1976年)の詳細について、
星野一正氏がまとめられたサイトを見つけたので、

自分自身のメモとして、以下に。

重症の知的障害がある高齢者の、苦痛を伴うがん治療をめぐる代理決定。

インフォームドコンセントを与えることのできない患者の代理決定について
一定の法的基準を示した判例とされる。

患者の代理意思決定 =サイケヴィッチ判決=
時の法令1616号 69-75頁 2000年4月30日発行
民法化の法理 医療の場合 64
2009.04.17 / Top↑
Kaylee事件を機に、2007年9月のエントリーを以下に一部再掲。

元記事は2006年に Wesley Smithが書いたもので
生命倫理学者が「息をする死体」「生きている死体」などと称して
脳死状態どころか、植物状態その他、意識のない状態の患者に非人格化を行い、
実験利用しようと企んでいる、と指摘するものです。

ここしばらく当ブログが取り上げているカナダのKaylee事件では、
重い障害があるというだけで、明らかに意識のある患者が心臓のドナーにされかけました。

(それとも生後2ヶ月でまだ言葉を持たないから「意思疎通ができない」
したがって「意識がない」ことにでもされるのでしょうか)

そのことを念頭に、
生命倫理学者らが2006年の段階で既にこんなことを言っていたのだと
読んでみてほしい。


Experimenting with live patients / Some experts think it’s OK to use vegetative human subjects
Wesley J. Smith (San Francisco Chronicle 2006年10月22日)

「生きた患者で実験 / 植物状態の人体利用OKと考える専門家も」というタイトルからして衝撃的ですが、冒頭、この記事が枕に使っているのは”Hunters of Dune”という新刊SF小説。“Hunter……”では、未来のバイオテクノロジストたちは死体からクローンを作っているのですが、そのブリーディング用“タンク”、実は植物状態の女性なのです。

しかし“Hunter……”を荒唐無稽なSFとばかり笑って済まされないのは、臓器提供者として、また動物の臓器を人間に移植する実験用に、意識のない患者を利用しようと提唱する動きが著名な生命倫理学者の中にあるから。近年、実際にthe Journal of Medical Ethicsにはそのような提言を行う論文が相次いでおり、そのために彼らはまず死の再定義によって、意識のない患者の dehumanizing(非人格化?)を試みている、とSmithは警告しています。

ジョージタウン大学の生命倫理学者Robert Veatchの主張

人間存在の本質は統合された心と体の存在であり……人間が法的、道徳的、また社会的意味を持って存在するためには、これら2つが存在しなければならない。植物状態と診断された人たちには意識がないと考えられるため、息をしている間に埋葬するのは単に美的でないという理由でしないだけで、それさえなければ埋葬しても構わない「息をする死体」に過ぎない。

ベルギーのAn Ravelingienらの主張

もしも永続的植物状態を死とみなすことになれば、そうなる以前に本人が同意さえしていれば、死体での実験と同じ条件での実験利用も合法である。永続的な植物状態を「患者」と呼ぶことはやめるべきだ。「患者」と呼ぶと「生きている死体」を誤って人格化してしまい、議論の妨げとなる。

英国のHeather Draperの主張

永続的植物状態の人はまだ生きていると個人的には考える。しかし、だからといって、そういう状態の人を動物臓器の人間への移植実験に利用していけないわけではない。同意能力のあるうちに、同意能力をなくした場合は研究に参加すると決めておくことにすれば問題はない。植物状態やそれに近い状態で何年も生きるよりも、研究に参加して他者を助ける方が間違いなく良い生き方だろう。


         ――――――――――

一番気に入らないのは、「植物状態やそれに近い状態で生きるより実験利用で人様の役に立った方が良い生き方だ」という部分。生命倫理学者が人の生き方の良し悪しを云々することはない、余計なお世話だ、と思う。

しかも、この中の「それに近い状態」が気になります。原文ではother less-compromised state。厳密にいうと「その他、植物状態ほどには能力が失われていない状態」でしょうか。Draperはめでたく植物状態を死と定義できた暁には、次には植物状態ほどではない状態(これは意識がある状態のことではないでしょうか?)にも死の定義を拡大しようと考えているのでしょう。

移植臓器は決定的に不足しています。このバイオテク・ナノテク時代、人体実験に「生きた死体」が使えればどんなに研究が進むかと夢見る人たちも沢山いることでしょう。(「生きた死体」はES細胞の倫理的ジレンマも解消するのでは……。)社会のニーズが増大すれば、死の定義の線引きはさらに軽度な障害像に向かって移動していくのではないでしょうか?


現実に、死んでいない人から臓器が摘出されているとの証言も
去年こちらのエントリーで取り上げたBoston Globeの記事にあります。

しかも、その現場でのルール違反がさらに
「だから、いっそ生きている人から採ってもいいことにしよう」という主張に
裏づけとして利用されています。

ここ数回のエントリーで見てきたように、Kaylee事件が示唆しているのは
医療現場で障害者の命を軽視する「無益な治療」論や尊厳死・自殺幇助合法化議論が
実は臓器移植医療と繋がっているという、あられもない現実であり、

脳死から植物状態へ、意識のない(明確な意思表示ができにくい)患者から
ただ重い障害があるというだけの人へと、
対象が広がっていく「すべり坂」が既に現実のものとなっているという事実。

そして、それと同時進行しているのはきっと、
今回Kayleeの父親の発言やメディアの捉え方に見られたように、
要介護状態になったら無益な治療で社会に無駄なコストをかけ、家族に負担を強いるよりも
科学とテクノロジー研究の役に立って死んでいく方が尊厳のある生き方であり死に方」だという
とてつもなく、ご都合主義な価値観の広がり。


【関連エントリー】
臓器ほしくて障害者の死、早める?(2007/9/14)
2009.04.16 / Top↑
Compassion & Choice については当ブログでも何度も取り上げてきましたが、
前のエントリーで紹介したSeattle Timesの記事が
このC&CのWA支部をどのように紹介しているかというと、

A Washington nonprofit that advocates for quality end-of-life care and expanded choices
良質な終末期ケアと多様な選択肢を求めるアドボケイトであるWA州のNPO

しかし、実際にはC&C(もとはHemlock Society)は
WA州の尊厳死法を認めるかどうかの住民投票に向けて
州外から莫大な資金を持ち込んで尊厳死法実現に積極的に運動した中心的存在。

C&Cのサイトはこちら

米国では2月に
同じく死の自己決定権のアドボケイトthe Final Exit Network(FEN)から
違法な自殺幇助で幹部から4人もの逮捕者が出ており、

C&C側がFENとは違うのだというスタンスを強調して見せていたり
メディアの扱いもFENとC&Cの間に一線を画するところがありますが、

3月27日のLA Timesに医療弁護士 Stanton J. Price という人が
Different assisted-suicide groups, one goal と題した論説を書いて
この2者を質の違う団体と捉えるLA Timesの姿勢に疑問を呈しています。

FENとC&Cのいう「耐えがたい苦痛」とは、ターミナルな状態を超えて
本人にとって、または他者から見て主観的に「苦痛が耐え難い」ものまで拡大解釈しており、
ヘリウムで自殺させる、バルビツール系毒物を使うという手段の違いはあっても
両者とも目指しているゴールは同じである。

LA Timesが 
「FENが提供している、このような倫理的に問題のある‘支援’を
社会が容認することは決してないだろう」と書いたのは、

C&Cも本質的に同じであることを理解していない点だけではなく、

2年前にCalifornia州議会に尊厳死法案が提出された時にJoe Dunn上院議員が
「最後にはお金の力によって自殺幇助の条件が決定付けられるリスク」を指摘して
法案に反対した懸念に照らしても
ナイーブ過ぎる、と批判。

次のように書いています。
………Given our current economic climate, the lack of adequate healthcare for many and the stigma placed on those with chronic disease or disability, I do not share the faith in society or in our politicians such laws require. This dubious fight waged by the Final Exit Network and Compassion and Choice equates to dangerous public policy and places far too many vulnerable people in harm’s way.


現在の経済状況と、多くの人がまともな医療を受けられていない現状や慢性病や障害のある人に課せられたスティグマを考えると、このような法律が必要とする社会や政治家への信頼を、私は彼らのようには持つことができない。FENとC&Cが進めている怪しげな運動は、危険な公共施策に他ならず、あまりにも多くの弱者を危険にさらすものである。


前のエントリーで紹介したC&Cが医師に自殺幇助を呼びかける書簡でも
移植医療の関係者が署名していることが目を引きます。

また、その前の複数のエントリーで紹介したカナダのKaylee事件(文末に関連リンク)では
脳死状態でもなければ、植物状態でもターミナルですらない、
開眼して明らかに意識がある生後1ヵ月半の乳児から
心臓移植のドナーにするという目的で人工呼吸器が取り外されました。

どうせ重症の障害児だから、
そして、おそらくは、たまたま同じ病院に
心臓移植を必要とする生後1ヶ月の乳児がいたから、という理由で──。

「どうせ長くは生きないし、生きたとしても重症の障害を負うのだったら、
他人の命を救って死ぬ方が娘にとっては尊厳のある死だと思った」と
父親は語っています。

脳死でなくてもターミナルでなくても植物状態でなくても
重い障害がある人はどうせ命の質が低いのだから、
そんな苦痛に満ちた「生きるに値しない生」を生きるよりも
臓器を提供し誰かの命を救うために死ぬ方が
本人の尊厳を尊重することになる──。

そういう考えで娘を死なせて心臓を提供すると決めた彼を
メディアは賞賛したのです。

この医療弁護士の懸念は
Kaylee事件でリアルな現実として起こっているではないか、と思う。


そういえば、2年以上前のAshley事件の際に、
かつてSchiavoさんからの栄養と水分供給停止に抗って戦ったJodi Tada氏が警告していました。

忘れないでいてほしいのだけど、社会というのは、
健康な臓器の摘出で社会的コストが削減できるとなったら、やるんですよ。
機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆の方に向かうのだから


          ――――――――

C&Cが最近出した終末期医療の7原則を見ると、
彼らが主張する「死の自己決定権」とは「自己決定がすべて」であることがよく分かります。


2009.04.16 / Top↑
当ブログで既にお伝えしたように
3月に米国Washington州でOregonとほぼ同じ尊厳死法が施行されましたが、
医師や病院はこの法律に参加するかどうかの選択が認められており、
参加しないことを選ぶ病院や医師が相次いでいます。

法律で定められた条件を満たした患者が自殺幇助を望んでも、主治医がこの法律に参加せず、
住居地域で参加する医師も病院も見つけられないケースが発生したことを機に、

死の自己決定権アドボケイト、Compassion and Choice が
尊厳死を望む患者の意思を尊重するよう、
6名の医師の連名で呼びかける書簡を州内の医師らに配布した、とのこと。

この書簡に署名した6名にはWA州医師会の元会長が含まれています。
(現会長ではないのが興味深いところ)

それから、私はここがものすごく引っかかるのですが、もう1人が
The Seattle Cancer Care Alliance の入院移植サービスのメディカル・ディレクター。

医師に対して自殺幇助を呼びかける声の中に移植医療の声が混じっている──。

まったくもって、なにをかいわんや、という感じ。

Physicians urged to honor Death With Dignity Act
The Seattle Times, April 12, 2009


もう1つ、Ashley事件を追いかけてきた者としては
この記事が完全にC&Cサイドの視点から書かれていることについて
「ああ、いかにも Seattle Times だなぁ」と感じていたのですが、

(なぜ「らしい」のかについては Ashley事件「シアトルタイムズの不思議」の書庫を)

そうしたら、プロ・ライフの生命倫理ブログLIFENEWS.COMが14日にこの記事を取り上げて
一方的にC&C側の視点で書く、メディアのバイアスだ」と非難していました。
(リンク記事の3つ目です)

だ、か、ら、Seattle Timesてのは、もともと
世界の医療を企業の効率主義・功利主義で変革しようとする慈善資本主義の御用新聞なんだってば。

なんでAshley事件がシアトルで起こり、
なんで米国第2の自殺幇助合法化がワシントン州だったか。

実はみんな繋がっていると私は思うのだけどなぁ。

            ―――――――

WA州に続いて自殺幇助が合法であると裁判所が判断したMontana州でも
医師会が会員の自殺幇助を容認しないとする見解を発表するなど
法律的には認められても、実際にやろうとする医師がいない状況になっています。

One News Now というサイトに
The Montana Family Foundation のJeff Laszloffyという人が
「医師による自殺幇助、合法化され、無視されて」というタイトルの論説を書いています。

それによると去年12月の Dorothy McCarter判事による合法との判断は
州最高裁に上訴されているとのこと。

Laszloffy氏は、今後、McCarter判断が覆るのではないかと期待。

Doctor-assisted suicide legalized, ignored
OneNewsNow.com, April 14, 2009
2009.04.16 / Top↑
以前にも何度か紹介した
カナダ Alberta大学の哲学や障害学の研究者らが中心になっている生命倫理系のブログ
What Sorts of Peopleが4月9日にKaylee事件を取り上げていました。

エントリーと最初のSobsey氏のコメントの主眼は、
この事件を報じたメディアの記事が如何に事実を正しく伝えなかったか、
いかに多くの人が事実を誤認したままにこの事件を捉えたか、という点。

そして、それによって
Kayleeをドナー候補とした当初の医師らの判断そのものが疑わしいという事実が
覆い隠されてしまっている、との指摘。

(このあたりの構図、Ashley事件に非常によく似ています)

概要をざっと以下に。

例えば、Kayleeの心臓摘出のための呼吸器外しは、報道によると
Donation after Cardiac Death (DCD:心臓死後の提供)や
Non-Heart Beating Donation
(NHBD:呼吸器をはずして一定時間拍動がないことを確認しての提供)
プロトコルにのっとって行われたもので、

だからこそ、
呼吸器をはずした後、一定時間内に心臓が止まらなかったために
心臓移植が断念されたのだと解釈され、

あたかもKayleeが呼吸器を外されても生き続けたことで
奇跡が起こったかのように書かれたのだけれども、

もともとKayleeは脳死ではなかったのだから
最初からDCDの対象にもNHBDの対象にもなるはずのない患者だったのであり、
この子をドナー候補と考えたことそのものが不当な判断だったのである。

Joubert症候群の睡眠時無呼吸はたいていの場合、成長するにつれて解消されるし、
Joubert症候群の子どもの中には予後のよいケースもある。
少数ながら大学まで卒業したケースもある。

そんな子どもがどうしてターミナルだと言われたのか?
確かにKayleeはリスクのある状態だったのかもしれない。
しかし、リスクがあることは決してターミナルな状態ではない。

Kayleeが呼吸器をはずしても死ななかったのは奇跡などではなく、
もうすぐ死ぬだろうという医師らの見立てが間違っていたということであり、
両親にも間違った助言が行われたということである。

皮肉なことに、命に関わるほどの睡眠時無呼吸症候群を治療している子どもは多い。
それだけで心臓移植のドナーとして命を犠牲にされなければならないのなら
みんな死ななければならないのか?

しかし、最も気になるのは、
2つ目のコメントに引用された父親の発言から明らかになった以下のような事実。

Kayleeの状態について最初からずっと
「非常に悪いので、治療をせずに死なせてあげたほうがいい」と言い続けた医師たちが

いざ呼吸器をはずしてみたら心臓が止まらず移植が不能となったとたんに、今度は

「こういう子どもたちは成長につれて状態が改善する傾向があるから」
除細動機で1年くらいは呼吸を手伝ってあげたほうがよい、と言い始めた、と。



この事件は、もしかして、
同じ病院に心臓移植が必要なLillianちゃんという赤ん坊がいなかったら
最初から起こらなかったのでは──?

でも、それって、一体──?


【関連エントリー】

2009.04.15 / Top↑
Kaylee事件について書いた昨日のエントリーの後半部分を、
別エントリーとして以下に独立させました。


Kaylee事件のニュースを読んでから
ここしばらく、ずっと頭の隅っこに引っかかっている素朴な疑問が
またぞろ気になり始めた。

それは、4月4日の朝日新聞の記事。

97~98年の日本循環器学会心臓移植委員会の調査結果を取り上げて、
臓器移植法の改正に期待する関係者らの声を紹介しているのだけれど、

私がものすごく違和感を覚えたのは
その記事の右上に どん! というくらいの存在感で目を引く大きな分数。

136 / 432

この分数は記事タイトル「心臓移植 実現は 136 / 432」の最後の部分なのだけど、
「心臓移植 実現は」の活字よりも大きい数字が使われている上に
活字の白黒が逆転し、大きな黒い四角の中に白い数字が浮き出しているので
イヤでも目に付く、非常に視覚的アピール力の大きな分数になっている。

もちろんアピールしているのはリード部分の冒頭にあるように
「国内で心臓移植が必要とされた患者の3割しか、移植が受けられ」ていない実態で、

分数にしたのは
「移植が必要な人が432人もいるのに136人しか受けられていない」というギャップを
際立たせようとの意図なのだろうけど、

そこでは、そのギャップを憂う気持ちが、そのまま
「136を、もっと432に近づけていくべきだ」との主張と重なっている。

つまり、この部分を拡大して分数にするという編集判断から生まれるのは、

見る人の意識の中で、、
分子を限りなく近づけていくべき目標として、分母を位置づける視覚効果であり、

読者が受けるのは
「本来なら移植を受けられるべき人が、まだまだ受けられていない」という印象なのでは……。

少なくとも私には、この大きな分数は
「心臓をもらうべきなのに、まだもらえていない人がこんなにもいる」と
声を張り上げているように見えた。

しかし、臓器移植って、もともと、そういうものだったっけ……?
というのが、この分数を見た時に感じた素朴な違和感。

移植用の臓器って、もともと、ほしい人みんなに行渡るべきものだったっけ?

たまたま運悪く亡くなる人があって、たまたまその人が奇特な志の持ち主で、
さらにたまたま、その臓器が自分の状態にぴったりだった場合に、
運よくいただける……そういうものだったんじゃなかったっけ?

だからこそ、「命の贈り物」と呼ばれたんじゃなかったっけ?

いつから「命の贈り物」が「もらえるのが当たり前」のものに変わったんだろう?
臓器はいつから「必要な人すべてに行渡るべきもの」になったんだろう?

そもそも臓器移植という医療の性格からして
必要な人すべてに行渡るという状況が一体可能なんだろうか。

仮に理論的に可能だとして、
それは本来、あるべき状態と想定したり、目指すべきことなのだろうか。

医療技術が進歩して臓器移植がある程度安全な医療となったのだとしても、
だからといって臓器移植という技術の本質が変わるわけではないのに、
こんなふうに分数にしてしまえる神経というのは、
技術が進歩したことによって、人の死の上に成り立っている医療技術の本質を忘れて
それ以外の外科手術と同じように捉え始めているからではないのか。

もしも本当に、この分数の分母と分子とを限りなく近づけていくことを
移植医療が目指すのだとしたら、

それは、もはや「誰かの篤志によってありがたくいただく命の贈り物」ではなく
「贈り物の強要」になってしまう恐れはないのだろうか。




敢て Kayleeちゃんの写真を再掲しました。

ほんの数日前まで医師や親たちが、この子の心臓を
「Lillianちゃんにあげよう」と決めていた事実の重大さを考えたい。

「Kayleeちゃんは、どうせ、すぐに死ぬんだから、今から死なせてしまおうね。
Kayleeちゃんの心臓が止まったら、すぐに取り出してLillianちゃんにあげるよ」
といって、このピンク色をした赤ちゃんから呼吸器が外されたのだという事実を──。

それでも死なずに自力で呼吸しながら生きている
今のKayleeちゃんの、この姿を──。

心臓移植を巡って新聞に大きく掲載された分数の
分母を、分子を限りなく近づけていくべき目標と捉える発想には
こういう事件を起こす可能性が潜んでいる……なんてことは
本当にないのかどうか、ということを──。


ちなみに、Denver子ども病院では
心停止から75秒でドナーの子どもの心臓を摘出しているのだとか。


【Kaylee事件 関連エントリー】

2009.04.15 / Top↑
Brown大学の研究者らが
連邦政府によって全ナーシングホームに義務付けられた報告データと
メディケア・メディケイド・サービスセンターのデータベースのデータで
褥そうの発生率を比較したところ、

ヒスパニック系の入所者が多いナーシングホームのほうが
ヒスパニック系の入所者が少ないナーシングホームに比べて
発生率が高かった。

今回の調査結果が何を意味するのか、もっと研究が必要、と。

このたび the Journal of the American Medical Directors Association に掲載。

今回の主著者Michael Gerardo 教授(Brown大)らは2007年にも
黒人の方が白人よりもケアの質の低いナーシングホームに入所する確率が高いとの
調査結果を報告している。

Health Affairsに発表された、その論文によると、
最も格差が大きかったのは中西部で、
人種によって入所するナースホームが分かれていることと
ケアの不平等の間には密接な相関があった、と。

Reduced Standard Of Care For Hispanics In Nursing Homes
The Medical News Today, April 13, 2009
2009.04.15 / Top↑
高校生の時に交換学生として訪れた米国の小さな町から
市の客人として親善訪問団が来訪中。
個人的に知っている人もわずかにおられるので
内輪の歓迎パーティに出かけた。

そこで、大して意味もない四方山話として、
初めて米国に行った1970年代に日本の田舎の女子高生がびっくりしたことの1つは
女性がみんなパンツをはいていて、スカートをはいている人がいなかったことだ、と
多少オーバーに面白おかしく披露してみた。

そして、海軍基地のある、その町から来た何人かの女性と
ちょうどリブ全盛の時代だったのよね……てな話を交わしていたら、

ちょっと高齢の一人が
「海軍基地が女性職員にパンツで出勤してもいいと許可を出したのが70年頃だった」と。

「……ってことは、それ以前は
女性職員はスカートで出勤しなければならなかったということですか?」
「ええ、そうよ」

ぎぇ。知らなかった……。

その70年代には
北欧では(たぶん米国でも?)まだ知的障害者に対する強制不妊手術が行われていたり、
日本でも私と同じくらいの年齢の若者たちが北朝鮮に続々と拉致されていたのだけど、

そんなこと私は何も知らなかった。

ベトナム反戦運動すら、
おバカな田舎の高校生にはフォークソングの世界でしかなかった。

ほんとうに何も知らず何も考えないバカ娘だった──。

だから、

世の中がいつからか加速度的にずんずん悪くなったから今こうなっているのか、

それとも

前からずっと世の中は今と同じくらいひどいところだったのを
ただ何も知らず野放図に生きてきた私が知らなかっただけなのか、

自分では判断がつかなくて困ってしまう。

たぶん、そもそも、そういう捉え方しかできないこと自体が
私の無知蒙昧の証拠なのだろうけど。

それにしても、ショックだった。
私がジーンズをはいて何も考えない高校生をやっていた時代に、
米国にはスカート出勤を義務付けられた女性たちがいたなんて。
2009.04.14 / Top↑


昨日のエントリーで紹介したカナダのKaylee事件について
障害者の人権アドボケイト The Canadian Association for Community Living(CACL) から
4月9日付でプレス・リリースが出ていました。

CACLのサイトではリリースを見つけられなかったので、
それをコピペしてあるNot Dead Yetのエントリーを以下に。



全体として、
トロント子ども病院の医師らが
障害があることによってKayleeの治療を最初から無益と考え、
Kayleeを心臓移植のドナーにすることを最優先にもろもろの判断が行われたために
家族が振り回されてしまった事件と認識、

医療が障害のある患者の生命の質を低いものと判断する昨今の傾向に
警告を発する内容となっています。

親への説明が最初から
できるようになる可能性のあることよりも
できないことにばかり焦点を当てていたし、

障害とは、「この障害がある子どもはすべてこうなる」と
単純に予測できるようなものではないにもかかわらず、
医師らはKayleeの予後を実際よりも厳しく描き、
Joubert症候群だから、すぐに死ぬ、と思い込ませた、と指摘。

(Joubert症候群で呼吸管理が必要なのは睡眠時無呼吸があるために過ぎない、とも)

子どもが重病であったり死の危険に直面しているという、
親にとっても精神的、肉体的も苦しい状況下で
家族は医療者が敬意をもち尊厳ある治療を行ってくれるものと信じ、
また医療者の説明や判断はバイアスのない公平なものだと
その誠実さを信頼する以外にはないのに、

生死を分かつ医療の判断が
他者から見て「生命の質が低い」かどうかのバイアスに左右されている。

この事件を報道するメディアの論調にも共通して
「障害のある生は生きるに値しない」との価値観が織り込まれている、と批判。

このような価値観の蔓延が
出生前遺伝子や選別的中絶を増加させているが、
このトレンドはかつての優生思想を髣髴とさせる、と。

そして以下の言葉でリリースを締めくくっています。

Kayleeちゃんは助からないかもしれない。
しかし、もしKayleeちゃんが万が一、悲しい転機をたどるとしても、
それが、本来受けることができたはずの万全の治療とサポートを
障害があるために受けられなかったことによる死であってはならない。


【Kaylee事件 関連エントリー】


 
2009.04.14 / Top↑


2人の父親、特に片方が
病院の前で定期的に記者会見を行うがごときメディアへの露出振り。
しかも、饒舌な割りにちょっと支離滅裂で、
事実関係も含めて、よく分からない事件ではあるのですが、

おおよそ、こういう事件だったのではないかと思われるところをまとめてみると、

Jason Wallace と Crystal Vitelli夫妻は、
生まれたばかりの娘Kayleeが重病なため、
トロントの子ども病院でずっと付き添っているうちに

Kayleeよりも少し遅く生まれたLilianの両親
Kevin O’Connor とMelanie Bernard夫妻と出会い、親しくなった。

Kayleeは重症のJoubert 症候群
人工呼吸器をつけているが、いずれにしても長くは生きない。
生き延びたとしても重い障害を負うことが確実視されている。

片やLilianは心臓病で、すぐに移植すれば命が助かる。

そこでKayleeの両親はLilianの両親に
「じゃぁ、うちの子の心臓をあげよう」と申し出た。

それだけでなく、
表に出たがりだったらしい父親2人がメディアにせっせと露出したものだから
たちまちのうちに「美しい命の贈り物」の美談ができあがり、
Jason Wallaceは国民的ヒーローに。

そして4月7日。
近親者がベッドを取り囲んでお別れのセレモニーを行った後に
いよいよKayleeの呼吸器が取り外された。

ところが、Kayleeは死ななかった。
自力で呼吸を続けたばかりか、写真のように元気に生きている。



8日以降、それでもまだメディアの取材を受けるべく姿を現すWallaceのいうことは
どんどん支離滅裂になってきている感じがするのですが、
以下の記事から、だいたい言わんとしているのは、こんなところか。

どうせ死ぬし、生き延びても重症障害児になるんだったら、
いっそ誰かの命を救って死ぬほうが、この子の命には価値があると思えた。
そういう形で尊厳のある死に方をさせてやりたかった。

でも、呼吸器をはずしても、こんなに元気そうだなんて、ショックだ。

医師は最初の日から「QOLが低い」と、そればっかり言っていたし
診断された直後には栄養と水分を断って死なせるのも選択肢だと言ったり
呼吸器をはずしても死なないと分かった晩にも
「お父さんはもう余計なことを言わずに黙って、
娘さんに尊厳のある死を迎えさせてあげなさい」と失礼なことを言うので
セキュリティがやってくる大喧嘩になった。

結局、医師は娘の心臓が移植に適した状態から外れていくにつれて診断を二転三転させ、
親はそれに振り回されたってことだ。
もう何がなんだかワケが分からない。

自然に死なせてやりたかったのだけど、
このまま元気になるのだったら娘は家につれて帰ってやりたい。
だけど、死ぬんだったら、次に子どもを作る時には出生前遺伝子診断を受ける。
生む前に分かっていたら、この子は生まなかったのに。


この事件で疑問視されている問題は

この移植の判断の妥当性
病院側は最初からLillianはリストのトップだったというが
メディアが煽った世論からのプレッシャーで政治的判断があったのでは、との疑惑。

公平な臓器移植の優先順位の原則
臓器移植はドナーの気持ちではなく「ニーズが切迫している順に」という優先順位の原則は?

・ Kayleeの診断の正確さ
重症と診断されていたはずのKayleeが呼吸器をはずしても元気に生きていることから
医師は「考えていたよりも軽症だったかも」と。




Rushing to judge others
The Toronto Star (editorial), April 10, 2009



イマイチよく分からない感じのする事件なので、
自分としてどう考えるかについては、とりあえず保留なのだけど、
なんということもなく、これを関連エントリーとして挙げておきたい気分になった。

葬式(2009/3/29)


【Kaylee事件 その後の続報】

2009.04.13 / Top↑
前にも介護がらみの問題を取り上げていたのを見た記憶があるのですが、
BBCテレビにPanoramaという面白いドキュメンタリー番組があって、

レポーターが身分を隠して様々な現場に実際に就職し、
「なりきり」潜入ルポを敢行したり
隠しカメラを設置したりして、
様々な問題の裏側を暴く……てなことをやってしまう。

そのPanoramaが今回4月9日の夜に放送された特番で取り上げたのが
英国政府が「金のかかる施設ではなく在宅で」と力を入れてきて
150億ポンドを超える予算が組まれているはずの
在宅介護サービスのお粗末な実態。

番組タイトルも Britain's Homecare Scandal。

そのケアのあまりのひどさとは、

例えば89歳のJanet Finnさんは、
まるまる24時間ヘルパーが来ずに放置され、
その間、飲食が一切できず、薬も飲めず、
息子さんが発見した時には自分の排泄物の中に座っていた、と。

78歳で自力歩行ができないAndy Wilsonさんは
クリスマスの日に介護者が訪問介護を短く切り上げるため、
夕方6時半にベッドに入れられ、翌日までの14時間を
サンドイッチとスナックだけで過ごさせられた。

Wilsonさんは6ヶ月もシャワーも浴びず風呂にも入っていなかった。
清拭を行うヘルパーは携帯電話で話をしながらWilsonさんの体を拭いていた。

英国では医療と同じく介護も一定の条件を満たした場合は基本的に無料で
サービス提供者は地方自治体と契約することになっているので、
これらはすべて地方自治体と契約している業者の担当ケースで起こったことなのです。

番組では、
自治体によっては電子入札で自動的に最低価格の業者と契約をしている、

こうした行政の姿勢によって在宅支援サービスでは
時給10ポンド程度の低賃金が通り相場となり、

業者は未経験者をろくに研修も受けさせずに使っている、と指摘。

現に番組レポーターは事業所に採用された後、
その会社が経営する施設で14回のシフトをこなしただけで
犯罪記録局の認可をクリアした、と。

──以上は、だいたい、番組放送当日のTimesの記事から。
(一部、BBCの関連サイトを参照した部分も)



問題のBBCの番組関連サイトはいろいろあって、
読み始めると切りがないので目下のところ手付かずですが、
メモとして、とりあえず以下に。


番組ビデオ(1時間。アクセスが集中しているのか、今のところ視聴できません)
http://www.bbc.co.uk/programmes/b00jnknl
The BBC, Panorama

ニュース記事
http://news.bbc.co.uk/panorama/hi/front_page/newsid_7990000/7990929.stm
The BBC, Panorama, April 9, 2009


潜入レポーター Arifa Farooqさんの体験報告
http://news.bbc.co.uk/panorama/hi/front_page/newsid_7986000/7986482.stm

番組で取り上げられた会社3社の反応
http://news.bbc.co.uk/panorama/hi/front_page/newsid_7990000/7990245.stm
the BBC, Panorama, April 9, 2009
2009.04.11 / Top↑
去年の6月にフレックス勤務を求める権利という子育て支援(英)で書いた問題の続報。

上記記事の段階でBrown政権が打ち出していた方向性がいよいよ現実となり、

これまで雇用主に対してフレックス勤務を要求する権利が
6歳までの子どもの親に対して認められてきましたが、
このたび子どもの年齢の上限が16歳に引き上げられることになった。

(障害のある子どもの場合はもともと18歳まで)

この法律改正で対象となる親は450万人と見込まれている。

また医師または助産師の検診を望む妊娠中の女性すべてに
収入と関わりなく、一律190ポンドが支払われる。非課税。

More parents to get flexible work
The BBC, April 6, 2009


去年の6月のエントリーでも触れましたが、
この背景には最近よく耳にするワークライフバランスの問題意識もある一方で、

去年9月にロンドンの若者が荒れているのエントリーでまとめたように
ここ数年の英国の若者たちの荒み方が尋常でないという事情もありそうな気がします。

詳しくエントリーを立てるだけの余裕がないのですが、つい数日前にも
福祉施設で暮らす10歳と11歳の兄弟が
最初から暴行目的で9歳と11歳の男の子を拉致し

ナイフで切り刻み、レンガで頭や全身を殴り、タバコの火を押し付けるなどしたうえで
瀕死の状態で放置するという事件が起き、英国社会に大きな衝撃を与えています。

ここ数年、英国の若者たちの犯罪についてはニュースが相次いでいますが
凶悪化、低年齢化している、という感じがします。



また、この事件が起きたDoncasterについては、以下のように
児童保護の部局が機能しておらず早急に改善が必要との調査報告が出たばかりで、
2004年から相次いでいる7人の子どもの死についても詳細な調査が命じられたところ。

去年のBaby P事件以来とりざたされている
各自治体の児童保護行政の機能不全の問題がまた再燃しそうなニュースでもあります。

2009.04.11 / Top↑
Wisconsin州の矯正施設の囚人が
同房の囚人の自殺幇助で起訴されました。

起訴されたのは強盗の罪で服役中の Joshua Walters(20)。

彼と同じ房でシーツをベッドに結び付けて首を吊って自殺したのは
通り魔殺人を犯して服役中だった同い年の囚人 Adam C. Peterson。

Waltersと同じ房に入ってきてから約1ヵ月後のことだった。

当初、自分は関わっていないとWaltersは主張したが、

その翌日には自殺を手伝ったことの不安から一部始終を他の囚人に打ち明けており、
その囚人が家族に書いた手紙で事情が判明。

Petersonはこの矯正施設に移される前にも首を吊ろうとしたことがあったという。
どうやら死ぬことによって、自分が殺した被害者の家族に対して、
事件の“締めくくりをしてあげよう”と考えていたらしい。

2人はかねてから計画し、監視の目が少ない時間を狙って
Petersonの自殺を敢行したもので、

Waltersがその囚人に打ち明けたところでは、

当日、家族の面会が予定されているので実行したくないというPetersonを
Waltersが説得してその気にさせ、遺書を書かせた。

さらにシーツを輪にしてベッドにくくりつけたのもWalters。

自分が頭を入れて体重をかけても大丈夫だと確認した上で
Waltersが輪を広げてやると、Petersonが自分から頭をそこに突っ込んだという。
WaltersはPetersonの首とシーツの隙間にタオルまで詰めた。

Petersonが苦しんで椅子を蹴ると、
音がしないようにWaltersはその椅子をどけた。

そして死んだのを確かめてから看守に知らせた、と。

Wisconsin inmate charged with assisted suicide
The Chicago Tribune, April 9, 2009


これも自殺幇助──。
あれも、それも自殺幇助──。

「自殺幇助」という言葉で、
あまりにも多くの別々のことが語られすぎている、と思う。
2009.04.10 / Top↑
自殺幇助ツーリズムでお馴染み、例のDignitasクリニックが
死にたいと望む患者に使用するため
ナトリウム-ペントバルビタールをストックしておきたいと
スイスの最高裁判所に許可を求めていたらしいのですが、

最高裁判所は却下。

ナトリウム-ペントバルビタールは法律上、麻薬の扱いとなり、
緊急時に命を維持するための使用は認められるが
Dignitasは命を救うのではなく逆に奪うために使おうとしているので認められない、と。

Dignitas forbidden to store narcotics
The Swiss News, April 8, 2009


品がなくて申し訳ないけど、正直、読んですぐに頭に浮かんだのは

──ざまぁみろ。
2009.04.10 / Top↑
1970年代の半ばまで強制的不妊手術が行われていたことを知ったのは何年か前のことで
自分の思春期というのは、まだそんな時代だったのだ……と衝撃を受けた。

でも、「ついこの前」としか思えない1990年代にも
強制的不妊手術が行われていたなんて、先月まで知らなかった。

たまたま別件の検索で引っかかってきたサイトで知った時には、本当に驚愕した。

行われていたのはフジモリ政権下のペルー。
貧困対策の家族計画プロジェクトとして、先住民30万人以上が強制された。
不妊手術そのものが人権侵害なのだから、そのやり方も当然、人権を無視したもので
そのために死者もたくさん出ている。

驚くことに、このフジモリ政権の不妊手術キャンペーンは
米国から技術的、財政的支援を受けて行われたもので、
国連人口基金(UNFPA)にも支持されていた。
日本財団も約200万ドルを出資したという。

一度まとめておきたいと思っていた、この件を
今朝の新聞でペルーのフジモリ元大統領が
特殊部隊の民間人殺害で有罪判決を受けたニュースを機に。

ペルー先住民が強制された不妊手術の実態
フランソワーズ・バルテルミー特派員、Le Mond 2004年5月号
森亮子、斎藤かぐみ訳

フランスのLe Monde誌2004年5月号の記事の日本語訳。

この記事の冒頭、Le Mondeの編集部は
フジモリ政権下の最大のスキャンダルは特殊部隊による民間人殺害よりも、
優生施策による30万人以上の女性への強制不妊手術だと書いている。

UNFPAが支持していたことについては、こちらに。

Peru: UNFPA Supported Fujimori’s Forced Sterilization Campaigns
Population Research Institute, July 22, 2002


そういえば、最近こんな記事もあった。
英国で毎年500人もの女児に未だに女性器切除が行われているというのに
ただの1件も告発されていない、と。

Thousands of girls mutilated in Britain
The NHS is offering to reverse female circumcision amid concerns that there are 500 victims a year with no prosecutions
The Times, March 16, 2009


女性への差別、人種差別、障害者への差別により、
世の中の強いものたちの都合により
今でも弱い者の体は無理やりに侵襲されている──。


フジモリ政権下で抵抗運動を行ったフアン・マヌエル・ギジェン氏の言を
上記 Le Mondeの記事の日本語訳から以下に。

私の見解では、国際通貨基金(IMF)と世界銀行がペルーに押し付けた新自由主義政策と、フジモリが企てた家族計画プログラムの間には、密接な関係がある。

IMFは新たな融資と既存の債務の再交渉と引き換えに、保健衛生部門まで含めた民営化、外国資本への市場開放、それに人口増加の抑制を求めてきた。主眼は貧しい人々、そして非常に貧しい人々、つまり潜在的に『危険』な階層にある。こうして個人の権利、家族の権利、さらに広くは、社会の基本となる倫理的な原則が侵されるようになった。

これは、たった今、世界規模で進行していることなのでは──?
(詳細は「ゲイツ財団とUW・IHME」の書庫を)




その他、ペルーの強制不妊手術関連リンクをいくつか。



フジモリ政権下の不妊手術キャンペーン
古屋哲、アムネスティ・ニュースレター 2001年7月号

2009.04.09 / Top↑
Ivory Jacksonさん(77歳)は去年5月30日にナーシングホームのベッドで亡くなった。
アルツハイマー病を患っていたが、しかし彼の死因はその病気ではない。

Jacksonさんは居室のベッドで就寝中に、
50歳のルームメイトSolomon Owasanoyeにラジオで顔面を殴られたのだ。

通報を受けて警察が駆けつけた時、
犯人はナースステーションの横で手も服も靴も血だらけで座っていたという。
居室は天井まで血が飛び散っていた。

意識不明となったJacksonさんは
1ヶ月もたたないうちに収容先の病院で亡くなった。

何が暴行の引き金になったかは不明。
Jacksonさんのルームメイトには精神疾患があった──。




なぜ、そんなことが? と唖然とする話なのだけれど、
この記事によると、

過去数年間、ナーシングホームは若・中年の精神病患者の捨て場所と化している、とのこと。

その結果、虚弱な高齢者たちが
統合失調症やウツ病、双極性障害のある若くて体力のある入所者と生活をともにし、
時によってはその激しい怒り感情の捌け口にされる事件が起こっている、と。

The National Citizens’ Coalition for Nursing Home Reform の公共政策の責任者は
連邦政府と州政府のいずれもが
精神病患者に適切な医療と住居を提供する責任も
高齢者に安全な環境を提供する責任も果たしていない、
いま起こっている悲劇はその結果、と指摘する。

去年、重い精神病のある若・中年患者、約125000人が
米国のナーシングホームで暮らしていたという。

ナーシングホーム入所者に精神病患者が占める割合でいうと
2002年には入所者のうち6%だったものが
去年は9%に増加している。

本来、連邦法では、ナーシングホームが精神病の患者を受け入れることができるのは
ナーシングホームが提供するレベルの高いケアが必要だと州が認定した患者のみ。
スクリーニングの責任は州にある。

もちろんナーシングホームの入所者は
身体的な虐待を受けない権利を連邦法で保障されている。

しかし、60年代から劣悪な処遇や人権問題の指摘で精神病院の閉鎖が相次ぎ、
病院の精神科のベッドも不足したまま、
州によってはナーシングホームが受け皿になっているのが現実。

ナーシングホーム側にも、
最近の高齢者には健康で自立生活を送る人が増えたことに加えて
なるべく地域で暮らすように政府も施策誘導しているために
空きがちなベッドを埋めたい事情がある。

ナーシングホームが高齢者と精神病患者を両方受け入れてくれる方が
州にとっても経済効率がよいのがホンネ。

しかし、高齢者ケアの訓練しか受けていない職員には
精神病患者の問題行動への対応が難しく、離職の要因にもなっている。

ナーシングホームにできるのは唯一
911通報をして警察を呼ぶことだけ、ということも多い。

高齢者は終の棲家でおびえながら暮らすことを余儀なくされ、
精神病患者は手に負えなくなったら別施設にたらい回しにされたり、
時には追い出されたり。

精神病患者のアドボケイトは、
適切な治療と住居の提供があれば
アパートで暮らすことができるのに、と。

政府機関はいずれも統計を取っていないが、
Jacksonさんのような被害は既に一定数発生している。

2003年。
Connecticutで23歳の女性が
自分の住むナーシングホームに放火し16人が犠牲となった。
犯人は多発性硬化症、認知症とウツ病を患っていた。

2006年。
77歳の男性がルームメイトの69歳の男性に
風呂場のタオルかけのパイプで殴り殺された。
犯人は裁判を受ける能力を欠いていると判断された。

今年1月。
Chicago近くのElginのナーシングホームで
攻撃性を伴う双極性障害の21歳の男性が
同じナーシングホームに入所していた69歳の女性をレイプ。
犯人は凶暴な行動が記録されていたにもかかわらずナーシングホームに入所させられ、
性的欲求不満の状態だとスタッフが聞かされていたにも関わらず
きちんと監督されていなかった。

Jacksonさんの事件でナーシングホーム(営利)には
事件が防止できなかったとして$32500の罰金刑。

犯人は現在、州立の精神病院にいる。

          -------

もろもろの事情があるにせよ、なんで同室にしてしまえるのかが
何よりもこの話では理解を超えているし、

日本ですぐに同じことが起こるとも思えないのだけれど、

ただ、

障害者自立支援法でも平等とかサービス一元化など表向きだけきれいな理念で
実際はそれぞれの障害特性に応じた、きめ細かいサービスは
失われていく一方のような気がしている。

重症重複障害のある人も受け入れますと標榜する施設は多いけれど
実際に頼もうとすると体よく断られたり
親のほうも見学に行ってみると、環境からも職員のノウハウからも
とてもじゃないけど危なくて頼めないという話はよく耳にする。

入所はさせてはもらったけれど、
軽度な人の多い施設で他の人の迷惑になるからと、
ほとんど一日中部屋に閉じ込められている……という話もある。

今回の改正で「成人の施設で」と”児者一貫”方針を転換された重症重複障害者は
基本的には、これまで身障や知的障害のある人を専門にケアしてきた施設に行くことになるし
(これまでのケアの継続が保証されるよう付記はされているとしても)

同じように今回の改正で行き場が狭まる可能性のある「動く重症児」
どこに受け皿が作られていくのか不透明なままだ。

病院や施設から地域へと誘導する理念先行のスローガンの下で、
病院や施設から強引に追い出しておきながら
その受け皿となる地域支援サービスは十分に整備されない。

それは障害者だけでなく高齢者ケアでも同じことだ。

受け皿が不足しているのを承知で先に追い出してしまおうというのだから、
介護難民が発生するのは当たり前で、

療養病床を廃止し、施設から地域へと
表面上は(というかゼニのかかるところでは)入所者を減らして制度を緊縮する一方で、
渋川市の無届の施設の火災で明らかになったのは
施設でケアする以外にない人たちを行政がそうした施設に押し込んでいた実態。

その姿勢は
米国の「とりあえず手っ取り早く安上がりなところに捨てちゃえ」というのと
本質的には違わないんじゃないだろうか。
2009.04.09 / Top↑
3月29日に起きたNC州のナーシングホームでの乱射事件に関連して、

ちょっと気になる話が出てきています。

犯人Robert Stewart(45)は駆けつけた警察官に肩を撃たれて逮捕されたのですが、
逮捕直後に手当てに当たった看護師に向かって
事件の前に「神経の薬」を6錠飲んだ、犯行のことは覚えていない、と語った、と。

Suspect says he doesn’t remember shooting
The News 14 Carolina, April 7, 2009


ここしばらく以下のリンクなどから、この事件を追いかけていますが、
一連の報道からはナーシングホームで看護助手をしている別居中の妻を狙ったもので
通り魔的な犯行ではないようです。

これまで破産手続きや結婚・離婚を繰り返してきた男の裁判所の記録には
障害があるとの記述もあり、

最近は障害者手当てをもらっていた、との近所の人の証言も。

しかし障害についての詳細は、まだ明らかになっていません。

ニュースはまだ、ぽつぽつ出てきているので、
以下のリンクに順次追加しながら
いずれ、まとめてみたいと思います。



【NCナーシングホーム乱射事件関連リンク】


http://www.wyff4.com/news/19046714/detail.html
(犠牲になった看護師の叔母証言)


http://www.fayobserver.com/article?id=322552
(地元メディア、詳細な犯人像と半生)

http://www.newsobserver.com/news/story/1466305.html
(ナーシングホームの安全確保)

http://www.news-record.com/content/2009/03/30/article/editorial_what_unleashed_this_fury
(地元紙社説、心神耗弱、老人ホームの安全性)


http://www.wral.com/news/local/story/4855907/
(地元精神保健センタースタッフによるグリーフ・ケア)





http://www.wxii12.com/news/19082982/detail.html
(初回のグリーフ・カウンセリング:出席者少数)











http://www.wral.com:80/news/local/story/4983945/
(4月19日 ホームによる送別式)

http://www.wral.com:80/news/local/story/5074758/
(ヒーローになった警察官、職場復帰/ 5月)
2009.04.08 / Top↑
ごく最近になって、新たにAshley事件関連の重要な資料を見つけました。

Bioethics Discussionという個人のブログなのですが、
2007年5月8日にシアトル子ども病院がAshleyの子宮摘出の違法性を認めた翌日に
Diekema医師がBioethics Listservというサイトに投稿した文章を
本人の了解を経て転載してあるのです。
(もとの掲載サイトは見つけられませんでした)

More on Ashley: No Due Process
Bioethics Discussion Blog, May 8, 2007


このDiekema医師の文章が実に奇怪で、

いわく、
「WPASの報告書は、違法性に関するWPASの意見を表明したものに過ぎない」
「障害者の権利アドボケイトを倫理委に入れるのは間違っている」
「WPASの意見で最も問題だと思うのは
子宮摘出だけでなく成長抑制にまで裁判所の命令を取れという部分」

しかし、前日5月8日に子ども病院は
プレスリリースにおいてもWPASとの合同記者会見においても
公式に違法性を認めているのです。

病院はWPASとの合意によって
子宮摘出だけでなく成長抑制も乳房芽の切除も
裁判所の命令なしには行わないと明記しています。

倫理委員会に障害者の権利アドボケイトを加えることも約束しています。

つまりDiekema医師が9日に書いた文章は
病院の公式見解をまっこうから否定するに等しい内容なのです。

一勤務医が、自分が働く病院の公式見解をこれほどあからさまに否定するというのは
一体どういう神経なのか。

彼はなぜ、それほど強気の言動をとることができるのか。

とても不思議なのですが、

しかし今年1月のシンポにおいて明らかになった
成長抑制ワーキング・グループの結論を振り返ってみると、

2007年5月8日の子ども病院の記者会見や
WPASとの合意事項はどこかへ消滅してしまい、
むしろ上記の文章に書かれたDiekema医師の見解のほうが
最終的には病院のスタンスに入れ替わってしまっているのですから、

こちらの方が、さらに大きな不思議です。

いったいDiekema医師はどうやって病院に
記者会見まで開いて公にした公式見解を撤回させたのか──。

病院はまた、なにゆえに
記者会見まで開いて公にした公式見解を
撤回するとアナウンスすることもなく破棄して方向転換してしまったのか──。

そこに見え隠れするのは、やはり
Diekema医師にこれだけ強気の発言をさせるだけの背景があった可能性なのでは??

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これほど明確ではないものの、
Diekema医師は記者会見直後にメディアの取材に対しても
病院の公式見解と矛盾する発言を繰り返していました。

そうした発言については英文のままこちらに引用してあります。
2009.04.07 / Top↑
またも精神医療と製薬会社の関係について気になる話。

2004年、2005年に出されたうつ病、双極性障害、統合失調症に関する臨床ガイドラインを執筆した
米国精神科学会の医師らのほとんどに製薬会社と金銭的なつながりがある、と
Psychotherapy and Psychosomatics誌今月号に掲載予定の論文で。

Massachusetts大学などの研究者らが
公にアクセスできるデータベースで調べたところ、
ガイドラインを執筆した20名のうち18名で製薬会社との関係が判明。

75%は製薬会社から研究資金の提供を受けていた。

論文の著者らは
ガイドラインが薬物療法を重視して
非薬物療法にあまり重きを置いていないことを指摘している。
これら3つの疾患による医薬品の売り上げは毎年250億ドル。

2009.04.07 / Top↑
去年12月5日に、裁判所が医師による自殺幇助を合法とする判断を下し
Oregon, Washingtonに続いて米国で自殺幇助を合法化した3番目の州となったMontana州で、

67歳の子宮がん末期の女性 Janet Murdockさんが
自殺を幇助してくれる医師がいないと
死の自己決定権アドボケイトCompassion & Choice を通じて訴えている。

去年12月に地方判事 Dorothy McCarter氏が
医師による自殺幇助を合法とする判断を下した直後、
モンタナ州医師会は「患者の死に意図的に参加する行為は容認しない」との見解を発表。

苦痛を和らげる治療の中に命を縮めるものがあることは承知しているが、
尊厳のある死が医師による自殺幇助によってのみ得られるとの提案は受け入れられない、と。

Montana州医師会会長は 
「医師の存在理由は患者をケアすること」。

C&Cの弁護士は「裁判所の判断が出た後だというのに
Murdock さんがその権利を行使できないのでは本当に悲しい」と。

2009.04.06 / Top↑
米国NC州の老人ホームで乱射事件があったばかりですが、

3月31日、British Columbiaの
比較的自立度の高い要介護者向け施設(assisted living)the Lutheran home (140床)で、
職員らが1階に住んでいた車椅子使用の入所女性(40)を強制退去させようとしたところ、
その女性が施設責任者のKen Perrierさんらに発砲、2人が怪我をした。

犯人の女性も駆けつけた警察官によって撃たれて怪我。

女性は発砲したショットガン以外にも小銃を持っていたとのこと。

他の入所者によると、
女性の名前はLinda 某で、脳損傷のために障害を負って入所してきた。
部屋がごみやガラクタだらけで、消防法上の問題が云々されていた。

また、女性は誰ともうまくやれずトラブルばかり起こしていた、という別の入所者証言も。

なぜ女性が退所させられようとしていたのかなど、
詳細は不明。



ちなみに以下のAP通信記事によると、

米国では、過去1ヶ月、乱射事件で53人も死亡した、とのこと。
3月10日から4月4日までの7件の銃撃事件が簡単にまとめられています。

最後は父親による5人の子どもたち道連れの無理心中。
全体に、経済不況の影響が色濃い感じ。

2009.04.06 / Top↑