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父親のブログに引用されていた
「大人の体に赤ん坊の中身が宿っているのはグロテスク」という発言は
Ashley事件に詳しい人なら記憶にあると思いますが、

その「グロテスク」発言のGoerge Dvorskyが
自分のブログでAshleyの両親のインタビューについて紹介していました。

もうあまり興味もなくなったのか、さらりと紹介したのみで、
あとは関連エントリー一覧をあげて終わっています。

Ashley X parents speak out and defend their actions
Sentient Developments, March 13, 2008

Ashley父がブログでDvorskyの名前をまたも挙げて
倫理学者だと持ち上げてくれているのを
彼はまだ知らないのでしょうか。

(知ったら、去年引用してもらった時のように
 はしゃぎまくるのでしょうね。
 コメントして教えてやろうかな……。)

久々にDvorskyのブログを訪問したついでに、
こいつは一体何者なのかと改めてプロフィールを覗いてみたのがこちら

トランスヒューマニズム関連団体の理事をしていることと
世界トランスヒューマニスト協会の回覧板のようなこのブログをやっている以外には
どうやら何もしていないように思えるのですが、

この男のことをAshley父は
12日の自分のブログ更新部分で「倫理学者」だというのだから……。

ちなみに、
この箇所でAshley父が
「ほら、こういう倫理学者がちゃんと擁護してくれている」と具体的に名前を挙げているのは

Fost, Diekema, Dvorsky, Willfond, Singer の5人。

このうち Dvorsky は上記のように倫理学者ならぬ、ただのトンデモ・ヒューマニストあんちゃん。
Diekema と Willfond に至っては、そりゃ倫理学者かもしれませんが、
シアトル子ども病院の職員という正真正銘の当事者、
あなたと立場が同じではありませんか。

もっとまっとうな倫理学者の名前を挙げられなかったAshley父には
やはり世論以外の援軍はいないのかもしれませんね。


【2009年10月2日追記】
改めて気づいたのですが、父親はここで Diekema医師よりも先にFostの名前を挙げているのですね。
とても興味深い事実です。
2008.03.15 / Top↑
Diekema医師が1月にCalvin大学で講演を行った時から
解せないなぁ……とひっかかっているのですが、

シアトル子ども病院は去年5月のワシントン大学でのシンポ以降、
Ashleyのケースに関しては完全に沈黙しています。

去年の秋にGunther医師が自殺した際にも、
病院からはコメントすら出てきませんでした。

今年1月のCalvin大学での講演では
Diekema医師が障害のある身内まで引っ張り出して
正当化に奮闘しているというのに、
この時も病院はまったく関与していません。

いつのまにやらAshleyケースの正当化は
Diekema医師個人の問題になってしまったようにすら見えます。

そういえば今回のインタビューに際して
CNNがGunther医師の自殺についての父親の見解に意見を求めても、
病院は返答すらしていません。
今回はDiekema医師も絡んできません。

当ブログ・トップページの「spitzibara仮説」に書いているように、
病院サイドは父親の地位と権力への政治的配慮から、
Ashleyについてのみ特例として内密裏に行ったことであって、
もともと表に出すつもりのない話だったのではないかと
私は考えています。

父親から公表を迫られ、また彼が勝手にブログで何もかも暴露してしまったから
正当化と保身のために病院も同じ立場を装うことを余儀なくされはしたものの、
まさか父親がここまでの勢いで一般化を推し進めようとするとは
病院も予想していなかったのではないでしょうか。

そのことを巡って、Gunther医師の自殺の前後に
病院内部には相当な混乱や葛藤があったのではないかと私は考えてみるのですが、

いずれにせよ、
子ども病院にすればAshley父を持て余したのではないでしょうか。

そして、お調子者のケのあるDiekema医師を人身御供に差し出して、
(または勝手に腰ぎんちゃくをやっているのに任せて?)
あとは巻き込まれることを避けて沈黙している……

……というのは、もちろん私の勝手な推測に過ぎませんが、

しかし、今年に入ってから
Diekema講演、両親のインタビューと大きな動きが続いたにも関わらず、沈黙。
この沈黙はやはり病院がAshleyケースの非倫理性を認識していたことの
何よりの証左とはいえないでしょうか。

Ashleyの件については「やりました、違法でした」と認めて一区切り。
「他の子どもに広げる件については病院は無関係ですよ」と。

が、元はといえば、シアトル子ども病院が一定の判断をして行ったことが
結果的に本来そうなるべきではなかった前例を作ってしまったのです。
病院は責任を痛感すべきでしょう。

父親のブログの12日のアップデートにはOur first interview と銘打ってありました。
これからも匿名のまま、唯一の味方と思える世論に訴えていくつもりのようです。

病院の中から、
この状況を憂い、勇気を持って真実を語る医師は出てこないものでしょうか。
その責任がシアトル子ども病院にはある、と私は思うのですが。
2008.03.15 / Top↑
医療職と更年期の女性以外にはあまり知られていないかもしれませんが、
ホルモン補充療法には発がん性があるというのは周知の事実。

乳がんとの関連性を示す研究結果が発表された翌日には
米国でホルモン療法を受ける女性が半減したというニュースを読んだ記憶もあります。

そのホルモン療法の発がん性に関して今度は何の研究結果かというと
ホルモン療法を中止しても2年以上も発ガンリスクは残る、と。

Cancer Risk Stays After Hormone Therapy
The Washington Post, March 5, 2008


エストロゲンの発がん性について
Ashleyは子宮も乳房芽もとってしまったのだから
子宮がんも乳がんも関係ない、
と言えばその通りなのですが、

この事件を知った時からずっと、
ホルモンによる成長抑制を「Ashleyの親は愛情からやったのだ」と考える人たちに
私が聞いてみたいと思うのは、

大人の体にでも発がん性があると
何年も前から確認されている物質を

つまり一人前の体に摂取しても有害であり得ると
確認されている物質を、

6歳の我が子に、
しかも大量に、

あなた、摂取させたいですか──?
2008.03.14 / Top↑
1990年代に独自に装置まで考案して130人もの患者の自殺を幇助した
Jack Kevorkian医師が去年釈放されましたが、

以下の地元オークランドの新聞によると
下院議員選に出馬するつもりなのだとか。

腐りきった政府に正直とまごころを持ち込まなければならん、との心意気なのだとか。


Kevorkian planning run for Congress
The Oakland Press, March 12, 2008
2008.03.14 / Top↑
Ashley父は記事が掲載された12日に
早速ブログでAmy BurkhorderのCNN記事に反論しています。

彼の気に入らなかったのは以下の3点。
(丁寧な口調に隠れて覗くホンネを翻訳してみました)

①違法だったと書かれたのが気に入らない。
 病院だってAshleyにはいいことだと判断したし、
 弁護士だって、あんな手続きは要らないといったんだぞ。
 弁護士が必要ないといった理由は私のブログにもちゃんと書いているのに。

②Caplanのいうことが倫理学者の代表意見ではない。
 擁護してくれる倫理学者の意見は私のブログにちゃんと引用してあるじゃないか。
 そういうのを何故ちゃんと読まないのだ。

③世論の賛否のバランスを正しく反映しろ。
 まるで親だけが良いと言っているように書くな。
 私のブログに寄せられる賛成意見の比重を見ろ。
 この記事自体に寄せられる賛成意見の比重を見てみろ。
 みんな賛成だといっているじゃないか。


だんだん馬脚が現われてくるというか……。

この人、実は頭のいいバカなんじゃないでしょうか。

【追記】
よく考えてみたら、彼は去年の1月にも同じことをやっていました。

地元紙であるはずの Seattle Times はニュースブレイクの翌1月4日に
わざわざ前日の記事をLos Angels Timesから”借りて”掲載しており、
しかもその際に、いくつかの情報がそこで姿を消しているのですが、

上記の父親の不満を考えると、
ああ、なるほど去年もこういうことだったんだな、と腑に落ちます。

ただ今回 CNN は Seattle Times のようには思い通りにならなかっただけで。


           ―――――

ちなみに②の「擁護してくれる倫理学者」の中に
彼はDvorskyの名前まで入れていました。

カナダのトランスヒューマニスト協会の会長以外には
何者やらよく分からないDvorskyが
なんで“倫理学者”なんだか。
2008.03.14 / Top↑
3月12日のCNNのインタビューを読んでいると
質問項目の立て方がちょっと気にかかってきます。

親が回答の中で
今後も「クオリティの高い」書面インタビューなら検討すると
書いていることを考えると、

父親から相当な注文がつけられて、
それを承諾した上での質問であり回答であったと思われます。

どうも父親が言いたいことを書くために設定された質問という気配が一部に漂っているのですが、
CNNとしては回答を引き出すためにやむをえなかったのかも知れず、

しかし、その中で頑張って聞いているなという質問からは
はじめからAshleyの父親が誰であるかを知っていたCNNが
この事件をどのように見ているかが伺えるようでもあり。

(CNNは去年1月12日のLarry King Liveでも
 親に書面で質問を出して回答を得ていました。)

その気になる質問を回答抜きに一覧に。

・2007年の写真でAshleyは幸せそうで、engaged(家族の中にしっかり居場所があるよう?)に見えます。Ashleyが笑うのはどういう時ですか?

・Ashleyは非常に自立度が低いと言われますが、それはどういうふうに?

・(あの処置から)何か変わりましたか?

・Ashleyが家族以外の子どもと関わることがありますか? 同年齢の友達は?

・(あの処置の)結果はあなた方が思ったとおりでしたか?

・去年秋のGunther医師の自殺についてどのように感じられましたか? どうしても結び付くことになりますが、論争になったこのケースがGunther医師の葛藤や動揺を招いたとお考えですか?

・Gunther医師が残したものは何だと?

・重症児にこの処置を検討している他の親に対するアドバイスを?

・ご自分をなんらかの団体の代弁者だと、またはいずれかの団体の敵だとお考えですか?

・ご自身のウエブサイトには250万件のヒットがあり、何千通ものEメールを受け取られました。これほど強く反対している人たちはどうしてそうするのだと思われますか?

・ご自分が誰かの考えを変えたと思われますか?

・今後Ashleyについて本を書くとか映画を作るお考えは?

・Ashleyが頻繁にメディアや論争に取り上げられる医療問題の中心となって、兄弟にどのような影響が?

・名前を明かすことは今後お考えになりますか?

・ブログ公開から1年経って、正しいことだったと?

・伝えたいとお考えの最も大事なことは?

回答の方はだいたい想像の範囲ですが、
Ashleyがあれらの処置以降、夜よく眠るようになったという点は
ちょっと「ん?」と思いました。
2008.03.13 / Top↑
3月12日の両親のインタビュー(CNN)から特に目に付いた点を。
(一応両親ということになっていますが、実際には父親が書いたものでしょう。)

①Ashleyの最近の様子としては家族と一緒にいるのを喜んで輝くような笑顔になると語る一方で、
 家族以外との関わりについて尋ねられると
「アシュリーの認知能力の低さでは、人との関わりというのはあまりありません」。

(家族との関わりには認知能力は必要ないのでしょうか。)

②Gunther医師の自殺について、
 Ashleyのケースを担当したことそのものは活力源になっていたという情報があるが、
 他の子どもたちに施してやれないことにはずいぶんフラストレーションを感じているなと、
 自分は直接の会話で感じた。
 彼は他の子どもたちにもできるようにするべきだと強く確信していた、と。

(婉曲に、医師の自殺は批判した障害者団体のせいだと言っているのですね。)

③Ashleyのような重症重複障害児のことを新たな障害カテゴリーと位置づけ、
 そのカテゴリーをpillow angelと呼ぶのだそうです。

(マイクロソフトの幹部役員というのは、医学上の障害分類まで平気で改変してしまうのですね。)

④子どもたちのために正しいと信じることを行うことは「親の神聖な義務」だと。

渡部昇一氏の「神聖な義務」と奇しくも同じ表現が使われました。)

⑤批判は少数意見に過ぎないし、障害当事者と障害関連の専門家のイデオロギーによるもの。
 人権を訴えられるような障害者とAshleyは障害のカテゴリーが違う。

⑥Ashley以外の2人の子どもを守るために、今後もブログと書面でのインタビューしか受けない。
 他の重症児と家族を助けるために、質の高い(自分の思うようになるの意?)インタビューだけは受けてもいい。

⑦Ashleyのような子どもにとっては体重と身長が「最悪の敵」だと。

特に気になったのは、以下の発言。

If we had our way, we would have chosen a more focused channel to convey our experience to medical professionals, caregivers and parents without looping the general public into the discussion.

もしも自分の思うようにできるのだったら、一般の人たちを議論に巻き込まずに、もっと狭い範囲にターゲットを絞ったチャンネルで医療職と介護者と親に自分たちの経験を伝える方法を選んだと思う。

どういう方法だったのかは私には想像すらできませんが、

世間に知られずに医療者と重症児の親との間でこうした処置を密かに広げていくことを
彼は画策していたということになりますね。

当人は何気なく口にしているようですが、
これが実際に行われたと想像してみると、
とんでもない話ではないでしょうか。

(これを読んでチラッと思ったのですが、
Ashleyの父親という人は世の中はマイクロソフトの社内よりも広いのだということが
 実は分かっていないのでは?)

2006年秋の論文は医師らが父親に迫られて無理やりに書かされたものではないかと
私は想像していたのですが、
どうやら父親はもっと極端なことを主張し、
それを諦めさせるためには医師らが論文を書くという代案以外にはなかった
ということなのかもしれませんね。

その時に自分の思うようにならなかった悔いが
「もし自分の思うようにやれるとしたら」という言葉になったのではないでしょうか。

いずれにせよ、
子宮摘出の違法性など彼はまったく意にも介していません。
2008.03.13 / Top↑
前のエントリーで紹介したCNNの記事2本のうち、
Ashleyの両親のEメール・インタビューについても
別途まとめようとは思いますが、

取り急ぎ、非常に懸念される内容が
そのインタビューに関するもう1本の記事の中にあったので、
先にまずその件についてのみ。

The American Academy of Pediatrics Committee on Children with Disabilities
(米国小児科学会障害児委員会)の委員長Nancy Murphy医師が
今年の小児科学会で医師の間にコンセンサスを作りたいとの意向。

承認の方向でコンセンサス……との意味と思われます。

それだけでも目を剥いてしまいますが、
さらに彼女がCNNに語っているのが、
一気にとんでもない方向にズレ落ちていきかねない問題発言なのです。

[This disability] shatters the reason we become parents: to watch kids grow, to be part of their lives and to launch into their own lives.

When you have a child with lifelong dependency, you don’t get to launch your kid, and your caregiver options are limited.

(こういう障害)は私たちが親になる理由を打ち砕いてしまうのです。つまり、子どもが成長するのを眺めるとか、子どもの人生に参加して、独立した人生へと独り立ちさせてやるといった理由を。

生涯にわたって依存する子どもを持つと、その子どもを独り立ちさせることができません。そのうえ介護者として自分の選択肢も少ないのです。

しかし、“Ashley療法”を実施されたことで、
Ashleyはめでたく独り立ちが可能となったでしょうか?

ホルモンの大量投与で身長を抑制しても
外科手術のリスクを犯して子宮や乳房芽をとってしまっても、
Murphy医師がここで挙げる問題の解決にはなりません。

Murphy医師がここで挙げている問題の解決を探そうとすれば
重症児は親にとって「親になる理由をそもそも消滅させてしまう存在」だとして、
殺してしまうこと以外にはないでしょう。

「本人のQOLのため」というアリバイで行われたはずの処置が
いつのまにか「親の不利益」を理由にした子どもの全否定へと飛躍してしまっています。

重症児が生まれたら、親は何のために子どもを産んだのかわからない

小児科学会の障害児委員会の委員長が言っているのは、そういうことなのです。
それは一体どういう小児科医なのか。



昨日のCNNニュースと上記のMurphy医師の発言を受けて、
FRIDAが抗議行動を呼びかけています。

2008.03.13 / Top↑
まだざっと目を通しただけで
たちまちしっかり読む時間がないのが歯がゆくてならないのですが、

“Ashley療法”論争に大きな動きがありました。

書面でですが両親(といっても書いたのは父親でしょう)がCNNに登場。
質問に答える形で延々と語っています。




1月のDiekema講演どころではない反響が予想され、
おそらく論争が再燃するのではないでしょうか。

親が語っているのは、総体としては
”Ashley療法”の効果は素晴らしいので「広く多くの重症児に」とのメッセージ。

本を書くつもりがあるそうです。
CNNの質問には映画も含まれており、
メディアサイドにはそういう話もあるのでしょう。

(映画が作られるとしたら、
 親の愛をめぐる美談になるのでしょうね。
 「ロレンツォのオイル」のような。)

自分の身分はやはり明かさない、
他の子どもたちのためにプライバシーを尊重してもらっているのがありがたい、と。

(これは明らかにメディアへの牽制ですね。)

これまでの流れを考えると、
戦略的に段階を追って手を打ってきている、
という気がしてならない。

彼は本気なのです。
そして、それだけの権力もある。

ここでもCNNの質問そのものが
Ashley父の思惑に添った形で設定されているとしか思えません。

取り急ぎ、お知らせエントリーでした。
2008.03.13 / Top↑
「死ぬ権利」協会の世界連盟……という名前の組織
the World Federation of Right to Die Societies
のサイトにたまたま行き当たって、

考えてみれば、
「そりゃ、そういう国際組織だってあるだろうよ」とは思うものの
もともと世間知らずで無知なので、それなりに驚いたし、

最終的にこの連盟が目指している「個人の死ぬ権利」の範疇には
医師の自殺幇助による安楽死もちゃんと含まれているようだということに
さらにびっくりしたので。

(日本も加盟しています。)

そのサイトの説明によると、

創設は1980年。
23カ国から38の組織が加盟しており、
それぞれ個人の死ぬ権利を確保し守るために活動している、と。

理事会の紹介ページで
理事さんたちが並んだ写真に
どこかで見た人がいると感じたのもそのはずで、
つい先日、小松美彦氏との対談を読んだばかり。
日本尊厳死協会副理事長の荒川迪生氏が
ちゃんと理事として並んでおられました。

ちょっと安心したのは、
マニフェスト(東京2004/トロント2006)の中で
いつどのような方法で死ぬかは個人に決定権があるという主張が
「competentな大人」について述べられているということ。

でもね。
そうすると、
日本尊厳死協会が植物状態について尊厳死を云々しているのは
やっぱり、ちょっと矛盾してくるという気がするのですよね。

         ―――――――

このサイトで世界中から集めた尊厳死関連ニュースのページNews & Archivesを覗いてみたところ、

ここしばらくの当ブログのエントリー関連で
とりあえず気になったのは以下の2つ。

スイスのDignitas Clinic で幇助を受けて自殺した42人目の英国人、
元医師だったという女性のニュース。2006年。



それから、
②こちら2005年のニュースなのですが、
オランダでアルツハイマーの患者に尊厳死が合法と認められた、と。

2008.03.13 / Top↑
去年12月のエントリー遺伝子診断で障害も重病も弾くつもり?(英国)
その後3月7日にも「障害児はnon-person」と英国上院で」で触れましたが、

英国上院でのヒト受精・胚法案が
着床前診断による障害児の排除を謳っていることが懸念されています。
その問題に関連して、

10日にBBCのラジオ番組the Todayにおいて、
聾者のアーティストTomato Lichy氏が
生殖補助医療技術によって聾の子どもを持ちたいと語り、
大きな論争を巻き起こしています。

(現在のヒト受精・胚法案が成立すると聾の胚を選ぶことは違法行為となります。)

パートナーも聾者のアーティストで
2人の間には3歳の聾の娘があります。
パートナーが40代になったので
着床前診断で聾の胚を選んで2人目の子どもを持ちたいとLichy氏は語り、

番組ホストのJohn Humphrys氏と
耳が聞こえないことが不利益になるか否かを巡って激論となったとのこと。

(たとえばベートーベンの音楽が聴けないことをどう考えるかなど。)

直後からリアクションが相次いでいる模様。

          ――――――

なお、
議員から上記法案のClause14を巡って出た
「例えば聴覚障害がある胚をわざわざ選ぶようなことは避けられる」との発言について、
12月に上記エントリーで紹介した際に
なぜ聴覚障害だけをこのように取り上げたのかがわからず、
ずっと疑問に思っていたのですが、
以下のIndependentの記事の中に背景が説明されていました。


6年前に共に聾者であるレズビアンの夫婦が
聾の家系であるという理由で精子のドナーを選び、
国内で大問題となったとのこと。

その際にLancet誌に掲載されたEメール・インタビューで2人は
聾を言語文化の一つと肯定的に捉える聾文化について語り、
「我々は耳が聞こえないことを
目が見えないことや知的障害があることと同一線上で捉えません。
ユダヤ人であることや黒人であることと並んで捉えます」
と述べています。

上記BBCでのホストとゲストの論争においても、
問題になったのはこの点のように思われますが、
聾文化については全く知識が欠落しているのでコメントする能力もなく、
以下に関連記事をいくつか。

日本で今話題になっている「聾学校」の名称の存続問題も
よく分からないままに新聞などで読んでいたのですが、
なるほど、こういうところと通底しているのですね。



Couple who want deaf child angry at IVF ban
The Telegraph, March 11, 2008

[http://www.telegraph.co.uk/opinion/main.jhtml?xml=/opinion/2008/03/11/do1103.xml
Some ‘gifts’ one is better off without]
The Telegraph, March 11, 2008

The hearing’s difficulties
The Guardian, March 11, 2008
2008.03.12 / Top↑
前のエントリーで触れたスイスの記事を読んでみました。

スイスでは既にターミナルな病人に対しては一定の条件下で
医師による自殺幇助が認められており、

過去4年間にチューリッヒのDignitas Clinicには
自殺幇助を求めて54人の英国人が訪れたとのこと。

このような動向を加速する危険な判決だと批判の声が出ているのは

致死量のペントバルビタールを医師の処方なしで手に入れたいと訴えた
53歳の重い躁うつ病患者のケースで
スイスの最高裁は男性の訴えを却下し、
医師による病状のアセスメントがきちんと行われるよう求めたというものなのですが、

その裁決の中で以下のように書かれている、と。

It must be recognized that an incurable, permanent, serious mental disorder can cause similar suffering as a physical [disorder], making life appear unbearable to the patient in the long term.

If the death wish is based on an autonomous decision witch takes all circumstances into account, then a mentally ill person can be prescribed sodium-pentobarbital and thereby assisted in suicide.

要するに、
不治、永続的かつ重症の精神障害は身体障害と同様に
患者に「この先もずっと生きていくのは耐え難い」と感じさせる可能性があるので、
あらゆることを考慮したうえでの自己決定であれば
医師は精神障害者に致死量のペントバルビタールを処方し
自殺を幇助してもかまわない、ということですね。

これに対してお馴染みArthur Caplanが以下のように批判しています。

・自殺幇助の権利と他者のQOLや苦痛が結びつくのは、法的にも倫理的にも大きな転換であり、危険。

・ひどい焼けどを負ったり体が変形した人、子どもやパートナーを失って悲嘆にくれる人、仕事で失敗した人など、耐え難い心の苦しみのある人なら誰でも自殺幇助を求めることができるようになり、「滑り坂」に結びつく。

・人を死なせることによって人間のとてつもない苦しみを取り除くというのは、いったい医師の任務なのか?

安楽死反対運動の活動家は
ナチスの時代に逆戻りだと批判。

この記事によるとオランダは2001年に、
ベルギーは2002年に安楽死を合法化。
イギリスとフランスでは
死ぬために治療を拒否することが終末期の患者に認められているとのこと。



【追記】
ドイツでネオナチに教われて障害を負った男性が
上記スイスの Dignitas Clinic で幇助を受けて自殺してやる
と言っているとの記事が昨年末ドイツの新聞にあったとのこと。

TBさせていただきました。
2008.03.12 / Top↑
American Association of People with Disabilities (AAPD)が
公式サイトのアーカイブに入れた
生命倫理問題に関する2007年のウェブ情報一覧。


このリストを見てみると
米国での障害者運動にとって去年の2大事件が
シアトルのAshley事件とテキサスのGonzales事件
であったことがよく分かります。

また英国での産婦人科学会と英国教会による
重症障害新生児安楽死の提言についても挙げられています。

まだ読んでいませんが気になるところでは以下のように、
終末期患者には医師による自殺幇助を認めているスイスで
重症の精神障害者に対して医師による自殺幇助を認める判決があったとのニュースも。

2008.03.12 / Top↑
薬のコマーシャルや広告が急増。
それを見て医師に処方を求める人が急増。
それを受けて求められるままに処方する医師も急増。

……というUSATODAYの記事。



で、こちらは同日・同紙の記事で、

薬のコマーシャルや広告を見た患者は
最新の最も高価な薬を欲しがる傾向があり、

それが米国の医療費を押し上げている、と。


つまり

お金持ちが病気でもないのに精出して高い金を払って薬を買い、
それで製薬会社と医師は儲かるかもしれないけれども、
医療費が高騰し、かろうじて最低限の医療を保障するメディケア・メディケイドは崩壊、
本当に医療を必要としているホンモノの病気をもった貧乏人が見捨てられていく……

……というシナリオ?


1月にNYTimesにあった同様の記事に関するエントリーは以下
薬が病気を広げる社会
2008.03.11 / Top↑
以下は私自身のブックマークとして。

2008.03.11 / Top↑
Boston Globeの以下の記事冒頭で

「脳死」概念は実は一般に考えられているほど明確でも確立したものでもなく、
臓器は患者が死亡してから摘出するというルールはしょっちゅう破られている、
こんなルールは廃止するべきだ……

……というRobert Truog医師(Harvard Medical School)の主張を読み、

それに続いて
当ブログでも取り上げたNavarro事件が触れられて、

(救命治療よりも臓器保全を優先し、
知的障害のある患者の死を早めたとして現在裁判で予備審理中。)

脳死だけではなく心臓死だって臓器提供のために操作は可能で
実際に臓器摘出のために操作されているのが現実である、
との指摘があり、

そして日本の脳死議論でも頻繁に言われた
「生と死の境はくっきりと線引きできるものではなく、死はプロセスである」
との主張がそれに続くのを読むと、

さて、これに続く部分に、あなたはどういう展開を予測しますか?




「移植医療の先走りを懸念して
もう一度臓器摘出の条件見直しを行い、
提供者の救命治療が保障されるようにという声?」
と予測してしまったのは、
これだけ当ブログで英米の命の切捨てについて読んできたのに、
やはり私がアホだったのでした。

上記の指摘や主張に続いて出てくるのは
どうせ脳死も心臓死も操作されていて
実際には死んでいない人から臓器は摘出されているのだし
その一方で臓器を待ちつつ死んでいく米国人はまだ沢山いるのだから
本人の希望さえあれば死ぬ前に摘出してもいいことにしよう
という声なのでした。

そして、この記事に登場してその説を能弁に唱えるのが
またしても、Ashley事件で大活躍したあのNorman Fost医師

直接の言葉と本文に要約された主張でFost医師の発言を抜いてみると
脳死患者の多くは脳幹部の機能が残っているという研究結果がある。

「そういう患者から我々は何千という臓器を摘出しているわけですが、彼らは脳死ではありません」

「心臓死からの摘出という方法でも摘出時に患者は死んでいることになっていますが、死んでいません」

(しかし、彼は心臓死での摘出に反対しているわけではなく、主張していることは)
臓器提供に同意する人には、ターミナルな病状である限りにおいて自分が死ぬ前に臓器を提供してもいいと明示することを可能にするべきである。それでこそ自分の医療について個人の自己決定権を尊重することになる。それで死にそうになる前に膵臓を摘出してくれという希望があれば、そうすればいいだけのこと。そういうことを考える人だっている。

2004年にCase Western Reserve Universityの倫理学者Stuart YoungnerらがOhioで1300人の大人に調査したところ、回答者の半数近くが、生きているが付可逆的な昏睡状態にある人からの臓器摘出を支持したとの結果もある。

この記事でRobert TruogとNorman Fostと同じく
「死亡提供者ルールなど撤廃してしまえ」と言っているのは
Robert Veatch(Georgetown University)で、
彼が提言しているのは
永続的植物状態になった場合には死亡宣告してもらうか
脳の機能を部分的に残したまま意識がない状態を延々と続けるか
選べるようにしよう、と。

(死亡宣告してもらえば)
失うものは何もないが得るものは多いですよ。
 個人としての判断に尊敬を得ることができますからね。


San Francisco ChronicleのWesley Smithのエッセイ(2006/10/22)によると、
Robert Veatchは植物状態の人について、
本当は埋葬したっていい状態の「息をする死体」に過ぎないと述べています。
2008.03.11 / Top↑
93年に重症障害のある娘を殺したカナダのRobert Latimerが先ごろ保釈されました。
いまだに有罪判決を覆そうとロビー活動を続けているとのこと。

彼の保釈を機に、
Toronto Star紙の障害当事者コラムニストHelen Hendersonが
彼の正当化の論理に反論しています。


Hendersonが冒頭でまず疑問を投げかけるのは、

事件から15年間、
父親と弁護氏らは娘のTracyの状態を悲惨と苦痛のみの生だったかのように描き、
世間もそういうイメージを抱いてしまっているが、
学校の教師はTracyを音楽の好きな少女だったと記憶している、
笑顔も覚えていると言っている、と。

殺すことが娘を悲惨な状態から救う唯一の選択肢だった
娘に身体的・知的能力が欠如しているのだから、
親には娘に代わって自殺を決定する法的権利がある
との父親の主張に対して、
教師らの記憶にあるTracy像は一致せず、
父親の主観に過ぎないというのです。

その他Hendersonが主張していることとして、

Robert Latimerは実刑を免れて然りだったとの世論は
彼ら一家が特異なケースだったように受け止めているが
Tracyのような脳性まひ児は世の中に沢山いて、
他者から見れば苦痛に見える生を精一杯生きている。
それでも刑法を曲げるというのか、
それよりも社会の医療と福祉の充実を考えるべきだろう、と。

さらに
脳性まひについて深刻な誤解がある、と。
脳性まひはターミナルな病気でもなければ進行性の病気でもない。
にもかかわらずLarimer事件では
裁判官が一貫して「病気」と表現し続ける有様だった。

もう1つ、
「娘の痛みを終わらせてやるには死しかなかった」と父親は主張するが、
多くの同じような子どもたちに安全な痛み止めが処方されている。

重症児の親には子に代わって自殺の代理決定をする権利がある――でしょうか?

         ―――――

それにしてもRobert Latimerの正当化の論理は
Ashley事件で使われた正当化と全く同じであることに驚きます。

今後Ashleyの障害も成長と共に重度化することが予想され、
また親にも歳をとると介護力の低下が予想されますが、

その時にLatimerのように
「あまりに悲惨。
Ashleyには判断能力も実行能力もないから
親が自殺を代理決定してやる権利がある」
などと言い出したら――?

「本人の最善の利益」という魔法の言葉さえ唱えれば
親はやりたい放題、殺したい放題ですね。



Ashley事件でのHenderson記事については以下のエントリーに。

2008.03.10 / Top↑
以下のTimesの記事によると
英国の43歳の女性がこの16年間で8人目となる代理出産を控えているとのこと。


彼女には自分の子どもはおらず、
これまでの7人の出産はすべて報酬をもらっての代理出産。

2006年の前回で終わりにしようと思っていたのだけど
その子どもを産んだ後でウツ状態に陥り、
やっぱり妊娠していたいと思ったんだとか。

今回生まれる子どもは
これまでに子どもを生んであげた家族に兄弟として「提供し」たいんだとか。

(でも、この書き方だと行き先はまだ決まっていないのですね。
 だとしたら妊娠してから赤ん坊の買い手を捜すようなものですね。
 それは代理出産というよりも「赤ん坊の売買」では?)

本人は太っているから自尊心が低くてウツになっただけだと主張するものの、
専門家からは度重なる妊娠と出産の繰り返しの影響を指摘する声も。

本人の意識の上ではどのように誤魔化されているにせよ、
他人が子どもを持つための道具にされるわけだから、
自尊心が低くなるのも、それは当たり前でしょう。

そういう形で誰かの道具になってあげることによってしか
自分が他者に必要とされていると感じることができなくなってしまっているのだとしたら、
それはとても恐ろしいことですが、

この問題は例えば「救済者兄弟」の心理にも重なってくるのではないでしょうか。
2008.03.09 / Top↑
Diekema医師は
「子どもの利益と介護者である親の利益は分かちがたい」と主張しています。

しかし父親は
親の介護負担軽減が目的だとの批判に対して
「そうではない、あくまで本人のQOLのためだ」と何度も繰り返していました。

「絶対に親の介護負担軽減のためではない」とあれほど力説した父親の言い分が
いつのまにか、なし崩しにどこかへ追いやられて
Diekema医師や擁護派の人たちにおいては
「親のケア負担軽減は子どもの利益でもある」という正当化にずらされているのです。

そこで考えてみたいのですが、

もしも父親が最初から医師らと同じように
「親の負担を軽減したい。
 そうすれば子ども本人にとっても利益になる」
と発言していたとしたら、
支持・擁護・容認した人たちは果たして同じ反応をしたでしょうか。

私にはそうは思えないのですが、

Ashleyの父親が
「これは親の便宜のためではない。あくまで本人のため」と繰り返し、
英国のKatie Thorpe の母親Alisonのように介護負担についてグチったりしなかったから
「親が子どものためにやることなんだから許してあげれば?」と是認する世論は、

もしも父親が少しでも介護負担をネガティブに捉える発言をしたり、
「親の介護負担軽減」を目的に加えていたとしたら、
「親が自分のためにこんなことをやるなんて言語道断」
という方向に振れていたのではないでしょうか。

しかし
「本人のQOL」という正当化の枠組みそのものは
介護を巡る親の発言がどうであっても変わらないはず。
(その正当化の枠組みが妥当かどうかは別問題としてあるにしても。)

もしも「愛情からの行為かどうか」という次元で世論がブレるとしたら
それはセンチメンタリズムに過ぎないでしょう。

しかも、そのセンチメンタリズムは
どうにでも繕うことのできる言葉という不確かなものによって
愛情の有無を皮相的に確認しているだけなのです。



私はとても気になるのですが、
デザイナーベビーをはじめとする遺伝子診断でも
リスク懸念を置き去りに高度に発達していく生殖補助医療でも
最近日本でも論争になっている代理母にしても

正当化のアリバイとして持ち出されてくるのは
みんな「親」を巡る情緒です。

世論はいつだって親子を巡る情緒に弱いように見えるから
世論操作をしたい人にとっては、そこがチョロイのだとしたら

「障害児の親」というステレオタイプに見られるような
「美しい親の愛」神話を離れて、

親と子の間には実は利益の対立があるという事実を
事実として冷静に受け止めることが、
今、とても大切なのではないでしょうか。
2008.03.09 / Top↑
植物状態に陥ったものの自発呼吸はあるのに
夫からの尊厳死の訴えによって
栄養と水分補給の中止を裁判所が認め
2005年に餓死させられたTerry Shiavoさんの死後、
裁判で夫と対立したTerryさんの家族は
The Terry Schindler Schiavo Foundation という財団を立ち上げて
高齢者や障害児・者に適切な医療の必要を訴える活動を続けていますが、

このたび、そうした弱者の命の重みを訴え、
「無益な治療」論に向かう医療や司法の動きに警告を発するため
ラジオ番組 the America’s Lifelineを開始するとのこと。


番組開始は3月15日土曜日の午後3時(EST)で
インターネットでもこちらのサイトから世界中に配信されるとのこと。
2008.03.08 / Top↑
昨年12月に遺伝子診断で障害も重病も弾くつもり?(英国)のエントリーで触れたように
英国上院でのヒト受精・胚法の改正法案の審議に伴い、
優生的な動きが懸念されていますが

その議論において
障害児はnon-person であって、人間として viableではないので中絶する方がよい」などの発言が。

non-person というのは「人間にあらざるもの」ということですね。
not viable people というのはどういう日本語にしたらいいんだろう?
「人として実効がないもの」?
「人として認められないもの」?


私は英国の政治や法律について全く無知なので
障害児の中絶に関してもニュースを読むたびに細かいところで表現が異なって
混乱している面があるのですが

この記事では、
現在の英国の中絶法では妊娠から分娩までのどの段階であっても
何らかの奇形のある子どもの中絶は認められており、
それは内反足や口蓋裂程度のささいな奇形であっても認められるとのこと。
(以前に読んだ記事では、出産中に気がついた場合でも可という説明も。)

それに対して、24週以降はそうした障害児を救う方向で
ヒト受精・胚法に対して修正案が提出され
89対22で否決されました。

以下に引用する発言はこの修正案を巡る議論で出たもののようです。

記事からそのまま抜きます。

Molly Baroness Meacher
(早産で脳性まひになった知り合いの子どもについて)

普通に生まれた子たちなのです。自分で呼吸もできません。助けがないと息ができません。話をすることは今後もありません。仰向けに寝転んで、何もできないのです。

早産で生まれた、そういう子どもたちがいますが、彼らはnot viable peopleなのです。生まれてこずに中絶されていた方が彼らの最善の利益だったでしょう。

私がお話したいのは子どもの権利ということです。The Mental Capacity Act(MCA) は子どもの能力の有無に言及しています(The Mental Capacity Act refers to the child having capacity.)。能力がない子どもであれば、専門家が最善の利益を考えてやることが重要です。

私の主張は以上。我々はこのような赤ん坊の最善の利益を考えてやることが必要なのです。

記事では
このMeacher議員の発言に対して各方面からのコメントが紹介されていますが、
the Voluntary Euthanasia Society (自発的安楽死協会?)の支持者の発言は以下。

Baroness Tong
(Baroness Meacherが言及した子どもたちというのは
「障害のある人間」ではなく、「極度に異常な人間」なのだと言い、
無脳症の子どもたちの「見た目のグロテスクさ」を上げて)

私が見た彼らの多くは、人間とはほとんど似てもいません。


このところ日本尊厳死協会についてエントリーをいくつか書いたので
およ、英国の自発的安楽死協会も支持するのは優生思想の信奉者か……
という感想もあるのですが、

それよりも気になるのは
障害児の中絶に反対している人権団体と思われる
the Society for the Protection of Unborn Children の会長が
MCAが却って障害児・者や弱者を殺すための法律として機能する懸念を述べていること。

MCAにおける「最善の利益」の定義だと
自分で決める能力のない人について
「殺されることが本人の最善の利益」と決定付けることが可能だと
当初からSPUCは指摘してきた、というのです。

英米のこうした動き。
もう手遅れなのか……。



当ブログの MCA 関連エントリーは以下。


後者ではMCAが障害児・者切捨てのアリバイ利用されるのでは、と
上記記事のSPUCと同じ懸念について書いています。
この時には「まさかね」という気持ちも多少あったのですが、
まさか、これほど素早く出てくるとは……。
2008.03.07 / Top↑
米国で初というヴァージニア州の、このプログラム、
正式名称を the Virginia Birth-Related Neurological Injury Compensation Program と。

ぶっちゃけていえば
出産時に何らかの原因で子どもが脳性まひになった場合に
医療過誤で医師や病院を訴えたりしないと約束すれば
生涯その子の医療費はタダにしてあげますよというプログラム。

プログラムができたのは
医療過誤の訴訟が相次いで産婦人科医が訴訟保険に入れないとか、
医師や病院の保険料が急騰するという事態が起こっていた1987年で、
資金源はヴァージニア州の産科医師とお産を扱う病院が拠出している。
同じ制度がフロリダ州にも存在するそうです。

日本でも似たような制度が新年度からスタートしますが、
「訴訟を起こさない代わりにお金をあげる」と表立って露骨な言い方はしないようですね。
まぁ、趣旨はまったく同じなわけですが。

そんな日本の現状を前に気になるのは、
このプログラムを取り上げている以下のWPの記事は、
財政難でプログラムが崩壊の危機に瀕しているというニュースだということ。

Free Care for Life, If Money Holds Out
Washington Post, March6, 2008

財政逼迫の要因として挙げられているのは子どもらの寿命の延びで
プログラムができた20年前には
出産時の酸素不足から脳性まひになった子どもが
5歳を超えて生きるのは珍しかったのだけれども、
現在は優に20歳を超えて生きる子どもたちが当たり前になり、
この先もまだ20年生きる可能性すらある、と。

ヴァージニア州では医師や病院に求める拠出金額を上げたり、
全科の医師と病院に広げて資金提供を求める案を検討したり、
「子どもらを見捨てるわけには行かない」と必死のようですが、
いずれ支給対象やサービスの縮小は避けられそうもない様相。

結局、医療と福祉で見聞きするのは
相対的に縮小する一方のパイを弱者が奪い合う話と、
いっそ争奪線に加わる人数を削減するために「殺そうや」という話なのですね。

今のところ前者で踏みとどまっているこのプログラムが
後者の話と繋がらないことを祈りたいものです。


        ----     ----


確かに私も20年前に
「脳性まひ児の6割は6歳になる前に死んでいる」
という統計を整形外科の医師から聞きました。
(6割という部分についてはウロ覚えですが。)

でも身近で6歳までに死んだ子どもは1人もいなかったから
漠然とみんなラッキーだったのかと思っていたのだけど、
なんだ、古い統計に脅かされてただけなのか。

身近に知っている重症障害のある子どもが初めて死んだ時、
その子は11歳だった。

それからは、
それまで誰も死ななかったのがウソのように、
それはもう次々に、あっちでもこっちでも死んでいったなぁ。

でもね。
あの子も死んだなぁ、あの子ももういないなと振り返る時に
やっぱり長さじゃないと思う。

みんな、まず生きたんだよね。
そして、それから死んでいったんだ。
2008.03.07 / Top↑
カナダ、オンタリオ州で
17歳の脳性まひの娘Courtney Wiseを殺したとして
母親Astrid Hueller(46)が逮捕されたのは2月27日。

Astridはシングルマザーで
Courtney Wise を含めて複数の子どもをひとりで育てていたとのこと。

ちなみに彼女が起訴されたのは

93年に同じくカナダのSaskatchewanで
重症障害のある娘Tracyを殺したRobert Latimerが
7年間の服役の後に保釈となった同じ日だったとのこと。

以下のHueller起訴のニュースが
Latimerによる娘の殺害について
「重症児の娘の慈悲殺(mercy killing)で有罪となった」と書いているのですが、

有罪となった罪名は「殺人」であるはずだと思うのに
このような不正確な表現が使われることにも、
この事件に向けるメディアの目線が伺われます。


Latimer paroled
Global and Mail, February 27, 2008
2008.03.07 / Top↑
前々からずううううううっと不思議でならないのですが、

「利益vsリスク」の差し引き勘定による「最善の利益」論というのは
根本的におかしいんじゃないかと思えてならないのは

それって、
そもそもの前提が「やってもいい」に立っているじゃないか、と。

リスクよりも利益の可能性が勝っていたら「やってもいい」という前提があるから
その差引勘定をすることに意味があるわけであって、

それ自体、
この差引勘定以前の段階で
既に「一定条件を満たせばやってもいい」という判断が行われているのでは?

だからAshley事件で、
倫理委が3つの医療処置それぞれについて
利益と害の可能性を比較検討した結果、利益が勝っており
従ってAshleyの利益になると結論した
というDiekema医師の主張は、

倫理委がその比較検討をする以前の段階で
(実際に倫理委がまともな議論をしたと仮定してのことですが)

利益の可能性が害の可能性より勝っていたらやってもいいことだ」との判断が行われたことになり、
じゃぁ、誰がそんなの決めたんだ?
そっちの判断はどうやって検討したんだ?
という話にならないでしょうか。

つまり、何よりもまず
「最善の利益」を検討する前に
一定条件を満たせば許されることなのか」それとも「何がどうであっても許されないことなのか
という判断が行われるべきではないのか、ということ。

Ashleyの親が要望した医療処置についての倫理的判断は
その段階から始まるべきだったのではないでしょうか?

それとも生命倫理という装置そのものが
解釈しだいでどうにでもなる「最善の利益」という概念でもって
最初の前提部分であるべき本質的な判断を消滅させるカラクリなのでしょうか。

【追記】
ちょっと整理させてもらうと、

1.条件によっては許されることか、条件を問わず許されないことか。

(ここで答えが後者であれば議論はそこで終わります。
 ここで答えが前者であった場合にのみ議論は次の段階に進むことになります。)

2.では当該処置が許されるための条件とは何か。

3.2の段階で決められた条件を満たしているかどうかをAshleyのケースで具体的に検討。

2の段階で「利益vsリスク」の検討で利益の方が勝っているという条件が有効だと確認された場合にのみ
Diekema医師のジャスティフィケーションは有効だということになるはずだと思うのですが、

Diekema医師は自分が倫理学の専門家であることから
あたかも1,2の段階は自明であるかのように装い、

最初から第3段階の議論のみを行った倫理委員会の検討が
あたかも妥当であったかのようにミスリードしているのでは?
2008.03.06 / Top↑
英国のKatie Thorpe事件を振り返って
ああ、あそこにも「障害児の母親」を巡るステレオタイプがあったなと思うのは

同じことを要求し主張したAshleyの父親に対しては
端的に今回の決定を巡っての批判がされたのに比べて、
Katieの母親Alisonに対する批判には「なんて酷い母親なんだ!」的な嫌悪感が混じっていたこと。

Alisonには確かに思慮の足りない言葉が多かったので、
部分的にはそうした発言が批判を招いた面もあるのですが、

それ以外にも彼女の言葉に滲んでいた「介護にはもうウンザリ」というホンネが
「母親の癖になんだ?」という反発に結びついたところもあったのでは?

娘の子宮を摘出したいと求めたことが非難されたというだけではなく、
Alisonが娘の介護負担を強い言葉でネガティブに表現して見せる姿が
世間の人たちが理想とする「障害児の母親」像から外れていたから
「それでも母親か」的な非難を浴びたのではないか、と。

(この点についてはFRIDAのブログに去年10月19日付で
Alisonを「ひどい母親」だと糾弾することについて
フェミニストの立場から考えようとする姿勢のポストがありました。)

母親であれ父親であれ
また、どんなに深い愛情があろうと、
Alisonのような過酷な介護生活を15年も送れば
「介護にはもうウンザリ」という気持ちになることくらい
生身の人間なら当たり前だろうと思うし、

Alisonが訴える介護負担の苦しさについては
もっと虚心に耳を傾けるべき問題だったとも思う。

それは他の障害児親子にとっても切実な問題なのだから、
それはそれとしてKatieの子宮摘出とは別の問題として整理して
きちんと受け止められなければならなかったはずなのに、

彼女の日常を詳細に取材したDaily Mailは逆に、
その過酷な介護負担を
「こんなに立派に頑張っている母親なんだからやらせてあげよう」
と子宮摘出の正当化に使ってしまった。

あのニュースを読んだ人たちも、その厳しい現実に驚いたはずなのに、
「ここまで頑張れる母親の愛情」に無責任に感動・賞賛して終わってしまった。

「障害児の親は何故ここまで過酷な生活を強いられているのか」と
社会のあり方、福祉制度のあり方に問題意識を向ける
ジャーナリストも新聞読者も
なぜあれほど少なかったのだろう??????

そこにあるのはやはり、
「己を捨てて障害のある子どものケアに尽くし抜く母親」というステレオタイプ、

すなわち裏返してみれば、
北海道の中学生行方不明の記事へのコメントと同じ、
「我が子が障害を持っていたら
どんな事情があろうとも
母親なら優しく明るくたくましくケアし続けるはず」との意識なのでは?

でも私には
個々の表現での思慮不足や言葉の選択は別として、
Katie Thorpeの事件で最も大きな声で響いていたのは
「障害児の母親だって生身の人間なのよ、頑張るには限界があるのよ」
というAlisonの悲鳴だった……という気がしてならない。
2008.03.04 / Top↑
北海道で知的障害のある中学生がずいぶん前から行方不明になっていて
ついに公開捜索に踏み切られたという以下のニュースを読んでいたところ、


ネットではいつものことなのかもしれませんが、
知的障害者を誹謗するコメントがあったらしい痕跡が見かけられるものの
既にコメントそのものは削除されていると思われる中で、
以下のコメントは削除されることもなく残っていたのが目を引いて
つくづく考え込んでしまった。

色々と事情はあるのだろうしこのニュースに書かれている以外の状況もあるのだろうが,18才で産んだ障害のある我が子を人に預けた自分には責めるべき点が全く無かったのか?この母親はどうも障害者版モンスターペアレントみたいに思えてならない。「迎えに行けないから」と説得してやめさせたが、そのときの様子は「いつもと感じが違った。前兆があったのに,どうして気付いてくれなかったのか」って
いやいや…だったらオマエが迎えに行けよw前兆に気付いたなら動くべきは先ず親である君だ。こういう輩に限って,施錠や外出を厳しくしたらしたで障害者の人権がどうのと言うんだろうな。砂浜君は無事に見つかって欲しいのは言うまでもないが,この女には全然同情できない。

重症児に対する「どうせ何も分からないに違いない」というステレオタイプに潜む危険を
当ブログでは「ステレオタイプという壁」という書庫のエントリーで訴えてきたのですが、

そうなのでした。

重症児について、または障害者一般についてのステレオタイプの他にも、
「障害者家族」特に「障害児の母親」についてのステレオタイプというのも
世間には実に根強いのでした。

我が子に障害があれば
それがどんなに過酷な介護生活であろうとも、
自分の身など一切省みずに献身的に笑顔でケアし続ける
明るく優しく強い母親像──。

どんな事情があろうとも
そうした「障害児の母親」というステレオタイプから外れることは
見も知らぬ相手から「オマエ」呼ばわりされ、
「この女」呼ばわりされても当たり前なほどの軽蔑に値することだと、
この人は考えているのでしょう。

「いろいろと事情はあるのだろうし」と書く一方で、
母親の愛情さえもってすれば、
障害のある我が子を人に預けるほどの事情などありえないだろうと
考えてもいるのでしょうか。

だからこそ、
自分で面倒を見ずに他人に預けておいて文句まで言うとはナニゴトか
という非難が出てくるのですね、きっと。

介護保険制度ができて介護は社会で担うものだという認識が広まるにつれて、
障害児の母親をはじめ家族の介護負担についても、
上手にサービスを利用して、むしろ自分だけで抱え込まないようにと
周囲の専門家からも勧められるようになってきたようで、

それでも多くの母親たちは
ほんのわずかのレスパイトさえ
罪悪感と闘いながら利用しているに違いないのだけれど、
なんでもかんでも「母親なんだから頑張れ」と叱咤された時代から比べれば
ずいぶん変わったものだと私は喜んでいたのですが、

障害児の母親を巡る母性神話的ステレオタイプは
まだまだ根強いのだなぁ……と改めて。

もっとも介護保険での保険給付も抑制の方向で
「ノーマライゼーション」だ「地域で暮らす」だのという美名の下に
またしても介護が当人と家族の自己責任へと
逆戻りの様相であることを思えば、

「障害児の親」のステレオタイプと美化もまた
かつての如くに復活するのかも?
2008.03.04 / Top↑
2月1日のイラク市場での自爆テロ事件に関連して、
当ブログでは以下のエントリーで「犯人知的障害女性説」に疑問を呈してきましたが、



その後、
イラクの市場テロの自爆犯女性2人については頭部から身元が判明したようです。

バグダッドの精神病院に入院していたことがあったとのこと。

しかし2人のカルテにはダウン症候群を示す情報はなく、
病院関係者の証言では2人の病気はうつ病と統合失調症などだったと。

(この辺りインタビューを受けた病院関係者の表現が微妙なのか、
 記事の書き方が微妙なのか
 今度はこの診断そのものの信憑性はどうなんだろう……?
 と思わないでもありません。)


Files for Suicide Bombers Show No Down Syndrome
The New York Times, February 21, 2008

ともあれ、
「状況を理解する力の不足と従順であるという障害特性につけこんで
 アルカイダがダウン症の女性を自爆犯に利用した」という
当初流れた情報については未だに裏付けられていない、という話。

しかし、
記事を読んでいて「ウソだろ?」と思わずつぶやいたのは、
テロリストたちが知的障害者を自爆犯に利用するという恐れから
イラク政府はフセイン時代の法律を適用して
物乞いと知的障害者を逮捕し、
知的障害者は病院へ
物乞いは警察その他の施設へと
収容することに決定したとのこと。

なんで、こうなるんだろう──?

自分たちが根拠もなく勝手に流した噂を確認することもなく
今度は一転してその根拠のない噂を根拠に使い
知的障害者が抵抗する力が弱いのをいいことに
捕まえてきては病院に収容するって?

病院に入れるといえば聞こえはいいけど、
障害は病気ではないのだから
要するに体のいい拘禁なわけですよね。それは。

障害に付け込んで卑劣な行為に走っているのは、結局、誰よ?


【追記】
この記事の他にも、
精神病院での調査について詳しい経緯を記したニュースがあり、
そちらを全文掲載してくださっているブログがありましたので
トラックバックさせてもらいました。
2008.03.03 / Top↑
「末期であること」を尊厳死の要件にしながら
その一方で意識の有無を問題にして植物状態を尊厳死の対象にするのは
日本尊厳死協会の矛盾であると指摘した際に小松氏は
植物状態はコミュニケーション障害である」との自説を展開します。

当ブログでも「ステレオタイプという壁」の書庫にあるエントリーで
繰り返し主張してきましたが、
「重症児は表出能力が非常に限られているのであって、
 それが必ずしも認知能力の低さを証明するものではない」
と考えた場合、
重症障害についてもコミュニケーション障害である可能性は常にあると思われます。
これはAnn McDonaldさんやHank Bersani氏らが指摘している点でもあります。

どちらとも証明できない場合に、
医療は「だから、きっと分からない」という立場をとりがちで、
教育は「だから、分かるかもしれない」という立場をとろうとするのかも……
という違いを私は”Ashley療法”論争から感じているのですが、
(私の主観的な印象に過ぎませんが)

それによって害を及ぼす可能性を失くすためには
やはり後者の立場が正解ではないでしょうか。


小松氏の指摘は
「命の末期」がいつのまにやら「意識の末期」にずらされている矛盾を突いたものですが、

そして、
この尊厳死要件における「ずらし」は
米国医療倫理の「無益な治療」議論で見られる
「治療の無益」が実は「命や人の無益」に摩り替わっている「ずらし」と
まさに同質だと私には思えるのですが、

我々一般人が漠然と「尊厳死」を考える際にも
「もうどうせ助からないのに過剰医療で苦しみたくない」と
「意識がなくなって家族に全面的に依存してまで生きていたくない」という
2つの「尊厳死」希望には、
よくよく考えてみると相当な開きがあるにもかかわらず、
その開きはほとんど意識されないまま
混同されているのではないでしょうか。

切り捨てたい側の巧妙な「ずらし」を
我々一般人の側が見過ごしてしまう要因の1つがここにあるように思うのです。

つまり「意識の有無」を巡るステレオタイプの怖さです。

身体的な状況が「悲惨」、「重症」と感じられる場合に、
意識状態まで身体状況と同じ程度に「悲惨」で
「同じくらい障害されている」と短絡してしまう危険。
そして一気に「どうせ分からないのだから」とさらに短絡してしまう危険。

(Diekema医師が繰り返している
「どうせAshleyは生後3ヶ月の赤ん坊と同じなのだから」というセリフが
 こうした短絡と同じではないという保障もどこにもないのです。)

このステレオタイプの短絡にはもう1つ、
端から見る人が感じる「悲惨」であって
それが必ずしも本人の主観的な「悲惨」とは限らないという問題も
含まれています。

こうしたステレオタイプと
それに付け込む「ずらし」には充分に警戒していないと、

やがて行き着くのは
意識状態を問わず一定の要介護状態になったら『尊厳死』の対象。
本人が尊厳死を望まないなら、次には『無益な治療』の適用対象
というところではないでしょうか?
2008.03.03 / Top↑
前回のエントリーで紹介した
「現代思想」2月号の対談「尊厳死をめぐる闘争」から、

そっくりそのまま“Ashley療法”批判にもあてはまると思われる
“尊厳”をめぐる小松氏の発言を以下に。

……ここでやはり問うべきは、尊厳死の前提となる人間の尊厳とは何か、ということです。こんなに惨めな状態で、家族に精神的にも肉体的にも金銭的にも迷惑をかけているし、自分で排便・排尿できない、食べ物も経管に頼っている。それを尊厳のない状態と考えるのがどういうことかといえば、言葉は悪いのですが、「社会的に役立たず」ということでしょう。そこでは人間の価値が社会的に必要か無用という価値になってしまっている。それに対して私は、どんなに無残で変わり果てた姿となっても、ただその人がいる・ある、という存在そのものの価値を体感するところに人間の存在が出来すると思っています。ですから、日本尊厳死協会は意識の有無に拘泥していますが、真に意識がないはずの死体ですら私は平常時では足蹴にできません。そうさせる存在をめぐる何かが人間の存在だと思います。経済政策の中で、存在の価値が有用性の価値にどんどん転化してきているということこそが問題です。
(太字はspitzibara)

昨今の科学と新興テクノロジーの進歩による
「身体は取替え可能な部品の集まりで
自分の自由にできる所有物に過ぎない」
とみなす傾向が拍車をかけて
人間存在が身体と切り離されてしまったように思えることも
小松氏のような尊厳感覚を希薄にしているのではないでしょうか。

太字部分はまさに重症児の状態そのものです。
「社会的に役立たず」であるばかりかコストがかかるのですから、
社会的コストパフォーマンスが悪い最たるものが障害児・者であり、
その中でも重症児ということになる。

「無益な治療」法などは、
まさに経済上の社会のニーズから
「無益な治療」が「無益な人間」を作り出していくマジックでしょう。

小松氏は別の箇所で
日本尊厳死協会は自己決定を前提に尊厳死を個人に限定して認めるようでいて
その実、尊厳死を社会的に認めさせていくという離れ業をやっているのだ
と指摘しているのですが、

「無益な治療」にせよ「ロングフル・ライフ」にせよ選別的中絶にせよ“Ashley療法”にせよ、

個別に検討することが大切といいながら、その実、
障害のある命を生きるに値しない命とする価値観
障害児・者の身体には健常者の身体と同じ尊厳を認めなくても良いとする価値観を
じわじわと着実に社会に蔓延させている

こちらは尊厳死協会以上の離れ業をやってのけているわけですね。

             ―――――

荒川氏の発言の中で目を引いた箇所を1点。

リビング・ウイルなしに
家族が本人の意向を推測して伝えるということを認めるかどうかについて、

植物状態の場合は死が差し迫っているわけではないから
それは認めないという立場だと説明した際に、

かつてDPI(障害者インターナショナル)日本会議で討論したときに
私たちは家族も信用していない」といわれたとのエピソードが
紹介されているのです。

障害児・者の医療やケアの問題を考える際に
「親や家族の愛」をキーワードにした情緒的扇情的なものの言い方には充分に警戒していなければ、

本人と親や家族の利害は必ずしも一致しているわけではないという重大な現実が
容易に見失われてしまいます。

私たちは家族も信用していない――。

心して傾聴すべき言葉ではないでしょうか。
2008.03.03 / Top↑
「現代思想」2月号に上記タイトル通りのタイトルで
日本尊厳死協会副理事長の荒川迪生氏(内科医)と
生命倫理学者の小松美彦氏の対談があるのですが、

その中で射水市民病院の尊厳死事件と
中島みち氏の「『尊厳死』に尊厳はあるか」での指摘が取り上げられており、
とても面白かったので。

射水事件当時ろくに事実関係も明らかにならない内から
日本尊厳死協会が当該医師の現場復帰嘆願署名運動を行っていたと
中島氏は著書の中で指摘しているのですが、

ここを突っ込まれた荒川氏が本は読んだといいながら
調査してみないと分からないと答えたのはともかく、

あれだけ詳細に書かれているにもかかわらず、
あの事件について
「脳死判定は確かにずさんだったにせよ、理念的には許されるのではないか」などと
なんとも大雑把な論理で尚も容認しているのには唖然としてしまう。

全体にこの対談でのお二人の議論のすれ違い方が
そのまま「『尊厳死』に尊厳はあるか」の中に描かれていた
中島氏と当該医師との会話のチグハグそのものといった趣。

尊厳死協会の安楽死と尊厳死の定義や
尊厳死の3要件の矛盾を小松氏が突いていくのですが、
荒川氏から出てくるのは漠然とした一般論や
最終的には情に絡めた「だって誰だって自然に死にたいだろう」のみで

現在の医療危機とそれに伴う医療と福祉の切捨ての中で、
自己責任で費用負担して障害や病気を抱えて生きていくか
 それとも自己選択で死を選ぶか
の二者択一を国民に迫ることになるとすれば、
尊厳死協会は権力の先鋒隊または権力そのものではないかと突っ込まれた際には
「尊厳死協会はそれほど影響力のある団体ではないですから」。

いや、それは卑劣な逃げというものでしょう。

中島氏の著書を読んだ時には
脳死を人の死と定める動きの先導役だった人物が
尊厳死協会の現理事長であると知って、
「それは一体どういうことだ??」と仰天したものですが、

この対談で小松氏はさらに衝撃的な事実を明かしていて、
日本安楽死協会の初代理事長であった太田典礼氏は
1948年の優生保護法の制定に寄与した第一人者だと。
確かに小松氏が引用している太田氏の発言からすると
明らかに障害者に対して強い差別意識を持った人物。

リビング・ウイルを考えている人は、
もう一度あちこちの事実関係・背景をよくよく確かめて、
法制化の動きもじっくりと静観した後にした方がいいかも?

          ――――――

そして、またしても
この問題はAshley事件の構図とぴったりと重なる、
生命倫理の議論としてもまさに同質だと痛感したので、
それについては次のエントリーで書こうと思います。



2008.03.02 / Top↑