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Obama政権の医療制度改革には
「死の委員会」による安楽死への誘導の制度化が隠されていると
前アラスカ州知事Palin氏ら共和党からのネガティブキャンペーン
功を奏しているところのようですが、

NY Timesのコラムニストが
モンタナの自殺幇助裁判の結論を前に
自殺幇助の問題とObama大統領の医療改革案への批判をつなげてOp-Edを書いています。

ちょっと、何が言いたいのか、私には読みきれないところもあるのですが、
そうでもしなければ財政的に医療制度そのものが破綻するのだから
配給医療もやむをえないだろう、と当てこすっているように読めるし、

「何が何でも自己決定権と選択の自由! というのが米国人の国民性DNA」だという指摘には
ちょっと笑ってしまったのだけど、

こうした自己決定と選択の自由へのこだわりが自殺させるのは米国の医療なのだから、
配給医療による安楽死の問題はないに等しいといっているようにも読める。

私が読んで理解した範囲では、だいたい以下のような論旨。


Ezekiel Emanuel という人は
著名な腫瘍科専門医で、生命倫理学者で
The Office of Management and Budgetの医療顧問、
またObama政権の主席補佐官Rahm Emanuel氏の兄弟(どっちが兄かは?)。

このDr. Emanuel、
1997年(これはOregon州に尊厳死法が出来た年だと思う)にThe Atlanticという雑誌で
実に見事な医師による自殺幇助批判を展開している。

いわく、
いったん合法化されれば医師らは患者を死なせる注射をすることに徐々に抵抗感を失い
ルーティーンとなる。

いわく、
抵抗感がなくなれば、その選択肢は、ターミナルな患者だけでなく、
社会から見て苦しそうで目的のない人生を送っているように見える人に広げたくなる。

いわく、
そこに財政的な問題が加われば、安楽死はあっという間に例外ではなくルールとなる。

特に2010年にはベビー・ブーマーが定年を迎え始め、
その人口動態が社会保障とメディケア財政を逼迫させる状況という状況があるだけに。


当時のこのようなDr. Emanuelの自殺幇助批判は、さしずめ、今なら、
Obama政権は医療改革で「死の委員会」を設けて高齢者医療を切り捨てようとしていると批判する
Sarah Palin氏をはじめ共和党の面々が言いそうなことで、

医師による自殺幇助には、そうした指摘の通り“すべり坂”の懸念は実際にある。

しかし、皮肉なことに、そのEmanuel医師はつい最近Lancet誌に論文を書き、
豚インフルエンザ・ワクチンや提供臓器など、限られた資源は
高齢者や病人・障害者ではなく健康な若者に優先的に配給すべきだと主張した。

それに、英国のようなコスト削減意識の高い国ならともかく、
米国では“すべり坂”を懸念する必要はない。

米国では逆に「生きている限り一番高価な医療を受ける権利がある」という文化であり、
それは裏返せば、「思い通りの人生でなくなれば、
いっそ薬で死なせてもらう権利がある」という文化でもあるが、

要するに米国人にとって大事なのは完全な自己決定であり、
完全なコントロール、100%の選択の自由なのだ。
それ以外の選択肢など米国人の国民性DNAが受け付けない。

だから、心配しなくても、米国は安楽死による配給医療には向かわない。
安楽死も、どんな保険でもカバーされる「医療介入」の1つくらいにはなるかもしれないけど、
どっちにしたって、その先に起こるのは、医療そのものの財政的な自殺。

A More Perfect Death
By Ross Douthat
The NY Times, September 6, 2009


Emanuel医師のLancet論文はこちら

まともに読んではいませんが、
当ブログで言及してきた DALY と QALY について解説・分析があったので、
障害者関連の箇所一部のみを次のエントリーで。
2009.09.08 / Top↑
米国で、もともと資金難のスクール・ディストリクトにとって、ホームレスの子供たちの増加が頭痛の種に。
http://www.nytimes.com/2009/09/06/education/06homeless.html?_r=1&th&emc=th

ピューリッツァ賞をとった作家Tim Page氏がアスペルガー当事者として自伝を上梓。Parallel Play - Life as an Outsider。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/09/04/AR2009090401753.html

今後数十年間の海面の上昇によってバングラデシュの低地では耕作可能な土地がモンスーンのたびに浸水し、2000万人が脅かされる。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/8240406.stm

人生での成功とか幸福にはIQよりも記憶力とか、計画性、戦略を立てる能力。したがって、ビデオの戦争ゲームは子どもの能力を向上させるのに有効、とStirling 大学のAlloway教授。:あああああああああっ。もうっ。この人、大学で教師なんかするの、やめてほしい。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/scotland/tayside_and_central/8241348.stm

BBCと英国アルツハイマー病協会が共同で実施する巨大脳トレ研究・プロジェクトに、広く一般から参加を募っている。:BBCって、科学とテクノの関連ニュースが大好きみたいだなぁ……とは思っていたし。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8238802.stm

アルツハイマー病に繋がる遺伝子の変異が3つ分かった。ブレイク・スルー。早期検査と治療に繋がる、と。
http://www.guardian.co.uk/science/2009/sep/06/alzheimers-disease-genes-research

都市部の主要金融関連企業で、女性の給与は男性の8割程度と、女性には待遇上の差別があると、英国の平等と人権コミッションの調査。
http://www.guardian.co.uk/money/2009/sep/07/sexism-city-womens-pay

パンツ履いたかどで逮捕起訴されたスーダンの女性ジャーナリストの裁判、始まる。
http://www.nytimes.com/2009/09/07/world/africa/07sudan.html?_r=1&th&emc=th
2009.09.07 / Top↑
おなじみWhat's Sortsブログでの
カナダ、アルベルタ大学のSobsey教授情報で、

コロンビアのCaldasなど一定の地域で
2000年から2005年までの間に

同性愛者、知的障害者、薬物中毒者らの民間人が
準軍事的団体(パラミリタリー)によって殺される事件が相次いで起こるも、
検察当局がそれら事件を“社会浄化”と分類しつつ、
パラミリタリーとの繋がりを暴くことなく捜査を打ち切って、
訴追しないままに放置していたことが、

2つの殺人事件の裁判の過程で明らかに。

公訴局長は
検察の肩入れで犯人が罰せられていない社会浄化事件は全て見直さなければならない、と。

Prosecutors never really investigated social cleansing
The Colombia Reports, August 25, 2009


記事本文の表現には
mentally disabled というものと mentally ill というものとが混在しており、
精神障害者も含まれていた可能性も。

いったい、どれほどの人が殺されたのか……。


また、記事の寄せられたコメントは

「パラミリタリーによる同性愛者、知的障害者と薬物中毒者の社会浄化」って言うけど
犯罪者をみんな片付けてくれるパラミリタリーがいるって、いいことじゃん……と。
2009.09.07 / Top↑
BMJの副編集長の論考に覚えた強い危機感について
未整理だけど、とにかく一応いますぐに書けること、書いておきたいことを。


Ashley事件で、担当医のGunther医師が自殺した時、
“Ashley療法”を擁護していたトランスヒューマニストから
「医師らを激しく批判した障害者らのせいだ」という非難の声が上がりました。
(詳細は「Gunther医師の自殺」の書庫に)

Diekema医師も、その後、意図的に
「子を想う愛情深い親」vs「政治的イデオロギーでそれを邪魔する障害者」の構図を作り出し、
世論に障害者アドボケイトへの反発をあおりました。
それによって世論の誘導にダメ押しを試み、
そして、彼の戦術には効果がありました。
(詳細は「Diekema講演(08年1月)」の書庫に)

同じことが、自殺幇助合法化議論でも繰り返されようとしているのではないか……と思う。

Diekema医師は2007年1月12日のLarry King LiveでJodi Tada氏に向かって
「Ashleyはあなたたちのように障害者運動できるような障害者とは違う」と言い、
「Ashleyは、どうせ赤ん坊と同じで何も分からないのだから」といい、
その「どうせ」と平気で言える感覚そのもので差別意識を暴露した。

Diekema医師のその後の巧妙な障害者たたきで簡単に煽られたのは、
彼の差別意識をもともと共有していた世間の人たちだった。

BMJの副編集長は
「そりゃ、障害者には早く死ねというプレッシャーがかかるだろうよ。
でも、それくらいのことが、なんなんだ?」

「障害者の生きる権利だと? ターミナルな人が死ねる自由の前に、
障害者の生きる権利が侵されるくらいのリスクが、一体なんなんだ?」と書き、

「それくらいのこと」と平気で言える感覚そのもので、
障害者に対する軽視と切り捨て意識を暴露している。

今でもネットで障害者への嫌悪や蔑視を撒き散らしている人たちの感覚を
世界的な権威のある医学雑誌の副編集長が裏書きし、励ましている。

彼の狙い通りに、
障害者への差別意識を裏書してもらった人たちは、
さらに自殺幇助合法化に向けて世論を過熱させるだろう。

同時に、ヘイトクライムを生む社会心理も根深くなる──。
たぶん、障害者の間の分断も大きくなる――。


       ――――――――――


自殺幇助合法化の“すべり坂”は、
必ずしも自殺幇助という問題の範囲内で起こるわけではなく、

出生前遺伝子診断の“すべり坂”も
代理母の“すべり坂”も
成長抑制の“すべり坂”も

そして恐らく、日本で脳死が一律に人の死とされることの“すべり坂”も、

必ずしも、それぞれ当該の技術の対象範囲や関係領域の中だけで起こるわけではないのだろうと思う。

その問題や技術と直接的には繋がりを持たない形で
間接的に、また複合的に、社会の空気や価値観に影響を及ぼし、
当該問題のそれぞれとは無関係な顔つきをした変化として
すでに起こっているのではないのか?

しかし、1つ1つの薬の副作用だけを問題にした実験で安全とされ認可されて
何種類もの薬の複合的な副作用については未知数のまま、
誰もそれを調査・研究する必要すら言わないのと同じように、

生命倫理の議論でも、 “すべり坂”リスクは
問題となっている技術の関係領域内でのみ議論され、
「セーフガードさえあれば大丈夫」と、いとも簡単に否定されていく。

それぞれの議論の根底にある「科学とテクノの簡単解決万歳」文化の論理と
その文化が隠し持っている能力至上の価値観とが間接的、複合的に社会に影響して、

それぞれの議論とは直接結びつかないところで、本当の“すべり坂”は、
既に取り返しの付かない急傾斜となって実現してしまっているという可能性には
誰も目を向ける必要を言わないまま──。


【追記】
本来は前のエントリーに追加すべき内容ですが、
前のエントリーは既に字数制限いっぱいで追記できないので、こちらに。

去年「認知症患者には社会や家族の負担にならないよう死ぬ義務がある」と発言したWarnock上院議員が
その発言を撤回しないまま、

「終末期の患者と障害者とは重複するにしても別概念だから
一緒にしてはならない」と主張するのはおかしい。

認知症患者は認知障害はあっても必ずしもターミナルなわけではないから、
そこを混同して認知障害があるというだけで死ぬ義務を主張しているのは彼女自身。
2009.09.06 / Top↑
BMJって、あの、世界的権威ある医学雑誌のBritish Medical Journal? 本当に……?
何度か、確認してしまった。

だって、あまりにも下品な文章なんだもの。
BMJの副編集長(編集長代理?)が書いた、この考察(observasion)。

On the Contrary
Assisted dying: what’s disability got to do with it?
By Tony Delamonthe, deputy editor, BMJ,
BMJ, August 26, 2009


それほど、先日の上院議会で
海外での自殺幇助に付き添う家族に関する法改正案が否決されたことへの苛立ちと
それを潰した障害者の人権アドボケイトへの憎しみが、

前にも自殺幇助合法化を潰された2006年からの恨みと重なって、
おそらくは、そこに日頃の障害者への差別意識や嫌悪感までが縷々加わり増幅されて、
つい抑えきれずに、文章の端々に噴出している……ということなのでしょうか。

著者が言いたいことは、冒頭の一文に要約されていて

自殺幇助議論は生きようと望む障害者に乗っ取られてしまっている。
議論をもう一度、死にたいと望むターミナルな患者の手に取り戻さなければならない。

それに続く冒頭部分では、
自殺幇助議論においては反対論も自分としては理解しているのだが、
唯一、“障害ロビー団体”から出てくる反対論だけは、どうにも理解できない、と述べます。

なぜ理解できないかというと、
これは「死にたいターミナル患者に選択肢を」という話なのに、
障害者は「生きたい」といって合法化の邪魔をしているから。

先日の改正法案をぶっ潰した投票直前の演説で、Baroness Campbellは
(Baronessは、あるサイトの訳語では“女性男爵”。功績に対して与えられた)

障害者は生きたいのだ、と強調していたではないか。
障害があるからといってQOLの低さに苦しんでいるとか死にたいわけではない、
むしろ社会のそうした偏見に負けずに生きていけるように支援されるべき人たちだと主張し、
自分がいかに生きる力に満ちているのかを、さんざん強調したではないか。

そこが分からないというのだ。
それなのに、なぜPurdy判決にまで“障害ロビー”が出張ってきて
またぞろ批判を繰り広げなければならんのだ?

圧巻は、それに続く以下の部分。

…….Commenting on the case, a spokesperson for Right to Life said that the organization opposed any change in the law because it undermined the rights of vulnerable people.

The right? I understand that changing the law might mean that some people could fee under some obligation to bring about their premature end to avoid being a burden to others – and that severely disabled people might feel this more than most. But should such a risk override the freedom of competent terminally ill people to bring out their own end at a time of their choosing?

……Purdyケースについて、Right to Life の広報官は、法改正は弱者(vulnerable people)の権利を侵すものとなるからRight to Lifeは法のいかなる改正にも反対するとコメントした。

権利だと? 自殺幇助の法律を改正すれば、それによって他者へのお荷物になることを避けるために、まだ死に瀕してもいなくとも死ななければならない義務を感じる人たちが出てくるだろうことは、私だって分かる。重度障害者は他の人に比べて、そういうことを余計に感じるのだろう。しかし、そういうリスクがあるからといって、意思決定能力があるターミナルな患者が自分の選んだときに死ぬ自由よりも、そのリスクの方が重視されなければならないのか?

この後で著者が引用するのは、法改正議論でのWarnock議員の発言。
「ターミナルな患者と障害者というのは、重複の可能性はあるにせよ、別概念であり、
その2つを混同してはならない」とする趣旨の発言ですが、

Warnock議員とは、去年9月に「認知症患者には死ぬ義務がある」と発言して物議をかもした、
あの、哲学・倫理学者です。

文中で著者はそのことに触れてはいませんが、
「私はWarnock女性男爵には永遠に生きてもらいたいものだと思っているが、
本人はもちろん、そんなことは望んでいない」と書く時、
著者がWarnock議員の以前の発言も含めた思想信条を前提にし、
「生きたい障害者」への皮肉を込めているのは明らかでしょう。

さらに、著者は、この部分に続いて
自殺幇助議論はターミナルな患者を苦しみから解放する話から
個人的な選択とコントロールの問題へとシフトしている」との
Baroness Finlayの批判を挙げて、

なるほど、だから、
将来、ラグビー事故で四肢麻痺になった23歳に自殺幇助が行われることになってはいけないから
精神的に健全なターミナルな患者の自殺幇助にも
賛成するのはやめておきましょう、というわけか。
A cheap shot.(ばかばかしい)
と書き、それに続けて、

世論調査でも79%は賛成している。
この前のTimesの世論調査でも4分の3が賛成している。
英国看護学会も中立に立場を変更した。
BMJも、そろそろ慎重な文言で匿名投票をするべきだ……と結論します。

         =======

もう、ほんっとぉぉぉに、びっくりした──。

話を「ターミナルな状態で、かつ耐え難い苦痛がある人」にきっちりと限らず、
なにもかも未整理のまま、ぐずぐずの議論に持ち込んで、
何でもありで「いつ、どんな死に方をするかは自己決定」と
「死の自己決定権」の話に持ち込んで世論をたぶらかしているのは
自殺幇助合法化ロビーの方でしょう。

Warnock議員の言う「この2つは別概念。一緒にするな」というのは
合法化反対の立場からこそ、整理する必要があると、
拙ブログも何度も指摘してきたところ。

介護者の負担となるから、社会のコストがかかるからと障害者にプレッシャーがかかるのは、
議論がグズグズになってしまっているからこそで、
そんなグズグズ議論が出てくることこそが“すべり坂”の証。

その意味で Baroness Finlayの指摘はまったく正しいし、
著者がその正しい指摘に対して「ばかばかしい。世論は賛成しているじゃないか」と返すのは
論点を摩り替えているだけで、全然反論になっていない。

もともと、
「生きたいなら障害者はこの問題には無関係」と議論から排除しつつ、
その一方で、法改正によって障害者に死ぬ義務が課せられるリスクを認める
彼の主張は、互いに矛盾していて、論理的に両立していません。

法改正によって影響を受けるのなら無関係ではありえないのだから
実は著者は影響を認めたうえで「それくらいの影響がなんだ?」と切って捨てている。

自殺幇助合法化に反対する障害当事者のブログ記事があると、必ず入ってくる批判コメントに
「誰もお前らに死ねとは言ってないだろ」というトーンのものがあります。

でも、BMJの副編は
「誰もお前らに死ねとは言ってないだろ」と言っているわけではない。

「お前らに死ねと言うことになるのかもしれないが
そんなの大したことじゃないんだから、障害者はすっこんでいろ」と言っているのです。


私はAshley事件以来ずっと“びっくり仰天”の連続なのだけど、
医学雑誌に掲載される論文って、こんなに論理性が欠落していていいものなの……?

論文というものは、もうちょっとガッチリとした理論構築がされているものだとばかり
私は思っていたのだけど、

2006年のGunther&Diekema論文を始めとして
擁護派の論文は軒並み、論理がてんでガタガタの代物ばかりだし、
(例えば各論はほとんど反対または懸念なのに、結論だけは突然、賛成だとか)

このBMJの副編が書いた考察だって、
どこにも説得力のある論理の筋なんて通っていない、ただの2チャンネル的感情論に過ぎない。


         ―――――――

ちなみに、
Campbellさんの「障害者は生きたいのだ」というスピーチは
上院での投票の直前に行われ、非常に衝撃的な内容を含み、かつ説得力にあふれて
否決の大きな原動力になったと言われています。

拙ブログでも、いずれまとめたいと思いつつ、まだ果たせていませんが
英文の報道記事はこちらこちらなどに。

なお、Campbellさんのスピーチに対して、
3月にBBCブログで合法化を支持したTom Shakespeareから
勝手に決めるな、死にたい障害者だっている
自己決定権を認められてこなかった障害者にこそ、死の自己決定権を」との反論が出て、

さらにそれに対して米国のNot Dead Yetが批判するという論争がありました。
2009.09.06 / Top↑
ホロコーストを生き延びた人たち約5万人がイスラエルで貧困ライン以下の生活を強いられている。その1人がホームレスとなり、路上死した。痛ましすぎる。
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/middle_east/article6821008.ece?&EMC-Bltn=HEQBCB

英国に、「正真正銘のコーカサス人種」を党員の条件にした政党があったというのは知らなかった。British National Party (BNP)。それが今回、人種差別として法的措置を取られて、白人しか入れないという規約を放棄する、と。:唖然。世の中には知らないことが本当に沢山ある。この記事にくっついている党首の写真がまた、いかにも、それらしく撮れていること。
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/politics/article6820847.ece?&EMC-Bltn=HEQBCB

これ、4月に読んで衝撃を受けた事件だった。英国で10歳と12歳の男児が保護され、養親に託された直後に、近所の9歳と11歳の男児にすさまじい虐待を行ったというもの。その裁判のニュース。脅して、とがった杭を自分で腕に突き刺ささせたり、その傷に火の付いたタバコを押し付けさせたり、さらに杭をのどに突っ込ませたり。耳やまぶたも焼いたとか。性的虐待も。行為の残虐さが際立っていた事件。
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/crime/article6821037.ece?&EMC-Bltn=HEQBCB

Washington D.C.の貧困地区からの救急・消防通報(日本の119に当たるもの)は、その8割が病気の緊急通報で、パラメディックスが貧困層の医療を担っているかのような現状。
http://www.nytimes.com/2009/09/04/us/04firehouse.html?_r=1&th&emc=th
2009.09.04 / Top↑
先日、某所で某学問の議論を聞いた際に
その議論の中で、「ぐわぇぇっ???」と仰天して思わず身を乗り出した箇所があった。

その学問でもグローバリゼーションが進んでいて、
英語圏の研究が圧倒的な影響力を持っている、

日本では、特にその影響が著しいが
無反省に英語圏の研究動向に引きずられているのはどうか、

むしろ英語圏の研究には強烈なバイアスがあることを
意識しておいた方がよいのではないか、

……と、その領域の研究動向に英語圏のイデオロギーが
非常に強く反映されていることに批判的な指摘があったこと。

私はものを知らないから、このブログをやりながら、
てっきり生命倫理とか医療倫理の分野だけで起きていることなんだと勝手に思い込んでいた。

改めてちゃんと考えてみれば、そんなはずもないのだけど。


その学問での英語圏イデオロギーのバイアスがどういうものかというと、

人間は変化する存在であると捉える概念や可能性を否定し、
すべてが、もともと存在している能力の有無の問題にされてしまう。

学者の先生方は誰もあからさまには言わなかったけど、
そこで「英語圏のイデオロギー」と呼ばれているものは、
ぶっちゃけていえば、脳科学の専横のことだと私は思った。

たぶん、もうちょっと広げると、
「脳と遺伝子だけで人間のことは全て解明できる」と考えるような、
当ブログが「科学とテクノ万歳」文化と呼ばわってきたもののことではないか、と。

そこでは、全体を見ること、部分と部分の関係を見ることが否定されている。
それでは、現実に生きている人間は見えない。
全体を見ることや部分と部分の関係を見る研究の視点を
もっと再評価しなければならん、というお話だった。

それに対しては最後の最後に、
主流派と思われる、私でも本屋で名前をしょっちゅうお見かけするような
偉い先生からチクリと反撃があって、でも、会場全体がほっと安堵したことには、
その辺りで時間切れになった……という感じ。

一見穏やかな口調で、でも、どこかに「思い切って言っちゃうぞ」感の漂った、
あのシンポ、結構、会場が緊張感で張り詰めていた気がする。
実は私には見えないところで、すさまじい火花が散っていたのかもしれない。

私は学者ではないから、そのあたりのことは全く不案内だけど、
日本の生命倫理の分野でも、主流派の偉い先生方はやっぱり
英語圏の“科学とテクノの御用学問”イデオロギー・シンパなんだろうなぁ……。

           ―――――

ちょっと飛躍してしまうようなのだけど、
私は正直なところ、障害学の人たちがなんで、あんなにアジア、アジアというのかが
ずっと、イマイチ理解できずにいた。

英米の即物的な身体とか生命の捉え方に対して、

そんなのに盲従することなく、
日本の伝統的ないのちの捉え方、自然や身体、欲望との向き合い方といったものを
提示していくことの可能性だって、あるんじゃないのか……というところまでは、
このブログでも拙いながら考えてはいたのだけど、
(例えば、こことかで)

なぜアジアなのかというところまでは、理解できなかった。

別領域の学問の、この日の議論で、
英語圏のイデオロギーのアンチテーゼとしてヨーロッパの研究を云々……というのを聞いた時に

ちょっとだけ、分かった気がした。

私は、どっちの学問も、適当に何冊かの本を読みかじっただけで何も知らないし、
あそこで個々の学者の先生が言っておられたことを完全に理解していたとも思えないから、

ちょっとだけ、

分かった気がしただけ、だけど。
2009.09.04 / Top↑
英国NHSに関する漏洩文書に、コスト削減目標に達するために職員の1割、13万7000人をリストラする計画が。
http://timesonline-emails.co.uk/go.asp?/bTNL001/mAEMGBB/qANM7BB/uM9ZZ6/x309HBB

で、その問題で野党から突き上げられた政府は、「いや、そのコンサル案は却下したんだ」と。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8234841.stm

          ――――――


グアンタナモとかアブグレイブなどのテロリスト虐待事件で、CIAに雇われた医師や心理学者が、新しい拷問テクニックを試すための違法な人体実験を行っていた疑い。
http://www.guardian.co.uk/world/2009/sep/02/cia-usa
2009.09.03 / Top↑
モンタナ州の最高裁の審問が始まったみたいで

地元のテレビ局がサイトで「これから2時間、刻々と展開をお知らせします」と
記事を書いている。



ちゃんとサイトに行って検索すれば間も見つかるのかもしれないけど、
今日のところは、ま、いいか……。

ここ2日くらいのメディアの騒ぎ方だと、今日にも結論が出るみたいだったけど、
今日は双方の弁論と、判事の質問で終わったようです。

州の弁護士の弁論での主張は、

自殺幇助が憲法で保障された権利ということになると
ターミナルな病気の人に留まらなくなる。

また、たとえば直接その患者を知らない医師が
治療可能な患者に毒物を渡すことも起こりうる。

判事からの質問は、

意思決定能力のある人が銃を買いにいって、
「これは自殺に使うんだ」と言った場合に(売ったら)殺人になるか?

州の弁護士は
それは殺人です。

また、Baxter側の弁護士への判事の質問は

州の憲法の理念が生きる権利を守ることにあるとしたら
そのバランスはどのようにとられるのか?

Baxter側の弁護士は

医師が苦痛軽減のための薬物投与を認められているなら
さらに死ぬための薬物を投与していけない理由はない。

患者が死にかけているのであれば、
(毒物を投与する行為は)命を奪うことにはならない。


――うげっ。

どうせ死にかけているだから、殺したっていいじゃん。
どうせ薬で朦朧とさせるんだから、ついでに殺したっていいじゃん。

こんな程度の弁論で
Baxter側の主張が認められるとしたら、ちょっと……。



【9月4日追記】
ふっと思ったのだけど、

「どうせ死に掛けている人なら、医療的に死なせても命を奪うことにはならない」という論理って
いわゆる”慢性的な臓器不足”を解消したい人たちにとっては、たまらなく魅力的なのでは?

ターミナルな病状の人本人さえ了承していれば、
生きた人から臓器を提供してもらって、その結果死ぬとしても、命を奪うことにはならないのだから。

実は、この理屈、あの Norman Fostらの
「死亡者提供ルールを廃止せよ」との主張そのものです。

去年、WA州での住民投票の際、合法化ロビーには州外からも法外な資金が流入していました。
C&Cは米国以外でも組織され、活発に活動しています。資金が潤沢な証拠でしょう。

そのことの意味は、もちろん、ないわけでは、ない……?
2009.09.03 / Top↑
昨日のエントリーで、
自分で意思表示・決定できにくい患者の医療における決定がどうなっているのか、
疑問と懸念をあれこれ書いた。

夕方、ちょうど届いたばかりの「介護保険情報」9月号をめくっていたら、

認知症なんでもサイト」の運営者で
認知症の人と家族の会顧問、京都保健会盛林診療所前所長の、
三宅貴夫先生の連載「認知症の人と家族を考える」(事例編)で、
まさに、認知症の患者さんの医療をめぐる同じ問題がずばりと指摘されていて、
ちょっと小躍りする気分だった。

こういう時って、こういう「必然のような偶然」が起こるものなのよね。うふふ。

それに、こうして明確なルール作りの必要を感じ、訴えてくださる医師もあるということが
なにより、嬉しかった。

三宅氏は認知症の人の場合について
同意を得る方法論や同意が得られない場合の対応は未解決の課題だとし、

こうした課題が未解決のまま、医療や介護のサービスが提供されたり、されなかったりしています。実態としては、本人に代わり家族との同意や契約で行われています。

しかし、本人に代わる家族の同意が法的に有効とされる根拠があるわけではありません。
(P.50)

さらに状況によっては、家族の同意が必ずしも本人の利益を代弁するとは限らないことを指摘。

また、家族がいない場合は、成年後見人には介入が認められていないので、

このため、家族がいない場合は、ケアマネージャーなど本人をもっとも代弁すると考えられる人の意思をもって、医療や介護の利用の根拠としています。しかし、この方法は適切であるかもしれませんが、法的な裏づけをもたず脆いものと思われます。
(P.50)

三宅氏は成年後見人の権限を広げることを提言しています。

私も、医療や介護の必要な場面における職種間の力関係を考えると、
やはり、医師や病院の権威に対して、きちんと本人利益が代弁できるためには
その人に代弁者としての法的な根拠が与えられていることと、
代理の意思決定の手順のスタンダードがきちんと確立され共有されていることが
必要なんじゃないかと思う。

もちろん、その手順において、ケアマネージャーの視点や意見は
とても重要だし尊重されて然りだとは思うけど、
本人利益の代弁者の役割までケアマネジャーに担えというのは過酷な気もする。

法的に位置づけられた本人の代弁者がいて、
身内やケアマネやボランティアなど周辺で本人の生活を支援している関係者も含めて、
プロセスを重視した意思決定の手順というのがあるのがいいと思う。

それが口で言うほど簡単でないのも分かってはいるけど。

一身専属といっても、
本人が決めることが出来ないのを分かっていて、
「本人にしか決められないこと」で終わってもらったのでは、
その肝心の本人が守られない。

この問題は、日本ではほとんど触れられることがないので、
もう一度しつこく繰り返して、英国で報告された実態を文末にリンクしておきますが、

このように、自分で意思を表明・決定することができにくい人に対しては、
そうでない人になら無条件に行われるはずの、ごく基本的な医療が
「どうせ」との軽視・蔑視によって、行われていないケースが少なくないはず。

三宅氏も、この記事の最後に、
認知症の人の終末期に関して、

この際、誰が終末期と判定し、認知症の人本人の意思が確認できなくなった時に誰が変わって終末期の医療を決めるのか、という課題があります。

……中略……

この場合、「終末期もどき」とも呼ばれる「作られた終末期」ではないか、注意しなければなりません。さらに認知症の人の終末期は、「どうせ認知症だから」と偏見・差別から医療を放棄することがあるかもしれません。
(p.51)

認知症のことをロクに知らない専門外の医師が単独で
「この人は終末期」と判定するのでは
「終末期もどき」が起こりやすいだろうし、

だからこそ、厚労省も医師に認知症の知識と理解を徹底する努力をしたり
認知症の人をめぐって地域で多職種が協働するシステム作りも急いでもいるのだろうけど

認知症患者が癌になった場合の判断という問題もあるように


この問題は本質的には認知症の人たちだけの問題ではなくて、
広く、障害のために自分で意志を表明・決定することが難しい人たち全ての問題だと思う。

認知症の人も含めて知的・認知障害のある患者の医療では
病気の治療に当たる医師と、当該障害について詳しい専門医との連携体制ができることと

1つの病院の中でそれが出来るだけでなく、
特に、病院や施設間で患者の移動がある時には、
「こっちが引き受けた以上そっちは口を出すな」みたいなプライドや縄張りではなく、
「患者のためにどうするのがいいか」をめぐっての施設間の連携体制ができること。

そして、医療に関する決定について
医療サイドでも家族サイドでもない、
本当に当人だけの利益を代弁する人の存在を確保すること、
その人の発言力が担保されるだけの裏づけと手順のスタンダードが出来ていること。

(病院内倫理委の「患者の最善の利益」議論で決められることの危うさを
提示しているのがAshley事件でしょう)

治療の差し控えだの中止だの、終末期医療だの尊厳死だの、という議論が
こんなに声高に議論されるなら、

それ以前に、こうしたセーフガードが必要だとも
もっと主張されて然りだと思うのに、

そういう声は、低く、少ない──。

三宅先生、本当にありがとうございます。


2009.09.03 / Top↑
今日のニュースはモンタナだらけ。明日、審問(っていうのでいいのかな)。今からこの件に関して何か新しいことが来てても、もう今夜は読まない。読むとしたら明日……と自分に言い聞かせる。
http://edition.cnn.com/2009/US/09/01/montana.right.to.die/

英国で、最も着床率が高い卵子を選ぶ検査による初めての赤ちゃんが誕生。不妊の人に希望。Oliverくん。the best egg というのを見た時には、別のことが頭に浮かんだけど。
http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/health/article6817618.ece?&EMC-Bltn=HGJEBB

オーストラリアで一番酷い給料もらっているのは年齢の行った介護職なんだと。その95%が女性。:女性差別と介護者差別は一体。プロフェッショナルでも家族介護でも。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/162462.php

WHOが「20年のうちに、世界で一番患者の多い病気はうつ病になる」と。しかも「うつ病が経済的にも社会的にも最もコストのかかる病気になるだろう」とも。:もしかして、次に切り捨て対象になるのは、うつ病患者という予告? WHOって、ゲイツ財団と大の仲良しなんだよ。確か前の事務局長だったかがIHMEの理事に入っていたんじゃなかったっけ。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8230549.stm
2009.09.02 / Top↑
昨日、重症障害ある娘に健康保険証兼ドナーカードって……?のエントリーで
成年後見人には権限がないらしいという話を曖昧な伝聞として書いたのですが、
この点について確認しました。

やはり、
臓器提供は一身専属事項に当たるので
成年後見人には権限がありませんでした。

こちらのサイトから成年後見人について書かれた部分を以下に。

精神上の障害により常態として判断能力を欠く者を対象とし、成年後見人は広範囲な代理権と取消権を有します。しかし、日常生活に関する行為に関しては取消ができないことや遺言・婚姻などの身分行為、治療行為などの事実行為に関する同意といった一身専属的な事項については同意・取消はできません。

一身専属的事項というのは
要するに、その人にしか決めることが出来ない事柄。

娘の臓器提供に関する成年後見人である父親の権限のなさについては
これで氷解・納得したのですが、今度は別の疑問がワラワラと沸いてきた。

①じゃぁ、自分で意思決定できにくい人の臓器移植については誰がどう決めるの?
新法でも、ちゃんとしたセーフガードを設けてくれなければ困るのだけど?

②臓器提供が法的に一身専属事項だというなら、
それは知的障害者等だけのことではなのだから、
A案だって、そもそも法的に、ありえなかったはずじゃないんだろうか――?

③ これを当てはめて考えると、いま欧米で主張されている「死の自己決定権」は
 「いつ、どのように死ぬかは一身専属事項である」という主張だということになる?

 (そういえば、前にアベコベ」のエントリーで「それは逆でしょう」と書いたことがある)

④でも、それなら逆に、Ashley事件ほかで散々聞いた
「子どもの医療に関する親の決定権はプライバシー権の範囲」という主張は
成立しないはずだということにならない?

⑤ある意味、「一身専属事項」とは「日本版プライバシー権」と理解してもいいのか?
 そう単純に考えていはいけないのか? 

⑥ 障害のために自分で決めることができない人の医療に関する意思決定の問題は
 臓器移植以外にもいっぱいあって、むしろそちらの方が切実な問題のはず。

 成年後見人が何の権限も持たないとしたら、そういう人の医療の意思決定には
日本では、どういう理念とか手順とかセーフガードが合意されているのか?

まさか、未だにパターナリズム一辺倒ということはないと思うのだけど、
今は、どういうふうに決められているのだろう?

なんとなく、家族の同意──?

でも、成年後見人は同意も取り消しも出来ない(なんで拒否がここにないのだろう?)けど、
家族なら決めてもいいことになるというのも、筋が通っているようで
よく考えたら、ちっとも通っていないこと、ない──?

そして、目下、一番気にかかっているのは
親も身寄りもない知的障害者の医療決定は──?

よもや、ルールなんてなくて、ルールの必要性すら言われていない……なんてことは?

なにしろ、知的障害児・者への医療は
本人が症状を訴えるすべを持たなかったり、医療サイドに強い偏見があったりして、

親がしっかり側に付いて必死の思いで本人のために闘ったとしても、
おざなりにされる傾向があるのだから、
(私の個人的体験も含め、詳細は、以下のリンクに)

親亡き後の彼らの医療決定については
たまたま偏見に満ちた医師だったから無用に苦しまされたとか、
死ななくてもいい病気で死んでしまったということがないように、

ちゃんと信頼できるガイドラインがほしい。



【追記 9月3日】

これを書いた直後に、認知症の専門医が同じ問題を取り上げておられる雑誌記事を見つけたので、
追加エントリーを書きました。


2009.09.02 / Top↑
先日、某所で、
メンタルヘルス総合研究所の代表、久保田浩也氏のお話を聞く機会があった。

久保田氏の論旨は

年間の自殺者が3万人を超えているのが問題だといわれ続けて11年間、
自殺者がちっとも減らないのは、対処する方法が間違っているからだ。

こういう話をすると、すぐに科学的なエビデンスがない話をするなと批判されるが
ではSSRIなど科学的に開発されたはずの薬が問題を起こしているのは、どういうことか。

ストレスがいけないと言われるが、
それでは人類の歴史にストレスがなかった時代などあっただろうか。

いけないのはストレスそのものではなく、
ストレスを受け止める力が低下していることなのであり、

必要なのは、知育・体育だけでなく、心を育てる心育である……と説き、
氏の考案による「心の体操」なるものを推奨する。

(「心の体操」の具体については企業秘密みたいで無料では明かせないようだった)

その中の、SSRIが問題を起こしているという文脈で

ルボックスという薬があります。

ソルベイ社というところが売り出したものですが、
例のコロンバイン高校での銃乱射事件の際に
犯人の1人が服用していたことが問題視されて、
米国では2002年に販売中止になりました。

そういう薬です。

そのルボックスが今、日本で公然と売られているんですよ。

どういうことですか、これは?

まったく、それは、どういうことか……と思ったので、
家に帰ってからWikipedia のLuvoxの項目を読んでみた。

Wikipediaの説明によると、
確かに久保田氏の話の通りのいきさつで米国の市場から引き上げられている。

ただ、FDAが販売中止を命じたということではなく
2002年にソルベイ社が自発的に市場から引き上げた。

しかも、その理由は
FDAの認可以前の臨床実験フェーズ3段階で
被験者が起こした殺人事件が少なくとも1件あることがバレて
さらなる調査が入るのを恐れたため。

2005年に日本で初の対人不安障害の治療薬として認可されたとも書かれており、

確かにこの段階では
米国で副作用懸念から売られていなかったルボックスが日本で認可されたことになります。

その後2007年にソルベイ社が再び米国でルボックスを売り出し、
その後、2008年には組成を変えたルボックスCRがFDAに認可されていますが、

どうも、この解説からは、
売られているのは米国と日本だけの様子。

これは、まったく、どういうことか──?

ちなみに、日本の医薬品監視機関・薬害オンブズパーソンのサイトに
ルボックス等SSRIに対するソルベイ等回答というページがありました。

なお、厚労省は今年6月にSSRIの副作用の危険性を認め、
こちらのような安全情報を通知しています。

   ―――――――――――――――――

もう1つ、
例えばこちらのエントリーなど
当ブログでも何度か疑問に思ったことが確認されたので、そちらの話も。

南江堂から出ている「ドクターズルール425」という翻訳書の中で
以下のように書かれている、とのこと。

4種類以上の薬を飲んでいる患者についての比較対象試験はこれまで行われたことはなく、3種類の薬を飲んでいる患者についての試験もほんのわずかしか行われていない。4種類以上の薬を飲んでいる患者は医学の知識を超えた領域にいるのである。

ほらね。

何でもかんでも薬で解決、
病気予防にまで、あれもこれも薬を追加して、みんなに飲ませましょうという
英米の研究者は、ものすごく無責任なことをやっているわけですね。

英米・オーストラリアでは
これさえ飲んでいれば肥満は解消……とヤセ薬までが解禁されて、
何万人という人が飲んだ後になってl副作用が報告されてきたばかり。

あ、そうそう久保田氏はもう1つ指摘しておられました。


この「ドクターズルール」を翻訳した福井先生というのは聖路加病院の院長で、
他にもあれこれ医学会で重要なポストを占めている(具体的なポスト名はメモ漏れ)のだから
自分が訳したのなら、これを日本の医学会に徹底することだって
やろうと思えばできそうなものなのに、

日本の精神科医が患者に5種類も6種類も薬を飲ませる実態は放置されている。

これは、みなさん、いったい、どういうことですか──?


それどころか、世界中の研究者らが、
ありとあらゆる病気の予防薬を研究開発しては、
「この薬、みんなに飲ませよう」リストをせっせと追加し続けている。

4種類以上の薬を飲んでいる患者の比較対象研究を行う必要は言わないまま――。
2009.09.02 / Top↑
英国で臓器移植めぐり、むちゃくちゃな動きが出てきている。「NHSの慢性的な臓器不足を解消するため」GPに対して、患者に臓器提供の意思を確認せよ、という方針が出されそうな気配で、医師らが「そんな話をそう簡単に無神経に持ち出せるか」と反発。しかし、General Medical Councilは「そんな悠長なことを言っていられるか。臓器不足を解消して移植手術を増やすことの方が重大じゃわい」と。:もしかして、臓器移植の件数とか成功率とかで、この領域の国際競争が特に最近、激化している、ということでもあるのでは? それにしても、慢性的な…って、臓器目的で殺さない限り不足するに決まってるだろ、んなもん、最初から。
http://www.guardian.co.uk/society/2009/aug/31/organ-donation-nhs

Hilary Listerさん、37歳。英国を単身ヨットで一周した初の四肢麻痺の女性に。:快挙。どこだ、四肢麻痺の人に栄養と水分を拒否して死ぬ権利を認めた国は? 
http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/more_sport/sailing/article6816329.ece?&EMC-Bltn=DCNCBB

そういえば、昨日、Not Dead Yetのブログを覗いたら、そのオーストラリアの四肢麻痺の男性Rossiterケースの議論で、どこかに「誰からも、その男性に生きる希望を持たせてあげられなかったことを残念だと感じる声が出てこないのが、信じられない」というコメントがあって、胸に痛かった。このエントリーのタイトルは「Rossiter、オーストラリア社会が彼に認めた唯一の権利を勝ち取る」。生きるための諸々の権利を先に──。
http://notdeadyetnewscommentary.blogspot.com/2009/08/australia-christian-rossiter-wins-only.html

こちらは時間があったら、まとめたいのだけど、Peter SingerがNY Timesに書いていた「QOL指標に配給医療を」という論説を、NDYブログが痛切に批判。そこに世界中の障害者コミュニティから多数の団体や個人が名前を連ねている。これを見ると、ちょっと元気になる。
http://notdeadyetnewscommentary.blogspot.com/2009/08/peter-singer-in-ny-times-magazine.html

児童買春ツーリズム摘発キャンペーンで、カンボジアで児童買春を行った米国人3人、連邦政府の裁判所で初の起訴へ。:昨日、エントリーに「闇の子供たち」サイトにリンクを張る時に、カンボジアの子供たちへの援助活動をしている、かものはしプロジェクトのサイトを見つけて、カンボジアの児童買春の実態について読んだところだった。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/08/31/AR2009083102291.html

州独自の医療制度改革をがんばっていたマサチューセッツ州が、グリーンカードとって5年未満の移民には歯科医療とホスピスを認めないことに。
http://www.nytimes.com/2009/09/01/health/policy/01mass.html?th&emc=th
2009.09.01 / Top↑
去年Montana州では
76歳の白血病の男性Robert Baxter氏が
医師が自分の自殺幇助を拒否したことは
州憲法で保障された権利を侵すものであると訴えて

12月に州の上級裁判所は
その訴えを認める判断を下したものの、
Baxter氏本人は、その当日に死亡。

州当局が上訴していました。

明日2日水曜日に
その最高裁の判断が出るらしいのですが、

NY Timesの以下の記事によると、
Montana州の州憲法はかなり個性的なもののようです。

プライバシー権運動の真っ盛りの1972年に書かれ、
個人の自己決定権(autonomy)と尊厳を非常に重視し、
政府の干渉を嫌っている、と。

The dignity of the human being is inviolable. と書かれているというのですが、

記事の文脈からすると、
この inviolable とは、当局の介入に対して「侵すな」というニュアンスのようでもあり。

州当局側は、州憲法は人の命を絶つ幇助の権利など認めていない、と主張していますが、

Montanaの裁判所の判断には、
このような憲法の背景を受けて個人のプライバシー権と自由を
他の問題よりも優先させる伝統があるらしく、

医師による自殺幇助も州憲法で認められたプライバシー権として
水曜日に最終的に認められることがもはや、ほぼ確実であるかのように
この記事は書いています。

そうすると、OregonとWashingtonとは、また違った位置づけで、
米国で初めてプライバシー権として自殺幇助が認められてしまうことになります。

しかし、その一方で、
Montana州は人口比での自殺者が最多の州であり、
その背景には過疎のため基本的な医療すら受けにくい土地柄がある。

また医療を受けられず自殺率が高いアメリカ・インディアンという
マイノリティの問題もあり、果たして、それがフェアな判決なのかどうか、

まずは誰もが平等に医療を受けられるようにすることの方が先だという議論もあるし、
プライバシー権の文脈のみでなく、
もっと生命倫理や哲学・道徳の議論も必要だという声も。



Ashley事件で擁護する人たちが当初もっぱら主張していたのも、
子どもの医療についての判断は親のプライバシー権だ、ということだった。

体罰を法律で禁止することへの反発
どうやら、子どもの体罰は親のプライバシー権だという発想のようだし。

乱射事件の犠牲者が何度出ても銃規制が進まないことや
医療の国民皆保険が実現しにくいことなどの背景にも、
個人の自由に国家権力が介入することへの警戒感なのだと考えると、
共通した文化的な土壌なのかもしれません。

しかし、ここで自殺幇助を受けることがプライバシー権だと認められてしまったら、
自殺幇助合法化に向けた議論が進む他の州や国への影響は多大……。

(Oregon州とWashington州では「尊厳死法」という新たな法律を作って対応しています)

懸念されます。


ちなみに、以下の関連エントリーにあるように、
MT州の医師会は、会員に対して自殺幇助を認めない方針を出しています。

2009.09.01 / Top↑
健康保険証カードが更新になったといって、
夫が新しくなった青色のカードを持って帰った。

家族3人分。

ウラ面ひっくり返して、びっくり。
なんとドナーカードになっている。

真っ先に感じたのは「無理やり選択を迫られている」感。

先の参議院の参考人意見陳述で
森岡正博氏が上げておられた「迷うことができるという自由」という言葉を思い出す。

意思表示そのものにコミットしたくない、という選択だってあるのに。

もちろん、書かずに放っておくという手はあるのかもしれないけど
今回の法改正議論でかなり警戒感が強くなっているから
私たち夫婦はそれぞれ「提供しません」にチェックし
個人情報保護シールを貼った。

これだって、こんな形で選択を迫られなかったら、
「しません!」とわざわざコミットすることなく、
曖昧なところに距離を置いて居座り続けたかもしれないのだけど、
こんな形で迫ってくることへの抗議を形にしたくなる、というか。

このシールは一度はがしたら、二度と貼れないと書いてある。

緊急搬送された患者の提供意思の有無が
救命治療に影響しないよう、ズルして覗き込めないように?

じゃぁ、もし万一、「やっぱり提供しようかな」と気持ちが変わった時には
新しい保険証カードを発行してもらって裏を書き直し、
改めてシールで隠す段取りになるんだろうか。

でも、逆に、いったん「提供します」にチェックして封印した人が
その後「提供しません」に気持ちを変えて、
煩雑な手続きをとるのを先延ばししている間に
思いがけなく脳死になってしまうことだって、ないわけじゃないだろうに。

ここでもやっぱり
「迷うことの自由」をこのドナーカードは侵していないか? と考える。

でも、そんなことをあれこれ考えつつ、
実は困惑のうちに、ずっと横目で睨んでいたのが娘のぶん。

重症重複障害のある娘は既に成人していますが、
自分の意思を自分で表明することができません。

この場合は、意思以前に、臓器を云々と説明しても、その内容が理解できません。
(これは彼女が一切何も理解できないということを意味するわけではありません)

誰かに「臓器を提供しますか」と質問されたら
気分によっては「ハ!」と答えてしまいかねません。
(これは彼女が日常的にYES-NOの問いにまったく答えられないことを意味するわけではありません)

親としては、
こんなに重い障害を持ち、
生れ落ちた瞬間から医療によって散々痛い目に合わされてきた、この子に、
これ以上の侵襲は受けさせたくない。

Ashley事件の時に、
やはり重症障害のある息子を持つカナダAlberta大のSobsey教授が
「金額が同じであっても、貧しい人から盗めば、
それは全財産を盗むことになるのだ」という言葉で
障害によって既に多くを奪われている子どもから
これ以上、人為的に奪っていくのはやめてくれ、と痛切な批判をしていましたが、

私たちにとって娘の臓器提供は、それと同じ痛みの感覚が強すぎて論外です。

そんな親の思いだけで考えれば、
いっそ親が、ちょん、と娘のカードの「提供しません」に代筆して
封印してしまおうかと、まず思った。

でも、Ashley事件以来、医療における親の決定権の危うさや
特に重症児にとって親は必ずしも最善の代弁者ではないことを
ずっと考えてきたのだから、それをするのは、やはり抵抗がある。

それに、この場合、親の代筆が果たして法的に有効なのかどうかも分からない。

(何人かが指摘しているのを読んだけど、このとき、
ドナーカードの筆跡鑑定の問題が本当にリアルな問題として感じられた)

父親が成年後見人になってはいるけど、
日本の成年後見人には医療における代理決定権は認められていないという話を
ずいぶん前に専門家の先生から聞いたような記憶もある。

小児の終末期医療の意思決定ガイドラインだと、
最終的には親の決断だとしても、「決定権」という確固としたものというよりも
もう少し日本らしく、

医療職と親とその他関係者のコンセンサスに向かうプロセス重視の感じがあるのだけど、
そのプロセスの中に、臓器提供の意思決定はどう織り込まれていく、またはいかないのだろうか。

親が生きていれば、その間は、まぁ、いい。
ドナーカードを白紙のままにしておいたって、
万が一の時には「ご家族のご意思」は明確にNOだと声を大にしてやれる。

でも親だって、その身にはいつ何があるか分からない。
親亡き後に、娘のドナーカードが白紙のまま、
万が一、この子が脳死状態になったとしたら、
いったい、それは、どういうことになるんだろう?

ちなみに現行法のガイドラインでは以下のようになっていました。

知的障害者等の意思表示については、一律にその意思表示を有効と取り扱わない運用は適当ではないが、これらの者の意思表示の取扱いについては、今後さらに検討すべきものであることから、主治医等が家族等に対して病状や治療方針の説明を行う中で、患者が知的障害者等であることが判明した場合においては、当面、法に基づく脳死判定は見合わせること。

今回の法改正で、この点がどうなるのか……。

自分で意思表示できない人から臓器を取ってはいけないことにするべきだと、
障害当事者は声を上げています。

それも、こんな形でドナーカードを持たせるのであれば、
知的障害者等であることのチェック項目を入れておいてくれなければ、と思う。

現行法の精神そのものと今後はまるで逆方向に向かうであろうことが
今回の改正議論でありありと感じられただけに
親としてもガードを上げ、固めざるを得ない。

何でもかんでも一緒くたにするなと言われればそうかもしれないのだけれど、
このブログで英語圏の医療における障害児・者への手ひどい扱いを見ていると、
日本の移植医療だけが、それらとかけ離れた感覚を貫き通すとも思えない。

娘が住む場所として世の中はどんどん信頼するに足りない、
警戒しなければならないものになっていくように感じられて、

どう扱っていいか分からない娘の健康保険証兼ドナーカードを眺めながら
森岡先生の「まるごと成長し、まるごと死んでいく権利」という言葉を思い返す。 

こんなにも我が身を守るすべを持ちあわせない娘が
そんな当たり前の権利をこんなふうに脅かされなければならない世の中──。

それって、一体どういう世の中なんだよっ。


           ――――――――――

実は、今回A案が通ったから保険証がこうなったのかと
疑心暗鬼になっていたのだけど、

どうも違っていたみたいで、

その辺りをきちんと健保連に問い合わせられた方のブログがあったので、
以下にリンク。(TBできなかったので)

2009.09.01 / Top↑
テス・ジェリッツェンのミステリー「僕の心臓を盗まないで」(角川文庫)を読んだ。

原題は“Harvest”。
刈り取り──。

臓器を取る行為に、英語では農作物の“収穫”と同じ単語があてがわれる。

日本語のタイトルが既にネタバレしているように
この小説のテーマは「闇の子供たち」と同じく(リンクは映画のネタバレ含みます)

リストの順番をすっ飛ばすためなら高額の代金を支払う用意がある富裕層向けに
孤児や貧しい子どもたちの臓器を生きたまま刈り取る闇ルートで
移植臓器のドナーが“生産”されている、という話。

米国の臓器割り当てシステムがどういうふうに機能する“はず”なのか、について
作品中からボストンの総合病院の移植コーディネーターの説明を引いてみると、

システムそのものはかなり単純です。臓器を必要としている患者の順番待ちリストがあるんですが、地域単位と全国単位の二種類あって、全国版のほうは、臓器提供統一ネットワーク、略してUNOSと呼ばれています。地域リストを管理しているのはニュー・イングランド臓器銀行。どっちのシステムも、患者の必要度順になっています。資産や人種、社会的地位は一切関係ありません。関係があるのは、患者の状態がどれほど危機的かだけなんです。

(P.217)

ところが、現実には予定されていた患者の移植手術直前になって、
リストのトップの2人がすっとばされて、3番目の人に臓器が提供されてしまう。

この3番目だったはずの患者が大金持ちの夫ヴィクター・ヴォスに深く愛されている奥さん。

スタッフは次のような会話を交わします。

「私の考えだが、ヴィクター・ヴォスが手配して、ドナーを登録させなかったんだろう。
心臓が直接、奥さんに渡るように」
「そんなことできるのか?」
「金さえあれば──たぶん」

(P.216)


しかも、臓器にくっついてきたはずの医師もドナーのカルテも、いつの間にか消えてしまう。

ドナー情報はもともと極秘なので、
そちらは最初あまり重要視されない。なぜなら

ドナーのカルテは極秘。レシピエントのカルテとは、必ず別に保管される。さもないと患者の家族同士、連絡取り合ってしまうじゃないか。ドナー側は一生感謝されることを期待し、移植された側はそれを負担に思うか、罪の意識に苦しめられることになる。双方の気持ちが入り乱れてどろどろになってしまうんだよ。

(P.158)

ここ、臓器移植という医療の本質について、とても示唆的な箇所。

この移植の後から、病院の医師が不可解な自殺を遂げたり、
事件が次々に起こっていく。

なかなか楽しめるミステリーなのですが、
文学作品というのは、さすがに、いろいろと象徴的で

そのヴィクター・ヴォスという人物の設定が、まず興味深い。

化学薬品からロボットまで何でも作っている会社の経営者で
経済誌の米国富豪ランキングで14位。

つまり“科学とテクノ”で稼いでいる大金持ちで
弁護士だって相手がヴォスだと聞くと「顔色が何段階か蒼くなった」。
これほどのお金持ちは、そのまま権力者でもある。

なんだか、なぁ……読んでいると、この辺り、
シアトル子ども病院の医師らをAshley父が無理難題で振り回している図に
どうしても重なってしまう。

仮にAshley父に関する当ブログの仮説に立って、重ねてみるとしたら、

彼自身は富豪ランキング14位というわけではなくて、
“ヴォス”の会社の幹部役員といった立場なのでしょうが、
それでも幹部となれば、背後に“ヴォス”が控えていることを病院は意識する。

なにしろ背後に控える“ヴォス”は、A事件の場合、富豪ランキングのトップ。
病院にも巨額の資金を提供し共にグローバル・ヘルスのリーダーたらんと手を携えているとしたら、
そりゃ、トラの威でも十分。

相談された弁護士だって、相手の意を汲んで、
Ashleyは自分の意思で子どもを産むことはないのだから
子宮をとっちゃっても不妊手術には当たりませんよ……と
お望みの回答を出してあげるというものでしょう。

さらに、この作品には、次のような注目発言だって出てくる。

ジェレマイア・パー(spitzibara注:院長)の首だって危ないのよ。
きっと今もヴォスに食いつかれてる。考えてもみて。
病院の理事会はヴォスの金持ちの友達で一杯なの。
パーを馘にするくらい簡単。

(P.291)

シアトル子ども病院の理事会にも、
おそらくシアトルのお金持ちがずらりと並んでいることでしょう。
ランキング1位のシアトルの“ヴォス”さんとオトモダチで、
(その後この人は2位に転落したけど、A事件の時点では1位だった)
したがって、きっとAshley父ともオトモダチ……という人たちが。

そして作品全体を通して最も象徴的だと思ったのは
最後のところで犯人の一人が臓器を買う人の心理を代弁する、以下のせりふ。

想像してみることだ。我が子が死んでいくのを見ているのがどんなものか。
ありあまるほどの金を持ちながら、それでも順番を待つしかないと
思い知らされるのがどんなものか。
しかも、その子よりも前にいるのはアル中や麻薬患者だ。知能障害者だ。
生まれてこのかた一日も働いたことのない、福祉にたかる連中だ。

知能障害者……。
初めて見た、この表現。

厳密に言えば、これは、たぶん、知的障害者と訳すべきところ、
翻訳者の方が障害者の分類にあまり詳しくなかったということなのでしょうが、

でも、とても皮肉なことに、
知的障害者というよりも知能障害者というほうが、
トランスヒューマニストや“科学とテクノ万歳文化”の人たちの感覚を、より的確に表わしている。

       ―――――――――

病院だって人間の社会や経済のシステムの中にある以上、
こんなふうに“政治的な配慮”というやつから、ひとり逃れられるわけではないし、

そのことは医療や科学研究の世界に明るい人こそ、
この世界にも”ウラ”というものがあることを、身に沁みて、よく知っているはずだと思うのに、

生命倫理・医療倫理の議論が拠って立つ揺ぎない前提では、

医師個々人や病院の職業倫理とそれに基づく判断は決して
医療界や病院の政治・経済上の事情に影響されることなどなく、
また医師間や病院間の熾烈な競争をめぐる事情によっても左右されることなどない……“はず”だ
ということになっているのが不思議。

臓器が売買されていることを多くの人が事実として知っていながら、
臓器は売買などされていない“はず”だという前提で
「子どもの命を救うために、セーフガードさえあれば大丈夫」と
政治的な理由でもって、いとも簡単に法律が改変されていく不思議と同じように。

倫理学者が「セーフガードさえあれば大丈夫」と太鼓判を押し、推し進めてきた最先端医療で
そのセーフガードがきちんと機能しているという領域は本当にあるのだろうか。

なんで、そこのところを検証する生命倫理学者は、いないんだろう?
私が無知なだけで、本当はいるのかもしれない。
圧倒的に少数だと思うけど。

でも、自分たちが「セーフガードさえあれば」と正当化し、実現させてきた医療で
実際にはセーフガードが機能せず、犯罪が起こり、弱者が食い物にされているのだとしたら、

生命倫理という学問には、
自分たちが提唱したセーフガードの効果を検証し
自分たちがGOサインのお墨付きを与えたという事実について
とるべき責任があると思うのだけど──?
2009.09.01 / Top↑