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ワクチンの安全性は更に調査する必要があるとの主張を巡り、
自閉症アドボケイト団体Autism Speakで
広報を担当してきた副会長のAlison Tepper Singerさんが辞任。

Autism Speakの代表として委員を務めていた保健省肝いりの自閉症関連委員会が
ワクチンの安全性を確認する調査に資金を直接投入するかどうかという問題を巡り、
Autism Speakは投入すべきとの立場に立つが
Singerさん個人的には他の研究や支援整備に使う方がよいとの考えで、

組織の意見で投票すれば個人的な良心にもとる
個人の見解で投票すればAutism Speak代表としての責任を果たせない、との
ジレンマが生じたのが理由とのこと。

Executive Steps Down From Autism Speaks
Education Week, January 15, 2009


記事に書かれている委員会での投票行為だけが問題なのであれば
委員を交代する、またはその委員だけを辞任すればすむことだから、

もしかして、Autism Speakの中に、
ワクチン問題を巡る分裂が生じているのでは?

しかし、アドボケイトは本来、
もっと大きな問題に向かって活動しているはず。

もしもワクチン問題でのスタンスが万が一にも
Autism Speak内部で“踏み絵”のようになってしまうとしたら、

そういう姿勢もまた、
医師や科学者らが患者を自分の業績を作るための資材視するのと50歩100歩のような……。
2009.01.20 / Top↑
つい先日、米国のFDAの認可審査がいいかげんで
なんでも通っているようなものだというコワイ話を読んだばかりですが、

その米国FDAが2年前に許可しなかったという
中絶胎児から採取した幹細胞を使った脳卒中患者の治療が
英国 Glasgowのチームによって行われることになったとか。

実験は今後2年間に渡って
3人ずつ3グループに分けた脳卒中でマヒが残った患者の脳に
それぞれ異なった量の幹細胞を注入することによって
主としてこの治療の安全性を確認しようとするもの。

研究者らは、これによって
新しい神経細胞ができたり、現在の細胞が再生される可能性があり、
患者が失った機能を取り戻すことができるかもしれない、と。

ヒトの胎児の細胞から採取した幹細胞を使うのは「おぞましい」と
倫理的な問題を指摘し、反対する声が起こっている。

Stem cell stroke therapy assessed
The BBC, January 18, 2009


記事を読んで気になるのは、

例えば記事の冒頭、真っ先に書かれているのが

研究者らは、これによって英国が
幹細胞による難病治療開発の最先端に躍り出る、と期待している。

また研究を率いるKeith Muir医師が
正真正銘の世界で“初”になれると思うとおおいにワクワクする」と言ったり、

2年前に米国で認められなかったのは
Reneuron という会社が作った幹細胞で、

今回、英国の the Medicines and Healthcare Products Regulatory Agency が
臨床実験をするに十分安全だという判断したのも
同じく Reneuronの幹細胞を使った治療なのですが、
その判断基準の違いについては全く説明がなく、

あるのは Reneuronの主任科学者 Dr. Sindenのコメントで、
「FDAは非常に慎重で肝細胞を使った治験には一例も許可を出さなかったが
英国では国民の姿勢も規制する側の姿勢も米国より前向き」

(ブッシュ政権は胚性幹細胞研究に否定的でしたが
はたしてオバマ政権はどういう姿勢をとるのでしょうか……?)

また、Dr. Sindenは、
今回の実験が成功すれば
米国FDAの認可プロセスに時間がかかってイラついている他の会社も
英国やヨーロッパの国々で幹細胞の実験を申請するようになるだろう、
そうすればヨーロッパが幹細胞と再生医学の中心となって、面白いことになる、とも。

治療の安全性を調べるための治験だというのに、
誰も彼もが「効果がある可能性」ばかりを言い、
誰一人、実験に参加する患者さんのリスクには触れもしない。

さらに、「おいおい」と思ったのは同じくDr. Sindenが
倫理問題を指摘する声に反論する箇所のコメントで、

「たった一つの細胞から何千人もを治療できる細胞を作り出す技術が
我々にはあるのですよ。
我々の技術には、これだけ大きなプラスがある。
そのプラスによって胎児の組織を利用するという倫理問題は否定されますよ
治療を拒否することの方が倫理的に間違っているでしょう」

利益さえ大きければ、手段の倫理性は問われない……そうでしょうか?

          ――――――

ついでに、こちらも
英国とスコットランドで「世界初」の治療を実験しますよ、というニュース。

こちらは大人の幹細胞を使って角膜性視覚障害を治療しようというもの。

去年の9月に米国ペンシルバニア大学で
修正遺伝子を目に注射することによって
遺伝性の視覚障害が劇的に改善した例があるとのこと。

同じように行くかどうか・・・…。

Stem cell eye surgery to be tried
The BBC, January 19, 2009


なんにせよ、研究者さんにとっては
「世界初」に何よりも意味があるのですね。
2009.01.19 / Top↑
出産時のアクシデントによる無酸素脳症で
重症重複障害のあるウチの娘は言葉を持たないが
指差し、目つき、顔つき、さまざまな音声とトーンのバリエーションで
たいていのことは、はっきりと自己主張する。

そして実は、相当に理屈ばったヤツでもある。

たとえば、彼女は「おかあさんといっしょ」ファミリーコンサートの中毒なので
我が家では午前に1回朝食後と、午後に一回昼食後に
「おかあさんといっしょ」ファミリーコンサートのDVDタイムがある。

朝食、昼食ともに「食べ終わったらDVD」というのがルールになっている。

というのも、なにしろ文字通り”3度の飯より大好き”なファミリーコンサート。
食事中に「お、この後はDVDだ……」と、ふと頭をよぎったりすると、
もうゴハンなんか、どうでもよくなってしまうらしい。

そういう時、ミュウはふいに両手を合わせて「ごちそうさま」をする。

ろくに食べてないくせに
「はい、ごちそうさま。だから……DVDだよね?」
目がとっておきの甘え方で探りを入れる。

「えー、なに言ってんだよ。まだ、そんなに食べてないじゃん」
「ダメだよ。DVDはご飯が終わってからっ」
「もうちょっと食べようよ。ほら、まぁ、これを一口」などと
両側の親から口々に言われ、改めてスプーンを口元へ運ばれると
「しょうがないなぁ……」と口を開ける。

が、たいてい、その一口を飲み込むや、しれっと「ごちそうさま」をする。
「親の言うとおりに一口だけは食べたぞ。だから……DVDね?」

「なに屁理屈いってんだよ。DVDはご飯を食べ終わってから!」
「だから食べ終わりました。はい、ごちそうさま」

あとは父のスプーンが口元にやって来ようが母の箸が誘おうが
もはや頑として口を開けず、何度でも「ごちそうさま」を繰り返す。

その頑固さは
「だって、あたしは食べ終わったんだからDVDを見る権利がある」と言い張るが如し。

そんな調子だから、我が家では
「このミュウに言葉があったら、我が家にはどんな修羅場が起きていたことか」というのが
夫婦で繰り返すジョークになっている。

言葉がなくてもこれだけ理屈っぽい娘と、同じく理屈ばった母親との間で
壮絶な論争が繰り広げられたであろうことは想像に難くない。

思春期など、きっと、その挙句に
「うっせぇ、このくそババア!」「なにィ、親に向かって、なんだ、それはッ!」と
さぞかし激烈な修羅場が毎日繰り返されていたことだろう。
その間に挟まれて、心優しく口下手の父親は、さぞ右往左往していたことだろう……。

我が家では「もしミュウに障害がなかったら」という他愛無い仮想は
だいたい、こんな展開をたどり、夫婦が大笑いして終わる。

そんな「もしミュウに障害がなかったら、さぞや喧しいおしゃべりで……」と
いつものヨタ話に夫婦で笑いあっていた数ヶ月前、

ふっと「もしもミュウのクローンが……」という言葉が頭に浮かんだ。

ねぇ、お父さん。
もしもミュウのクローンが作れるとしたら……それって……
障害のないミュウに……私たち、出会えるってこと……?

そんなことが頭に浮かんだのは、もちろん初めてで、

町を歩いていて、ふいにどこかから花の香りが漂ってきた時のように、
ふわっと思いがけず柔らかく胸に広がった夢想は、またたくまに
ミュウを裏切ったみたいな微かな罪悪感とともに霧散していった。

霧散していった後に思い出したのは
Steven Kingの“Pet Sematary”。

それからドッペルゲンガー
この世に存在するもう1人の自分――。
ドッペルゲンガーを見た人は死ぬ、という話──。

それはやっぱり見てはならないものだから……なんだよね。

        ――――――

あの時の「もしもミュウのクローンが……」という想念について、
クローンのことを考えるたびに思い出している。

あの時、私はなぜ、障害のないミュウと「出会う」ではなく、
障害のないミュウと「出会える」と、考えたのだろう。

私は、障害がなかったらこういう子だった……というミュウに
本当は出会いたいのだろうか……。

それは、仮に「障害のあるミュウ」と「障害のないミュウ」とが選べるとしたら、
私が「障害のないミュウ」を選ぶということなのだろうか……。

しかし、これは違う、と思う。

「障害のないミュウ」を選ぶということはありえない。
ウチの子は今ここにいるミュウ以外にはいない。
そのこと自体に障害は全く無関係だ。

だから、障害があろうとなかろうと
「もう一人のミュウ」というものがこの世にいるとしたら、
それはウチの娘と同じ容姿をした得体の知れないナニモノカでしかない。

それに、本当のところ、「障害のないミュウ」とは
いま私たちの目の前にいるミュウから障害だけをマイナスした存在なのだろうか。

それも違う、と思う。

いま私たちの目の前にいるミュウは
生まれた時から重い障害を持ち、そのために病気ばかりして
できないことや思い通りにならないことに取り囲まれて、
つらい思い・さびしい思い、悔しい思いもいっぱいしながら
それでも親や通園施設、養護学校、重心施設で出会った多くの人たちに愛されて、
もちろん時に傷つけられもしながら、
楽しい体験や嬉しいこと、誇らしいこともいっぱい積み重ねて
言葉がなくても自分をちゃんと主張し“駆け引き”や“取引き”までする
ミュウであってミュウでしかない今の彼女に成長してきたのだから。

だから、今のミュウから障害だけをマイナスすることは不可能だ。


じゃぁ、なぜ私はあの時、
娘のクローンとは「障害のないミュウと出会える」ことだと捉えたのだろう。
なぜ、あの一瞬、ほのかに甘いものが胸に広がったのだろう。

そのことをずっと考えて、今なんとなく思うのは、
「できることなら障害のないミュウを一度見てみたい」とでもいった思いだったんじゃないのかな、
娘が持っていたはずの可能性をいとおしむような気持ちだったんじゃないかな、と。

だけど、それは、もともと他愛ない夢想に過ぎないのだから、実際に目の前に出てこられたら
「あなたがそうですか。へぇ」と言わせてもらう以外にすることがない。

その後はもう用がないので消えてくれていいし、
万が一にも消えずに実際に存在し続けられては
邪魔くさいし気色悪いし、そんなの困るんだよ……と。


今の誰かとは別の可能性を体現した、もう1人の誰かなんて、きっと
「もし、あの時、あの人に出会わなかったら」とか
「もし、あの時、あの仕事を辞めていたら」とか
「もしも別の人と結婚していたら」など
いくらでも無数にある人生の「もしも」と同じだ。

たまに頭に想像して楽しんだら次の瞬間には忘れ去っているくらいがちょうどいい。
大事なのは、目の前にある自分の人生と格闘しつつ生きていくことなのだから。

目の前にある自分の人生は、誰にとっても、
自分が選んだことや、自分にはそうしかできなかったことや、偶然そうなってしまったこと、
誰のせいでもなくそうなってしまったこと……などなどの積み重ねであって、

それは、どんなに科学が進んでも、そういうもののままなんじゃないだろうか。

どんなに科学が進んだとしても、
人にできることは、そういうものでしかない人生を生きることだけなんじゃないだろうか。

それに、そういう人生を生きるのだって、
そんなに悪いものじゃないよね。

娘と一緒に生きてきた、これまでの人生の中に
「もうこれ以上生きていけない……」と思い詰める日がなかったわけではないけれど、

例えば、DVD見たさで勝手に「ごちそうさま」をする娘に
「ご飯を食べてからっ」
「まだ“ごちそうさま”じゃないんだってばっ」と
夫婦で振り回されてジタバタしている我が家のゴハン時が
そういう22年間を過ごしてきた今、なかなか悪くない時間であるように。
2009.01.18 / Top↑
米国のBiederman医師らのスキャンダルの衝撃がいまだ続いている中で目にすると、
実にタイムリーな記事タイトルで
「我々には臨床研究倫理を無視するような贅沢は許されない」

We cannot afford to ignore clinical research ethics
By David Serwadda
The Lancet, Vol. 383, Issue 9659

(登録手続きをすれば無料で全文が読めます。)

臨床研究倫理はまだ新しい学問分野であり、
現場での実体験からしか身につけてこなかったが、
NIHの研究に関与するようになって以来、
数年ごとに臨床研究倫理の講座を受けて知識を更新するようになったという著者が、
88人もが寄稿している the Oxford Textbook of Clinical Research Ethics(2008)を
勧めている。


ちょっと興味を引かれたのは、
著者がこの本の中で特に注目している問題の1つが、
最近よく議論となる開発途上国での臨床研究における倫理だということ。

中でも「途上国でも医師には先進国と同じ最善の治療を行う義務があるか」という議論。


ワクチン開発の実験など、
開発途上国での臨床実験での人権擁護には大いに懸念を抱いていたので、
この問題が近年の臨床研究倫理での大きな話題になっているというのは
ちょっと安心材料だったと同時に、

そこでもまた、倫理学が
弱者の権利擁護の視点に立つよりも、
その逆に切り捨てや資材視を正当化するための理論武装のツールに
使われる可能性もチラついているのかなぁ……とも。

途上国で先進国と同じ治療を保障することが
現実的に困難であろうことを想像できないわけでも
実際に現場で働く医師にはそうしたジレンマがあるのだろうと
想像できないわけでもありませんが、

やはり「無益な治療」論をはじめ障害児・者切り捨てに
ラディカルな生命倫理が果たしてきた大きな役割を連想してしまった。

         ―――――――

開発途上国でのワクチン開発研究といえば、
同じくLancet に以下の論文も掲載されています。

Vaccine coverage and the GAVI Alliance Immunization Services Support Initiative
By Julian Lob-Levyt
The Lancet, Vol.373, Issue 9659, January 19, 2009

GAVI というのは
当ブログが注目している、例のIHMEのプロジェクト。

途上国のワクチン接種の広がりに関するデータを
IHMEが音頭をとってWHO, UNICEFと共に洗いなおそうとしているようです。

さすがにGates財団の私設研究機関に等しいIHME。
(一応 Washington大学の研究機関ではありますが)
ワクチン研究は最重要課題の1つのようで。

臨床研究倫理の分野で途上国における治験の倫理が議論になっているというのは
やはり倫理問題があるからだよね……と、つい考えてしまった。

IHMEの詳細については「ゲイツ財団、WU、IHME」の書庫に。

開発途上国のワクチン開発に関連したエントリーはこちらにまとめてあります。
ゲイツ財団の資金で開発期待されるマラリア・ワクチン(2008/12/14)
2009.01.17 / Top↑
久しぶりに世界トランスヒューマニスト協会の公式ページを覗いてウロウロしていたら、
確かに以前はあったはずの日本支部が、いつの間にやらなくなっていました。

まぁ、前から、一応支部があることになってはいても、
連絡先をクリックしても開かなかったり、
どうも「はったり」臭いなとは思っていたのですが、
その「はったり」がいつのまにか消えてしまったというのも、
また何故でしょう……。

それはともかく、
世界中の支部一覧を眺めていたら、
案外、米国内にある支部というのが少なくて、
全米で3つしかないのに、ちょっとびっくり。

で、それはどこかというと、

ニューヨーク。
ワシントンDC。
そして、シアトル。

なるほど──。

そういえば大型類人猿に法的権利を認めよという活動をしている団体GAP
本拠地はシアトルでしたっけ。

さすがシアトルはMicrosoft,、Gates財団のお膝元、
「第2のシリコンバレー」といわれるだけあって、
THニスティックな文化も根付きやすいのでしょう。

そういえば
Gates氏の発言がTHニストらのサイトで取り上げられることって多いみたいですね。

しかし、全米で3つしかない世界THニスト協会の支部、
その1つがシアトルにあるというのも、
また、そのシアトルでAshley事件が起こったというのも
なんというか……象徴的……暗示的……?

シアトル支部のサイトはこちら

支部一覧はこちら
2009.01.16 / Top↑
IVFと遺伝子診断技術を使って
英国で初めて乳がん遺伝子ゼロの女児が誕生したというニュースは
先日こちらのエントリーで紹介しましたが、

“Ashley療法”論争時にWPに痛烈な皮肉に満ちた批判を書いたWilliam Saletanが
こうした最先端技術の“快挙”が報告される際の
研究者サイドの巧妙な言葉の操作を詳細に検証し、

それによって彼らが技術の陰の“醜い真実”と
さらに優生思想そのものを隠蔽していることを鋭く指摘しています。

Eugenic Euphemisms
Protecting our children from disease –- and ugly truths.
By William Saletan, January 14, 2009


冒頭、Saletanはまず、
「BRCA1遺伝子による乳がんのリスクのない赤ちゃん誕生」という
“快挙”ニュースの陰で見失われがちな、
そのプロセスで「何が行われたのか」という事実関係を確認します。

医師らはまず、
母親に排卵誘発剤を投与して過剰に生成された卵子を採取し、
それらを父親の精子と受精させて11個の胚を作った。

それら11個の胚の遺伝子を調べたところ、
そのうちの6個に乳がんの遺伝子があった。
その他の3個には「別の異常」があった。
それら9個の胚はすべて「廃棄」された。

残り2個が母親の子宮に入れられて、
その片方が、生まれてきた子ども。

その上でSaletanが指摘している言葉の操作は以下の4点。

1.“受胎前診断”、“pre-embyo” が胚の無価値化を推し進める。

今回の“快挙”では、少なくとも6個のヒト胚が作られ、
検査で合格しなかったという理由で廃棄されている。

こうした検査が今や“受胎前診断”と呼称されるのは
着々と進められていく胚の無価値化の新たなステップである。

まず最初に「IVF胚は妊娠ではない」と言われた。
妊娠が着床によって始まることを考えれば、これは技術的には正しい。
しかし、次に初期の胚は胚ではなく”pre-embyo”に過ぎないと言い出したのは
技術的にも正しくない、ただES細胞を採取するための言い訳に過ぎない。

今回の“快挙”を成し遂げたUniversity College LondonのSerhal医師に言わせると
廃棄されたのは“異常のある細胞の集まり”に過ぎないそうだ。

2.何が回避されたのかが誤魔化されている

大学の担当者らが出したニュース・リリースでは
この女児は成人してから遺伝性の乳がんと子宮がんが発生する見込みと
直面することはないだろう」と書かれているが、なぜ“見込み”なのか。

それは、この技術で回避されたのが確実に起こる癌でも、確実に起こる死でもないからだ。

この夫婦が自然懐胎した場合に、子どもが遺伝子変異を受け継ぐ確率は50%。
受け継いだ場合に癌になる確率は50~85%。
つまり、この技術で回避されたのは、25~45%の確率に過ぎない。
しかも、いつ発病するかと言えば「成人してから」。

胚のスクリーニングは、
命に関わる子どもの病気が確実なケースだけでなく
死なないで済む可能性もある、しかも発病そのものが可能性に過ぎない大人の病気まで
弾こうとする段階へと進みつつあるのだ。

3.親を加害者視することで、スクリーニングは義務化される。

同じく大学のプレスリリースに
これによって親はこの病気を子どもにinflict することを免れる」。

(inflictとは、危害を加えること)

着床前診断技術が登場するまでは
病気の遺伝子を子どもが受け継ぐ可能性が50%あるということは悲劇だったのだが、
今では、予防できるのに怠って親が子どもに加える危害ということになったらしい。

すなわち今はオプションである胚のスクリーニングは将来の義務となる。

4.子を守ることから家系の浄化へ

同じくプレスリリースに
こうした家族を何代にも渡って苦しめてきた遺伝性乳がんの継承が断たれることこそ
長く受け継がれるlegacyとなる」と。

(legacyとは、先祖代々受け継がれる財産、遺産)

女児の母親の喜びの言葉にも「私たちは家系からこの遺伝子を排除しているのです
Serhal医師も「私たちはこの遺伝子を家系全体から排除しているのです

そりゃ、効率的なことではある。
しかし、効率と集団的浄化こそ、かつての優生思想の基本理念であった。

現に同大の研究者らはこの技術をあらゆる癌に応用しようとしている。


そして、Saletanの結びの言葉。

この女性とこの赤ちゃんには、お喜びを。
我々はみんな子孫を病気から守ってやりたいと思う。
しかし子孫を良心からも真実からも守り遠ざけてしまうことは、やめようではないか。


       ―――――――――

当ブログでも、先日、AERAの予防的乳房切除記事で、
同様の巧妙な言葉の操作が行われていることを指摘したばかりです。

こうした言葉の微妙かつ巧妙な操作は、Ashley事件にも満ち満ちています。

危険な時代になりました。
様々な利害を隠した専門家や企業に巧妙に言いくるめられぬよう、
確かな自前の判断力を磨いておきたいものです。



当ブログのSaletan関連エントリーは以下。

2009.01.16 / Top↑
1月23日に予定されている
シアトル子ども病院の成長抑制療法に関するシンポの情報が
14日、シアトル地域の医療情報サイトにアップされました。


記事本文では
当日はAshleyケースそのものについての議論が行われるかのように書かれているのですが、

しかし、同時に、
記事タイトルは「重症児(複数形)に対する成長抑制に関するフォーラム」となっており、
ここのところにギャップがあります。

記事を書いた人は、その違いを意識していないのでしょう。

実はこのギャップ、
Ashleyケースについて議論する人たちの多くにも見られるものでもあり、
私が今いちばん気にかかっている点。

Ashleyケースそのものを検証することと
一般的な重症児を対象と仮定して成長抑制なり子宮摘出なり乳房芽の摘出を論じることとは
この場合、別のことであるはずなのですが、
そこの区別をきちんとつけないままに、
どちらも混同して論じてしまう人があまりにも多い。

しかし、それは非常に危険なことではないでしょうか。

Ashley事件そのものが、
まだきちんと検証されてもいなければ
解明すらされていないのというのに、

病院の当該サイトを見る限りでは、今回のシンポ、
病院サイドは個別のAshleyケースは既に検証が終わった第一例という扱いで
成長抑制そのものの倫理的な是非について一般化して論じようとしている気配。

詰まるところ、
しかるべき議論をすっ飛ばして強引に話を先に進めることによって
問題を摩り替え、Ashley事件の特異性から世間の目をそらせて
あの個別事件に幕引きを狙っている。

そういう時だからこそ、
Ashley事件そのものを検証することと
Ashleyに行われた医療措置のいずれかを一般化して論じることとは
きっかりと区別しておかなければならない、と思うのですが。
2009.01.15 / Top↑
医薬品や医療装置を巡る研究とエビデンスへの信頼に関る3題。

1.まず、FDAの医療装置審査プロセスの杜撰

乳がんの画像診断装置の認可を巡って
FDA(米国食品医薬品局)の現場科学者らからは、
もっと広範な実験データを求める声が上がっていたのに、
政治家からFDA官僚への電話一本で簡単に認可されてしまった、との苦情が
FDAコミッショナーに提出され、内部調査が行われた、とのこと。

その調査文書によると、この装置、
本来対象とする患者に、本来対象とする状況での使用実験は
一切行われていなかった、というのが科学者らの告発内容。

以下のNY Timesの記事によると、
FDAの医療機器認可には、
その装置の新しさや複雑さに応じて3種類の審査プロセスがあるが
2007年の1年間で最も厳しい審査プロセスに宛てられたのは41件のみで
3052件が短縮検討プロセスを経たとのこと。

The National Research Center for Women and Familiesでは
Bush政権が医療機器の認可プロセスを無意味なものにしてしまって、
「今や何でもかんでも通っているようなものだ」と。



2.次にFDAの医薬品審査プロセスの杜撰

医療機器部門の内部告発に留まらず、保健福祉サービス監査官局まで
「医薬品研究における利害の衝突についてはFDAの審査はアテにならない」と。

監査局が2007年にFDAが認可した118の新薬の審査プロセスを調べたところ、
本来申告することになっている利益の衝突に関する情報がないのに
認可されているものが42%にも上った。

The Journal of the American Medical Associationに発表された論文によると、
大学研究者の23-38%は業界からの金銭の授受があるとされており、

また、この半年間に世間をにぎわせているBiederman, Nemeroff, Sinclair医師らの
巨大製薬会社との癒着疑惑などを考えても、

これでは治験データにバイアスがかかっていたとしても
FDAには判らないだろう、と。

FDA Misses Conflicts-of-Interest
NEWSInferno.com, January 12, 2009


3.FDAに留まらず、権威ある医学雑誌まで利益の衝突を隠蔽

2006年10月に
CTスキャンが肺がん患者の死を防ぐのに効果があるとの研究論文を掲載した
the New English Journal of Medicine(NEJM)に、

著者らの研究資金がタバコ会社から出ていて、
その画像診断の特許を著者と大学が持っていることを知りつつ
申告された利益の衝突を隠したまま論文を掲載したことが批判され、

NEJMは今後このような利益の衝突については明らかにする、と
方針転換を表明している、と。

NEJM Changes Disclosure Policy
NEESInferno.com, January 12, 2009


何かにつけ、
黄門様の印籠のように高々と振りかざされて
多くの人々をひれ伏せさせる「科学的エビデンス」ですが、
そんなものは所詮は企業と研究者の利益によって
いかようにもでっち上げられる……ということでしょうか?


【追記】

15日付の以下の記事では
Biederman医師らが所属するHarvard大学でも
医薬品研究におけるの利益の衝突のチェック体制について、
これまでの不十分だった方針を見直す、と。

また、この記事の中では
Science や Nature などの権威ある科学誌も、NIHですらも
研究における利益の衝突についてのチェックの不十分が指摘されているとのこと。



いずれも地味なニュースですが、
その意味するところをしかと考えてみれば、由々しき問題。
2009.01.15 / Top↑
シワ取り効果をうたうボトックスの大流行を作った会社 Allerganが
今度はまつげを濃く長くする処方薬に打って出るんだそうで。

米国で初めてFDAが認可したんだそうな。

とはいえ、もとはといえば緑内障の治療で
眼圧を下げるために使われている薬。

その薬にまつげが濃く長くなる副作用があることを
美容目的の処方薬として転用・利用しようという話。

しかし、もちろんのことながら、その他の副作用もありうるわけで、
目が赤くなったり、かゆくなったりも。

ちなみにこのお薬を濃く長いまつげを保つために常用すると
月に120ドルかかるんだとか。


あんたらね、もう常軌を逸してるよっ。

Love the Long Eyelashes. Who’s Your Doctor?
The NY Times, January 13, 2009


AERAも、
遺伝子診断で変異があったら予防的に乳房を切除するのが
「米国では一般的」などと針小棒大記事を書いて、
「だから日本でも皆で遺伝子診断を」と無責任に煽るよりも、

米国は今、ここまで常軌を逸した“医療”だか“治療”だかが横行する
実にケッタイな国なんだということの方を、ちゃんと報道してもらいたいもの。
2009.01.14 / Top↑
子どもの無保険が急増している米国の議会では去年、
メディケイドの対象にまではならないものの
その境界に近い貧困層を対象にした州の子ども向け健康保険
S-Chip(the State Children’s Health Insurance Program)への予算の増額を求める声が相次ぎましたが、
(S-Chipは、7割が連邦政府の助成)

税による優遇策で民間の医療保険への加入へと誘導したいBush大統領は
こうした議案を官製医療保険制度だと批判、
S-Chipは本来の目的に立ち返り、貧困層にむしろ対象を絞りこむべきだとして、拒否してきました。

しかし、Obama政権誕生を前に、
今後4年半に330億ドルを費やし、
S-Chipの加入者を現在の700万人に加えて
更に410万人追加する法案が下院議会に提出され、可決される見通しとのこと。。

財源は1箱61セントのタバコ税増税。

移民の子どもたちをどうするかという問題が残っていたり、
大統領選でObama氏が公約に挙げた子どもたちの皆保険には
まだ届いていないという批判も出ているようですが、

私もここ数年間、
州単位で子どもたちの無保険に対応しようと頑張っていたり、
また州によっては独自に皆保険を実現したり模索していたりする知事さんたちや
議会の奮闘や、Bush大統領のかたくなな拒否の姿勢など
無保険者の問題への対策がなかなか前に進まない様子は時々読み齧ってきたので、

とにもかくにも一歩前進なら、よかったな、と。

今の不況が更に深刻化すれば
無保険の子どもたちも更に増えていくだろうことは気になりますが。

そして日本の無保険の子どもたちのことも気になりますが。

House Set to Pass Child Health Bill
The Washington Post, January 14, 2009
2009.01.14 / Top↑
──祖母も母親も乳がんだったら。私も? と不安になるのは自然。
米国などでは遺伝子変異の有無を見つけ、
発症前に乳房を切除する予防治療が広がっている。

こんな書き出しで始まるAERAの記事。
Yahoo!のトップニュースに見つけたので読んでみたのだけれど、
これ、かなり妙な記事では……?


流れとしては
遺伝子診断で変異が見つかったので予防的乳房切除を受けたという
2人の女性のケースを米国で「一般的」な「治療」として紹介した後に、
それなのに日本では遺伝子診断も予防的切除も予防的抗がん剤の使用も進まないと、
日本のお粗末な現状を憂いて、その問題点を指摘しているというもの。

妙だと思う点はいくつもあるのだけれど、
簡単にまとめて言えば、

日本ではもちろん米国でも「一般的に」などなっていないし、
まして「治療」と認識されているかどうかも定かではないものを
「遺伝子検査 → 予防的乳房切除・予防的抗がん剤投与」が
先進国米国の乳がん「治療」のスタンダードであるかのように言いなして、
要するに、この記事のメッセージとは
日本でも、みなさん、遺伝子検査をどんどん受けて、
予防的乳房切除を行いましょうね、と読者をそそのかすもの。

つまり「不安になるのは自然」なのだから、
さぁ、みんなで遺伝子検査を受けましょうね、という論旨。

しかし、気をつけた方がよさそうだなと思うのは、

1.遺伝子診断を行っている臨床検査会社ファルコバイオシステムズの立場で書かれている。

遺伝子検査を受ける人が増えない日本の現状を
この記事の中で嘆いているのは、ただ1人
その「ファルコバイオシステムズ」の担当者。

検査には乳腺外科医の先生の理解が必要不可欠だが、
忙しくて時間がないのと、家族性乳がんへの理解不足で、
なかなか患者さんに説明してもらえない

この嘆きの言葉、よくよく読んでみると、かなり無茶では?

乳腺外科のドクターというのは、
ファルコバイオシステムの社員さんより
家族性乳がんに関する知識が不足しているのだろうか。

しかも遺伝子診断についても
本当なら患者さんに勧めようとみんな思っているのだけど、
ただ時間がないから患者に勧められないでいるだけなんだろうか。

現在、検査が受けられる施設は国内15カ所。
今後2年以内に、全都道府県に1カ所以上の配置を目指している
という記述があるのですが、主語がないので誰が目指しているのかは不明。

深く考えずに読み飛ばしてしまう人は
うっかり「おお、国もそこまで遺伝子検査に本腰を入れるのか」と思い込みそうですが、
これ、実は「ファルコバイオシステムズ」が目指しているのでは?

(だいたい「配置」って、なんか妙な表現ですが、
もしかして「設置」じゃないことに何かカラクリが……?)

その他にも、
妙な言い回しが随所にちりばめられていて、

予防的切除を行った女性の話の中で
遺伝子検査を受けたら「結果は、陽性だった」。
乳がんになる可能性のある遺伝子が見つかったのを「陽性」っていうのでしょうか。
まるで、乳がんそのものが見つかったかのように?

それから予防的乳房切除を一貫して「治療」としていることも
果たして、妥当な表現なのかどうか?

全体にこの記事では
「乳がんに関与している遺伝子の変異がある」ということを「乳がんである」ということと
ほとんど同一視したトーンで書かれている。

日本で乳がんの遺伝子検査に力を入れている聖路加病院ですら
遺伝子検査はしても変異がある患者に定期的な検査を求める「にとどまる」と
それが不当かつ不十分だというトーン。

また、日本では保険診療の対象になっていないから普及しないと問題点を指摘しているけれど、
国民皆保険の制度がなく最低の医療すら受けられない無保険者の存在が社会問題化している米国で
こんな手術を受けられる人はごく一部の富裕層であるこという事実には触れていない。

総じて、中立の立場で取材をして誠実に正確に書かれた記事だとは、とうてい思えない。


2.米国で予防的切除が「一般的だ」というのは情報として正確ではないのでは?

この記事には次のように書かれています。

米国では検査で変異が見つかった場合、乳房や卵巣の予防的切除術が行われるのが一般的だ。乳房が温存できる場合でも全摘したり、発症を予防するために抗がん剤「タモキシフェン」を服用したりといった治療の選択肢がある。

確かに
乳がん予防のために健康な乳房を切除した、という人のニュースは見たことがあるし、
とりあえず記憶に鮮明に残っているNY Timesのニュースは以下のもので、
乳がんの家系だからDNA 検査を受けたら遺伝子の変異があったので
予防的乳房切除を受けることを考えているという33歳の健康な医学生の話。

Cancer Free at 33, but Weighing a Mastectomy
The NY Times, September 16, 2007

しかし、
「癌でもない33歳が乳房切除を検討中」というタイトルにも否定的なニュアンスがあるし、
そもそも、こうしたケースがニュースに取り上げられている事実そのものが
「米国では一般的だ」とまで言えないことの証左なのでは?

他に、こういうニュースもありました。↓

このニュースはあちこちで報道されましたが、
そのトーンは一様に「ここまでするか」というもので、
「米国では遺伝子検査で変異があったら予防的切除が一般的だ」とまで広がっているとは
私には思えないのですが。

遺伝子に変異があるからというだけで
抗がん剤を健康な人に「予防的に投与」することについては
私は全く知識を欠いているので、考えるとっかかりもないのですが、
この部分は記事の中でも深入りされていないだけに
ものすごく胡散臭い感じがする……。


3.乳がんの遺伝子リスクは誇張されている可能性があるとする、以下の記事もあります。

Breast Cancer Gene Risk May Be Overstated
The NY Times, Well (Tera Parker-Pope on Health), January 8, 2008


そういえばAERAが取り上げている最初のケースには、こんな下りも。
遺伝子検査の結果、変異があると分かってから、この女性は
いつがんになるのだろうと脅えて
もう普通の生活は送れなくなった。
自ら殻に閉じこもり、病気と死のことばかりを考える日々が続いた

この部分、さらりと読み飛ばしてはいけない箇所なのでは?


日本のメディアも
科学とテクノロジーのネオリベラリズムに毒されつつあるのかもしれませんよ。

だいたい科学とテクノに関しては
英米が一番アブナイ方向に突き進んでいるようだから
「米国では」とか「欧米では」という釣りモンクには
今後、じゅうぶんに気をつけたほうがいいかも……。


【追記】
TBさせていただいた以下の記事によると
ファルコバイオシステムズは米国で遺伝子診断の特許を持つ企業と提携しているとのこと。
考えてみれば当たり前のことですが、
そうした企業が米国型のマーケティングを始めているということなのでしょう。

しかし米国の薬や医療技術・機器/のマーケティングには
相当にえげつない人命・人権軽視の利益優先主義が目立っているので、
メディアが流す情報には、その背景を良く考えて、こっちが流されないように要注意。
2009.01.14 / Top↑
自閉症の出生前診断についての前のエントリーを書いて

臨床試験の舞台裏のエントリーで紹介したことのある
Arthur L. Caplanの著書 “Smart Mice, Not-so-Smart People”の
自閉症の出生前診断を取り上げた章を思い出したので。

Caplanは“Ashley療法”を強く批判したペンシルバニア大学の生命倫理学者で、
別の生命倫理の問題でも様々に発言していますが、
私はちょっとしたCaplanファン。

といっても、読んだのは上記の他、日本で翻訳が出ている
「生命の尊厳とは何か - 医療の奇跡と生命倫理を巡る論争」(青土社、1999)だけ。
(この本は情報の宝庫で、とても良かったので、いずれ紹介したいと思っています)

それ以外はAshley事件以降のメディアでの発言しか知りませんが、
まぁとりあえず「いいな、この人」と勝手に思っているわけです。

ただ”Smart Mice, Not-so-Smart People”の中のこの章についてだけは、
読んだ時からちょっと納得できないものを引きずっている。

それはBill Gates 氏を引き合いに出して自閉症の遺伝子診断をテーマにした章(P.136-138)で
タイトルは“Who Needs Bill Gates?” (Bill Gatesが欲しい人?)。

タイトルの問いについては冒頭で説明されており、

今の超ど級スーパーリッチのGates氏が「欲しい人?」という意味ではなく
もしも時間を巻き戻すことが出来てBill Gatesという
世界で最も有名な変人の誕生を止めることができるとしたら止めたいですか。
それとも止めずに世に生まれ出て欲しいですか? という意味だと。

世界にインターネット革命をもたらしてくれたのだから、
おそらく「止めたい」という人はいないだろう。

しかし、天才Bill Gatesは奇人としても通っていて、
その言動にはアスペルガー症候群と通じるところがあると言われる。

Bill Gatesのような天才がほしいと望むことが、実は同時に
彼よりももっと重度の障害をもった子どもが生まれる可能性を引き受けることなのだとしたら?

新たに出来たアスペルガー症候群の患者団体 Aspies for Freedomでは
自閉症は病気ではなく、肌の色の違いと同じ差異に過ぎない、と主張し、
遺伝子診断が登場すれば、それは将来のBill Gatesの終焉を意味すると警告している。

トマス・ジェファーソンやルイス・キャロルなど、
アスペルガー症候群の特徴にそっくりあてはまる秀逸な思想家もいるが
そういう人材も少なくなってしまうかもしれない・・・・・・

・・・・・・といったことを述べた後で、結論部分は以下。

遺伝子診断が可能となることで医学は
正常とされる範疇を少しでも逸れているものは全て病的だということにするのだろうか?

重症の自閉症とアスペルガーのような軽症との間に
我々社会はどのようにして線引きが可能なのだろうか?

どんな子どもを持ちたいかについては、
親に全面的な決定権があるのだろうか?

リスクや障害の確率について、
また生死にかかわるのではなく性格と社会性、天才と奇癖について語るとき、
医師や遺伝カウンセラーはどういうメッセージを伝えるのか?

私に言えることは、
自閉症、アスペルガーその他の精神保健の側面に関して
これから登場しようとしている遺伝子に関する知見については
医学も一般の人々もどのように向き合ったらいいのか分かってなどいない、ということだけだ。

しかし、我々社会の将来は
上記の問いへの我々の答えにかかっている。


Caplanがラディカルな生命倫理を批判してきた発言の数々を踏まえて考えれば、
この論旨がイマイチはっきりしない章で彼が言わんとしていることは

天才や才能・能力だけを望んで
障害だけは排除しようとしたって、
そんなに虫のいい話はないということであり、

いわば
前のエントリーのBaron-Cohen教授の
「自閉症を中絶すると数学の天才も抹殺するから出生前診断は慎重に」という主張とは、
ちょうど逆方向の論理。

自閉症の遺伝子診断には
歯止めを失う“すべり坂”の可能性があるという警告としては、
Baron-Cohen教授の論理より説得力があるようにも思うのだけど、

ざっと上っ面だけを撫でて読んでしまうと、
どうしても人は自分が読みたいものを読んでしまうものだから
「重症の自閉症なら遺伝子診断で中絶もやむをえないが、
軽度のアスペルガー症候群まで対象としたのでは
ちょっと奇人・変人だけど貴重な逸材という人まで失ってしまう」という趣旨と混同されそうな気がして、

才能・能力と障害とを対にして語ることそのものがアブナイし、
やっぱり間違いなんじゃないのかなぁ・・・・・・、と。
2009.01.13 / Top↑
この数ヶ月、あちこちで目にはするので
いずれ、こういう話も出てくるのだろうなぁ・・・・・・とは思っていたので、

この評論のリード部分を読んだ時に、
今にも自閉症が出生前診断で分かって
ダウン症のように生むか生まないかを選択できるようになる、といわんばかりなので
「とうとう来たか・・・・・・」と血相を変えて読んでみたら、

ケンブリッジ大 Autism Research Centreの所長 Simon Baron-Cohen教授が書いたもので、

もうじき可能となるとされる
自閉症の遺伝子診断や出生前の薬物治療に慎重を呼びかける、という論旨。

しかし、ものすごく引っかかったのは
その根拠として持ち出されているのが
「そんなことをして自閉症を予防したり、治療してしまったら
 世の中は大きな数学的な才能を失うことにもなるのだぞ」という論理だということ。

「男性、数学、自閉症」というのは相互に繋がりあった3点セットであって、
ケンブリッジで数学を学ぼうという学生の大半は男だし、
フィールズ賞の100年の歴史に女の受賞者は出ていないし、
つまり男は女よりも数学の能力が秀でているのは統計的にも明らかで、
自閉症の子どもの父親や祖父にはエンジニア関係が多いとか
数学者の兄弟には効率に自閉症が見られることからも、
また自閉症の発症がテストステロンのレベルと関係しているとの研究もあることからも

自閉症を防ぎ、自閉症児を減らすために出生前診断で妊娠中絶すると
Would we also reduce the number of future great mathematicians, for example?
(それはとりもなおさず、例えば将来の偉大な数学者の数も減らすことになるのでは?)

最後の一文に、一箇所だけ
「かつての優生思想の歴史を不用意に繰り返さないためにも」という文言がありますが、
もちろんBaron-Cohen教授のホンネはそちらではなく、それに続く
「自閉症だけではなく治療を必要としない自閉症関連の才能まで
不用意に“治療”してしまわないためにも」という部分にあるのは明白。



どうして才能とか能力の差引勘定でしかモノを考えられないものか。
それ自体、十分に「過去の優生思想の不用意な繰り返し」なのだというのに。

それから、ものすごく単純に頭に浮かんだ疑問。

この自閉症の権威は自閉症は遺伝だと言いたげだけど、
自閉症の原因はまだ明らかになっていないんじゃなかったっけか?
それなのに、そもそも、どうして出生前の遺伝子診断が登場するんだろう・・・…? 


【追記】

このエントリーを書いた直後、今日のthe Guardian に4本も関連記事があることを発見。
出たのは前後していますが、こういう動きがあって、上記BBCのリアクションだったのですね。

こちらは数が多すぎて、読んでいませんが、タイトルと副題は大体こんな感じ。


New research brings autism screening closer to reality
(出生前の自閉症スクリーニング、実現に近づく)

Disorder linked to high levels of testosterone in womb
(自閉症は胎児期のテストステロン・レベルに関与している、という話)

Autism: A mother’s story
(自閉症の子どもとの暮らしは決して悲惨なものではありません、という母親の声)

Long-running MMR case resumes today
(1998年にLancet誌に自閉症のMMRワクチン犯人説を発表した学者の責任を問う審問が再開)

上記、すべて the Guardian, January 12, 2009
2009.01.12 / Top↑
だいぶ前から読みたいと思っていたコミック「ヘルプマン」
レンタル店でやっと見つけて今Vol.9まで読んだところ。

クールで理論家の神埼仁と
おっちょこちょいで直情径行、どこの事業所もすぐにクビになるのだけど、
目の前のじじばばを放っておけない介護の心が熱い恩田百太郎という
対照的な2人の介護職の青年の奮闘を通して
在宅介護の現実と介護保険の問題点をリアルに描いた2004年のシリーズ。

2004年当時に話題になったらしいのだけど、
私は最近まで知らなかった。

とても良いです。
老人介護だけでなく、障害児・者の介護や負担の大きな育児について
モノを考えたり言ったりしている人には
ぜひ一度読んでもらいたいくらい、良いです。

今まで介護の現実を描いた小説はいくつか読んだし
それぞれに忘れられない言葉や場面があるけれど、

ウンコ、シッコ、ゲロ、よだれ、
捻じ曲がって固まった身体や、
痩せて肉が落ちて皮のよじれた脚や
汚いもの一切合財をビジュアルに描くことのできるコミックという媒体の方が
介護の現実はよりリアルに伝えられるという面もあるのかもしれない。

特にVol.2「在宅痴呆介護編」とVol.3「介護虐待編」は
読みながら何度もボロボロ泣きました。

重い障害があって病気ばかりしていた娘の幼児期、
私の毎日は、具体的な形は違っても、ここに描かれているのと全く同じ
忍耐と辛抱と苛立ちと発狂しそうなほど切迫したフラストレーションと、
それから娘への愛着と自責の繰り返しに塗りつぶされて
ここに描かれているのと同じように煮詰まっていったから。

そうそう、そういう間の悪いことって、ある。
介護していると、そういう気分になるよね、私もそうだったよ・・・・・・。
つい追体験させられて、いつのまにか身を硬くし息を詰めるようにして読んでいる……。

そしたら、突然、
おっちょこちょいヘルパーの恩田百太郎の思いがけない言葉に出くわした。

ご家族さんは・・・・・・
頑張りすぎちゃダメッす!

ご家族さんに
できるだけ楽に
なってもらうために
オレらプロがいるんすから!」

悔しいっすけどね。

オレらが
どんなに勉強して百万回
上手におむつ替えても

ご家族さんの
たった一回の笑顔に
かなわないんすよ。

だから
たとえ何もしてあげられなくても

ただ家族でいてくれさえすれば
鹿雄さんは幸せなんすよ!

頑張らないでください。

                恩田百太郎
                「ヘルプマン!」 Vol.2 在宅痴呆介護編

涙がどばっとあふれて、もうどうにも止まらない――。
まるで、あの辛かった日々に私がまだ取り残されていて、
その私に向かって百太郎が、こう言ってくれたようで。

そして読み終えて、いつも考えることを、また思う。

家族が介護に押しつぶされて
そのたった一回の笑顔すら失ってしまったら
介護されている人は、たとえ在宅で暮らしているとしても、
その人は家族を失ってしまったのと同じなのだから・・・・・・と。

       ――――――

実は、外添要一厚生労働大臣も「介護はプロに、家族は愛情を」と言っています。

昨年、厚労省は11月11日を「介護の日」に制定しました。
横浜市はそれを記念して11月11日に
介護の日制定記念フォーラム「明るい介護! 元気な介護! を目指して」を開催。

外添厚労相の発言は、そのフォーラムで流されたビデオ・メッセージの中で。

「『介護はプロに、家族は愛情を』が実現されるよう、」
国民の連帯、助け合いのあり方を皆で考え、
『長生きしてよかった』と思える社会にしていこう」。

(詳細は「介護保険情報」2008年12月号 P.44)

「介護はプロに、家族は愛情を」などという理想が
厚労相の口から語られるのは大変ありがたいことですが、
発言の後半は、どこかはぐらかされたような感じ。

その理想が実現されるように厚労省が考えるべきは
まずは介護保険制度なのでは──?

「ヘルプマン」Vol.4以降は介護保険現場の現状をリアルに描いて
痛切な介護保険制度批判となっています。
(Vol9までの段階では介護保険スタート時から第一回改正の介護予防へのシフトまで)

シリーズが進むにつれて作者の筆運びも軽妙になり、
だんだんと爆笑できるシーンが増えて、
それもまた、介護の現実の一面でもあることを思わせられます。

適切な援助があれば、家族を支えながら暮らしていくことは
苦しく辛いことばかりでもない。

そのこともまた、このシリーズは上手く描き出している。
2009.01.12 / Top↑
去年の5月24日に
国民の電話とEメールの全記録を国が管理って?で取り上げたニュースの続報。

UK e-mail law ‘attack on rights’
The BBC, January 9, 2009

上記エントリーで紹介したように、
英国内で送受信されたEメールや電話の内容について
1年間、それぞれのサーバーや電話局に保管を義務付け、
警察、地方自治体、医療機関の求めによって情報提供まで義務付ける法律が
英国で成立しています。

電話に関しては既に施行されているようです。

メールのデータの保管が3月からの実施となるのを前に、
人権団体などから強い抗議の声が起こっている、というのが今回のニュース。

このシステムを整備するに当たって英国政府が費やす予算は
インターネットのサーバーについてのみで2500万~7000万ポンドの間。

「そんな金があったら、もっと他に有効な使い方をしろ」という批判や
「欧州人権宣言で基本的権利とされているプライバシーの侵害」という批判など。

しかも、気になることに英国政府には
電話会社やインターネットのサーバーに保管させるというに留まらず、
将来的には政府が直接データベース化して管理しようとする
the Interception Modernisation Programmeなる計画がある、とも。

Eメール送受信と電話だけでなく、ウェブサイトの閲覧記録も対象に。

今年後半にも、この計画に関するコンサルテーションが始まるとか。
(日本のパブコメにあたります)

          
ちなみに、the Interception Modernisation Programme について検索してみたところ、
英国内務省が2007年に出した以下のレポートで説明されているようです。


科学とイノベーション戦略という部分が気になるし、
テロ対策を口実にすれば何だって通りそう……とも思うし、

いずれ読んでみたいなとは思いますが・・・・・・。


------ ------


英国政府のデータ管理については、去年は以下のようなニュースもありました。
あわせ読むと、英国がどういう方向に向かっていこうとしているか、
見えるような気がします。



そして、こうした国民をがんじがらめに監視・管理しようとの動きの中に、
英国議会でのヒト受精・胚法改正議論を置いて眺めてみると
すべてがぐるりと繋がって・・・・・・

(ヒト受精・胚法改正議論については「新・優生思想」の書庫にエントリー多数)

「社会的コスト」だの「無益な治療」だのというお題目に目をくらまされ
「だから障害児や障害者はジャマ者」「高齢者もジャマ者」などと
みんなで政府の弱者切り捨てスローガンに乗っかって
自分だけは切り捨てる側だと信じ込まされているうちに
足元では、とんでもないビッグ・ブラザー社会が着々と準備されているとか・・・・・・?
2009.01.11 / Top↑
何代も遺伝乳がんに悩まされてきた夫婦に、
着床前診断でそのタイプの乳がんを引き起こす遺伝子異常のない赤ちゃんが誕生。
英国で初めて。

私には、そのカラクリがよく分からないのですが
生殖補助医療専門の担当医によると
この赤ちゃんは大人になってもこのタイプの遺伝による乳がんだけでなく
なぜか子宮がんにもならないのだとか。

主治医は、この治療は
遺伝子異常を原因とする乳がんで何代も苦しんできたような
ごく一部の人だけが対象だと強調。

しかし乳がんだけでなく、他の癌でも可能だとも。
(この辺り、聴き取りにはイマイチ自信がないのに
ビデオを一回しか聞いていないので詳細は?
もしかしたら、他の癌でも同様の遺伝子操作の症例があると言ったのかも)

Comment on Reproductive Ethics というキャンペーン団体では
「その女の子個人をどうこう言うわけではないけど
やりすぎだと思います。
こういうことの根っこにあるのは優生思想です」

乳がん撲滅に向けて活動するBreakthrough Breast Cancer の医師は
「乳がんの多い家系の女性は人によって何が正しいかは違うといっています。
 一人ひとりがもっとも正しい選択ができるよう適切な情報提供と支援が大切」

Breast cancer gene-free baby born
The BBC, January 9, 2009
2009.01.10 / Top↑
先進国のご他聞に漏れず、医師不足・医療崩壊が深刻なオーストラリアですが、
ここまで来ているのかぁ・・・・・・そのうち日本でも・・・・・・と、
つい考えてしまうニュース。


The Canberra HospitalのERをクリスマスからお正月にかけて訪れた患者は1400人以上。

トリアージでカテゴリー1、2とされた緊急度の高い患者は
100%が適宜治療を受けることが出来たものの、

カテゴリー3と4とされた軽症の患者のうち48%の人は
推奨される30-60分以内に治療を受けられなかった。

例えばDaniel Patterson氏(22)。
大晦日にCalvaryの病院で診察を受けたところ軽症の骨折(fracture)と診断されて
痛み止めももらえずに帰された。
翌日(1日)レントゲンを撮ってもらったら完全に折れていることが判明して
手術が必要だとCanberra Hospitalへ。

その Canberra Hospitalに行ったのが2日なのか3日なのか判然としませんが
なにしろ3日と4日はまるまる2日間病院で待機。
手術のためにやっと入院させてもらえたのは5日だったとのこと。

(手術自体を待ったのは2日間ですが、
 結局は骨折から5日目の手術になったということですね)

しかも、その直前の24時間は
手術がいつ始まるか誰に聞いても分からないまま絶飲食だったというのですが、

当人はそれだけの目にあっても
「ナースには恨みも怒りもない、よくしてもらった、
ナースはむしろ気の毒。病院の体制の問題」と。

それに、この人によると、
「私が行った日に、手術待ち3日目だという人や4日目だという人もいましたよ。
どちらも、その日に手術してもらってましたけど」

首都特別地域ACTの議会では、この問題で野党がACT保健省を非難。
ACT保健相のGallagher氏は休日の通常シフトだった、と。

「これは週末や祝日の通常の業務形態です。
救急患者が多くなれば、最も緊急度の高い人から診れるように
どうしても患者のトリアージをやり直すことになります。
残念ながら、こういう事態は繰り返し起こりえますね」

Man waits two days for surgery on broken leg
The Canberra Times, January 8, 2008

自分がこの状況に置かれたら・・・・・・と思うと、
なんだか泣きそうな気分になる。

いつ始まるか分からない手術のために24時間絶食させられたら
いくら頭で分かっていても、きっとカリカリしてくるし、
文句のひとつも言わずに辛抱する自信、ないなぁ・・・・・・。

せめてトリアージの際に痛み止めはもらえるよ・・・・・・ね。
それとも、こんな目に合った人でも同情するほどの現場の過酷さなら
痛みじゃ死なないんだから、そんな手間隙をかける余裕はないと言われるのかな。

待つしかないなら、そりゃ、待つけど、
待つべき患者が大人しく待てるためにとりあえずの処置をしてくれる係りを
トリアージの段階に、せめて置いてほしい・・・・・・。

そんなの医療の厳しい現実を分かっていないモンペの贅沢・・・・・・ですか?

【追記】
英国の医療改革で、「救急は拠点病院に集約」とあったけど、
そうすると、その拠点病院ではきっとこういうことが起こるのではないでしょうか。
2009.01.10 / Top↑
気になる――。
この調査、ものすごく気になる──。


カナダ Alberta大学の研究者がthe British Medical Journalに発表した論文とのこと。

英国の1946年生まれの3500人について
13歳から40代、50代になるまで追跡調査をしたところ、

学校で問題児だった人ほど
中途退学をしたり、
うつ状態に陥ったり、
離婚したり、
10代で妊娠したり、
金銭上の問題を抱えたりしていた、と。

(学校で態度や問題があるかどうかについては学校の先生へのインタビュー。
 つまり何が「問題児」の定義や基準かは、先生の主観次第だったということですね。
 ただし、ここでの「問題児」は必ずしも「障害児」を意味するとは思えません。)

心理学者らから
当時とその後では社会状況が全く違っているので
一般化するのは危ういと疑問視する批判の声が出ている。

しかし研究者らは論文で
長期の社会的コストと青少年本人への深刻な影響を考えると
我々の研究結果は保健医療施策に重要な示唆を含んでいるであろう」と。

Behaviour link to lifelong health
The BBC, January 9, 2009


ここでもまた、「社会的コスト」──。
「示唆」って、いったい具体的に何を示唆しているつもりなのでしょう。

この2行、ものすごく恐ろしい発言だと思う。

ありとあらゆる偏見が、研究という名の下に正当化され
排除の科学的根拠へと摩り替えられていく──。

一体この“排除”の広がり、どこまでいくのだろう──。
2009.01.09 / Top↑
英国のBrown首相は一昨年の首相就任時に
現役外科医のAra Darzi卿を保健相の副大臣に起用し
NHSの見直しと改革を担当させていて、
そのDarzi卿の改革について仕事でちょっとだけ調べてみたことがあるのですが、

この人は副大臣に任命されるや、
ロンドンにおける思い切った病院の統廃合と効率化による病院機能の集約案を提言。
現場GP(家庭医)や中小の総合病院から轟々の非難を浴びたけれど、
去年6月に”High Quality Care for All: NHS Next Stage Review final report”として
今後10年間のNHS改革の方向性を打ち出した際にも、
ロンドンでの集約案の全国版のような内容。

簡単な手術くらいまでGPの守備範囲を広げて
地域ごとに作るポリクリニックをGPに担わせ、
非営利企業の立ち上げを認められた看護師と手を携えて地域医療を担え、と。

産科、救急医療と高度先進医療は拠点病院に集約。

その他、6月にこの改革案を齧ってみた時に気になった点は
これまで中央集権で押し付けてきた数値目標をやめるから、
その代わり医療の質を評価させるぞ、と。

この「医療の質」というのが問題で、
受けた医療に対する患者の満足度が高い病院に追加報酬を出し、
低いと逆に罰金が科せられるというもの。

別途、治療のアウトカムに関するデータも
病院ごとに集約されて病院評価の対象とする、と。

「患者ケアの質をベンチマークとするNHSのインフラ整備ができた」と
6月当時に胸を張っていたのは、もちろんDarzi卿。

これだけでも、うへぇぇ・・・・・・と思っていたのですが、

年末に、今度はGPについても
医師としての有能さとベッドサイド・マナーの2つのテーマに分けて
患者が自由に評価を書き込める(匿名も可)欄を
NHSのサイトに作る・・・・・・という以下のニュース。

患者の個人情報に関る部分は修正するけれど
それ以外は、どんな酷いコメントも無修正で出すんだとか。

IT面での準備が整い次第、今年中にスタートする予定。

Ben Bradshaw保健相は
消費者パワーがGPの医療の質を上げてくれると自賛。
「旅行ガイドなしに旅行には出かけない。医療にも同じものが必要」と。

当然ながら、現場の医師らは反発。
「患者をハッピーにするために仕事をしているわけじゃない。
患者を健康にするのが仕事だ」
「専門職と患者の関係というのは、そういうもんじゃない」

保健相は、amazonが本を消費者に評価させたシステムも引き合いに出しているのですが、
医療は本やツアーを売るのと同じではないのでは?

Patients to rate and review their GPs on NHS website
Doctors say bulletin board will be ‘meaningless popularity contest
The Guardian, December 2008
2009.01.09 / Top↑
一昨日の朝、クローン肉が食卓に上がりそうだというニュースを聞いたと思ったら、
夕方にはフジテレビのスーパーニュースが
幻の「飛騨牛の父」のクローン誕生に成功したというニュースを取り上げたのを聞いて、
頭の中でいろんな疑問がぐるぐるしていたところ、

さらに昨日もスーパーニュースが、あちこち取材して同じ話題を取り上げたので、
この“ぐるぐる”がどうにも止まらなくなった。

ニュースは大体こんな感じ。↓



未整理のままだし、大半は文系頭の噴飯ものの無知蒙昧かもしれませんが
文字にしてしまわないと“ぐるぐる”が止まらないので、
とりあえず、以下に。

・スーパーニュースで取り上げた専門家のコメントに「今のところ(健康被害は)何も出ていないが、それはまだ出ていないだけかもしれない」というのがあって、これは前のエントリーで指摘した「長期的に人間が食べても安全だというエビデンスはない」ということと同じだと思うのですが、このコメントを聞いて思ったのは「出た時には、もう遅いんじゃないのか」ということ。

・クローン肉を食べること自体が人類初めての経験なのだから、それで何かの異常なり異変なりが起こるとしたら、それは人類がいまだかつて経験したことのない予測不能の異常であり異変なんじゃないのかという気がする。それなら、対処不能なのでは?

・仮に誰かに何かが起きたとしても、食べた人と食べなかった人を追跡してもいなければ、食べた人と食べなかった人とが子どもを作っていたりもするわけだから、因果関係の調査もありえないような。結局クローン肉は本当は食べるべきではなかったのだ……という事態が生じていたとしても、そのことには誰も気づくことができないことにならないだろうか。それなら「まだ出ていないだけかも」というのは「もはや出ても分からない」ということなのでは?

・クローン動物に早産や死産、障害の発生や早死にが多いという事実を直線的に健康被害のイメージにつなげてしまうと、長期的に食用にした場合に、子どもたちの障害の発生に繋がるんじゃないのか・・・・・・という漠然とした不気味さを感じてしまう。英米では特に最近は優生的な発想で、遺伝子診断でも何でもやって、とにかく「障害児は生むな、生まれても殺せ」とやっきになっているのだから、それなら、どうしてその一方で、障害の発生率を上げる可能性があるようなことを推奨するのだろう。

・スーパーニュースに出てきた専門家のコメントの中で、「安全だ」とするのはジャーナリストの発言だけで、その根拠は「アメリカのFDAが安全宣言を出しているから」というだけだった。FDAが認可した薬でどれだけ多くの人間が死んでいることか。

・アメリカもEUも安全宣言を出したという事実は、クローン肉食用の長期的安全性のエビデンスだろうか。本当は「長期的に食べ続けても安全である」ということは、どこの誰にも確認されていないし、今の段階で確認することは不可能なのに。でも、それなら論理的には安全宣言など、どこの誰にも出せないはずなのでは? 

・アメリカとEUが食べるから、日本も食べなければならないわけじゃないと思うのだけど。たとえば「ES細胞研究で胚を破壊してしまう倫理問題も、科学の発展、難病の治療法の発見、国際競争力などなどのためにはやむをえないよね。瑣末なことさ」というのが科学研究先進国の常識(ホンネ?)になっていた中で、日本の研究者が倫理問題に抵触しない万能細胞の作成方法を突き止めたように、「委細かまわず、なりふり構わず、とにかく科学とテクノでイケイケ」という欧米の勢いに引きずられるのではなく、日本の知恵や節度で、委細にかまい、なりふりも整えながら発展させる賢い科学とテクノロジー……なんて、文系頭のタワゴトでしょうか。クローン肉を食べなければクローン研究ができないわけじゃないだろうに、と考えてしまうのですが。

・そもそも、なんでそこまでして高級和牛を食べなければならないのだろう? メタボという病気を作り特定検診まで制度化して国は国民に節制を呼びかけていて、それが介護費用を削減して介護保険の制度維持性を向上させるための介護予防策だという話が一方にあることを考えたら、メタボや高脂血症の予防では必ず「なるべく避けよ」と書かれているのは赤身の肉で、まして霜降りの高級和牛など、体に悪いものの代名詞なのに。

・それとも、「クローン技術が実用化すれば、高価で庶民には手の届かない高級和牛が量産できて安くなりますよ、どうです、食べたいでしょう? 」というメッセージ? でも、それ、なんかバカにしてない? 

・それに幻の高級和牛って、幻のままにしておいた方が希少価値があるはずなのに、なんでクローンでわざわざ価値を下げるようなことをするんだろう? 岐阜県畜産研究所飛騨牛研究部のHPを覗いてみたら、「核移植技術」その他を説明するページに「和牛の改良・増殖を効率的に進めるため、受精卵移植技術に関連した研究に取り組んでいます」と。でも、クローニングに費用がかかりすぎて、逆にクローン肉のほうが高くなる……なんてことはないのかな? 

・生まれたのは去年だというのに、なぜ、クローン肉の安全性が確認されて日本でも解禁されそうだというニュースと前後して論文発表され、このニュースが報道されるのだろう? まったく偶然ということがあるかな。

・この研究の費用って、いったい何処から出ているんだろう? ケタすら想像がつかないのだけど、その費用って、一体どのくらい? 

・そもそもクローン研究の最終目標って、なに? ES細胞研究で言われているような、病気のメカニズム解明、難病の治療法に結びつく、再生医療、臓器不足への光明、オーダーメイドの治療、などなど? こういうところになってくると、さすがに自分でもう少し勉強しなさいよ……とは思う……。


もしも、教えてやろうと思ってくださる奇特な方があったら、
いずれの部分にせよ、ご教示いただけると幸いです。

【追記】

その後、以下にTBさせてもらった記事にコピペされたYahoo!の掲示板の中に、
次のような書き込みがありました。

内閣府食品安全委員会の専門家ワーキンググループの座長は早川堯夫近畿大薬学総合研究所長ですよね。クローン推進の立場にある大学の人が座長のワーキングの意見で安全性を決定するのはいかがなものか?

2009.01.08 / Top↑
Ashley事件以来、目に付くと必ず反応してしまう言葉。
「子どもの最善の利益」。

それがそのまま社説タイトルだったので
素通りできずに読んでみたところ、
標記の内容の激烈な批判だった。

The Best Interests of the Child
The NY Times, January 5, 2009


Arkansas州の病院で親から虐待を受けた女の子が福祉局に保護された。
幸い、この子の祖母に当たる人が看護師で、
喜んで引き取りたいと申し出た。

ところが、
この祖母はゲイで女性のパートナーと暮らしているものだから、
ただそれだけの理由で養子縁組がかなわない。

Arkansas州では昔から児童福祉の専門家が
子どもの里親や養親となるべき人を決定する伝統があったのだけれど、
最近になってアンチ・ゲイの活動が活発化。
2006年からゲイの人は里親になれないこととなった。
さらに去年、大統領選と同時に行われた住民投票によって、
ストレートでも結婚していないカップルまで禁止対象に加えられた。

養子縁組希望者を支援する団体は
これでは子どもたちを最善の家庭においてやることは出来ないと反対運動を展開している。

NY Times社説は
その一方で、同じ法律が
子どもの非行をそそのかすことも含め犯罪歴を持つ人や
不特定多数の相手と性交渉を持っているような独身者には
里親・養子縁組の資格が認められていることの矛盾を指摘。

こんな差別的な法律では
里親・養親に関する法律の最も重要な原則である「子どもの最善の利益」を
守ることが出来ない、と批判。

子どものニーズに最も応えられる家庭を個別に見極めるという
福祉局の仕事が、これではできまい、とも。

         ―――――――

つい最近、玉井真理子さんが某所で
障害新生児の治療停止の問題に絡んで
この病気なら助ける、この病気なら治療しない・・・・・・という具合に
病名だけで治療の停止を判断するのは思考停止だと指摘していたのが印象に残った。

そのせいかどうだか、

この場合の「ゲイは良い親にはなれない」も
“Ashley療法”の「重症児は赤ん坊と同じだから一生親に面倒見てもらうのが幸せ」も
Peter Singerの「重症知的障害者には道徳的地位はない」にしても、
ステレオタイプって結局はみんな思考停止なんだなぁ・・・・・・と。
2009.01.07 / Top↑
体の毒素を排出する“デトックス効果”をウリにした15の商品を
Sense About Science というチャリティが調べたところ、
それらには何の科学的根拠もなく
金の無駄遣いで終わればいいけれど
デトックス・ダイエット商品の中には有害となる可能性があるものまで。

研究者の1人は
デトックス商品を売るなら、少なくともデトックスが何かを明確に理解し、
その商品は効果があるという証拠を提示するべきだが
自分たちがコンタクトした販売元はそのいずれもできなかった、と。

つまり、
何の根拠も効果もないものにデトックスと名前さえつければ、
なんとなく科学的な根拠がありそうに聞こえるから・・・・・・というだけの話だった

・・・・・・という話。

そんなものを買うよりも
健康な食生活とたっぷりの睡眠。
それに勝るものはない、と科学者・化学者たち。


類似の話は”デトックス”以外にもゴロゴロしていそうですね。

「健康的な食生活とたっぷりの睡眠。
そして、きっと運動と適当なストレス解消」というのは、
別にわざわざ科学を持ち出さなくても、
なにもわざわざ科学者や化学者に教えてもらわなくても

科学とテクノロジーがこんなに進んでいない時代からずっと
みんなが知っていた常識に過ぎなかったりするんだけど。
2009.01.06 / Top↑
日本でもクローン牛が食卓に上るという話を今朝のテレビで聞いたので、
ほぼ1年前に米国でFDAが認可した際のニュースについて書いた
2007年12月28日の「クローン肉ほんとうに食べるって?」エントリーを以下に再掲。
(書いていたら熱くなって、再掲がずっと下になってしまった。ごめんなさい)

この時と同じ疑問を今朝のニュースを聞いても持ったのですが、

「安全性が確認された」と科学的に説明できるためには
「人間が長期的に食べても安全だと確認された」ということの説得力のあるエビデンスが
明確に示されなければならないはずですが、

「安全性が確認された」と内閣府が言う「確認」の内容とは
「今の科学技術で見分けられる範囲ではクローン牛は普通の牛と差異はない」という話に過ぎない。

クローン動物には、早産や死産が多い、障害のある確率が高く早死にするという
いまだ原因が解明されていない”異常”が起こっている。

たとえ6ヶ月を超えて生き延びた場合には正常発達するとしても
原因の解明されていない明らかな”異常”が起きている事実は消えない。

その事実を無視して「普通の牛と違わない」という結論が出せるとは
それはいったい、どういう”科学的な姿勢”なんだろう。

さらに通常の動物と「まったく変わらない」クローン動物が仮に作られたとしても、
それは必ずしも人間が長期的に食べても安全であると確認されることと同じではないはず。

それでも「安全が確認された」から国民にクローン牛を食べろというのなら、

いいよ。それじゃぁ、

私たち科学技術への偏見に満ちた文明未開の民草は
そんな豪儀なものは、とりあえず遠慮しておくよ。

そして
クローン牛を国民に食べさせることにするためのプロセスに関ってきた人たちとご家族とに
貴重なご研究とご尽力の成果を祝しつつ、まず、せっせと食べてもらおう。

そして、今後その人たちが3世代、できれば5世代くらいクローン肉を食され続けて後、
本当に長期的に人間が食べても安全だと確認されたなら、
それからで、いいよ。私たちは。

ちゃんと追跡調査もしてほしいですね。
それだけの責任が国にはあるのでは?
クローン研究をしている科学者だって、知りたくないのかな。

まぁ、「食べろ」といわれることそのものが
壮大な人体実験に参加しろといわれているような気分だから
自分はコントロール群でいいよ、と考えるわけですが、

とはいえ、怖いのは、
以下の記事で指摘されているように、
クローン動物だとわかるのは第一世代の個体までで、
その第一世代が通常の生殖で産んだ第二世代の個体からは区別できなくなること。

表示について、どういう規制になるのか分かりませんが、
表示そのものが信憑性が低くなってしまったし、ベジタリアンが増えるかも――?


米国FDAは今年中にクローン肉とクローン牛乳の販売を認める方針だとのこと。

Producers Favor Tracking Cloned Animals
Washington post (AP), December 20,2007

クローン動物は科学的には自然に生まれた動物となんら変わらないから大丈夫、
とFDAは言っているのですが、

消費者の方はまだクローン動物の食品化には不安を感じているとの
様々な調査結果が出ていることから、

クローン食品が出回ると消費が冷え込むのでは、と恐れる生産者は
自発的に規制してまだ売らないと慎重な姿勢だとか。

もちろん消費者団体や政治家からも
普通に市場に出すのは時期尚早という批判も出ているらしいですが、

むしろクローニング会社(既にメジャーな会社が2つも)からは
現在作られているのはブリーダー向けの受賞牝牛やロデオ牛のコピーで、
クローニングにはお金がかかるので、
実際にはあまり食用には回らないんじゃないかという見方も出ている。

でも、結局、ブリーディングには既に使われているわけですね。

「わ、こわい」と思うのは、
いったんクローニングで動物を作ると、
その動物から生まれた次世代以降の動物はクローン動物ではなくなるので、
自然に生まれた動物との見分けがクローニング会社にもつかないのだという話。

もう1つ、FDAが表示を義務付けているのは原材料と添加物なので、
クローン食品は表示が義務付けられていない、という話。
売るなら生産者の方で自発的に表示するだろうという話もありますが。

ポストヒューマンの世界ではクローン技術で食肉を無限に供給できる
Kurtzweilが書いているのを読んだ時に、
つい笑いながら「そんなもの食べたかねーよ」と毒づいたのは、
なんと荒唐無稽な……と呆れたつもりだったのですが、

まさか、既に現実の話になりつつあるとは……。

でも、本当に説明して欲しいと思うのは
そもそも、なんで、わざわざクローン肉を食べなければならないのかという話。

その必然性というのか、ワケを説明して欲しいよね。

トランスヒューマニストは
超人類が死なずに長生きし始めると人口が増えるから
それだけの口を養うためにクローン肉を食べればいいといっていたけど、

日本では少子化で悩んでいるというのに?
2009.01.06 / Top↑
Ashley事件について spitzibara の、この1年の動きと思い


Ashley事件に関しては個人的には
2008年2月に英語ブログを立ち上げました。
(詳細はトップページに)

Ashley事件をメディアで批判した英米加の研究者やジャーナリスト数人と
個人的にコンタクトも試みましたが、
大半の人には無視されて終わり。

数人の人からは
「Ashleyの父親が誰かということはあげつらうべき問題ではない。
この問題はもっと一般的・本質的な問題である」
「スキャンダルをほじくっても意味はない。
なぜ親がこんなことをしなければならないのかを考えるのが大事」
などなどのご意見を頂戴して、これまた相手にされずに終わり。

しかし、私にはどうしてもわからないのです。

もしも当ブログの仮説のように
Ashleyの父親がマイクロソフト社の幹部であり、
そのためにゲイツ財団と縁の深いW大学と子ども病院が
特例としての政治的配慮によって内密裏に行ったことだったとしたら、

それはただのスキャンダルではなく、
事件の本質そのものではないのでしょうか。

みんなが議論している「“Ashley療法”は倫理的に許されるか」という問いを
「シアトル子ども病院の倫理委はしかるべく機能したかどうか」という問いに置き換えてしまう、
それこそ本質的な問題なのではないでしょうか。

「なぜ重症児の親がこんなことをしてしまうのか」という問いですら
Ashley専属の看護師くらい何人でも雇える親の財力を考えれば、その答えも
多くの人が論じているように「社会の介護支援が不足しているから」ではなく
「Ashleyの父親は“科学と技術で何でも簡単解決文化”の信奉者だから」という
まるで本質の違う答えに行き着く可能性だってあるかもしれない。

2年前にAshley事件と出会い、
始めは事件の事実関係や背景をただ知るために、
次いで、思いがけなく恐ろしい様相を呈している英米の医療を巡る動きへと
興味が広がっていくにつれて、
Ashley事件は非常に象徴的な事件だったように思えてきました。

科学と技術で人の身体や命に手を加えて思い通りにしようとする簡単解決文化の蔓延。
それと同時に医療の世界で進行している巨大な利権構造とそれによる人命・人権軽視。
そして慈善資本主義の資金が世界の保健医療を効率とコスト計算で再編しようとする動き。
それらを正当化するラディカルな生命倫理・功利主義の跋扈。

Ashley事件を詳細に眺めていくと、
英米を中心に、どんどん病んでいく人間社会で起こっていることごとくが
みんな、この事件からは透けて見えてくる。

1月23日のシアトル子ども病院のシンポも注目しておきたい。
2009.01.05 / Top↑
この1年間の医療・障害・生命倫理を巡る英米での動き概観


英米の医療や障害者関連のニュースを簡単に追いかけてきた中で
Ashley事件からの2年間、特に去年1年間の動きで印象的だったことを。


・ワシントン州の住民投票で自殺幇助が合法化されたこと。米国で自殺幇助が合法化されているのはオレゴンとワシントンの2州となりました。

・英国を中心に、スイスのDignitasクリニックに出かけて幇助自殺を遂げる人が急増。合法化を求める声の高まりと同時に、本来なら余命半年程度で耐えがたい苦痛がある人など厳密に設定されているはずの条件がどんどん曖昧になり、ターミナルでもなければ苦痛もないのに障害があるから、家族に介護負担を負わせたくないからといった理由で自殺を幇助される人が増えています。闇で安楽死を請け負うビジネスも横行しているようです。

・臓器不足のため、脳死を待たずに呼吸器を外して臓器を摘出する医師が増えているし、それを正当化する理論付けを行う生命倫理の専門家も出てきているようです。

・英国議会でのヒト受精・胚法改正議論で、障害児に対する優生的な視線、発言が相次ぎました。

・英米で障害のある子どもたちがクラスから、飛行機から、教会から排除されるという事件が相次ぎました。

・英米で製薬会社の利益優先・人命軽視の実態と、影響力の大きな医師との癒着が相次いで問題となりました。科学と技術による簡単解決文化の背景に潜んでいるものを考えされられます。

・重症障害者への治療が無益だと停止され、栄養と水分の供給すら停止されるケースが目に付いています。

・障害児が親に殺されるケース。障害児が生まれると親がどんなに大変かと、障害児を加害者的に見るメディアのトーンも目に付くような気がします。

・親による子どもの殺害、虐待。親にも学校にも制御不能の、荒れる子どもたち。

・ワシントン大学にゲイツ財団からの巨額の資金提供によって、世界の保健医療をコスト計算で再評価するIHMEが開設されました。英国の医学誌Lancetと提携し、死亡率だけでなく障害の発生率も抑える新基準DALYを医療のスタンダードとして導入ことを目指しています。

・明るいニュースとしては、イリノイ州で知的障害のある女性に子宮摘出の要望が出されていたケースに、裁判所はNOと判断。

一言で言えば、
Ashley事件からの2年間で
世界中で障害児・者への排除の空気が非常に濃厚になってきたという印象。

“Ashley療法”論争当時は、それでもまだ
あからさまに「社会的にコスト」をあげつらって声高に云々する人は
多くはなかったように思うのですが、
この2年間の間に障害児・者について医療費・教育費、その他支援の社会的コストが
ずいぶん露骨に言われるようになりました。

Ashley事件はそういう時代の急激な変化を前に、
まるでその後の排除の空気への急傾斜を予告・警告するかのように起きた事件だと
いま振り返ると、つくづく感じます。
2009.01.05 / Top↑
Ashley事件、2008年の動き。

昨年1月5日に個人的“Ashley事件”一周年のエントリーで書いたように、
私がAshleyケースについて初めて知ったのは
正月休みが明けた2007年1月5日のことでした。

それで今年もやはり「正月休みも終わりだな」と思うと同時に
「ああ、Ashley事件から、もう2年も経ったんだ……」と、頭はそこに巡ります。

日本ではもともと2年前の論争そのものを知らない方が多く、
当初は興味を持っていた人のほとんども「もう終わったこと」になってしまっているし
他の国々でも、もはや忘れ去られようとしている事件なのだろうと感じるのですが、
いえいえ、この事件、まだまだ終わってなどいないのです。

そこで、Ashley事件を巡る2008年の動きをまとめてみました。

1月 
Diekema医師がCalvin大学にてAshleyケースについて講演。その前後にメディアで大いにしゃべる。「Ashley療法は水面下で行われている」、「論争時にオプラ・ウィンフリーが一家を番組に招待したが、自分たちが何者かが世間に知れると大変なことになると両親は判断して断った」とも。(詳細は「Diekema講演(08年1月)」の書庫に)

3月
CNNがAshleyの両親にeメールでインタビュー。父親は翌日にブログでAmy Burkholderのインタビューに関する記事を批判。またブログで“Ashley療法”を多くの重症児に広めていくための活動方針を具体的に語っています。(詳細は「両親インタビュー(08年3月)の書庫に」

8月
Diekema医師、またもAshleyケースについて講演。今回は米国科学協会とカナダ科学キリスト教協会のジョイント学会にて。(詳細はこちら

9月
NYのStony Brook 大学で認知障害に関する大きなカンファレンスが開かれ、その中でPeter SingerがAshleyケースに言及。(講演の当該箇所をビデオで聴いてみた印象では、Ashleyケースを親の決定権で擁護したというよりも、むしろAshleyケース自体を「障害児については親の選択に任せよ」という自分の主張の根拠にしたという文脈のような・・・・・・。)

12月
9月の認知障害カンファの内容を考察するシリーズが、各国の研究者ら数人が共同で運営するブログでスタート。今のところ上記Singerの「障害児には道徳的地位はないのだから、生死も含め親の選択権に」という主張などを、カナダのAlberta大学の教授2人が批判しています。(今のところ「Ashley関連(09年)」の書庫に入れていますが、近く独立した書庫を作るかもしれません。)

1年を通じて
Diekema医師は生命倫理の専門家として大活躍されました。まるで米国小児科関連の生命倫理のご意見番のごとく、あれこれのニュースや論文に発言を求められ活躍されるようになりました。Ashley事件で名前を売ったから、というだけでしょうか。

そして、今月23日には
シアトル子ども病院がまたもや成長抑制についてシンポを行います。
詳細はこちら

このシンポ、
Ashleyケースそのものの事実関係が全く解明されてもおらず、
また部分的には違法性が明らかになったにもかかわらず、
またも当事者である病院があたかも利害関係のない第三者のような立場を装って
問題を一般化し、翻って自分たちのやったことを正当化し
それによってAshley事件の特異性を糊塗してしまおうとしているように
私には見えます。

しかし、もしもAshleyの父親がこの人物でなかったとしても
病院は同じ決断をしていたのかどうか、私は疑問だと考えています。

そもそも、事件が論争になって2年も経ち、
世の中が事件を既に忘れ去っているかのように見える今になってもなお、
このように執拗に周到にことを仕組み、
自分たちがやったことを正当化しなければいられない病院の行動こそ
罪悪感と真実を暴かれることに対する不安心理がやらせることなのではないでしょうか。

彼らの思惑に乗せられて
一般論としての成長抑制が議論されていくことは大変危険なことなのでは?

まずはAshleyに行われた医療処置の背景、
特に倫理委員会の議論の内容が明らかにされ
利益関係のない第三者によって十分に検証されるべきであり、
この特異な個別事例が解明されるまでは
Ashleyに行われた医療措置のいずれの部分も一般化されて議論されてはならないのでは?

もしも当ブログが検証してきたように、
本来は水面下で密かに行われて表ざたになるはずがなかったAshley事件が
さまざまな事態の推移の中で公表されてしまったために、
いまや病院や医師らが自分たちの名誉を守るために
成長抑制を一般化・正当化することに躍起になっているのだとしたら、

Diekema医師を始めシアトル子ども病院の医師たちに問いたい。

あなたたちは自己保身のために、
「重症児の尊厳や身体の全体性については健常児とは話が別」という価値基準を医療の中に作り、
それによって多くの重症児が生身の身体に手を加えられる可能性を生じさせようとしている。

そのことに、あなたたちの医師としての良心は痛まないのか──?
2009.01.05 / Top↑
このニュースで、また新しい表現を知った。

dating violence / dating abuse (交際相手による暴力・虐待)

その dating violence が、
ニューヨーク市精神衛生局の調査によると
1999年から今までに40%以上も増加している。

CDCの2007年の調査では
交際相手のいる青少年の1割近くが
相手からの虐待を受けているとみられ、
8%近くのティーンが性行為を強要された経験があると述べた。

上記調査結果を受けたNY市や
近年、交際相手によって若い女性が殺害される事件が起きた州や市が
相次いで法律や条例を改正して
青少年に広がっている交際相手による虐待に対応し始めている。

男子の間では
相手を支配し思い通りにすることが男らしさだと考える誤った「マッチョな男らしさ」が広がり、

一方、女子の間には
相手の過度の干渉を愛情の深さと考えて許しているうちに虐待がエスカレートしてしまうなど、

健康的な付き合い方というものがわかっていない子どもが男女とも多い。

問題は深刻化しており、
親や学校がdating violenceに関する意識を持ち、
健康的な交際のあり方について子どもたちを教育する必要がある、と。


上記記事のリンクから、
2007年にIndianapolisで交際相手に殺されたHeather Norrisさん(当時20)の母親が
運営している dating violence と DV の防止サイトがこちら。



また、交際相手による虐待ヘルプライン「愛とは敬意」はこちら。

このサイトに以下の「ティーンの交際・権利と誓いの章典」がありました。

Teen Dating Bill of Rights and Pledge

I have the right:
To always be treated with respect.
To be in a healthy relationship.
To not be hurt physically or emotionally.
To refuse sex or affection at anytime.
To have friends and activities apart from my boyfriend or girlfriend.
To end a relationship.

I pledge to:

Always treat my boyfriend or girlfriend with respect.
Never hurt my boyfriend or girlfriend physically, verbally, or emotionally.
Respect my girlfriend’s or boyfriend’s decisions concerning sex and affection.
Not be controlling or manipulative in my relationship.
Accept responsibility for myself and my actions.


私には次の権利があります。
・いつも敬意をもって接してもらう権利。
・健康的な付き合いをする権利。
・体も心も傷つけられない権利。
・どんな時であれセックスや愛情を拒む権利。
・交際相手とは別の友達を持ち、別のことをする権利。
・交際を終わらせる権利。

私は次のことを誓います。
・交際相手にはいつも敬意を持って接します。
・交際相手の体や心を傷つけることはしません。言葉によって傷つけることもしません。
・セックスと愛情について交際相手の決めることを尊重します。
・交際相手を支配したり、操作したりしません。
・自分と自分の行動には責任を持ちます。


これを読んだら、つくづく悲しくなってしまった。

だって、こんなの、こういう言葉で教えなければならないようなことじゃないでしょう。

こんなの、大人が日々の生活の中でまっとうな人間をやっていれば、
理屈で教え込まなくても子どもたちが自ずと身に着けるはずの当たり前の常識に過ぎない。

そろそろ恥を知ろうよ、おとな。

愚かで醜い欲望に引きずられ、知恵も深慮も投げ捨てて、
強いものが弱いものの弱みに付け込み力任せに踏みにじって恥じない世界を
おとなたちが子どもの目の前でどんどん広げていく。

その姿が子どもたちに、
同じように弱いものは力任せに踏みつければいい、と教えているのではないのか。
2009.01.04 / Top↑
「人はただ人であることによってではなく、
高度な認知能力を示すことによって道徳上の地位を認められるべきだ」とし、

それゆえに
「重症の知的障害のある子どもを生かしておくことは
倫理上の義務からではなく、あくまでも親の選択権によって行われるべきだ」とする
Peter Singer氏の主張に対して、

カナダAlberta大学のDick Sobsey氏が
What Sorts of Peopleの新シリーズ第5段で批判しています。

氏は重症知的障害のある息子の父親でもあり、
長年、障害児・者への虐待を研究してきた人でもあるだけに
Ashley事件の当初から非常に熱く憤っており、
今回のWhat Sorts ブログのシリーズでも
粘り強くSingerによる障害児・者の権利の否定に反論を繰り返しています。

思いが深く、言いたいことが沢山ありすぎて
長い文章が多少まとまりを欠いているケもあるのですが、
(この辺り、私も全く同じなので非常に良くわかる・・・・・・)
大まかな論旨を以下に。

自分は哲学について詳しくないので、
この議論における両者の立場の違いには自分の哲学の原理に関する無知と
Singer氏の重症の知的障害に関する無知が関っている可能性はあるが、
しかし人権や、人権の基本となるとされる「人であること」、「人格であること」については
万人の関心事なのだから、これらについての議論は
職業的哲学者だけの小さな集団の中で好きなようにされていいというものではない。

基本的権利があるはずの女性の権利が全面的には認められなかった歴史に見られるように、
人権を巡る概念は決して客観的で普遍的なものではなく、
時代背景や社会によって影響されるものであり、
「重症障害児は人格ではないので殺されてもよい」とするSinger氏の主張も
特定の社会背景では女性の人権が認められないことを当然とするのと同じ論理である。

Singer氏がAshleyケースにおいて、
親と医師らの行為は倫理的だと主張するのも
重症の知的障害のあるAshleyには道徳的な地位がないとの根拠によるものだが、

一方、WPASの調査によっても、またSeattle 子ども病院自身によっても
Ashleyの人権が侵害されたことが確認されていることにSinger氏は触れていない。

しかし、独立の調査でも病院によっても人権侵害があったと確認されたということは
障害のある子どもにも人権があると社会が認めているということだ。

Singer氏は子どもの障害を理由に中絶が認められている事実を
障害児には道徳的な地位が認められていないことの正当化に使うが、
女の子だからというだけ理由で中絶する親もいる事実に彼の論理を当てはめると
それもまた親の考え次第の親の選択権の範疇ということになってしまい、
女であることを理由に中絶されることを根拠に
女性には道徳的地位がないと論じることに等しい。

国連の子どもの人権条約において
生存と成長発達の権利が子どもの最も基本的な権利として謳われている。

この条約を前提に
障害があるという理由で命を断たれてしまう子どもや
Ashleyのように意図的に成長を止められる障害児のケースを説明しようとすれば
それらが全て障害のある子どもの権利を侵害してるか、
もしくは障害児はすべての子どもに認められた権利の埒外とされているかの
いずれかだと考えるしかなく、
私は前者だと主張し、
Singer氏は後者だと主張するわけだ。

私が前者だと主張する根拠は1989年の子どもの人権条約において
重い障害のある子どもが十分に保護されるべきことが謳われており、
障害を理由に異なった扱いを受けるなど
「いかなる種類の差別も」明白に禁じられていることである。

条約は障害児の権利が侵されてきたことを指摘したうえで、
彼らの権利に特に保護を求めているのであり、
Singer氏が主張するように
障害児はすべての子どもに認められる権利の対象外だとの理解ではない。

ソマリアと米国以外の国連加盟国が批准している
この子どもの権利条約を否定することなしには
Singer氏の主張は論理的に成立しない。

48年の世界人権宣言にも、71年の精神薄弱者の権利宣言についても同様であり、
すなわちSinger氏の立場を受け入れることは、
ユニバーサルな人権を認めてきた過去60年の成果を無にすることである。

またSinger氏が道徳的地位に値しない人間のカテゴリーを表すものとして使用する
「重症の精神薄弱」という用語は
重症の知的障害者の実態を理解したものではなく
大雑把なステレオタイプを当てはめたものに過ぎない。

現実の重い知的障害のある人たちは
Singer氏が「彼らには出来ない」と決め付けている様々な能力を見せるし、
Singer氏が人格の根拠とする
Sentience(苦痛や喜びを感じること)や自己意識、ある程度の社会的な行為も
見せる人がほとんどである。

さらに、障害のある子どもを生かすも殺すも親の勝手とする彼の主張が認められない
もう1つの理由として、
子どもは親だけが育てるものではなく、
親と社会が養育の責任を負うものである。
そうでなければ社会が教育や医療を用意する必要もない。

確かに障害のある子どもを産むと親が決めることは
家族にとっても大きな責任であり、社会もまたその選択を支える義務を負う。
現在の国際法や多くの国の法律では
障害のある子どもには社会からその支援を受ける権利が認められている。

私は重複障害のある息子をもつ身として
この問題に個人的な興味をもってはいるのは事実だけれども、
この問題に関する私の立場は息子が生まれる前から一貫して変わらない。

障害のある子どもたちの権利を認めようとしない親も
認めようとしない政府も現実に存在する。
しかし、障害のある子どもたちの権利が往々にして侵害されているからといって、
その権利が存在しないことにはならない。
Singer氏の立場を受け入れれば
それらの権利は間違いなく奪われてしまう。

ブラボー、Sobseyさん。

Peter Singer & Profound Intellectual Disability
By Dick Sobsey,
What Sorts of People, December 30, 2008


「Singer氏の主張は重症知的障害に関する誤解に基づいている、
Singer氏は知的障害者と個人的に直接接する体験がないまま
知的障害者というグループを非常に抽象的で誤ったイメージで捉えているからだ」
とのSobsey氏の主張は
当ブログでもAshley事件の当初から述べてきたことと同じで、全く同感。

“Ashley療法”論争当時にも、
国連の子どもの権利条約や
ちょうど論争になる直前に成立した障害者の権利条約に触れて
同様の批判は出ていました。

しかし現在に至るまで、親や担当医はもちろん養護する立場の人たちは
いわゆる”Ashley療法”がこうした国連の権利条約違反だとの批判には
まったく応えていないし、それどころか、ほとんど歯牙にもかけていない様子。

私はずっと不思議なのだけれど、
英国のヒト受精・胚法改正議論で障害児はnon-personだという話が出たり、
重症障害を理由に「治療は無益」だからと栄養と水分まで止められる事件が相次いだり、
またオーストラリアで息子のダウン症が永住権拒否の理由になったり……
そのたびに、それらがこうした人権条約の違反であるという視点が議論からほとんど抜け落ちていることに、
国連が謳う人権って一体なんなんだろう、
もしかして、ただの壮大なタテマエに過ぎないのだろうか・・・・・・と
なんとも索漠とした気分になってしまう。
2009.01.03 / Top↑
股関節の置き換え手術の後、杖を使用するようになっていたBarry Baker氏は
一人暮らしの59歳。

去年11月29日、心臓発作を起こして日本の119番に当たる999番に電話をした。

救急センターでは電話を受け、
救急車を向かわせるように手配する一方、
Baker氏と電話で話し続けた。

しかし救急車の到着時には氏の意識はすでに途絶えていた。

この時、電話回線は救急センターと繋がったままになっていたのだけれど、
そんなこととは気づかない救急車の隊員2人は
まず部屋に入ると、その乱雑さについて無神経なコメントを交わす。

ついで2人は
Baker氏はわざわざ蘇生するには値しないという意味の発言をし、
到着した時には、もう死んでいたことにしようと
センターへの報告での口裏合わせを相談。

これらの会話を電話越しに漏れ聞いた救命センターの職員は
大きなショックを受けて上司に報告。上司が警察に通報して
35歳と44歳の2人の隊員は12月5日に逮捕された。

South East Coast Ambulance Service では
この事件に関連して隊員2人を捜査終了まで停職処分にした、と。

障害を理由に救急救命士に見殺しにされたBaker氏は
毎週日曜日にはバスに乗ってお気に入りにパブに出かけ、
友人と話したりトランプ遊びに興じるなど、
人気者だったとのこと。



999番通話はすべて録音されるので
2人の会話も実際の発言が確認されているはずなのですが、
この記事では間接的な発言内容しか触れられていません。

どうも、実際の発言は
表ざたにするのもはばかられるような言葉だったらしき気配です。

しかし、この2人の勝手な判断、
たまたま電話が繋がったままになっていたから発覚しましたが、

救急隊員に限らず、また蘇生処置の判断に限らず、
「どうせ障害者だから」という個々人の勝手な偏見で
その人に障害がなかったら当然のこととして行われるはずの医療処置が
手控えられてしまう……ということは案外に行われているのでは――?

英米加で頻発している
重症障害者への栄養と水分の供給停止を含む「無益な治療の停止」の判断とは
「どうせ重症障害者だから生かしておく価値がない」という個人の偏見によって
医師がこの2人と同じ勝手な判断をすることと同じではないのでしょうか?

そのような事例については「無益な治療」の書庫に。
2009.01.01 / Top↑
ハーバード大の世界的児童精神科医 Biederman医師の
製薬会社との癒着スキャンダルについて、
当ブログで大まかに追いかけてきたところですが、

所属のMassachusetts General病院とB医師の合意として
病院側の調査が完了するまで
現在進行中の臨調実験を含めて
製薬業界の資金による研究からは
B医師は当面、身を引くことが決まったとのこと。

ただし、実験は続行。
B医師も連邦政府の資金による研究には関与を続ける、とのこと。

また、顧問など、
製薬業界の資金に繋がる病院外の活動の一切を自粛するとのこと。







上記WSJの記事へのコメントには
「疑惑が明るみに出たのは6月だというのに
いままで大学も病院も処分もせずにきたこと自体がおかしいのではないか」
「一般企業ならとっくにクビになっているのではないか」など
相当手厳しいものが見受けられますが、
中で目に付いたのが
同じく児童精神科医のDr.Levinの性的虐待被害の訴えが
患者から相次いでいたことにも長年目をつぶっていたなど
権威に弱いHarvard大学の隠蔽体質を指摘するコメント。

Dr. Levinの患者への性的虐待疑惑について
以下のエントリーを書いた際に、
私も医学会に対して同じ感想を抱いたので。




2009.01.01 / Top↑